(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (17)

⑰ フン族とは?

 第8回で、中国北方の民族を取り上げた時、このフン族(Huns)と匈奴(Xiongnu)との関係を少し書いた。 つまり、4世紀後半にヨーロッパで暴れるこのアジア系の民族は、匈奴から分岐した北匈奴が、さらに西に流れて西洋でフン族と呼ばれる集団に変化したものであると。 

 西暦150年頃には、北匈奴が西域にいたことは知られているが、370年頃までに黒海北岸近くにまで来ていたかどうか、これが大きな謎となっている。 

 多の研究者は、フン族が中央アジアに由来するということでは異存はないが、具体的な位置についてはまとまっていない。

 

 私は、フン族の場合、ヨーロッパを荒らす以前の彼らの起源や人種民族的な特徴に最も興味があるのだが、まずその前にフン族のヨーロッパでの歴史を見ておきたい。 ただ、その歴史はそんなに詳細にあるわけでもなく、すでにこれまでの回で書いてきたことで、ほぼ出尽くしている。 

 つまり、376年に東ゴート族などに侵攻して、その一部を自軍に取り入れたりした後、西ゴートを攻めたてたので、その西ゴートの多くは、ローマ帝国内に逃げてくるなどの事件があった。 ただし、ゴート族の前にゴートより東にいたイラン系のアラン族を襲われていて、彼らもフン族の軍に引き込まれ、ゴートを攻めたようだ。 アラン族襲撃の前から換算すると、おそらく350年頃までにはカスピ海北岸から黒海の間に迫っていたのかもしれない? 

 395年頃からまた活発に東ローマ帝国に侵入し、多くの都市を破壊していった。 襲った地域は、小アジアやシリアなどもあり、ササン朝ペルシャとも戦った。 そして、410年頃まで周辺の地域への襲撃行為が繰り替えられるが、その後少し情報は途絶え、430年頃からあの有名なアッティラ王(Attila)が台頭して、ヨーロッパの民族にとって、フン族の存在はより大きな脅威となる。

 434年、アッティラとブレーダ(Bleda)の兄弟が、フン族を統治するようになる。 翌年、東ローマ帝国と交易の権利と貢物を確約させる取り決めに成功する。 しかし、ローマがこの条約を破ったため戦闘となり、フン族の攻勢が続く中443年まで続く。 ローマはフンの要求をのみ、休戦の条約をフンの二人の王に交わす。 しかし、ブレーダは445年に死に、以後、アッティラの独裁となる。

 アッチッラは、西ローマ帝国とも争っていたが、皇帝ヴァレンティニアン3世の姉のホノリア(Honoria)が、アッティラに指輪を贈り、助けを求めてきた。 そこで、アッティラは、彼女が自分の妻であり、西ローマ帝国の半分も自分のものであると主張し始めた。 同時に、サリー族のフランクとも戦闘に入った。 そうして、この後、前回も書いたガリア地方での有名なカタラウヌムの戦いとなる(451年)。 

 翌年、アッティラは、再度ホノリアとの結婚と半分の領土を主張しイタリアに侵入するが、ヴァレンティニアン皇帝の特使や時の教皇などとの折衝で、アッティラは譲歩し、イタリアから撤退と新しい条約を交わすことになった。 それを見た東ローマ皇帝が、フン族への貢物を拒んだため、アッティラは、今度は東ローマへ侵攻しようとした。 ただ、その前に、彼は絶世の美女と言われるある女性と結婚した。 がしかし、その初夜の明けた朝、アッティラはベッドで血まみれになって死んでおり、花嫁は片隅で泣いていた、と歴史にはあるようだ。(※彼にとっては、何度目かの結婚であったようだ。)

 

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アッティラ時代のフン族晩期(450年頃)の勢力図。 この時の本拠は、パンノニア(今のセルビアあたりを中心)にあった。

 アッティラの死後、息子たちがフン族を率いたが、西でのゲピッドGepidsなどのゲルマン族との戦いや東方でのチュルク系の民族と戦い、徐々に衰退していく。 そして、469年、トラキアでのローマやゴートなどとの戦いでフン族は王を失い、それ以降、ブルガール人(テュルク系)などの集団に徐々に埋没していった。 

 文化面について少し。 このフン族は、遊牧騎馬民族であり、以前は、農耕は全く行っていないという説が主流であったが、実は、穀物などの栽培は行っていたようだ。 彼らの使用した言語は、よくわかっていないが、テュルク系であったという説が強い。

 そして、彼らは、ヨーロッパの中で伝説として長く伝えられていくことになる。 キリスト教の説話の中や、既述のゲルマン・ブルグント族を主題にしたドイツ文学史上の一大叙事詩”ニーベルンゲンの歌”の中にもアッティラと見られる登場人物がいる。 また、あるゲルマンの王は、自分はフン族の末裔である、と肯定的な態度をとる者も現れたと言う。 それだけ、フン族の印象は、ローマ人やゲルマン人には大きかったのかもしれない。

 

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アッティラの肖像として有名だが、千年以上後世のものであり、この形相は、当時のヨーロッパ人がイメージする悪魔的で恐ろしい人間の顔の代表ということなのであろう。 しかし、アッティラは、純然たる東アジア系の容貌の持ち主であったとされる。

 

  さて、ここから、いよいよフン族の起源や人種的特徴について少し書いて行きたい。 まず、当時のローマ人やゲルマン人が、フン族の外見についてどう見ていたかをウィキを中心に見てみる。 

 ウィキでは、まず、ローマ人から見れば、フン族の外見は奇妙だという点で一致している。 よく使われる表現は、怪物(モンスター)である。 ある歴史家は、フンは、短躯で日焼けしていて、頭は丸く形が無い(※形が悪い)。 また、小さな目と扁平な鼻をしている、と。 そして、王アッティラについては、背が低く胸が大きく、頭も大きい。 さらに、目が小さく、ヒゲは薄く白髪が混じっている。 また、彼は、鼻も低く焼けた肌をしているなど、アッティラの出自を強く証明しているような記述になっている。

※以上は、ウィキ英文版にあった当時のローマ人などの”証言”であるが、別の私が最近読んだ本に、あるローマ人歴史家がゴート族から聞いた内容(ウィキのものと重なっている可能性も大であるが)があり、それを以下に記すと、

