(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (5)

※この記事は、日本時間で8月20日に投稿しましたが、なぜか8月4日と前回と同じ日付になっています。

⑤文明国への移動ーメソポタミアと小アジア近隣の動向(紀元前BCE約3500年~前150年頃まで)

  さて、これからは、いわゆる4大文明の時代に入っていくのだが、そこは、非常に事象としては多岐多様なものがあり複雑すぎるので、いろいろウィキペディアなどを参考に本当に大雑把な流れと、自分の興味のある地域に限定して書いていこうと思う。  

 その興味ある地とは、まず最初に、現在のトルコ周辺。 ここは、小アジアとかアナトリア(中央部)などと言われるが、現在でもそうであるように、この紀元前3千年あたり、いや出アフリカ以来ずうっと様々な人種・民族の通り道であり、たまり場(ルツボ)であったと言える。

 前回、雑談の中で、トルコのことを少し書いたが、私には、この地の人種・民族の変動が、非常に面白く感じられる。 また、太古からの文明の地・メソポタミアや、今のヨーロッパ文明を生み出した集団の発祥の地とも言われるコーカサス地方などに隣接しているのも、興味あるところだ。

 さて、トルコの地での有史が、まだほとんどない古い時代に、隣接するメソポタミアでは、世界最初とも言える高度な文明が開花する。 なので、まず、その経過・出来事を簡単に列挙していくことから始める(ごく有名な王名とそのアルファベットも、必ずしも英語ではない)。 既述のように、それまでも種々の文明が、この地で起こっていたが、ここでは、昔からよく知られているシュメール時代から始めることになる。 

 紀元前3200年頃に、シュメール人(Sumerian)(系統不明)が、メソポタミアでシュメール文明(Sumer, アッカド語でSumeru)を樹立、古代都市ウルク(Uruk)などを建設、第1ウルク王朝から第5まで。 3000年頃には、青銅の合金法を確立したらしい。 

 多くの文明では、青銅器時代は、新石器時代の後、そして、鉄器時代の前に位置付けられるように、青銅器の利用は、人類にとって画期的な転機となった。 青銅は、御存知のように銅と錫(すず)の合金であるが、錫以外の金属の合金も若干あったようだ。 古い所では、すでに紀元前6000年頃の新石器時代の土器窯で、銅を溶かす温度(1085度)まで加熱できたので、青銅器作りが可能になっていったようだ。 (錫の融点は、230度あたりとかなり低い。)

 シュメールに戻ると、前2500年頃には、楔形文字を発明する。 文字の発明も、文明の進化という点では、非常に重要な文化的遺産である。 楔形文字は、当初は、表意文字であったが、のちに、表音文字も開発されたようだ。

 紀元前2300年に、セム系言語(のちのアラビア語・ヘブライ語などの祖語)を使うアッカド人(Akkado)のサルゴン(Sargon)1世が、アッカド帝国が樹立、世界最初の帝国とも言われる。 このアッカドというのは、シュメールやアッシリア・バビロンなどに比べ、知名度は低いかもしれないが(私だけか?)、メソポタミアの歴史においてかなり重要な位置をしめているようである。 また、このアッカド語というのは、この地域でのちも使われた重要な言語であったらしい。 

 2113年、第5ウルク王朝最後の王の将軍であったウル・ハムルが、ウル(Ur) 第3王朝を建国、有名なジッグラト(バベルの塔のモデル?)を建設。(教科書的には、こう書いているが、ウル第1・第2王朝がどんなものなのか、私には、よくわからない?)

 前1830年、ハンムラビ王(アッカド語Hammrabi)に率いられたバビロン(Babylonia)第1王朝(古代バビロニア王国)が誕生。 しかし、それは、紀元前1595年、ヒッタイト(Hittite)によって滅ぼされる。 ほぼ同じ頃、カッシート人(Kassites系統不明)が、今のイラン及びメソポタミア南部を制圧する。 これが、バビロン第3王朝(または、カッシート王国)と呼ばれるのだが、この王朝は、実は、バビロニアでは、最も長く続いた王朝であったらしい。

 メソポタミアは、大きく分けて、北部は、アッシュール(アッシリア)地方、南部はバビロニア地方と呼ばれていた。 この地では、前2000年以上前の古代からアッシリア国が存在したが、当時はあまり強力ではなく、その後、前1000年頃から、北部を中心に強力な新アッシリア王国(Assyria)が登場し、勢力を徐々に広げていき、カッシート王国などを滅ぼし、やがて帝国となる(史上初の真の帝国とも)。 彼らは、アッカド語とアラム語を使っていた。 (このアラム語は、もともとシリアあたりのセム系民族の言葉であったが、この後も、中東で幅広く利用され、今現在でも、レバノンなどに話者が存在する。) 前670年頃、アシュールバニパル(Assurbanipa)王が出て、領土は最大となる。

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アッシリア帝国の拡大。 ウィキより。

 しかし、その直後、ウルク出身で、親アッシリア派の家系の出であるナボポラッサル(Nabopolassar)が、言わば身内のアッシリアを滅ぼし、新バビロニア王国を樹立するのだが、その統治機構などの多くは、アッシリアのものを受け継いだ。 その長男のネブカドネザル(Nebuchadnezzar)2世(なぜ2世なのか、別の王朝からの借用?)によって、ユダ国への侵略が始まり、バビロンの捕囚が起きる。  

 このユダヤ人の悲劇のバビロン捕囚は、印欧語の民族・ペルシャ人(Persian)のアケメネス朝ペルシャによって解放され、捉えられたユダヤ人たちは、約4ヶ月の旅を終え故郷に戻ったとある。 

 こういう征服された民族などは、どれも奴隷などとして征服者の国に連れて来られたのだが(アッシリアなどが典型)、旧約聖書でこの事実が明確に記されていることは、重要である。 なお、現在は、いがみ合っているイランとイスラエルだが、この時代は、イラン(ペルシャ人)が、ユダヤ人を救っていたとも言える。

 ウィキペディアなどを見ていると、こんな古い時代でも、こんなに詳しくいろいろ分かっているのかと、大変驚かされる。 粘土板などの記述と文字解読の技術の進歩のゆえだと思うが、特に、政略結婚などもこの頃頻繁にあったらしく、人類の歴史は、太古からの繰り返しというのが、改めて分かる。 しかし、ここでは、通り一遍のことしか書けないが、それにしても、日本では、まともな記録は、古事記や日本書紀以降(紀元後700年頃)になるのをみると、大変な違いである。 

  さて、古代のトルコにあった国・ヒッタイトが、前1600年頃、古代バビロニアを滅亡させたことを書いた。 また、同じ頃に、フルリ人(Hurrian)が、今でいうトルコとメソポタミアの中間地にミタンニ(Mitaanni)という国を建国。(フルリ人は、もっと以前から勢力を拡大していたとも。) 

 このヒッタイトもミタンニ(こちらは、不確かだが)も共に、のちのヨーロッパ文明を築くインド・ヨーロッパ語族(以下、印欧語族と略)の集団であると言われる。 ヒッタイトについては、あとで詳しく述べるつもりだが、その前に、トルコ地域の歴史を外観しておくと、

 ヒッタイトの滅亡のあとシリア・ヒッタイトという小国家群が、前1250年~850年まで続く。 その中でも、これも印欧語のフリギア語を話し、フェニキア系のアルファベットを用いたフリギア(Phrygia)人が、トルコ中部を中心に一時国を立てたが、黒海の北方から遊牧騎馬民族であるキンメリア(Kimmerians)人によって崩壊、その後、既述のアッシリア帝国が、この地域も占領した(750年頃まで)。 

 続いて、750年から550年ぐらいまで、リディア(リュディアと表記するのもある)とメディア(南部地域)が、このあたりを統治した。 リディア(Lydia、印欧語系)は、地名自体は、トルコ西端の地を指すが、国は、勢力を東に伸ばし、また世界初の硬貨コイン(金銀製)を発行していたと言われる。 また、ここでも北方からキンメリア人の侵入をたびたび受けたともある。 ただ、キンメリア人自身も、その前に、スキタイ(Scythians)から圧迫を受けての移動のようであった。 このスキタイ人についても、またあとで述べる。

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前600年頃のオリエント。ウィキより。 Lydiaをリュディアと記述しているものもあるが、英語読みなら、リディアの方が近いか?

