さーて、やっと、皆さんお待ちかねの(誰も待ってヘン!)このテーマに関する原稿を書き始めることにしました。 何年も前から考えていたのですが、これまで出来ませんでした。 やっぱり、物語(小説)風にして長めの大作にしようという、ドダイ無理な邪心があったせいでしょう!
なので、今からは、私がこれまでこのブログの古代史の部分ですでに書いてきたことをまとめるような感じで、短く簡潔なものでもいいから書いていこうと思います。
ですので、ショボいものになると思われます。 そんなら、書かんでもええやん!などと言われそうですが、私は、とにかく、この国の黎明期の歴史の一連の流れを、私の言葉で書いておきたい、という強い思いをいつも持っていました。
それと、まあ内容的にも、現在の研究者・専門家の主流の意見・説に従っていると思いますし、想像の入る部分も現在の科学的知見から可能性のあるものを選んでいるつもりなので、ほとんど面白みのないものになると思います。
でもまあ、とにかく、今から書き始めたいと思います。 では、ここからは、です・ます調から、だ・する調に変えますので、ご了承を。
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① 楽浪海中有倭人、分為百余国。(漢書ー地理志)
時は、西暦1世紀前半頃、我が日本列島(現在の地理的意味で)は、当時すでに東アジアの帝国として君臨する中国の王朝・漢から倭(わ)と呼ばれていた。 今の日本語の”ワ”という音とは全く正確に同じではなかったと思われるが、それに近い発音であったことだろう。 おそらく、当時の日本人いや倭人が、自分たちのことを”ワ”あるいはそれに近い言葉で呼んでいたためと思われる。 一方、この倭という文字は、中華の周辺に位置する他の民族すべてにそうであったように、あまり意味の良くない漢字が充てられている。 倭という漢字の意味は、第一には、小柄な人間という意味だが、実際に、当時の倭人は、後に述べる縄文人の影響もあって、中国特に北部や朝鮮半島の人々より身長は低かったと思われる。
ただ実は、この中国人が、倭という地名の指す範囲は、いつも今の日本の範囲だけであったとは限らないようだ。 中国の歴史書の初期においては、どう見ても朝鮮半島の南沿岸部分も含んだ九州を中心とした西日本のエリアに対して、倭という名を使っている場合も見られる。
ともかく、この紀元1世紀頃、倭の中で一番朝鮮半島から近い九州島の北部沿岸を中心に、大量の移民が常時押し寄せていた。 ただし、それは、その頃だけの現象ではない。
数千年も前から、今の中国東北部やモンゴル、そしてシベリア地方などで寒冷に適応し、皮下脂肪特に顔面への脂肪の沈着が顕著でより短頭の傾向の強い形質を持った新たなアジア人の集団(新モンゴロイドという学者もいる)が、それらの地域で独自の文化や言語を形成しつつ、つまり各民族に分化し、さらに小国家を形成していく。 やがて、それらの集団の中から一部はさらに南下し朝鮮半島を主な経由地として、この倭の地に移り住むようになっていった。(いわゆる弥生人集団の形成)
そして、この新たなアジア人の集団は、それまで倭の地の支配的な集団で、旧来からの東南アジア人的特徴をよりよく残した人間たち(いわゆる縄文人)と遭遇することになる。 最も、この縄文人たちも、元はアジア大陸の南や北の多方面から3-2万年以前から移動してきた様々な人類集団で成り立っていったものだ。 これらの集団群をまとめて縄文人と言うが、彼らは、倭の中で一番大きな島(本州)の東部や北部を主な居住地域とし、狩猟採集生活を中心に暮らしていた。
一方、もっぱら朝鮮半島を主な経由地として玄界灘を超え、倭の北部九州沿岸に着いた新たなアジア人の集団は、紀元前1000年頃までには(弥生時代の開始は、前500年くらいだと現在の主流の説ではなっており、それも従来の説より早まっているが、最新の学会の意見は、発掘成果などから弥生時代の開始をさらに早期にしていこうとする傾向にある。)、稲やその他の植物の栽培技術を北部九州に持ちこみ、それによる人口の増加を背景に、その九州北部から東部や南部にその居住区域を拡充していった。 既述のように、そのあたりは縄文人の人口もそれほど多くなく(いや、これより早い時点で、一部の縄文人たちは、この新たな集団への脅威を感じて、東や南に先に逃げて行った可能性があるのかもしれない?)、彼らの居住域を圧迫・後退させていくのは、それほど難しいものではなかっただろう。 そして、この時点までに、先の縄文人の集団は、東日本を中心とした集団と九州南部を中心とした集団に大きく二分し、遺伝子的にも少し違う別の集団となっていった。 (※このうち、東の方の縄文人は、後のヤマト王権からは、蝦夷(えみし、アイヌ民族系ないしは弥生系と混血したアイヌ系の人々)と呼ばれ、九州南部の方は、隼人(はやと)と呼ばれた。)