 ーーー彼らは、小柄でガッチリとした体格で、頑丈な手足をもち首は太い、怪物のように醜くて不格好なので、二本足の獣と思いこむかもしれない。ーーー

 この本の箇所では、他にもフン族の生活や戦闘方法なども書いてあり、生活様式では、その遊牧の形態を非常に否定的に見ているが、ただ馬の操作が巧みなので戦闘的な面での優秀さは認めているような表現であった。

 さて、ウィキに戻ると、現在の研究者の間では、上記のような表現は、典型的な東アジア人に対する当時の”西洋人”の偏見に基づく否定的表現であるとしている。 また、フン族は、アジア系ではあるが、今のヤクート族やツングース族のような容貌ではないとする。(※これまた、別の意味の偏見?) さらに、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であるとしたり、フン族は、ほとんどヨーロッパ系であり、アジア系の痕跡はほとんどない、とする意見まである。

 また、フン族のリーダーなどの上層部は、アジア系の外見が多かったが、全体的にはヨーロッパに移動してくる過程でよりヨーロッパ人化した、とする研究者があったり、451年の戦いがあった頃では、アッティラに率いられた多くの兵隊たちの外見は、ヨーロッパ起源を思わせるものであった、などとしている(アッティラ自身を除いて)。

  次に、DNA分析結果では、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であり、彼らは、匈奴の子孫で西に移動していく中でスキタイと近い関係のサカ族(Sakaイラン系)との混血によって形成された、とする研究者もいる。 また、5世紀のパンノニア(バルカン半島の中央部)のフン族の墓から採取された3体の分析では、彼らの父系の遺伝子は、現在ヨーロッパ人にはほとんどないが、現在のルーマニアに住むハンガリー系の集団SzekelysのDNAに高頻度で見られるものであるとしている。 この研究者も、彼らは、茶色い目で黒か茶の髪の毛をもつ、アジアとヨーロッパの混血であるとしている。

  これらの科学的結果は、ただし、アジア的な要素があるにしても、それが、匈奴との関係にどこまで関わるのか、そこは全く示されていない。

 

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ガリア地方を襲うフン族。 これも後世の絵画であるが、ここに見られる略奪者の容貌は、現在の東アジア人とほぼ同じように見える。

※第8回で匈奴(Xiongnu)のことを書いた時は、その匈奴のウィキ英語版にあるDNA分析結果の文章は、フン族と匈奴の関係性をかなり肯定的に書いていたが、このフン族のページのウィキでは、それほどその繋がりに肯定的ではない。 いろいろなリンクを使うことで、同じ一つの対象物でも、多くの違った表現をみることができるのが、ウィキペディアの良いところだが、こういう風に多少ニュアンスの異なる結果に出くわすことも結構ある。(筆者がそれぞれ違うというのが、大きな理由?)

※さて、このフン族の帰属や外見に関することで、私自身の今思うところを書いてみたい。 フン族が、匈奴からの集団であるかないかは、さておき、非常にアジア的な外見を有していたのは、間違いなざそうだ。 それで、370年頃までに黒海北岸あたりにいたアラン人をまず襲撃していること。 そして、アッティラ王が死ぬのが453年頃。 この期間だけでも80年を数える。 アッティラ自身は、400年頃の出生であるので、50歳前後で死んだことになる。 

 当時は、現在よりも世代間の間隔は、もっと短いだろうが、一応世代を20年間隔としても、80年で4世代が経過する。 仮に、多くの兵士や庶民が、出あったイラン系のアラン族やゲルマン系のゴート族の女性と結婚し、その子たちも、さらに現地の印欧語系の女性と子孫を持つようになると、その子孫たちの外貌の変化は、十分大きなものになると推測できる。 例えば、現在の欧米人と日本人の混血でも、日本人の血がクウォーターであれば、その容貌は、ほとんど欧米人的である、孫の代ですらそうなる。

 アッティラ自身がアジア的外貌を持っていたとするなら、アッティラの父やその父も元のフン族の女性を正室に選んだのだろう。 アッティラの父は、400年頃にアッティラをもうけているので、少なくともその前30年以上は印欧語族の女性を見てきたはずだが、自国のフン族女性を選んだのは、美的感覚なのか、それとも、先祖代々の家訓のようなものがあったせいなのだろうか? 

 アッティラは、最後の妻との初夜の晩に死んだが、その妻は絶世の美女であったという。 この”美女”という概念は、どこから来たものなのだろうか? ヨーロッパを襲った有史上(文章に残されている)の最初のアジア民族は、フン族であろう。 それは、ローマの歴史家による記述だ。 であれば、このアッティラの妻が”美女”であるのも、ローマから見た視点であり、ヨーロッパ的な美女になるはずだ。(ゲルマンからの伝聞にしても、ほぼ同じ。) だとすれば、アッティラは、すでに伝統的なフン族の女性から生まれた後継の息子(外見の記録がない)がいたので、それ以降の新たな妻(側室)たちは、どんな民族の出身でも良かったのかもしれないし、アッティラ自身、この最後の妻を美しいと思ったのであろう?

 さて、フン族の王侯や上層部は、フン族同士の婚姻を推奨していても、一般の男性(兵士など)は、移動していく途中の地域で、それぞれ印欧語系など他民族の女性と結ばれていくケースの方が多かったのは容易に推測できる。  ただ、もしそれが許されるなら、それ以前の西域から黒海北岸近くまで移動してきた200年あまりの間に、イラン系などの紅毛碧眼の民族は多くいたので、一般人はかなり混血が進んでしまった可能性もある。(DNA結果などが、それを示唆しているのかもしれないが?)

 しかし、フン族の兵士の人口が、もともとそんなに多くなかったため、戦争に負けフン族の集団としての塊が崩壊したあとすぐに、周辺の大きな民族の中に埋没して、外見的には、その周辺とほとんど同じになり、遺伝的にも文化的にもその影響をほとんど残すことが出来なかったのかもしれない?

 しかし、現在のトルコ人(テュルク系)やハンガリー人(マジャール人)やフィンランド人(フィン人)なども、その外見は、もとのアジア系とはかけ離れてしまったが、彼らは、言語などの文化的な要素を強く残してきた。 であるとすれば、フン族の場合、もう一つの問題は、単一の集団としてある地点(バルカン半島が中心)に留まった期間が短すぎて、文化的な要素を残す時間がなかったのかもしれない?