 メディア(Media)王国は、もともとイラン西部のメディアの地から勃興したもので、印欧語を話すメディア人による建国である。 イラン高原には、印欧語を話す民族が、少なくとも前2000年には定住していたと言われる。 これは、コーカサス地方で、その語族を話す集団が、すぐ移動したことを示すと思うが、このこともあとで、もう少し述べたい。 

 やがて、メディアは、新バビロニアと共に、アッシリアと戦いこれを滅ばし、今のイランやアフガニスタン、メソポタミアそして東部トルコにまたがる大帝国となる。

 つづいて来るのが、同じ印欧語のペルシャ語を話すペルシャ人が起こした有名なペルシャ(Persia)帝国で、彼らも同じくこの地を占領したのである。 ペルシャは、上記のメディアやリディア・新バビロニアの全てを滅ぼした。 最初の王朝は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝とも)と言われた。 トルコ地方を制圧したペルシャは、ダイレオス(Dareios、ラテン語ではダリウス)1世の時に、対岸ギリシャとペルシャ戦争を起こした。 当時のトルコの西海岸には、ギリシャと都市同盟を結ぶポリスもあり、陣容は複雑であった。 そして、ダレイオス3世の時、有名なアレキサンドロス3世(大王Alexandros)が、ペルシャを破り、瞬時にインド西部までの一大帝国を築く(330年頃)。

 しかし、御存知のように、それは短命に終わり、300年頃、アレクサンドロス3世の後継者(ギリシャ・マケドニア系)が、いろいろ争う中、セレウコス(Seleucus)が台頭し、セレウコス朝(いわゆるヘレニズム王国の一つ)を起こし、この小アジアの地も治めた。 同様に、リュシマコス(Lysimachus)が、トルコの西半分を短期だが治めた(リュシマコス朝)。 さらに、250年には、これもヘレニズム王国の一つで、フィレタイロス(Philetairos))率いるペルガモン国(Pergamon、または、アッタロス(Attalos)朝、元は、最西部の地名)という国が統治した。(羊皮紙の生産で有名、英語のparchmentは、このペルガモンから来ている。) そして、紀元前150年頃から、あのローマ帝国の領土となり、のちに、今のイスタンブールが首都となるなど、非常に重要な土地となっていくのである。

 ここで、少しメソポタミアに戻っておくが、この地も、小アジアと同じようにアレクサンドロス3世の占領を受けたあと、既述のセレウコス朝が治め、その後、さらにパルティア(Parthia、または、アルサケス(Arsaces)朝ペルシャ)によって支配を受ける。 そして、その後は、この強大なローマ帝国とパルティアの2国の中間地的な位置で互いの勢力が入り乱れたりなどもあって、この地の重要性は、相対的に下降していったようだ。

 ついでに、エジプトも、この時期、同じくヘレニズム王国の一つであるプトレマイオス(Ptolemaios)朝が治め、有名なレオパトラ(Cleopatra)7世とローマのカエサルの出会いなどがあり、紀元前30年近くまで存続する。 しかし、この王朝は、それまでの古代エジプトの王朝とは、民族的に全く異なると言える。

 さて、ヒッタイトやスキタイなどの話も書きたかったのだが、長くなってきたので、この次にして、ここでは、この古い時代でも、いろんな面白い逸話が多く残っており(ヘロドトスなどギリシャの偉大な歴史家の貢献が大きいが)、その一つ、私が特に面白いと思った逸話(伝説?)を紹介したい。 ウィキには、詳しく書いてあるが、面倒くさい人もいると思うので、ここで概略を。

 リディアが勃興する初期のことである。 前の王朝の最後の王は、自分の妻が、世界一の美女だと思って、周りに自慢したくてしょうがなかった。 ある時、のちのリディアの王となる青年は、それを信じなかったので、前王は、彼に妻を見るようにしつこくせまった。 青年は、見たくもなかったが、あまりにしつこいので、ついに密かにその妻の寝室で裸体姿を覗き見た。 しかし、妻にそれを見つけられてしまう。 そして、その妻は、こう青年に言った。 「きっと、私の夫の指図なんでしょう! とても腹立たしい。 こうなれば、あなたは、私の夫を殺して、私と共に行動しなさい。 さもなければ、あなたを、覗き見した罪で罰しますよ!」と。 返答に困った青年ではあったが、決心して、前王を殺すことに決め、その後、その妻を自分の妃にして、リディア王となった、メデタシメデタシというものだ。 

 おそらく、オリジナルの逸話は、もっと長く面白い展開があることだろう。 今から、2500年以上前に、こんな話を創作あるいは過大に想像するギリシャ人(完全な実話とはとうてい思えない)も凄いものである。  

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後世の絵画、ウィキペディアより。 見えにくいかもしれないが、左端に覗く男の顔がある。

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (4)

  ”読む人知らず”の私のブログなんですが、念の為、ここでもう一度断っておきます。 すでに3回ほどつまらないものを書いていますが、これは、あくまで私の歴史観の備忘録的なものですので、どうぞ御理解を。 

 こっそり日記にでも書いておけば良いような内容なんですが、公開にしないともっと支離滅裂な文章、稚拙な内容になってしまうので、ここに書いています。 まあ、ダラダラと書いているだけですが、自分では、それで経緯がわかるので、これも御了承を! 

 

第二章 富・権力のための組織化・社会化そして移動

④ 温暖化による食料革命と初期文明(約1万2千年前から5千5百年前頃) 

 前回までに、ホモ・サピエンスの世界拡散と、その各地で変異・人種化していく様子を記した。 しかし、既述のとおり、多くの地域で人類グループは、常に移動や混合を繰り返しており、その結果、最終的には、民族あるいは国などという集団を形成してまとまることになるが、遺伝的には、より混沌とした状態になっていると言える。

 ともかく、こうやって人類の遺伝的分化は、徐々に進んでいくのだが、今から約1万2千年前(紀元前BCE1万年前)頃に、また画期的なことが起こった。 最終氷期が、終りを迎えたのである。 その温暖化によって、結果的に、農耕や牧畜がおこり、人類の食料供給体制が、飛躍的に改善したのである。 

 それまでは、世界中のほとんどの地域で、人類は、狩猟採集生活を続けていた。 しかし、この温暖化に伴い、まず野生植物や動物が増加することによって、人類の食料獲得方法がより容易になっていった。 その後、植物の野生種の中には、種子や実を豊富に抱えるものが増え、それが自然落下などをして、人類に栽培のヒントを与えた。 これが、農耕の始まりだと考える。 中東・ヨーロッパでは、麦やヤシなど、アジアでは、稲などが栽培され始める(おそらく、揚子江以南)。 それとともに、牛や羊さらに犬や猫の家畜化も始まる。 これで、人類の食料供給方法は、飛躍的に変わり増大していった。 この時期が、今から約1万2000年前から9000年前あたりの間で確立されていった言われている。 

 極く最近の中学高校の教科書は、よく知らないが、少し前までのものでは、人類は、この農耕の始まったあたりの時期以降から、いわゆる4大文明の出現時期まで(早くとも5500年前頃(紀元前3500年頃))、特に大きな足跡を残すことなく沈黙の時期があったように記述されている。(記述がない、と言った方が良いのかも。) 私も含め、この間の人類の活動は、どうなっていたのだ、と思った人は多いはずだ。 

 しかし、ここにきて、近年の世界各地での科学調査の進展は、めざましく、この4大文明の起こったあたりのすべてで、その農耕文化が始まってすぐとも思われる(約9000年前)さらに精巧な石器や生活用具などが見つけられ、また、その地に社会集団が成立していたことが、示されてきているのである。 そして、そのような社会集団の痕跡は、同じ遺伝的集団あるいは民族によってなされたかどうかはわからないが、ともかく、いろいろな形で、有史と言われる時代がはじまるその紀元前3500年ぐらい前まで延々とつながって存在していたことが、あきらかになってきた。 これで、人類の7万年前からの進化・変化の旅は、有史の開始時期まで、ほぼ途切れることなく、その営みが分かってきたのである。

  その後、青銅器時代や鉄器時代などと並行して有史の世界が始まるわけだが、ここで、ちょっと一休みして、雑談めいたものだが、私が、昔読んだ人種に関する一般書のことを少し書きたい。 