そして、弥生人(※この弥生という名称は、正直、私は嫌いである。 主に九州・西日本の文化的特徴を示すこの時代の名を、なぜ関東の遺跡のあった地名から名づけるのだろうか?)となった集団の人口は、先住の縄文人を遥かに上回る数となり、しかも、半島などからの流入は、その後も続いた。 ただ、この半島から流入してきた集団群は、長い年月をかけて倭に流入してきたので、彼ら自身の出自は、必ずしも似通った者同士というわけではなかった。 すでに民族的な差異をもった集団群が、北部九州を中心に次から次へと打ち寄せていたのである。
というわけで、彼らの話す言葉は、皆多少の違いがあった、特に単語・語彙の面において。 ただしかし、彼らの言語の基本構造は、ほとんど同じであった。 それゆえ、この倭の地で、のちに確立される言語(日本語)の文の構造つまり文法は、人口で多数派を占める彼らの言語から由来することになる。 一方、基礎的な単語・語彙の面においては、既述のように弥生人同士の差異もあり、新たな倭という土地での自然や植生などの違いもあり、先住の縄文人らの使っていたものが多くそのまま採用され存続することになった。(※山(やま)、川(かわ)など)
ここで、ちょっと思い出すのが、今から20ー30年前より以前は、中国大陸から直接日本列島に流入した人々の文化的貢献(水田稲作の導入など)を重要視する考え方が、まだまだ結構見られたが、DNA解析などが進んだ今では、そのような影響は、極く微小であると考えられる。 このころまでの中国大陸の文化は、朝鮮半島の文化も絡めて、半島経由で伝わったのである。 中国から直接の影響は、鑑真や日本の僧たち、そして、遣唐使などが活躍する時代まで待たなければならない。
② 北部九州に小国家群の形成
さて、そんな文化的発展が徐々に進んでいく中で、紀元前後頃になると、北部九州には、100を超える小国家群が存在した(漢書)、とある。 おそらく、これは、現在で言えば、小規模な市町村ぐらいの大きさの国家であり、人口は、ほとんど少ないものでは数千人程度であっただろう。 これらは、もちろんいわゆる弥生人の国家群である。
その後、北部九州の中から、中国・後漢の皇帝に朝貢までできる国家が勃興する。 奴国(なこく)である。 西暦57年、奴国の王は、その見返りに金印を授与される(後漢書)。
歴代の中国皇帝は、周辺国との朝貢関係を結ぶ時には、こうやった印章を授与しているが、材質は金や銅など様々で、この奴国へは金印ということで、その朝貢国としての地位が高いことを示すものであるのかもしれない。 なお、肘頭部分は、長年ヘビの形をしているものと言われたが、実は、当初はラクダを彫ろうとしていて、途中で、ヘビに変えたようである。
このことは、後漢の皇帝(光武帝)は、当初、奴国には、ラクダがいるような土地柄であったと勘違いし、のちに南方の地であることを確認して、肘頭の形をヘビに変えたとも考えられる。 このことは非常に重要で、歴代の中国王朝は、長い間(おそらく、のちの倭の五王時代頃(500年頃まで)、倭の位置をかなり南方にあったと認識していたようであった。 もっと新しい時代でさえ、中国人の描く日本は、かなり南方に位置している事実もある。
そして、紀元前後の頃の北部九州の国家群(都市国家的なものであろうか?)の状況は、恐らく、あの『三国志魏書東夷伝倭人条』(いわゆる魏志倭人伝)に書かれている内容と大きな差はない、と想像できる。 というのも、陳寿によって魏志倭人伝が書かれたのは西暦280年前後とみなされるが、当時の中国の王朝が知りえた日本(倭)の情報の多くの部分は、かなり古いものに基づいたものであると推察されるからである(王朝が実際に倭国からの朝貢に応じた事項などを除いて)。 倭人の生活や文化を記載した部分は、日本の位置をかなり南方にあるという前提での記載であり、書かれている風習などは、より原始的であったり、あるいは、かなり田舎の風習だけを取り上げている感じがする。