 もう一つ考えられるのは、これらのアジア系民族の集団が、ヨーロッパに侵入する際に、そのやり方が残虐なものであったのか、または友好的とまでは言わなくても比較的大きな軋轢がなくて入ってきたのか、の違いもあるのかもしれない? (トルコ人の場合、その西方への移動に際し、小アジアの東部地方までは、ほとんど同じイスラム教徒の民族が多かったので、そのへんの軋轢がどのようなものだったか、わかりにくい面もあるが?)

 私が、これまで大雑把に思っていたことでは、このフン族と後のモンゴル帝国のヨーロッパでの行動は、非常に残虐であったという話をどこかで聞いたような印象がある。 モンゴルも、東ヨーロッパに来たと思うが、その一部の集団でも、その後どこかに存続・定住してきた者たちがいただろうか? そういう侵攻時の残虐性も、その集団のその後を運命づけたかもしれない? 

 とはいうものの、現在は、一般にスラブ系と言われるバルカン半島からロシアまでの民族は、その丸顔の特徴からして、薄いものであってもかなり全般的にアジアの要素が入り込んでいるという証拠があるのかもしれない。 このフン族のあと約100年後には、アヴァール人というこれも元アジア系の民族が侵攻してきた。 彼らも、フン族同様、周囲の民族に割と短期間で壊滅させられたが、スラブ系の中に混入していったものと思われる。

 まあ、以上のようなことは、雑多に書き並べただけで、全く見当外れなことなのかもしれない。 とにかく、今後よりDNAのサンプル数などが増え、科学的な証拠が多くでて、こういう人種的な分散の課題が解明されていくのを期待する。 

 最後に、今のトルコ共和国で、かつて発行された切手を紹介したい。(私が読んだ本にあり、ネット上にも出ていたもの。) これは、アッティラ王だが、ここでも、今の彼ら同様、西洋化した顔をもった肖像になっている。 しかし、こういうことからみても、トルコ人が、フン族を誇りに思っていることは、間違いないようだ!

 

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トルコ共和国の切手にあるアッティラ。 ネット上の画像より。 

 

 

   

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (16)

⑯ ゴート族

  さて、ゴート族(Goths、形容詞はゴシックGothic)は、ヴァンダル人やGepids(ゲピッド?)と同じく東ゲルマン語群を話す民族だった。 しかし、いわゆるゲルマニアの域外に早い段階で出たので、古代ローマ人からは、スキタイか他の部族かと思われていた。 

 このゴート(Goths)という名の由来は、不明だが、ゲルマン祖語のgeuta-という語幹から出たものらしく、それは”to pour注ぐ"を意味する。 それで、水域に住む民族だったのでは、などの説があるがよくわかっていない。

 最初に、古代ローマ人に記されたのは、3世紀である。 しかし、それ以前についても、いくつかの証拠から、彼らが、ヴィスツラ川(ポーランド中央部を下降し、バルト海に注ぐ大河)近辺の起源で、さらにはスカンジナビア(Gotlandなど)に繋がるものと思われる。 ただし、ゴートの言葉とスカンジナビアの言語の差異が大きいことから、これを否定する研究者もいる。 

 ある研究者によれば、ゴートは、Berig(ベリグ?)という王の下、スカンジナビアから海を越えて、ポーランド北部に到着したとある。 そこでは、他のゲルマン諸族(Rugiiなど)とともにWielbark文化を形成したようだ。 このWielbark文化は、1世紀頃出現し、それまでのOksybie文化と置き換わったようだ。 それは、土葬の方法、墓室に武器がないこと、ストーンサークルの存在などの点において、全く異なった文化となった。 これは、その先の時代の北欧青銅器時代文化やルサティアン文化(Lusatian vulture)にも見られた習慣であった。 (※ Lusatian cultureは、ポーランドあたりを中心にした文化で、北欧青銅器時代文化に類似し、またケルトの影響もあると言われる。)

 その後、ゴート族は、Rugii部族の土地を奪ったとされ、それは、考古学的にも、このWielbark文化がヴィスツラ川の左岸(西側)沿いに南下したものと一致する。 そこには、ストーンサークルと土葬埋葬の高頻度に認められた。 紀元後になって、ローマの歴史家たちが、ゴートとヴァンダルの戦いなどを記している。

 2世紀の中頃以降、Wielbark文化集団は、南東へ移動し黒海周辺に至る。 その過程では、Przeworsk culture(ヴァンダル人との関連がある)集団を排除したり、一部取り入れたりしたと考えられる。 この移動は、恐らく人口増加により、他のゲルマン民族も含めた全体的な動きの一つであったが、その結果、他の部族は、ローマ帝国領内に押しやられ、マルコマン戦争(Marcommanic war)の引き金となった。 200年までには、Wielbark ゴートは、ローマから傭兵として雇われたようだ。

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ゴートに関係する文化集団の移動と拡大.。緑色Gotaland, ピンク色Gotland島、赤色Wielbark 文化、橙色Chemyakhov文化、青色ローマ帝国領。

 ゴートは、スキタイ国の西側に入り、Spaliという集団を打ちのめした。 Spaliとは、スラブ語で巨人という意味であり、この集団は、スラブではないらしい。 3世紀の初めには、スキタイ国西部は、スラブ系文化集団とサルマタイ(イラン系)に占領されたとある。 3世紀の中頃までに、Wielbark文化は、スキタイ国でChemyakhov cultureを育み、この際立った単一の文化は、西はドナウ川から東はドン川まで拡がった。 この文化の中心となったのは、ゴートやHeruliと言われるゲルマン系集団であるが、イラン系やダキア系、ローマ人、そして恐らくスラブ系も含んでいた。

 黒海北岸草原では、ゴートは、遊牧民のサルマタイからいろいろな習慣を習った。 乗馬や弓矢、鷹狩りなど、また農業や漁業も取り入れた。 240年頃からローマ軍に雇われ、ローマとペルシャの戦いに参加した。 しかし、同時にゴートは、ローマ帝国内で暴動を起こしており、250年には、ローマ王を殺害するなど、大きな損害を与えた。