 まず1冊目は、今では、荒唐無稽に思える内容だが、日本人である著者が、その本の中で、”トルコ人は、極端な短頭をしている。”と書いていたのであった。 この文を読めば、普通は、トルコ人は、我々日本人よりもっと短頭である、と思ってしまうだろう。

 短頭というのは、特にアジア人などで顕著であるが、人類が脳容積を増していく過程で、より円形になったほうが、容積が増えやすいため、そういう傾向になったと言われるもの。 また、シベリアなどの酷寒に対処するために、熱保温の関係で、北アジア人は、よりそういう傾向になったかもしれない。 

 しかし、とにかく、トルコ人たちは、1000年以上も前に何百年もかけて、今の中央アジアあたりからトルコの地にたどり着いた民族であるが、今のトルコ人は、骨格的な外見では、周辺の国の人々とは、ほとんど区別がつかない。 (肌色の差は、若干あるかもしれないが。) この本は、約40年前のものであるが、40年前のトルコ人たちと現在のトルコ人たちの外見が異なっている、とはまず考えられない。 私自身、20年前にトルコに観光旅行に行ったが、やはり、彼らは、アジア人には似ていなかったし、東アジア人(世界でおそらく最も短頭)よりも短頭であるようには全く見えなかった。

 おそらく、この著者は、欧米人の古い例えをそのまま借用して自分の本に書いたのではないか、という疑問が湧いてくるのであるが? 

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有名なトルコのアタチュルク初代大統領、今から140年くらい前出生。 ウィキより。 東アジア人には、似ていない。

 さて、もう一つの本は、これも一般用だか、もっと読み応えがあり、しかも、結構詳細な内容の本であった。 その要旨は、いわゆる黄人は、黒人グループと白人グループの融合によって生まれた人種集団であるということであった。 この著者は、皮膚科医でもあって、当時としては、肌の色などの科学に非常に詳しかった人だと思われる。

 もう少し詳しく言うと、この本によれば、人類は、黒人が先に出現し、各地に広まった。 その中で、アルビノ(白子)が生まれ、多分寒冷な土地あたりで、アルビノであっても、だんだん生き延びる人間が増え、やがて、継代していく間に、アルビノではなく白人として集団を築いていった、というのである。 その白人集団が、のちにある黒人集団と出会い、多くの子をもうけることによって、だんだんとその中間色の人間集団が出来上がっていった。 これが、黄色人種である。 というのが、彼の理論だった。 もうひとつ思い出したが、彼がこの本で言いたかったことは、人類は、類人猿に比べても成長の速度が遅い、大人になる時間がかかる。 なので、人類の進化としては、人類は、できるだけ赤ちゃんのような幼い体型を長く残している方が進化的に進んでおり、そして、それは、黄色人種である、という考えであった。

 要約であるので、おわかりにくい点もあるかと思うが、さて、分子生物学が発達した現在の科学からは、どうみえるのか? 体型については、生活様式の影響も多大であるので、絶対的にも相対的にも足の長さなどは、日本人の場合でも、現在の若者と100年前の若者では、相当な差があるように思うが?

 雑学的なもののついでに、これまでの人種あるいは民族の特色について、主要な違いと思われるものを列挙してみる。 まず、アフリカ系の人は、足などの筋肉の発達によって、その跳躍力や走力などが優れていることは、よく知られているが、他に、

・人種あるいは遺伝的差異によって、同じ食物を摂取しても、蛋白質などを生成する代謝合成機能などが異なる。(ある集団では、より筋肉がつきやすい。)

・アフリカ人は、骨密度が高く比重が重たい。(だから、あまり水泳は、特異でないかもしれない。 ただし、骨粗鬆症にはなりにくい。)  

・たとえば、中緯度地方にいる場合、肌の黒いアフリカ系の人は、白いヨーロッパ系の人の約8倍の日射時間を浴びなければ、皮膚からの十分なビタミンDは合成されない。(逆に言うと、白人は、少しの日射で十分で、それ以上浴びると皮膚癌になる可能性あり。)

・東アジア人は、熱い食品をあまり苦もなく食べられる。 辛味も同様か?(センサーが同じ?) しかし、アルコール分解酵素の活性が弱い。(関連性があるかも?)

・稲・コメのカロリーは、高く、その収穫によって、多くの人口を養えるようになる。 アジアの人口の増大? 

・あと、日本人や東アジア人は、肝臓や腎臓の機能(サイズも)が弱く、より少ない糖分や脂肪分で糖尿病・循環器系疾病を罹患しやすい。 逆に言えば、極端な肥満も起きにくい。 などなど、他にもマラリアなどの病気に対する抵抗性など小さいことなら五万とあると思うが、今、すぐ出てくるのは、こんなところである。 

 さて、このあと今から約5500年前に、メソポタミアやエジプトそしてインダスや中国そしてその他の地域にも文明が開花していく。 それは、精巧な石器などとともに青銅器の時代がきたことも示す。 

 ところで、メソポタミアを起こしたのは、大きな人種的な枠では、今のヨーロッパ人に近い人種のグループだが、のちのギリシャやローマのような現在まで続くヨーロッパ文明を築いたグループではない。 それらのヨーロッパ文明は、4000年前頃に黒海とカスピ海の間あたりに起こった新たな言語(いわゆるインド・ヨーロッパ語族)を話す集団が、移動してから起こったものだ。 

 また、エジプト文明もインダス文明も、このインド・ヨーロッパ語族のグループとは、直接関係ない。 のちに、この語族の一群が、インド北部や東部に侵入して、新たな文明を北インドに起こし、バラモン教などを起こすが、それは、もっと後のことである。 つまり、4大文明のどれも、のちにヨーロッパ文明を起こした集団とは、直接関係ないのである。 (もちろん、ギリシャ近辺などでは、非常に早い時期(5000年前頃)から、有史文明を起こしていることも事実であるが、そこでは、暗黒時代などというのもあり、たとえば、その前と後では、民族が大きく異なることも考えられる。)

 さて、この青銅器時代以降の各文明の内容は、私には、膨大すぎて手に負えないというのもあり、また、私は、人種や民族の移動(それは、現代なら侵略やジェノサイドとかと同義語となる場合も多いと思うが)というのに非常に興味があるので、その時代以降の主にそういう集団の移動からみた歴史の経過を見てみたいと思う。     

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (3)

③ 人種形成(世界各地に分散したホモ・サピエンスの変異)(約6万年前から1万年前頃まで)

  さて、世界中に分散したホモ・サピエンスであるが、すでに述べたように元の人数が極めて少なかったので、人口は著しく増加したが、皆、遺伝的には非常に似通った遺伝子・DNA(遺伝子とDNAは、正確には異なる言葉だが、ここでは同義語として扱う)を持っていると言われる。 

 前回に書いたとおり、人類は、ヨーロッパやアジア・オセアニアなどには、約5万年前頃には到着し、その土地土地ですぐに気候や環境に順じた身体つくりをしていったと考えられる。 すなわち、表現型と言われる外見上の形質の差異が、生まれてくるのである。 つまり、人種が。 もちろん、人体の内部も多少人種によって異なってくるが。 ただしかし、再度言うが、全体として人類は、遺伝的には非常に似通った存在同士なのである。  

※ 私は、ここでは基本的に(違う言い方をする場合もあるが)、いわゆる白人系は、ヨーロッパ人、黃人系は、アジア人、アボリジニと言われるオーストラリア原住民は、オーストラリア人、ネイティブ・アメリカンやインディアの祖先は、アメリカ人などと、彼らが変異した地点の現在の名称を使う。 もちろん、黒人は、アフリカ人であるが、それは、出アフリカしないで残ったホモ・サピエンスを含め、その子孫でサハラ砂漠以南に定住し続けたアフリカ人たちのことを言う。 

 それで、アメリカ人は、到着したのが、2万年前以降であるので、当然、変化はその後に起こったが、5万年ぐらい前に住み始めたヨーロッパ人やアジア人、オーストラリア人などの祖先は、これもやはりDNAの分析から、比較的すぐにその変化が始まったと考えられている。