この魏志倭人伝が中心的に描写している邪馬台国などの倭国の中心的国家は、すでに中国や朝鮮半島へ朝貢などをしていることを考えると、そういう使節が先進地の文化を盛んに取り入れ、少なくとも、それらの国家の中枢部には文化的な施設や国家としての制度があったろうと思われる。
それで前述した金印であるが、奴国がこれを貰ったということは、その奴国王が近隣を制圧していた証拠になると思われるが、これが西暦57年頃である。 しかし、魏志倭人伝による北部九州の各国の記述では、奴国よりも伊都国(いとこく)の方が、より重要な都市国家であるような印象を与える。 また、伊都国がのちの政権国家である邪馬台国と密接につながっている印象を受ける。 ただし、魏志倭人伝の記述では、伊都国の人口は数千人程度で、東の隣国の奴国よりかなり小さい。 しかし、伊都国の邪馬台国との関係やいろんな役所があるなどの興味ある記載は、奴国や西隣の末盧国(まつらこく)の簡素な記述とは対照的であり、西暦100年を越えるあたりから、伊都国の邪馬台国との同盟関係や北部九州での支配的位置が向上しているように見られる。
北部九州には、この伊都国のある王の埋葬場所と考えられる墳墓も推定されており、また、伊都国には、後のヤマト王権で珍重される銅鏡もこの地で大型化している。
さて、埋蔵物の調査、すなわち青銅器や鉄器の分布などの科学的知見において、西暦200年頃には、現在の中国地方や近畿地方の勢力の方が、北部九州より優勢になってくる、ということが判明している。 つまり、西暦100年あたりまでは、西日本地域の覇権という意味で、北部九州が持っていた優位性は、少なくとも200年頃までには、吉備地方や出雲などの山陰、そして、大和を中心とした畿内勢力に、完全に置き換わったと言えるのである。
(※しかし、近年の発掘成果により、畿内・近畿では、紀元前後の遺跡(池上曽根遺跡など)からも大型の建造物が確認されるなど、この地域における文化的発達はかなり早いものであった、と証明されている。 ただ、100年前後までは、それでも北部九州の方が、全体的に政治的な優勢を保っていたのだろう。)
そして、その中間期とも言える西暦160年頃に、倭国内で大きな内乱が起こる。 『倭の乱』あるいは『大乱』である。 これは、ある意味、それまで倭国内では北部九州の勢力が優勢だったものが、この時期までには、倭国全体(東海地方を含む西日本全域で、弥生系の治める地域)の各地の勢力が勃興してきたものと考えられる。 そうであっても、それらの諸地域の小国家群は、当然、まだこの時期には、北部九州由来の先進文化に依存していたであろうし、そして、元の北部九州にしても、連綿と続いた朝鮮半島経由の元王族などのリーダー的存在や物資の流入を受け続けて発展していったと考えられる。
そういうことで、玄界灘沿岸の北部九州から広がった弥生人の集落そして小国家地域は、西日本全域とりわけ瀬戸内沿岸で発達することになり、特に、その主な拠点としては、九州の瀬戸内沿岸地方、吉備、出雲、讃岐、播磨、東海そして畿内などが挙げられる(纏向遺跡で見つかった石器分布などから)。
③ 倭国大乱の内情と投馬国と邪馬台国の位置

魏志倭人伝記載各国の位置及び弥生期の高地性集落の多い地域
さて、ここでもう一度、この160年頃に起き、10年程のかなり長い期間続いたと思われる倭国内の大きな騒乱(魏志倭人伝では、『倭国乱る』とある)は、その結果、倭国に大きな変化をもたらすのであるが、その内実を見ていくには、この乱では、どの国とどの国が戦い、どこと同盟を結んでいたのかということが非常い重要となると考えるが、その先に、倭国内の主な国々の位置関係を確認しておくことが大事なことになる。