 253年には、ゴートは、黒海沿岸地域の海戦も始めた。

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黒海沿岸での戦い

 10年後には、ゴート族とHeruli族は、ビザンチウム(今のイスタンブール)などの都市を蹂躙した。 その後、ローマ軍に敗れたが、そこからギリシャに侵入した。  しかし、ギリシャの軍に押し返され撤退した。 しかし、その後も他のゲルマン民族とともに、ギリシャや小アジアに攻撃をかけたが、275年の攻撃、そしてその翌年の敗戦を最後に小アジア地方に関与しなくなった。

 3世紀の後期までに、ゴート族は、ドニエステル川を境に2つのグループに分裂した、ThervingiとGreuthungi である。 その3世紀後半、Gepids(他のゲルマン)は、ブルグント族を破り、Ostrogotha王率いるゴート族と戦った。 3世紀の最後の10年に、Capri族は、ダキア地方からローマ帝国内に逃げてきた。 おそらく、ゴート族による侵入だと思われる。

 ローマ帝国との共存

 332年、ローマのコンスタンチン皇帝は、ドナウ川北岸地域の防御をサルマタイ人に依頼し国境を強化して、ゴートの侵入を阻止した。 10万人のゴート人が、この戦いで死に、Thervingiの王Ariaricの息子Aoricが捕らえられた。 334年、皇帝コンスタンチンは、サルマタイ人奴隷の反乱があったので、ドナウ川北岸からサルマタイを除いた。 そして、その翌年もゴート族を負かした。 ローマ帝国にドナウ川から排除されたゴートは、しかし、サルマタイの撤退した地域に侵入し、この時のゴートの王・Geberic(Aoricから代わっている、息子ではない?)は、その後ヴァンダル人との戦いをして、彼らをローマ領内へ押しやった。

 4世紀の間に、Thervingi もGreuthungiも、かなりローマ化していった。 これは、ゴート族とローマとの交易によるもののと、おもにビザンチウムでのローマ軍への編入という面による。 4万人ものゴート兵が、コンスタンチン帝のいるコンスタンティノープル(330年にビザンチウムから改名)を守るために派遣された。 このころは、ローマ人の軍はもうあまり強力ではなく、ローマ軍はほとんどゲルマン民族で成り立っていた。 ゲルマンの兵士がいなければ、ローマ帝国はもっと早く滅亡していただろう。

 Gebericの次の王、Ermanacは、周辺の民族を打ち負かし、スキタイとゲルマンの領土全てを一人の力で獲得した。 それ故、彼は、アレクサンドロス大王に比較された。 その領域は、草原地域全域に拡がり、北はバルト海、南は黒海、東はウラル山脈にまでいたった。 その征服には、Greuthungiは、もちろん、スラブやフィン人、アラン人、フン族、サルマタイ人そして恐らくバルト人などの諸民族も含んでいた。

 Chernyakhov文化の影響は、その考古学的範囲よりもさらに北に拡がっていたと考えられ、ゴートを中心としたその文化が、森林ステップ地帯(草原地帯の北に長く横たわるエリア)にもあったと思われる。 ただし、歴史家の中には、Ermanacの業績は、過大に評価されすぎているという意見もある。

 360年、Aoricの息子Athanaricが、Thervingiのリーダーになり、東ローマ皇帝のVelansに対抗するプロコピウスを支持した。 それで、皇帝Velansは、Athanaricを攻め、これを打ち負かしたが、決定的に破ったわけではなかった。 その後の和平協定ではうまく行かず、ゴート内のAthanaricのライバルでありキリスト教アリウス派に改宗したFritigernが、Velansの味方になったので、Athanaric と Frirtigern の内部衝突となった。 結果は、Athanaricの勝利に終わり、彼は、領土内にいたキリスト教徒の迫害を行った。

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Athanaric と Valens の船上会談。 19世紀の絵。

 フン族の来襲

 375年、ゴートの東にいたイラン系のアラン人に、フン族が急襲した。 そして、スキタイ(この場合は地域名)地方にあったゴート王国にも侵攻してきた。 Ermanaric王の自決もあり、Greuthingiは、徐々にフン族の影響下になった。 さらに、フンは、Thervingiへも攻撃を始め、王Athanaricは、山間部への逃亡を余儀なくされた。 フン族は、このゴートとの戦いを優位に進めたが、既述のFritigernが東ローマ皇帝Velansの許しを得て、ドナゥ川の南岸への定住を始める。 そこで、ゴート族は、武器を捨てるよう指示されていたが、多くの兵士は武器を手放さなかった。

 ゴート戦争(Gothic war、376年-382年)

 帝国内の腐敗した役人のせいで、流入してきたゴート族は、すぐに飢饉に陥った。 ある者は、腐った犬肉を得るため、ローマの奴隷商人に子供を売らなければならなかった、という。 この裏切りに怒ったFritigernは、反乱を起こした。 それは、ゴートの避難民や奴隷のみならず、ローマの労働者や農夫を含んだ大掛かりなものであった。 このゴート族と東ローマ帝国の戦いが、ゴート戦争であり数年に及んだ。 そして、Greuthingi集団もローマの許可なくドナウ川を越え戦闘に参加した。 ゴートは、378年のアドリアノープルの戦いで勝利し、皇帝Valensは殺された。

 アドリアノープルで勝利したゴートであったが、ローマ帝国は、小アジアやシリアにいたゴート族を虐殺した。 379年、テオドシウス1世の元、ローマは、新たに軍勢を立て直し、Fritigernやその取り巻きを攻撃した。 同じ頃、Athanaricが帰還し、テオドシウス皇帝に歓待を受けたので、Athanaricも帝国を褒め上げた。 それゆえ、Athanaricは翌年死ぬが、帝国により盛大な葬儀が営まれた。 382年、テオドシウス帝は、Thervingiのグループとの和平協定を結ぶことを決め、以後、ゴートは、テラス地方(現在のブルガリアやトルコの北部地域)でローマの同盟国になり、兵隊を供出することになった。

 フン族の来襲の後、ゴート族の中で、2つの主要なグループができる。 Visigoths とOstrogothsである。 Visiは、良いとか高貴を意味するらしく、彼ら西ゴート族は、ローマ帝国領内に住み、Thervingiの系統であるとするBalti dynasty(バルティ王朝)が率い、一方、Osrtogothsとは、日の出のゴートあるいは東のゴートを意味し、フン族に従属したGreuthingiの系統でAmali dynasty(アマリ王朝)に率いられていた。

 ローマ帝国の歴史家は、当時の地理的関係から、Visigothsを西ゴート、Ostrogothsを東ゴートと訳した。 ゴートと関係の深かったGepidsなどの他の民族も、フン族の支配下にあった。 ゴートの小さな集団は、クリミア半島に生き延び、中世まで存続した。

※教科書などでは、フン族の侵入以前から東西ゴートがあったように書かれているが、これによると、その時点では、東西も分離はまだ始まっていないように聞こえる?