 さて、そもそも、出アフリカする前のホモ・サピエンスの外見、言わば基本形は、どのようなものであったのか、これは、非常に大事な事であると考えられるので、詳しく書く必要があると思う。 

 皆さんは、ブッシュマンという言葉あるいは人物を御存知だろうか? 今から40年近く前だろうか、ずばり”ブッシュマン”というタイトルの彼らの生活を紹介した映画が作られ、日本でもかなり評判になり、その主人公の男性は有名になった。 また、ホッテントットという人たちあるいはその言葉を、若い人は聞いたことがあるだろうか? 今、ホッテントットという名は、差別的だとして使われす、コイ(Khoi)人と呼ばれている。 ブッシュマンも、今はサン(San)人と言われ、この似通った2つの民族グループをコイサン人と総称する。 また、カポイドという表現もある。 実は、近年のDNA分析の結果、このコイサン人たちが、7万年前にアフリカを出たサピエンスに非常に近い存在であることが判明してきた。  

 まず先に、彼らの外見的特徴を書いていくと、身長は、現代人に比べれば、かなり低く、平均155cm程度(男性)。 体格は、細身でやや華奢と言える。 頭は、かなりの長頭(後頭部が後ろに突き出ている)。 顔つきでは、目の周辺には結構脂肪組織があり、鼻は小さくてあまり高くない。 頬骨の出っ張りは、結構めだつ。 つまり、いわゆるそんなに彫りが深い顔ではない。 唇は、そんなに厚くない。 頭髪は、非常に縮れて、頭にへばりついている。 あと、特に女性のお尻は脂肪が多く蓄積し、後ろにかなり付きだしている。 なお、皮膚の色は、そんなに黒くなく、薄い褐色の人が多い。 最近まで、この人たちの生活は、アフリカ南部で、狩猟や牧畜などの生活をしていたので、結構肌は露出していたのだが、アフリカの人類としては、それほど黒くはない。 それと、身体的特徴ではないが、現在のコイサン人の言語は、非常に多くの音素(特に子音)を持っているという。 もしかしたら、人類は、最初多くの音をもって会話を成り立たせていたが、のちに絵図や筆記手段などの方法を取り入れ、音での識別方法の依存を徐々に減らしていったのか?

 以上のような外貌も含め、DNAの結果から、彼らコイサン人(あるいはカポイド)は、現在では、いわゆる黒人のカテゴリーには含まれておらず、独立した人種グループとなっている。 今でも、よくテレビなどで出アフリカ前のホモ・サピエンスを紹介する際には、現在アフリカで主要な人種となっているバンツー系のような結構大柄でかなり色の黒いアフリカ人を例にする場合が多いが、7万年前に人口が激減してアフリカを出た我らの直接の人類祖先は、そうではなく、このコイサン人のような人類だった、と考えられるのである。 

 さらに、DNAの調査によって重大な結果が、判明している。 それは、現在、アフリカ南部のカラハリ砂漠周辺にだけ居住し、人口10万人程度のこのコイサン人集団内のDNAの変異の方が、それ以外の世界中の人類全体のDNA変異より大きいというのである。 

 つまり、7万年ほど前、このコイサン人たちは、今より北のアフリカの中南部に居住していたが、その内の極一部(数百人程度?)の集団が、アフリカを出て(おそらくソマリア半島経由で)、世界中に拡がり各地でいろいろ外見を変え(人種化)、そして今や全体で70億以上の大きな人口の集団に膨れ上がったというのであるが、この巨大な全世界の人類集団内の変異の方が、今アフリカの一部にだけいるこのコイサン人集団内の遺伝的変異より、小さいというのである。

  これは、同時に、アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、7万年前までには、すでにかなり多様に変異をしていたことを示唆する。 そして、その期間は、7万年より長いことも言える。

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現在のサン人、ウィキより。 出アフリカをした我々の祖先は、おそらくこんな人達であったかもしれない。 しかし、アフリカを出て、すぐに外形的な変化を生じたと思われる。

 さて、ここで、出アフリカ(ホモ・サピエンスの世界ジャーニー)の具体的話に入る前に、環境によって起こる外見の変化について書いておく。 まず、一般に広い土地にいる動物の方が、狭い空間や島嶼にいるものより、体格は大きくなる(おそらく、数が増えやすい結果、大きな個体が生まれる確率も増え、その大きな個体の方が生存競争に勝ち残っていきやすいせいか?) 寒冷の地にいる動物の方が、体は大きくなるが、全体的に四肢は小さくなり、耳などので出っ張りも小さくなる(熱放散の効率化)。 日照時間のすくない土地の動物ほど、より白っぽい色になるなどがある(ビタミンDの生成能力など)、以上などが主な大きな変化であろう。

 では、いよいよ、このコイサン人に似た我々の直接の祖先の、世界ジャーニーの開始となるが、開始後すぐに、今のヨーロッパ人の祖先のような遺伝子をもった集団が出てきて、その後、アジア人やオーストラリア人が形成される、というDNA結果が出ている。 南北アメリカ人は、アジア人からさらに、北アジア・シベリア経由で変化していくことになる。

 もう少し、詳しく言うと、おそらく、今のイランあたりで、コイサン人に似た祖先は、ヨーロッパ人の元となった形に変化し、その一部はヨーロッパに行った。 しかし、この時のヨーロッパ人の原形は、今のヨーロッパ人のような外見ではなく、今の南部インドやニューギニア・オーストラリアにいるような人に似た顔や身体をしており、肌色については、彼らより若干淡い色であった、と私は考える。(オーストラリア人などは、最終地に定住後、さらに黒くなった?) 当然、ヨーロッパ人は、その後は、寒冷で日照時間の少ない気候に直面したり、ネアンデルタール人が比較的多くいる地域で彼らと接触するなどして、より現在の姿に近い変化をしていく。 一方、イランからインドや東南アジアに進んだサピエンスは(これも、すでに多少なりともネアンデルタール人とは接触があった)、多少の遺伝的変異を成しつつも、外見的にはあまり変わらずに、オーストラリアまで行き着いた、と私は考える。(※アフリカの残った集団以外、すべての人種は、ネアンデルタール人の遺伝子を多少なりとも持っている。)

 誤解をしてはいけないのは、今は、約5-4万年前頃のある一時期の人種分布を考えているのである。 つまり、ホモ・サピエンスの世界ジャーニーの初期の段階では、現代のコイサン人に似たホモ・サピエンスは、今のパプアニューギニアやオーストラリア人のような風貌をもった人間に変化し、今で言う中東からオセアニア(主に海岸沿いの地域を中心に)まで存在していた、と考える。

 

 同時に、偶然(気候環境による必然でもあったかもしれないが)かつ、遺伝的な変異の経過は別だが、アフリカに留まったサハラ砂漠以南の人類にも、同じような外形の変化を生じたもの、と私は考える(バンツー系の始まり?) すなわち、この1時期には、アフリカから中東・インドそしてオーストラリアまで、外見的には、ほぼ同じような人類だけがいた、と考えられる。(若干のアフリカにいるコイサン人系を除いて)

 その後、中東あたりから西及び北へ移動してヨーロッパに到達した集団は、寒冷で日照時間の少ない気候により狭鼻(寒冷な空気を肺に送り込まないよう、鼻が長く細くなった)になり、皮膚も白くなる。 また、ネアンデルタール人と出会った結果、そのDNAも幾分か混じり影響もでる(体毛が多くなる?)。  

 ニューギニアやオーストラリアに到達した集団は、その後の海面上昇などで移動の機会を失い、その地で、体の皮膚色がより濃くなる程度以外、あまり外貌の変化なしに進化していく。 一方、北及び東アジア人については、以前は、南方からの集団が先に定住し、その後北上して今の東アジア人たちに変わっていった、と私は考えていたが、最近のデータによれば、どうも北方系からの移動もかなりあり、それらが混ざりあった結果であるのかもしれない。 ただし、いまのところ、南から北上の方が、私なりには、説明がつきやすい。