魏志倭人伝では、北部九州にあった不弥国(ふみこく、ふやこく)から、水行20日で投馬国(とまこく)に到着とある。 まず、私は、魏志倭人伝に書かれている南行きというは、すべて東行きに修正して考えるべきだと思っている。 これは、先に述べたように、当時の中国では、倭国は、九州を起点にそこから南に長く伸びている島国だと想定している節があるからである。 人々の衣服や食生活の描写は、まさにそうである。
それで、この投馬国の位置は、非常に重要なので、東行きの水行の場合のこれまでの主な候補地をあげると、まず吉備地方の西端にある広島県瀬戸内側の鞆の浦、日本海側の兵庫県の但馬、そして、島根県の出雲である。 どれも、音声的に似た地が候補になっているが、これだけでは判別不能である。(※ちなみに、他の倭国内の国々の名称も、音声的に今現在の地名にその名残りがあるものが多い。)
しかし、様々な遺跡の発掘調査、日本書紀などの記述などを考慮すると出雲の可能性が非常に強い。 また、魏志倭人伝は、この投馬国から邪馬台国の行程は、水行10日プラス陸行1カ月としている。 この記述を考えると、瀬戸内沿岸地方にあった吉備地方から大和地方にある邪馬台国に移動するには、陸行はほとんど無いか、あっても1-2日程度の行程しかかからないので(当時の河内平野は今よりもっと狭かったので、海岸から大和川沿いを抜けて奈良盆地まではもっと近かった。)、陸行があるということ自体、そして、それが1ケ月も要するというのは、出雲から大和までを山陰山陽を経由した陸行であると考えるのが妥当である。
もっとも、それは、邪馬台国を畿内の大和地方にするという前提であるが、これは当然、この話の中心的話題でもあるが、物証(纏向遺跡や箸墓など)や伝承などによっても、そうでなければならない、と私は考える。
さて、もう一度戻って、160年あたりに起こった倭国の乱とは、北部九州の諸国家と投馬国である出雲や山陽の優勢な小国家である吉備、そして、邪馬台国などがどのような関係をもって起こった騒乱なのだろうか?
これは、現在のところ想像の域をでないが、最も有効な考えの一つは、その後の歴史から見るしかない。
魏志倭人伝の記述では、この内乱の前は、男王(1代か数代か?)が70年ほど統治していたとあるが、これは、そのまま読めば、邪馬台国の前身的国家のように考えられるが、魏志倭人伝より後に書かれた『後漢書』の中に、西暦107年に倭の王が、後漢に朝貢したとある。 年代的に同じ頃にあるこの二つの文章をどう読むか? これは、その国が、後の邪馬台国に繋がる国か、それとも、北部九州にあった国か議論の分かれるところである。 また、卑弥呼の邪馬台国と比定される纏向遺跡ではなく、その近辺でかつて繁栄した唐古鍵遺跡だという説もある。
ここでは、金印の時代からそれほど時間が経ってないということや魏志倭人伝ではなく後に書かれた『後漢書』に書かれている朝貢(生口の譲渡)であるから、この内乱の前の国は、九州の国であったと考えたい。 この時期は、広域な地域を治めるだけの力は、邪馬台国側にはまだなかった。
その後、この動乱の後、西暦180年頃、邪馬台国の卑弥呼が共立されたとある。 この時点では、邪馬台国は30近くの国家を従え(あるいは同盟し)、その後の卑弥呼の治世の間に強大な一大国家になっていったと考えられる。 邪馬台国は、大和であり畿内にあるとすれば、騒乱自体が誰と誰の間で、また、どこで起こったかなどは不確かでも、それに勝利した勢力は、その東端を笠置山地で隔てられ、当時の倭国全体の中でも最も広大で開けた土地の一つである奈良盆地にその本拠を置くことになったのである。
(※あるいは、東海地方に対立する狗奴国(くなこく)の存在が、その東進をある程度阻んだかもしれない。 その後、邪馬台国は、伊勢神宮の建立など伊勢を管轄におくので、東海地方にもその頃には支配が及んでいたものと考えられる。)
④ 邪馬台(ヤマト)国の誕生とその後の系譜
これから、その後の邪馬台国そしてヤマト王権さらに大和朝廷へ権力が移行していく過程を、もう一度整理を兼ねて書いていく。
まず、160年頃起こった『倭の大乱』とは、北部九州の伊都国系と出雲系および吉備系を含む勢力が、それら以外の九州や瀬戸内沿岸あるいは近畿や東海の諸勢力との戦いであった、と考える。