 なお、このostro-とvisi-は、現在のドイツ語でも、東はost、西はwest(ドイツ語のwはvの発音)であるので、非常によく似ていると言える。

 西ゴート族:

 西ゴート族(Visigoths)は、382年以降テオドシウス帝からバルカン半島での定住を許可され、最初のリーダーAlaricの元、ローマでの地位を固めた。 しかし、その後もローマとは、離反融合を繰り返していたようだ。 ゴートは、394年ローマの内戦でテオドシウス側に援軍したが、大きな被害を受けた。 395年、テオドシウスの死後、バルカンのゴートは、ギリシャに侵攻した。

 401年以降、Alaricは、イタリアに攻め込んだ。 西ローマ皇帝のホノリウスは、ゴートに対して虐待を加えたので、Alaricは、ローマを攻め、北アフリカへの移住の許可を願い出た。 Alaricの後継者Athualfは、Alaricのローマ占拠の際に囚われていたホノリウス皇帝の妹(か姉sisterとだけある)Galla Placidiaを妻とした。 Athualfは、西ゴート族を南ガリアに定住させようとしたが、ローマの許可が得られず、415年イベリア半島に向かった。 しかし、直後バルセロナで暗殺された。 その後の後継者により、西ゴート族は、イベリア半島に渡り、そこで451年、テオドリック1世(Theodoric)王の下、ローマ帝国とともにフン族のアッティラ王と戦った。

 ※これは、フランス北部・カタラウヌムの戦いで、歴史上重要な戦いである。 はっきりとした勝敗はついてないらしいが、両軍とも大きな損害を被った。 この時、テオドリックは戦死し、アッティラもこの後すぐ死に、70年以上に渡ってヨーロッパを震撼させてきたフン族は、以後急激に衰退していった。 

 このカタラウヌムの戦い以降、西ゴート族は、イベリア半島で王国を確立した。 ただし、ここでも、ゴート人は、ヒスパニック・ローマ人の中で少数派であった(6百万人の内、2百万人程度)。 507年、フランク王国のクロヴィスによって、ガリア地方のほとんどから撤退させられた。 しかし、東ゴートの援軍などにより、一部の南ガリア地域は維持できた。 この後、西ゴートは、イベリア半島のさらに深部に至るようになり、そこで、スエビ人やアラン人などへの攻撃をかけ滅ぼす。 この西ゴート王国は、以後、8世紀前半まで存続した。

 東ゴート族:

フン族の侵入の後、多くのゴートは、その従属化になったが、他方一部は、ローマ軍に参加した。 しかし、399年、ゴート族は、ローマ軍内で反乱をおこした。 これは、西方でのAlaricの活躍に呼応しての行動であった。 しかし、結果として、ゴートは破れ多くが殺された。 後に、小アジアへの定住が許可された。

 東ゴートは、既述の451年の戦いでフン族と共に、ローマ帝国と戦った。(※つまり東西ゴートは敵同士になった。) その直後、フン族の王アッティラは死亡し、東ゴートはValamir王の下、フン族の支配から逃れる。 その後継者Theodemirは、フン族を完全に粉砕した(468年)。 469年には、ローマ軍と他のゲルマン族の同盟軍を破り、ドナウ川上流地域パンノニアを収めた。 

 493年までに、Theodemirの息子Theodoricは、イタリアに侵入し、そこで東ゴート王国を立てた。 ここでは、ゴートは少数派であったが、ゴートとローマ人の結婚は許されなかった。 また、ローマ人は、武器の所持も許されなかったが、一般に待遇は公平なものであった、と。

 このTheodoric the Greatは、6世紀の始めの一時期、西ゴート王国を含めた全ゴート族のリーダーとなった。 西ゴート王国のAlaric2世が、既述のフランク王国との507年の戦争で死んだためである。 しかし、この東ゴート王国も6世紀中頃には、ビザンチン帝国や他のゲルマン、ロンバルト族などによって滅ぼされた。

 クリミア・ゴート族:

 クリミアや黒海沿岸に残ったゴート集団は、その地で、5-6世紀頃、ヨーロッパを荒らした後、東に戻ろうとするフン族を排除しなければならなかった。 また、西ゴートのテオドリックのフン族との戦い(カタラウヌムの戦い?)に参加せよとの要請には応じなかった。 

 彼らは、東方正教教会に属し、ビザンチン帝国内で地位を築く。 その後、東方の国などとの確執が続くが、15世紀後半には、オスマン・トルコの支配下になる。 ただ、このクリミア・ゴート語の話者が、18世紀まで少数ながら存続したと言う。

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523年、東のテオドリック大王の時代、ゴート族の最大勢力範囲

  さて、英文にはいつも書いてあるゴート人の外見についてだが、彼らは、背が高くスポーティで、lightスキン、ブロンド・ブルーアイを持つと多数表現されている。 こういう外見は、時には、ローマ人の嘲笑の的となった。(※日本人にもある僻み根性のようなものか?) あるローマの歴史家は、彼らは、ヴァンダル人やGepidsとよく似ており、同じ起源であるとした。 彼らは、白い肌・淡い毛色そして背が高くハンサムである、とも。

 他、文化的なことは省略するが、ゴートの経済について一言。 西ゴート人は、主に農業で生活していた。(東ゴートは、そうではなかったようだ。) 小麦・大麦・ライ麦を栽培し、豚・鶏・ヤギを飼っていた。 馬とロバは、労働に使われ干し草を食べさせた。 羊は、羊毛のため飼われその衣服も作られた。 彼らは、土器や鉄工の技術に優れていた。 ローマとの平和協定後は、ローマからワインやオリーブ油などを輸入した。 

 また、西ゴートでは、税金やその概念もなかった。 5世紀始めのあるキリスト教徒は、ガリア地方のローマの貧者に比べ、西ゴートの貧者に対する対応がずっと優れていることを記している。(ゴート王国内に住む貧しいローマ人は、ローマへの帰還を拒んだ、という逸話がある。)

 

 ※詳細には書けてないが、ざっと見ただけでも、ローマ帝国とゲルマン族そしてフン族などの関係も非常に複雑であったようだ。 互いの国の存続あるいは自己の地位の保身のため、権謀術数と言うか様々な工作・探り合いなどが行われて、それによる様々な具体的な行動(政略結婚や大量虐殺などなど)があったようだ。 いずれの時代も人間のすることは、あまり大差無いということなのか?