 つまり、東南アジアにいた人々は、それまでにオーストラリアなどに拡がった集団の一部が、その地に残り、密林生活などの比較狭い空間にいたなどの理由から、体をやや小さくし、顔の骨格もやや凹凸の少ないものなっていく。 この集団が、さらに北上し、最終的にはシベリアあたりで、北半球で最も寒い気候に適応した外見に変化する。 つまり、まず、手足は相対的に短くなり、体全体は、東南アジア人より大きくなるが、より寸胴の体形になっていく。 頭は、より短頭になり、厳しい寒冷から体を守るため顔・体全体に脂肪層が多く沈着し、顔面の凹凸は、さらに小さくなる。 特に目の周りの脂肪沈着と小さい鼻は、この集団の容貌を他からかなり異なるものにした。

 なお、現在のヨーロッパでも、最北に住む集団は、目鼻が、南部ヨーロッパに住む集団より、やや小さめになる傾向があるが、この北アジア人のように顕著ではない。 そこまで、極寒ではなかったせいか? ただ、繰り返しておくが、現在の人種分布は、それ以降の人類の何度にも渡る移動で、かなり入り混じっものになっているので、注意を用する。 

 北アジア人の特徴にもどって、耳垢は、凍結を防ぐため乾燥化した。 ただ、皮膚の色は、ヨーロッパの北部にいた集団ほど、白くはならなかった。 これは、おそらく、日照時間が、北部ヨーロッパよりシベリアの方が長いかったもの(つまり晴天の日が多い)、と考えられる。 南北アメリカ人は、主にこの北アジア人の中で、特定の集団だけが、移動したと考えられる。 なぜなら、この南北アメリカ人は、広い範囲に移動定住したが、彼らも非常に小さな遺伝的差異しかない、ということが分かっているからである。 

 これ以降、各地に定住したそれぞれの人類集団は、その土地独特の食料を摂取などして、また、それぞれの生活様式を確立などしていく間に、少しずづさらなる変化を遂げていくことになる。 そして、再度言うが、人類は、これ以降も、特にアジアやヨーロッパでは、移動の繰り返しを行ってきたので、人種分布は、各時代でかなり変化していくことになる。

 これまで、私自身の考えも多少含めて、世界の人種の形成を考えてきた。 これは、もちろん、現在までのDNA分析の結果を基に、そこから考えられる範囲での推測である。 もし、これらの遺伝情報が、間違いがあれば、根本から話は変わってくる。 しかし、このDNA解析技術は、今後も発展し、より精密な人類史がさらに紹介されることになると思う。 今は、人間の持つ全遺伝子の内、主にY染色体とミトコンドアでの遺伝子情報から、このような結果を導きだしている。 Y染色体は、男しかない性染色体なので、父親・祖父・曽祖父といった父系の遺伝的経過を調べるものであり、ミトコンドリアは、もともとどの細胞にもあるのだか、精子が卵子と出会い卵子内に侵入する直前に、精子のミトコンドアは脱落してしまうので、受精卵には存在しない。 つまり、父親のミトコンドリアは、子供には引き継がれないようになっているので、女系だけの遺伝情報が得られる、というそれぞれの遺伝特性を調査しているのである。 

 しかし、これらは、まだ一部の遺伝情報であると言ってもいいのかもしれない。 今後も進む各個人単位の全遺伝子のゲノム解析などが、集団で比較できるようになると、画期的な結果が出てくることが大いに期待できる。 

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遺伝的系統樹、2008年雑誌サイエンス。 ウィキより。


 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (2)

② ホモ・サピエンスの出現と出(しゅつ)アフリカ(約30万年前から7万年前頃まで)

             

 前回は、一応、ネアンデルタール人まで書いた。 まず、追加で言及しておかなければいけないのは、年代表記のことである。 近年、多くの科学的測定の結果、各事象がより以前(早期)に出現や発生をしていた、と報告される傾向が多く見られる。 日本における弥生時代や古墳時代の開始時期などもそうである。 

 前回示したホモ・サピエンスやネアンデルタール人の出現時期も、いまでは、もっと早い時期であると言う学者も多い。 いずれも50万年前ちかくから始まったという説もあり、近い将来、その数値に近い物証が出てくるかもしれない。  ただ同時に、あまり細かい数字を並べても、私は、あまり意味のないことだとも思っている。 相対的な流れ、論理的な説明の付く流れの中での位置関係が大事だと思っている。

 ここで、疑問が出てくるのが、前回も少し書いたネアンデルタール人の出現についてである。 比較的最近までは、彼らは、我々の直接の祖先・ホモ・サピエンスと同じようにホモ・エレクトスから進化したと言われていた。 つまり、昔よく言われていた、原人(エレクトスなど)→旧人(ネアンデルタールなど)→新人(サピエンス)といった流れではないものとして。

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ネアンデルタール人の頭骨、約5万年前。ウィキより。 現代人(サピエンス)に比べ、眉のあたりの隆起が目立つのと額が狭く頭は後ろに長く突出(長頭)。 ただし、脳容積は、現代人とほぼ同じ。

 しかし、問題は、彼らの化石は、アフリカでは、ほとんど見つかっていないということがある。 だから、アフリカのどの辺りで進化したのかも、はっきりしない。 一番近い発見現場は、今のイスラエル近辺で、ほとんどは、ヨーロッパやアジアでの発見である。(彼らの近縁種といわれる人類種が、中央アジアに拡がったようだ。) 

 しかし、ここにきて近年、ハイデルベルク人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)という新たな種が、注目されてきた。 彼らは、アフリカで70万年前頃、ホモ・エレクトスから進化し、のちにアフリカを出てヨーロッパ方面に進出し、そこでネアンデルタール人に変わっていったという説なのである。 同時に、アフリカに残ったハイデルベルク人は、今度は、サピエンスに進化していったという、正に画期的なミッシング・リンクの登場と言える説がでてきた。 つまり、このハイデルベルク人が、サピエンスとネアンデルタール人の共通の祖先であると。 果たして、そんなにうまくこの人類史のストーリーが展開していくのだろうか?

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欧州にいた4万年前のネアンデルタール人女性(復元)。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加)

 もうひとつ、この関連で私が疑問に思うのは、ホモ・エレクトスが、過去100万年程の間に何度も世界へ拡散したと思われるが、なぜそれぞれの地で、大きく進化しなかったのかという点だ。 その点では、私は、アジアなどでも、エレクトスの進化がいろいろあったものと推測している。 実際、エレクトスにも、いろんなサブ・タイプと言われる化石の種類が見つかっており、よりミッシング・リンク的な形質をもった人類が、そのあたりに出現したが、いままでのところ発掘に成功していないだけ、であるのかもと。 あるいは、形質的にあまりサピエンスとの差がないものまでいて、見過ごされてきたなどという可能性も、ゼロとは言えないと思う。 そうでないと、なぜアフリカにだけホモ・エレクトスの進化が起こったのか、説明が難しい。 

 考えられるとすれば、アフリカのエレクトスの人口が、圧倒的に他の地域より多かったせいなのか? 絶対人口が多ければ、遺伝的変異も起きやすい。 では、なぜ、人口が多かったのかは、そこに十分な食料があったせいであろう。 このつながりは、容易に想像できても、ではなぜ、アフリカ(ホモ・サピエンスの場合、恐らく東南部)だけ、食料が十分あったのだろう? それは、今のところよくわからない。 今後、それを裏付ける気候条件などの詳しい情報が、出てくるかもしれない。

 ここで、現生人類の場合、他から隔離された小さな集団では、得意なタイプの新しい遺伝的変異が起きやすいと思う人がいるかもしれない。 例えば、イヌイットやオーストラリアのアボリジニのような存在、さらには、我々シベリアや東アジアの人間もその風貌からそういう存在であるのかも?(人口は多いが) 確かに、特異な環境や狭い空間では、表現形質は、変化しやすい。 ただし、現生人類の場合、そういう変化は、遺伝子変異レベルで見ると、非常にまだ小さいということのようである。 エレクトスからサピエンス(あるいは、ハイデルベルク人)に変化したような大きな変異ではないということのようだ。

  さて、私達の祖先・ホモ・サピエンスに至る進化の直接の引き金、この大きなテーマは、もちろん、今のところまだよくわかっていなし。 それとまだ、サピエンスが、ハイデルベルク人から来たという確証もなく、エレクトスから変化したという研究者もいる。(ハイデルベルク人は、エレクトスの1種という考えもある。) 恐らく、このハイデルベルク人については、まだその発掘数が少ないせいなどで、我々一般人が納得できるほどの仮説が提示し難いところがあるのかも、と想像する。  

 いずれにせよ、アフリカで、約30万年前頃に、ハイデルベルク人か、あるいはエレクトスから直接か、あるいは別の近種からかはわからないが、ホモ・サピエンスが、出現するのである。 その何がしかの遺伝的変化が、アフリカのどこで、そして、なぜ起こったのであろうか? 