(※私は、これまで、のちに邪馬台国には出雲や吉備の伝統・習慣が残り、特に出雲は国譲りの相手国としても描かれているので、吉備は、この大乱・騒乱の同盟国、出雲は敵対国と考えてきた。 しかし、今はもっと素直に、これらの地域の出雲や吉備の文化や伝承が残るのは、これらのどの地域も同盟・縁戚関係のある地域ではなかったか、と考える。 だからこそ、邪馬台国の前方後円墳の始まりは、吉備のそれより古い弥生墳墓に影響を受け、逆に、後に大和で大型前方後円墳は発達すると、吉備でも同じような大きな前方後円墳が造営され、また、出雲の国譲りの話も、出雲からの首長者たちの大和への移動を示しており、その名残惜しさを表現しているのだと思うのである。 そうでなければ、それ以降も出雲は出雲大社などで発展していくということは起こらなかったであろうし、北部九州の伊都国周辺は、父祖の土地として対朝鮮半島国家からの受け入れ窓口としての機能を継続していかなかったであろうと考える。)
その内乱が終結した時(約180年頃)、当時の呪術を行う巫女としてはかなり年長の20歳前後であった卑弥呼(日巫女、日御子、姫巫女?)が、その勝利勢力の首長群から女王として推挙(共立)された。 また、邪馬台国は、倭国の主導的首都的機能をもった。 そして、この女王卑弥呼は、かなり長生きし(90歳ぐらい?)、西暦248年頃に死ぬまでの60ー70年間、宗教的権威として君臨した。 卑弥呼は、王座にある間、朝鮮半島経由で中国の魏に朝貢した。 卑弥呼の死に当たっては、直径150mほどの円墳が造営された。(※これは、箸墓の前方部とほぼ同じ大きさ。)
卑弥呼の後、一時、邪馬台国では、男子が王となったが、うまくいかず、その後、巫女としては、平均的な年齢である13歳の壱与(いよ)または台与(とよ)が、女王となった。 壱与も266年、大陸の普に朝貢したとある。
以上が、主に魏志倭人伝から読み取れる大まかな時系列である。 そして、この頃の日本(倭)の歴史をある程度客観的に示す資料は、これしかない。 ほかは、考古学的資料の分析成果を待つほかない。 であるので、ここからは、いままで書いてきたことの重複する箇所もあるかもしれないが、追加的な説明も含めて、私が日本古代史で一番大事だと思うこの時代の歴史をもう少し記していきたい。
まず、倭国大乱の後、中心地となった邪馬台国(これは、当然、ヤマト国と読まれなくてはならない)は、その乱で勝利した連合国の文化をある程度引き継ぐことになる。 それが、一つは伊都国の銅鏡であり、出雲の銅鐸・銅剣、吉備の墓制であったと考えられる。 そして、卑弥呼の治世下で、壺のような形の墓、すなわち、前方後円墳が邪馬台国で最も権威ある墓制として確立される。 私は、前方後円墳は卑弥呼の死後や治世末期ではなく、その治世中に確立されたと思う。 そうでなければ、後に記す箸墓の前に小さな前方後円墳が存在するという事実は理解しにくいし、大体、権力者が在職中に新たな制度がすでに確立していくものだと考えるからである。
(※現在、卑弥呼の墓と見込まれるのは、箸墓が最有力候補であるが、その造営年代は、250年頃に収れんされてきている。 それを考えると、これは、卑弥呼の墓であった可能性が非常に高いが、それならば、少なくとも270年頃まで生きた壱与の墓は、どこにあるのかが焦点になる。 あるいは、この偉大な二人の女帝は、一人だったのか? そうなれば、239年から数回と266年に行った中国朝貢の記録は、どう説明するのか? 普通に考えれば、二人の偉大な女帝がいたというのが、まず妥当だろう。 この辺は、壱与の古墳の確定が、それを解決していくことになると思うし、それらの女帝の記憶が、後の天照大神の神話や神功皇后の話に絡んでくるのだと思う。)
それと、卑弥呼の呪術は、中国側からは鬼道と呼ばれたが、これは、当時すでに中国で隆盛した原始の仙神思想や道教の流れをくむものであり、それは、徐々にのちの神道として発展していく。 そして、この日の出や日の入りの東西軸を尊重する新しい宗教から、こののち、大和の地から真東の邪馬台国の覇権が届く範囲で最も東の海岸、すなわち伊勢湾に神道の太陽信仰に基づいた大きな宗教拠点が築かれる(伊勢神宮)。