 あ、それと、一番最初にゴートの英語の形容詞は、Gothicであると書いたが、この言葉を聞くと、のちのヨーロッパの高い塔を基調とした荘厳な建築様式を思い浮かべる人もいると思うが、実は、このゴート族から由来しているらしい。 この建築が北欧で始まった時、当時のイタリア人が(まだその分野の先進国であったのかもしれないが)、否定的な意味を込めて、この建築物をゴートのようだ、と表現したからであると。

※以上、ゴート族の歴史の後半部分は、ほとんど端折ってしまったが、それでもかなり長くなってしまったので、フン族の歴史は、次回に回すことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (15)

⑮ ゲルマン諸民族の動き

 今回は、ゲルマン人の中の各部族の由来やその移動の経緯などを書いてみたいが、少し前の匈奴などのアジアの遊牧騎馬民族と同じで、このあたりの時代になると各民族(部族・集団)に関するウィキの情報量も相当多いので(ただし、部族によっては、やはり日本語版にはあまり情報の無いのもある)、今回はそれらを私なりにまとめて書くことになる。

 ではまず、ゲルマン人の集団・部族の中から、フランク人(Franks)を取り上げたい。(※このフランク人に関しては、日本語ウィキが充実している。) 

 フランク人の中の各部族に関して、ローマ帝国の記録があるのは、一番早いので289年である。 それ以前はっきとしないが、遅くとも5世紀には、各部族は、共通の髪型をしていた。 王族は、髪を伸ばし続け、戦士は後頭部を剃ったという。

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3世紀のフランク人の各部族の位置(緑色文字)、サリー族は最西端に。黒字はフランク人以外のゲルマン各部族。オレンジ色はローマ帝国。(すべてフランス語表記)

 ローマ帝国とは、最初の頃は、争いや融和を繰り返していたが、358年に主な部族であるサリー族(Salians)は、ローマ帝国から南方への移住を認められ、国境管理の役を任された。 それ以降、ローマ軍に組み込まれ、徐々に地位を高める。 377年以降、コンスル(執政官)という高い地位にまで登る者も現れた。 この時期には、”フランクの王”と称する者も何人か現れた。 しかし、フランク人の他の部族によるローマ帝国との諍いの中、サリー族の帝国内での栄達もこの時期(4世紀後半)だけに終わった。

 その後、西ローマ帝国の崩壊があり、フランク人によるフランク国が、フランク人の王によって確立するのだが、その王族の記録は、数代分しかなく、その出自にあまり信憑性はない。(※つまり、それ以前の王朝の近親や末裔というわけではない?) 

 すなわち、もっと先に、別の系統と思われる王やそれに準じた地位についた者たちがいたが、その後、クロディオという者の家系から、メロヴィック、その子キルデリク1世、そして、孫のクロヴィス1世が、フランク王国(メロヴィング朝)を立てた(481年)とある。 このサリー部族によって立てられたフランク王国は、5世紀末までには他のフランク部族を統一し領土を広げ、またキリスト教に改宗した。

 フランク人は、所謂ゲルマン民族の大移動に中でも、その移動はかなり小さくライン川を越えた程度であったが、それ自体、この集団・民族が強固であったことを示すという説もある。 

 メロヴィング朝の後、751年にピピン3世が、カロリング朝を起こし、その息子カール1世(大帝)は、西ヨーロッパ全域を制覇し、800年には、ローマ皇帝の地位を時の教皇から得た。 このフランク王国では、ガロ・ローマ人(Gallo-Romans)やゴート族、ブルグント族など多くの民族を抱えていたが、それぞれ自分達の言語や習俗を維持していたという。

 拡大した王国内の西方のガリア地方(フランク人の前はローマ帝国、その前はケルト人がいた土地)では、ラテン語が変化した俗ラテン語が広く話されており、カール1世は、これを是正すべくラテン語の変革を行うが、それは、ラテン語とこの俗ラテン語の明確な分離を促進したが、ガリア地方の人々(ガロ・ローマ人やフランク人たち)は、この俗ラテン語を使い続け(地域化し)、それはロマンス語群と呼ばれる言語の一つ(フランス語)になっていく。 

 一方、フランク王国の東の方では、ゲルマン語系の言語がより保たれ、後の東フランク王国内では、主にこの系統の言語が存在することになった。(後のドイツ語など) また、この東西のフランク王国では、互いに自分の方が正統であるような主張を繰り返していたという、よくある話も見られたようだ。

 少し時代を遡るが、600-700年頃までのフランク王国では、古フランク語(西ゲルマン語群)が話されていた。 この頃、ゲルマン語に第二次子音推移(p音→ph音やf音に、あるいはt音→tsS音やs 音に変化するなど)が起きた。 この子音推移のあと、西ゲルマン語群は複数の言語に分岐した。 

 主なものとして、子音推移の影響を受けなかったものは、この古フランク語や今のオランダ語など低地ドイツ語(北部)の系統であり、影響を受けたのは、のちに現在の標準ドイツ語になる高地ドイツ語(南部)などの系統である。 当然、現在のオランダ語には多くの語彙が、この古フランク語由来のものがあるが、フランス語においても、かなりの単語が借用されているようだ。(東西南北を意味する言葉など)

 ここで、もう一度、極く簡単に現代のフランス地域(ガリア地方)の言語の形成経緯を書いてみる。 (※私にとって、フランス語は、発音上、他のロマンス語よりかなり変化が大いと思っているので、その整理も兼ね。)

 まず、紀元前にはケルト人のケルト語があった。 ここに、紀元前後、ローマ帝国の兵士などが派遣されラテン語が入ってくる。 その後(3世紀後半?)、このフランク人が来て、その西ゲルマン語群の言葉が中心になる。 しかし、キリスト教の信仰とともにラテン語の影響はより強くなるが(700年以降?)、同時に地域化方言化し、俗ラテン語という口語の言葉が、この地の主要な言語に置き換わっていく。 