 ひとつ言えるのは、これまで述べた脳のサイズが、大きなカギを握りそうである。 チンパンジーや最初にそれと分かれた人類の脳の大きさは、400ccぐらいであったが、それからざっと500万年くらいかけて、その倍の1000cc近くになる。 その後、エレクトスの後半の時代からホモ・サピエンスが誕生するまでの約100万年以内の短い間に、さらにまた500cc増えて1500cc前後の大きな脳に進化するのである。 この脳容積の急速な増大により、彼らの使う石器は、より高度なものになり、集団での狩りは、より複雑になり(ただし、脚力はエレクトスより劣るかもしれないが)、彼らの食料確保は、順調に進んでいったものと考えられる。

 ということで、アフリカで生じたサピエンスは、だんだんと人口を増やしていったことだろう。 彼らには、より高度な知能があり、言語を操って集団で行動するといったことで、近隣にいた他の人類集団を駆逐していったと考えられる。 そして、後で詳しく述べる7万年前頃の私達の本当の祖先にあたる極少人数のサピエンスが成しえた出アフリカを、すでにそれまでに幾度も達成していた(移動範囲は、それほどでもなかったかもしれないが)、と私は思う。 しかし、彼らが誕生してから恐らく10万年以上経過したのち、このアフリカやその他の地域にいるのサピエンスたち、そして他の人類種にとっても、壊滅的な大事件が、突如起こる。 

 今から8ー7万年前頃、インドネシア・スマトラ島にあったトバ火山が、大噴火を起こしたのである。 これにより、全世界の人類は、ほとんど死滅したと言われる。 これまで、何億年年も前の地球の全凍結が、多くの生物を絶滅近くに追い込んだり、あの恐竜たちを死滅させた6600万年前のユカタン半島への巨大な隕石衝突などと同じようなことが起こったのである。 極少数のアフリカにいたサピエンス(一番温暖な地にいた?)とヨーロッパにいたネアンデルタール人(寒冷化に対応できた?)以外は、この爆発から出た火山灰の堆積による食料の消失と、それによって引き起こされた寒冷化によりほぼ全滅した。

 この説が、非常に説得力を持つのは、その後すぐに地球の寒冷化が始まったということと、極少数のサピエンスの遺伝子しか現在の世界中の人間は受け継いでいないという事実があるからである。

 この直前には、アフリカでどれくらいエレクトスなどが存在していたのか、ほとんど既にサピエンスにとって代わられていた可能性も大きい。 しかし、アジアにいたエレクトスたちは、それまで確実に存在したようだが、どうやらこの噴火で壊滅したと思われる。 だから、上に書いたようなある程度の進化的変化が起こっていたとしても、その人類たちは、生き残れなかった。 アジアの方が、もちろん、この火山爆発の影響をより強く受けたことは、想像にかたくない。(この噴火による火山灰が、100cmも積もった地域があるとも言われる。) 

 ただし、もしDNA解析がなかったら、現在でも、そういう仮説(つまりアジア人は、アジアのエレクトスから進化した)ということを主張することは、できたかもしれない。

 それで、おそらく、アフリカで生き残ったサピエンスは、噴火後すぐにいままでの土地を離れ、より食物の豊富な場所を探して移動を始めたのであろう。 幸いと言うのか、寒冷化し氷期になったことで、海面が沈み陸続きが増えるなどして、大陸や島々への移動が、それ以前のサピエンスの拡散(仮にあったとしても)よりはるかに容易であったことだろう。

 その拡散(真の出アフリカ)だが、6-7万年前にアフリカのアラビア半島近くからアジアに行った集団と、今のシナイ半島やパレスチナ経由の移動で各地に分散したという説があるが、このDNA分析で、この時、出アフリカしたホモ・サピエンス集団は、非常に数が少なく数千人以下ではないかと言われているので、これは一つのルートから全世界に拡がったと考える方が、理にかなうと思う。 そして、それは、今で言うソマリア(エチオピアのすぐ隣)などの沿岸を経由してアラビア半島南部にたどり着き、その南岸を通ってさらに今のイランやインドを経て、はるか東アジアやオーストラリアにたどり着いたものであると。 また、イランあたりで逆方向に向いヨーロッパに至ったグループもいた。 そういうグループの中には、また南下して、いまのイスラエルやシナイ半島経由でアフリカに戻った集団もいたはずである。 ただし、彼らは、サハラ砂漠以南には、行かなかった。 そして、ご存知のようにシベリアとアラスカは、陸と氷で繋がっていたので、北アジア・シベリアから北アメリカを経由し南アメリカの最南端までの移動できた。 その移動時間だが、インドあたりまでは、1万年とかかっていない、アジアやオーストラリア、ヨーロッパでも2万年以内、つまり今から5万年前には到着していたと言われる。 最果ての南アメリカ南端でも、今から1万年前までには達成した。 ただし、太平洋の島々へは、かなり遅くなった。(3-2000年前頃)

 この、いつごろ各地にたどり着いたかは、その後の変異つまり人種差を見る上で、非常に重要になってくる。 それと、ヨーロッパで、まだ生き延びていたネアンデルタール人は、3-2万年ぐらい前まで生存していたというので、ここで両者が衝突あるいは融合した期間がうまれた。 

 このように、各地に広まった人類は、その土地土地で、その進化した脳を用いて、いろいろな技術を開発していくことになり、また、同時にまだ環境の影響が強いので、それぞれの土地の気候に応じて、その身体を順化させていくのである。 これが、人種の始まりだ。 そして、それから約1万年前頃になると、やっと寒冷化がおさまり、温暖化が進むことになる。 これが契機となって、人類は、自然にある食料を採るだけでなく、自分たちで植物を生産するつまり栽培する技術を獲得していくのである。 

 次回は、その人種形成の状況をもう少し詳しく書きたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (1)

 唐突の感がありますが、これから、人類進化の過程から日本列島における最初の広域的国家形成のあたりまでの歴史を、好き勝手に私なりに書いてみようと思っています。 このブログは、ほとんど誰からも見られていないようなので、非常に気が楽ですし、一応まあ、常々私が思っていたことや想像していることを、今文章化しておきたいということだけなので、どうぞ悪しからず。 

 なお、以下の本文では、簡略化のため、~だ・~である調で記します。 

 

第1章 新たな食料を求めた結果の進化 

①人類の誕生(約800万年前から30万年前頃まで)  

 今、この世界に生きる我々現代人すべての共通の祖先である現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、この用語は、多数のホモ属を列挙する際に、その細分化のために使われることが多いのですが、以下では、単にホモ・サピエンスとだけ表記します)は、アフリカ大陸の中東部で(今の国で言えば、タンザニアとかエチオピアなどの国々にまたがる広大な範囲のどこか)、今から約30-20万年前に誕生したと言われている。 誕生と言っても、当然、進化の継続した流れの中での出来事であるが。 そして、そのまた御先祖様は、約8-600万年前頃にチンパンジーから分岐したそうだ。 これは、化石の研究やDNAの分子時計の計測からも、それぐらいだと言われている。 ちなみに、現代人とチンパンジーの遺伝子的な差異は、1.5%程度でしかないらしい。 これは、馬とシマウマの差より少ない。 つまり、人間以外の動物からみれば、我々とチンパンジーは、相当そっくりなのかもしれない!?