その後、壱与の次には、男子の王が君臨するようになり、それが継代確立し、大王と称される。 そして、その初代で強大だった大王が、のちの奈良時代に第10代天皇として記され崇神天皇と呼ばれた人物である。 この大王の治世は、西暦300年頃になる。 266年に壱与が朝貢をしたというのがあるので、この間は、30-40年ぐらいしかない。 そして、壱与と崇神の間に1・2代の大王がいたとすれば、この卑弥呼ー壱与ー崇神の系列は、完全に繋がったものと考えるのが、至極当然であると思う。
この崇神大王とその後数代の大王の治世は、今の山の辺の道沿いにそれらの王の大きな前方後円墳も比定され、しかも、日本書紀などの干支年代などとほぼ一致した年代観が得られているので、確定の歴史と言ってよい。
さらに、記紀で、崇神大王の叔母あるいは大叔母とされる倭トトヒモモソ姫は、その神秘性や霊力などから、卑弥呼か壱与だと考えられるが、『日本書紀』でこの姫の巨大な墓(箸墓)の造営が細かく記述しているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓造営記事を彷彿させる。
(※当然、強力だった壱与政権のあと、やはり弱小の男王が幾人かいたことが推測され、それが、いわゆる神話の世界の初代神武天皇から9代あたりまでの伝説になって残ったと考えられる。)
そういうことで、この初代崇神大王の直系の系譜は、邪馬台国すなわち奈良盆地南東部の三輪山付近でその権威を行使したが、これも数代で絶え、西暦390年頃(好太王の碑の銘文)には、直系ではなく傍系あるいは姻戚関係にある大王たち(応神・仁徳天皇系)にその権威を譲り、拠点も河内平野に移動した。
(※しかし、中国の史書は、応神仁徳や雄略までのいわゆる倭の五王の時代とその前の卑弥呼の時代とは連続性があるように書いているので、この2系統間に大きな断絶はなかったと考えられる。)
さらに、500年前後には、崇神系あるいは応神系と続いた大王も弱体化が進み、首都機能も奈良盆地や河内平野で点々とし、九州ほか国内での内乱も起こった結果、北陸方面から新しい勢力が南下し、覇権を治めることになった。 これが、のちに継体天皇と呼ばれる大王そしてその集団である。 この全く系統の異なる継体大王は、この時もうすでに300年間近く継続したそれまでの卑弥呼王朝・崇神王朝そして応神・仁徳・雄略王朝の権威そして制度・文化をうまく利用し、自らの血統もそれらの系統との関連性があると謳い、自己の権威を正当化し高めた。
そして、その子孫の敏達や欽明天皇などの時代に、体制をより整えながら、仏教を国家宗教に取り込むなどして、統治体制の強化に成功していく。 そして、この後、厩戸王子(聖徳太子)や蘇我氏の治世を経て(※寺院や王都の配置は、仏教や中国文化の影響で南北軸が重要になる。)、700年頃には、日本書紀・古事記などを刊行し、自らの政権の正統性を正史という形で公式に誇示し、律令体制を併せて完備することによって制度的にも国の統治を完全なものに仕上げていった。
ここに、初めて、公に、倭は日本となり、大王は天皇となった。
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ーーー以上。
とまあ、何とまとまりのない、だらだら感いっぱいの文章になってしまいました。 なかなか理路整然と分かりやすく時系列で、しかも的確な注釈を随時加えていくのは、大変難しいです。
本文中にも少し書きましたが、日本の記紀は当然のこととして、中国の歴史書(正史)であっても、その記述の正確さには大いに疑問が残ります。 ただ、魏志倭人伝で言えば、外国からの朝貢や使者の来た年代は、その中でも一番信用がおける箇所だと考えます。 だから、それらの年代とこれまでの科学的発掘成果を絡めて、歴史はいろいろ議論されるべきものだ、と私は考えます。 それと、中国の正史の中で、魏志倭人伝の『三国志』より古い時代に書かれたものは、『史記』と『漢書』だけで、他の『後漢書』『晋書』『隋書』などは、より新しい時代に書かれています。 そういうことを踏まえて、それらの史書に書かれている日本(倭)の事柄を見ていく必要もあるでしょう。
とにかく、まあ今後も、いろいろ編集をする可能性もあると思いますが、とりあえず、ここでアップしときます。
それと、本文中では、各集団や国のリーダーのことを王や大王と書いていますが、それらは、別の言い方で言えば、首長であり豪族であると言えます、念のため。