 その後、この俗ラテン語は、この地ではガロ・ロマンス語と呼ばれ、その中の一つが、古フランス語であった。 この古フランス語が、14世紀にはオイル語と呼ばれ(フランス南部地方のイベリア・ロマンス語系のオック語との対比)、そこから、このオイル語のパリ周辺の方言が、中世フランス語になっていく(17世紀初頭まで)。 そして、統一化規則化を経て現代フランス語となった、という感じである。 

※他のロマンス語(イタリア語やスペイン語など)に比べ、フランス語には日本人には難しい母音が多くあると感じているが、それは、このようなケルト語やゲルマン語(フランク語やその後のノルマン人による北欧語なども)から多くの単語の流入があったからではないか、と推察する。  

 次に、ブルグント人(Burgundians)について簡潔に書く。 ブルグント人も、原初はスカンジナビアにいたと思われるが、歴史上にあらわれるのは、今のホーランドあたりにいた時である。  それから3世紀末には、ライン川の右岸(つまり東側)にいたようである。(であれば、フランク人と隣接している?) 278年には、ヴァンダル族とともに、ローマ帝国に打ち負かされたとある。 彼らは、ライン川の東方に移動してきたアレマニ人(Alemanni、別名スエビ人Suevi)と共に、ローマと戦ったともある。

 一方、369年、ローマ皇帝は、アレマニ人との戦いにため、ブルグント人に助けを求めたとある。(※このあたりは、フランク人同様、帝国との付いたり離れたりの関係があった模様。) 次に、ブルグントの名前が出てくるのは、この約40年後。 406年にローマが、西ゴート人(Visigoths)との戦いに退却してからである。 多くの他のゲルマン部族が、先にこのブルグント人がいた土地に大挙押し寄せてきた。 主なものは、アラン人(Alans、※アラン人は、正確にはゲルマンでない)やヴァンダル人(Vandals)そしてスエビ人(SuebiまたはSuevi)である。

 それで、ブルグント人は、更に西方に移り、帝国内で定住したものもあれば、一部は東に戻り、フン族の軍に合流した者もあるようだ。 411年、ブルグントの王(Gundahar)は、ライン川左岸(ローマ帝国内)でアラン人の王と共に国を立てた。 休戦の後、帝国は、王にその土地所有を認めた(現在のWormsヴォルムス辺り)。 にもかかわらず、この王は、帝国に抵抗したりして、437年帝国が呼び寄せたフン族に打ちのめされ戦闘で死ぬ。

 このフン族との戦いで死んだGundahar王、そして、ヴォルムスの王国の滅亡は、後に叙事詩”ニーベルンゲンの歌”(Nibelungenlied)の題材になった。(※このニーベルンゲンの歌は、ドイツ語圏の人間なら誰もが知る一大英雄叙事詩である。 価値としては、日本で言うなら、日本書紀かあるいは源氏物語に相当するのか? 私も学生の時、ドイツ文学の授業で少し勉強したが、題名以外はほぼ忘れていた。 このブルグント人との関係とは驚いた。 この英雄叙事詩についても、もう一度またじっくり見てみたい。)

 その後、経過は不明だが、443年、Gundaharの息子と思われる者が王になり、今のリヨン近辺のフランス南東部に建国を許される。 西ローマ帝国崩壊(476年)後、この周辺を抑えたフランク人と当初仲良くやっていたブルグント王国であったが、534年、そのフランクの王・クロヴィスによって滅ぼされる。

 ブルグント語は、東ゲルマン語群であったと思われるが、あまり資料はない。 6世紀末までに消失した。 彼らの宗教は、先には、ゲルマンの多神教であったが、のちにアリウス派キリスト教に改宗したとある。 ガロ・ローマ人の詩人が、彼らの身体的特徴として、長髪で素晴らしい体格である、と書いている。 なお、このブルグントという名は、今もフランスのブルゴーニュ地方という名(当然フランス語式スペルなので、多少変わってくる)で残っている。

 

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460年頃(西ローマ帝国崩壊直前)の西ヨーロッパの勢力図。 赤は西ローマ帝国(イタリアとフランスあたりのみ)、黄色がフランク王国、濃青がブルグント王国、水色がアルマン王国など。

 次は、スエビ人(Suebi またはSuevi)を極く簡潔に。 これももとは、バルト海に面した地域にいたが、移動し最終的にはイベリア半島まで行き着く。 単一のグループではなさそうだが、ゲルマン語を話す集団であるのは確かなようだ。(日本語ウィキでは、ケルトであったかなどの懐疑的な表現がある。)

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スエビ人の移動経路

 彼らは、同じようにイベリア半島に移動してきた西ゴート人に征服される。

  このスエビで思うのは、他とは少し語感の違うこの名であるが、この名は、ゲルマン祖語(あるいはもっと前の印欧語か)に共通の意味があるらしく”one's own-'などのような意味あいらしい。 つまり、”自分たちの(土地や民)”などと表現したのか。 ちなみに、スウェーデンの”swe”(スウェーデン語ではsve)も同じ語源らしい。 また、ドイツ南部には、スワビア地方(Swabia)というのがあるが、これもスエビ人から由来している。

 次は、アレマン人(Alemanni)。 彼らは、既述のように元はスエビと同族だが、そのまま今のドイツ南部に留まった部族である。 このアレマンやスエビなどは、ゲルマン民族大移動に関する日本の教科書などでは、あまり馴染みのない民族だが(私だけか?)、このアレマンの民族名は、後にフランス人がドイツ人をこの名前で呼ぶということを考えても、欧州では重要な存在なのかもしれない。

 彼らは、200年頃には、ライン川上流にいたが、次第に南下していった。 しかし、その距離は、他のゲルマン人に比べ大きくはない。 彼らも、496年、フランク王国のクロヴィスによって征服され、以後その傘下の国となる。

 

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アレマン人の移動、3-6世紀

 

 ロンバルト人(Lombards) 。 この民族も、のちにイタリアに定着することになり、ロンバルディア平野などの地名を残した。  ロンバルト人も、北欧・北ドイツあたりにいたが、5世紀末までにドナウ川北岸にまで移動、そこでGepidsなどの別のゲルマン部族と戦闘しそれに勝利(550年頃)、さらに南下し、西ローマ帝国崩壊後のイタリアを支配した。 この時、北イタリアは、東ローマ帝国と東ゴート族との戦争後で疲弊しており、ロンバルト人のこの地への入場はスムースなものだったようだ。 彼らは、ここに王国を建てる。(570年頃)