 では、その頃分岐した今のチンパンジー類の動物と私達の祖先との差は、どこにあったのか? その人体的(?)いや解剖学的差異で言えば、それは、二足歩行に関わる各部位の構造の差であると言われている。 例えば、足の指や骨盤の形さらに背骨の湾曲具合や頭蓋骨と首の骨をつなぐところ(大後頭孔)の位置関係などなど。 しかし、肝心のどうやって我々の祖先たちは、この二足歩行を獲得していったかについては、未だ確定的な論拠・学説はない。 それまでチンパンジーやゴリラ、あるいはその祖先たちがいた森林の中で、我々の祖先も徐々に二足歩行の習性に変化していき、のちの平原生活でさらにその習性を特化させていった、という説がある。 実際、足型は、まだチンパンジーに似て親指が他の指に離れて向かい合っているのに、骨盤は、結構現生人類に近い化石人類も発見されているのだ。 ただ、それだけでは、なかなか二足歩行へのステップをうまく説明しているようには、私には思えない。 また、その二足歩行も足の形がチンパンジー的であるなら、かなり幼稚な歩き方であったろうし、そうなれば、猛獣たちの餌食になりやすく、にわかには納得しがたい説である。  

 私は、二足歩行への変化は、より画期的に比較的短い時間で起こったものと考えている。 その引き金は、それまでの食料の涸渇である。 上に紹介した説より、もっと急激に環境の変化が起こり、森に住んでいた我々の祖先は、新たな環境に果敢に立ち向かわなければならなくなった結果であると。 地形や気候の変動などにより森林の後退や乾燥化などの環境変化がいっきに起こり、それまで彼らが主に食料としていた葉や木の実が消失していった結果、彼らは、平原化した大地に降り、新たな食料を求めて、その生態や行動を変化していった中の一つが、二足歩行であったと考える。

 この新たな動物・我々の遠い祖先は、それまでの森林にあった葉っぱや木の実から、比較的低い場所にあったり地上に落ちた木の実や根などを採取し虫などを捕食するために長い時間歩かなければならなかったにちがいない。 そして、そのことにより、二足歩行をより発達させていくと同時に、前足つまり手が、様々な動きができるよう変化・進化を遂げていくようになったのである。

 しかし、そもそも類人猿、いや猿の仲間は、どうして他の哺乳類と分化していったのか? 何千万年も前の哺乳類は、サイズこそ違え、ネズミや犬あるいは豚やバクのような鼻が長く前に突き出た動物ばかりであった。 それらは、恐竜たちの活動が弱まる夜・暗闇でも主に嗅覚で虫などの獲物を捉えられるように、そういう器官が発達してできた結果であるらしい。 しかし、恐竜なきあと、日中に活動ができるようになると、視覚で捕食しようとするものが現れる。 それを叶えるのには、正確な焦点が必要で、そのため両目の間のバリアとなっていた鼻の部分を平たくして、両目で一つの物が見れるようにしていったのが(たとえ視野が狭くなっても)、顔の平たい原始の猿類の出現の一つの大きな理由であると言えよう。  

 それで、人類の方に話をもどすと、先に書いた二足歩行の痕跡を示す化石人類の後、約4百万年前ぐらいになると、あのルーシーで有名なアウストラロピテクス類が登場してくる。 この二足歩行の確固たる証拠をしめすほぼ完全なアウストラロピテクス・アファレンシスのメスの骨格標本が、ルーシーと名付けられたのは、その人類学者が、この貴重な化石を発見した時、そのキャンプ周辺のラジオで流れていた曲が、あのビートルズの有名な”ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド”であったためだ。(この話は、昔NHKの番組(BBC制作)で、当の本人たちが言っているのを見た。)  

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アウストラロピテクス・アファレンシス(ルーシーのような)復元模型。。ウィキより。

 ただ、このアウストラロピテクスの段階は、まだ本当の意味で人類とは言えないのかもしれない。 このチンパンジーとほとんど同じような体毛を持ち、直立姿勢を保って歩く動物は、脳のサイズでは、まだほとんどチンパンジーなどとそんなに大きな差はなかったからである。 やがて、彼らは、他の猛獣が残した動物の死骸などを含め、食生活の多様化つまり雑食化して生存競争を生きぬいていくことになる。 

 この雑食化すなわち肉食化こそは、彼らの身体の変化という点で、また劇的な役割をもつことになる。 タンパク質など栄養価の高い肉を食するようになり、人類は、栄養やエネルギーが多大に必要な脳の肥大化を可能にしていったのである。 正に、血となり肉となる、である。 それは、手の動きの複雑化によっても、相乗な効果を発揮したにちがいない。 その結果、知能がより発達していった。      

(※昨今では、ヴェジタリアンとか、さらにもっと過激なヴィーガンとかいう人たちがいるが、成人は、ともかく、彼らの子供たちにそういう食生活を勧める人がいるが、私は、栄養面で完全な代替品が出来ない限り、未成年にそういうことを強いるのは、脳や諸器官の発達という点において、非常に危険であると考えている。)

 ともかく、そして、ついにホモ属つまり正真正銘のヒト属の誕生となる。 ここでちょっと書いておくが、かつて教科書などでは、猿人ー原人ー旧人ー新人といった用語を用い人類の進化を表現していたが、この表現は、今は、誤解を生むというより、誤りであるとされているので、現在では、あまり使われていないと思う。 ただ、猿人と原人という言葉だけは、いまでも、結構使用されているので少し説明すると、上に書いたアウストラロピテクスを含めそれ以前の人類が、猿人にあたり、今から書くホモ属の初期の人類が、原人にあたる。 なお、ここで私が使っている”人類”という言葉は、一応、チンパンジーと枝分かれ後のすべての人科の動物と理解されたい。 

 さて、その原人である初期のホモ属だが、なぜ、これらの種は、ホモと呼ばれ、それまでの種は、アウストラロピテクス属なのか? 決定的な要素は、やはり頭の形であろう。 アウストラロピテクス属の頭蓋骨は、チンパンジーのそれとあまり変わらないが、ホモ属になると、かなり後頭部に丸みが出てくる。(しかし、現代人に比べれば、まだかなりの長頭である。) もちろん、中に収容できる脳の容積も増えていった。 それと、やはり出現時期に大きな差がある。 アウストラロピテクス類は、だいたい400万年前頃に出てきているが、ホモ属の一番早いのでも250万年前程度である。

 一番最初の方に登場したホモ属は、ホモ・ハビルスと言われている。 そして、そのあと200-180万年ぐらい前に、ホモ・エレクトスというホモ属が出現して大繁栄する。 おそらく、人類史上最長の繁栄期間を謳歌した種であると言える(100万年間以上)。 このホモ・エレクトスは、火や石器なども使っていた。 また、彼らは、のちのホモ・サピエンスが行った世界拡散(いわゆる”出アフリカ”)を、すでにこの時期に成し遂げていたのである。 そして、その子孫と言うのか、その系統の人類が、アジアなどで多く見つかっている。 昔からよく知られる北京原人やジャワ原人などがそうであり、彼らは、かなり最近まで生存し、我々の直接の祖先ホモ・サピエンスと遭遇していたかもしれないとさえ言われている。 

 このエレクトスの特徴をもう少し詳しく言うと、彼らは、既に述べたように脳の容積が増し(600-1000cc)た結果、知能に優れるようになり、石器などを使った本格的な狩りができるようになる。 食物に火を使った加工ができたので、生肉や木の実を食べるのに必要な長い消化器官は要らなくなり、その分、余計に脳や四肢の発達に栄養をまわせた。 その身体の大型化に比例し、足腰の筋肉も非常に発達する。 それと同時に、体毛は減少し肌が露出して汗腺が発達したので、汗による熱放散で長距離・長時間の走行・運動が可能になった。これは、現代人でも少し練習をすれば、かなりの長距離走が可能になることからも、理解しやすい。 ただし、現在の馬なども汗腺が発達しよく汗をかくが、狼や犬などより持久力はないと言われる。 このあたりの細かいことは、専門家なら区別ができるのかもしれないが? とにかく、エレクトスたちは、集団で知能を使った賢いハンティングも(象などの大型獣)、体力を使った持久戦のハンティングも(鹿のような草食獣)できるようになったのである。 だから、大繁栄したのであろう。

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ホモ・エレクトス「女)の復元。 ウィキより。

 さて、アフリカに残ったホモ・エレクトスの系統は、さらに進化を続け、その後、我々の直接の祖先・現生人類が出現し、その一部は、やはりアフリカを出て、世界に拡散するわけであるが、しかし、ここにもうひとりホモ・サピエンスよりも先にアフリカを出て、今のヨーロッパを中心に生存した人類がいる。 ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)である。 ただ、彼らのアフリカでの出現は、ホモ・サピエンスよりも先かほぼ同じであることはわかっていても、どのように出アフリカを成し遂げたかは、今のところあまりはっきりしていない。 

 ともかく、このネアンデルタール人と我々の祖先は、その出会った場所で多くの戦いをしただろうけれども、同時にある程度は、混血が起こっていたようでもある。 そして、その結果、ネアンデルタール人のDNAの痕跡が、今のヨーロッパ人やアジア人には、数%存在するらしいのである。 アフリカ人には、それがないらしく、このこと自体が、また我々の祖先ホモ・サピエンスの出アフリカ説を裏付けるものとなっている。 

 さて、ここまで我々の直接の祖先・ホモ・サピエンスの出現直前までを見てきたが、これは、結果論的な見方であり、極く主要な種類の人類しか列挙していない。 つまり、あみだくじをして、その逆さから答えを早く見つける時にやるあの方法と同じなのである。 実際は、あみだくじそのもののように歴史は動き、チンパンジーから別れた人類は、各段階で多様な変化を起こし、多くの人類集団が生まれては消えしたことは、様々な化石が証明している。 その中には、ゴリラよりも大型化した人類も含まれている。 

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ホモ・エレクトスの分布。 更新世中期(120万年前頃?)。 ウィキより。

 

特に、もう書くほどのことではないのですがーーー

 世の中のコロナ禍も日本や欧州などでは、かなり沈静化してきた感があるのですが、今日のニュースで、我が故郷・姫路の有名な秋祭り”灘のけんか祭り”が、今年は中止になったと聞きました。 

 たしか、10月14・5日の開催であるはず。 そんなに前に、中止の発表をする必要があったのか? おそらく、いろいろな準備の関係で、今決断しなければならなかったのでしょう、非常に残念。

 もちろん、予想の域をでませんが、もう8月あたりまでに、身体の接触などが考えられるスポーツやイベントなどもすべて自粛対象から外れ、完全に普通に行われているような気がするのですがーーー。 祭り、やっぱり準備が大変なのかな? そう言えば、高校時代の友人で、この祭りに命をかけているような男が、こう言っていました。 「わし等は、祭りが終わった次の日から、来年の祭りのことを考えとるんや!」みたいなことを。 まあ多少は、大げさでしょうけど、やはり大変な準備や用意周到な根回し的なことが要るのかもしれません。 ただ、年齢からいっても、今は、地元地区の重鎮になっているその友人には、今回の自粛・中止は、大きなショックであったろうことは、想像にかたくないことです!

 さて、もう特に、この頃は、このブログで書きたいことは、これといってないのですが、以前書いたことで、少し訂正や追加をしたいと思います。

 まず、このコロナウイルスによる東アジアとそれ以外の国々の死亡率に大きな差がある点なんですが、あれからやはり、今の今まで、この傾向は、変わりませんね! 人種差というより、居住地域差という感じ。 アメリカなんかでも、アジア系が特に感染率も死亡率も他の人種より低いということは、見られなかったようですし。(黒人だけは、仕事職種の関係で感染率が高いと言われてますが。) で、私が、今のところ支持する説は、今回のコロナウィルスに似たウィルスが、東アジアでは、これまで過去何百年の間、顕在潜在に発生していて、その地域の住民には、それらに対する抗体を保持しているというものです。 その抗体が、この新型コロナウィルスの持つ近い性質(抗原性)にも、かなり有効に働いたのではないか、という感じの説です。 まあ今、南米などで猛威を奮っており、そして、アフリカなどの状況が、これからどうなるかわからないので、しばらくは、よくわからないかもしれませんが。

 もう一つは、ガラッと変わって、1月の記事で、今年の大河の”麒麟がくる”をちょっと否定的に書きましたが、だんだん良くなってきたと思います。 特に、信長が出てきたからは、俄然、面白い感じが。 当初は、この小柄な役者で、大丈夫かいな?と思いましたが、ナカナカいいですね。 と思いきや、今月から、またこのコロナの影響での放映中断が起こりました。 残念に思っていたら、しかし、先日、この同じ主人公たちを扱った私が中学の時に夢中になった”国盗り物語”が、ちょこっと紹介されましたね。

 これを見ると、やはり、今の麒麟より国盗りの方が、数段興味が湧く内容になってるなーー、と改めて感じました。 京都の女は、京都言葉を使ってるし、どの場面もどういうか良い意味でのネチッコさみたいなものがあって、非常に魅力あるものに見えました。 やっぱり、昔の大河の方が、良いのかな。 でも、まあまあ、麒麟も、年をまたいで放送されるようですし、こちらも内容がさらに面白くなるのを期待します。 それでは。

※約1時間半後です。 コロナの致死率などの地域差ですが、そうなれば、明治以後南米や北米に移住した日本人などは、そういう抗体を持っていたのかどうなのか? あるいは、もっと最近、戦後に移住した人たちは? などなど、いっぱい疑問も湧いてきますが、いずれにせよ、詳しいデータ・報告待ちですね。 ア、移住と言えば、この私自身も日系アイルランド移民とかいう、存在?立場?なんでしょうかね? ポテチン。 では、皆さんお元気で!    

 

新型コロナウィルスによる死者、なぜ欧米やイランで多いのか?

 いま世界は、この新型コロナウィルスによって、大いなる危機にひんしています、あらゆる面で。 私の住むここアイルランドでも、日に日に政府の対応が厳しくなってきています。 ホンの2・3週間前までは、2001年頃にアイルランドやイギリスで深刻な問題になった口蹄疫の方が大変だった、と言っていたのですがーーー。 アイルランドでは、24日現在、約1000人の感染者と6人の死者がでています。 

 この感染症に関するいろいろなことが言われていますが、ここでは、私は、”なぜ、日本人や東アジア人の死亡者数は、欧米やイランと比べて少ないのか?”、その可能性を思いつくまま、今、書き記しておこうと思います。

①まず、暴露したウィルス量が、異なる。 つまり、よく言われるキスやハグの習慣やマスクをしないなどのことによって、小さな唾気などウィルスを多量に含む飛沫やエアロゾルの伝搬が起きやすかった? これは、当初、発生を軽視あるいは無視していた中国・武漢でも、このような濃厚接触が感染者の間で起こり、死者が多数出たのかも?

②ウィルス自体の遺伝的変異。 このウィルスは、いろいろ変異をしやすいものであるらしく、ヨーロッパなどでは、強毒性のものが流行しているのかも?

③他の病気のワクチン接種などにより、幾分か抵抗力のある免疫を保持している可能性。 ワクチン接種の内容は、似ているものも多いが、やはり各国あるいは時代で、それぞれ異なる。 それで、他のウィルスによるワクチン接種が、今回のコロナウィルスにも何らかの抵抗性を持ち合わせているのかも(例えば、日本人などは)?

④最後に、人間の遺伝的差異(つまり人種)による感染力の差。 イラン人は、人種的にはヨーロッパ人とほぼ同じであると私は思っています。 少なくとも、東アジア人よりヨーロッパ人の方に近いでしょう。 ですので、この欧州系を中心と人種集団は、このウィルスの感受性が高いのでは?と想像したりするのです。 ある種の病気では、特定の人種や国民が、なりやすいということはよく知られています。 今回のウィルスが、猛威を奮っているイタリアやスペインで、人種的に元々ヨーローッパ人でないアジアやアフリカからの移住者や長期滞在者の感染者数や死者数が、どのようなものか知りたいところです。 

 以上が、いまのところ、私が想像する今回のコロナウィルスによる死者数の差が、欧米などと東アジアで大きい理由を考えてみました。(感染者数は、各国それぞれの対応が異なるのと、実際どこまで調べられるか、という問題があり、あまり参考にならないと思っています。 最も、この死者数さえ 誤魔化す国があるとしたら、それは、大変大きな問題になるというのは、当然ですが!) 

 

※上の文章を書いて、約1時間半後です。 こちらは、今、3月24日午前9時30分頃です。

その理由、もう一つ抜けていました。

⑤医療の技術や設備、または医療体制が異なる。 ただ、これは、日本や韓国、武漢以外の中国のそれらが、北イタリアやフランス・ドイツなどのそれらに比べ、特に優れたものとは考えにくいのですがーーー? 感染者に対する方針などの医療政策も含め。 でも、まあ、1%でも考えられることは、列挙しておきます。