 しかし、774年にフランク王国のシャルルマーニュによって征服され、その傘下にくだる。 しかし、南イタリアでは、11世紀頃までロンバルトの貴族たちが支配していたようだ。 

 他のゲルマン部族の言語との識別は難しいものがあるが、エルベ川流域のゲルマン語であるロンバルト語の語彙は、イタリア語の中にかなり入り込んでいるらしい。 また、ロンバルト人の骨格は、同時期のスカンジナビア人のものとそっくりであるようだ。

   今回のゲルマン部族の最後は、ヴァンダル人(Vandals)。 英語のvandalism という単語は、破壊行為や乱暴を意味し、結構新聞などでも目にするが、この言葉は、このヴァンダル人由来である。 このことから、ゲルマン民族に対する時の支配者(ローマ人)の印象は、このような否定的な意味合いを持っていたものが多い。 まあ、当然と言えるかもしれないが。

 彼らは、当初わかっている時点では、今のポーランド南部にいたが、ガリア地方を経由して、イベリア半島にまで移動した。  

 ヴァンダル人が、ローマ帝国に知られるようになったのは2世紀で、ヴァンダルのいくつかの部族が、ローマとのマクロマニの戦い(168-180年)でローマに多大な損害を与え、イタリアに侵入した時である。 彼らは、その戦争中、さらに南下し(南東)、ドナウ川近くのダキア(当時はローマの同盟国)の地域まで侵攻した。

 270年頃には、ヴァンダル人は、ドナウ川の東岸でローマと共存していたが、278年の戦いでは、ローマに破れ、多くがイギリスに連れていかれたとある。 その後、ゲルマン人同士の争いがいろいろあったが、ヴァンダル人は、4世紀の末頃まで、ドナウ川右岸にいた。 401年に、彼らはローマ領内で反乱を起こしたが、それはドナウ川中流域で彼らが勢力を持っていた証拠である。 406年に、ヴァンダル人はさらに西に向かい、ライン川までは抵抗なく進んだが、そこでフランク人に進行を阻まれる。 2万人もの死者を出したが、ヴァンダル人は、アラン人の協力もあって、フランク人に勝利しガリア地方に侵入する。

 409年、ヴァンダル人は、ピレネーを越えイベリア半島に入る。 そこで、西ローマ帝国から土地を得る。 しかし、イベリア半島には、先にスエビ人がいた。 そして、同じく先住の西ゴート族は、417年ヴァンダル人そして418年にアラン人を襲った。 この時、アラン人の王が殺され、以降、ヴァンダルの王が、アランの王を兼ねた。

 その後、ヴァンダルは、ローマとスエビや西ゴートの連合軍隊と戦いを続けながら、425年までには、北アフリカのカルタゴあたりまで勢力を伸ばし、西地中海もその活動に利用した。 429年には、完全にイベリア半島から離れた。 

 この時の王は、ゲンセリック(Genseric)という王であるが、実は、彼はローマの奴隷の女から生まれたとして、本来は王位継承の権利はなかったが、多くの歴史家は、このゲンセリック王(ヴァンダルとアランの王)が、ゲルマン民族の大移動(それによる西ローマ帝国の崩壊)の時期における 最も優秀な王であった、としている。

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ヴァンダル人の移動

 429年、ゲンセリックに率いられたヴァンダル・アラン集団は、アフリカに入った。 この時の人数は、総勢8万人ぐらいで、うち兵士の数は1万5千から2万人と言われる。 彼らは、東進の途中でアフリカの軍隊や西ローマ帝国から派遣された軍隊などと戦ったのち、439年にはカルタゴを支配し、そこをヴァンダル王国の首都とした。 その後もシチリア島やサルジニア島も占領した。 

 ゲンセリックは、477年に88歳で死去。 その後、国力は衰え、534年にビザンチン帝国(東ローマ帝国)によって、ヴァンダル王国は滅亡。 残ったヴァンダル人の多くは、今のアルジェリアにいたベルベル人の中に混入したり、東西ゴート王国に入る者がいた。 ヴァンダルの女たちの中には、ビザンチン帝国の兵士と結ばれ、北アフリカに定住した者もいた。

 6世紀のビザンチン帝国の歴史家は、ヴァンダル人は、lightな髪の毛で背が高かったと評した。 また、彼らは、白い体でfairな髪を持ち、背が高くハンサムだったともある。

  以上、この他にも、ゲルマン民族には、私たちがよく聞くここに書いた部族以外にも沢山の部族・集団があることを今回知ったのだが、ここには書いていない。(大きな集団ではなかったと思うが。) 

 ただし、次回は、もう一つ残っていた重要な部族で、いわゆる”ゲルマン民族の大移動”とその後のローマ帝国の混乱を引き起こした中心的部族・ゴート族について見てみたい。 そして、そのゴートの移動の原因となったアジア系のフン族の動きについても知りたい。

筒美京平さん、本当にありがとうございました。 ”また逢う日まで”!

 その死から、ちょっと時間が経過しましたが、おとといの土曜日に、NHKスペシャルでも筒美さんの偉大さを伝えてましたので、私も、少しだけ昔私が思っていたことを、感謝の意味を込めて書いてみます。

 さて、私たちが、小学生や中学生の頃は、レコード大賞が絶大な人気と権威を持っている時代でして(他の音楽賞がまだほとんど無い頃)、この私も姉たちと一緒に、大晦日はワクワクしながら、誰が取るのかテレビに見入っていたものです。 

 それで、大賞や新人賞などの各賞を獲得する歌手は、まあいろいろ出てきますが、この時同時に紹介される作詞家・作曲家では、この頃の私の印象では、同じ人の名がよく呼ばれるなー、というものでした。 そして、その中でも、この筒美京平さんは、まさに一番頻繁に呼ばれた人だったのでは、という印象がずっとありました。

 それから時代は流れて、その後、私は彼の名をほとんど聞くことがありませんでした。 しかし、今は、ウィキなどで過去のヒット曲が簡単に調べられる時代ですね。 そして、この度、そのヒット曲の数の多さに、改めて驚嘆したところです。 そのNHKの番組でも言ってましたが、彼はヒット曲を出すことに執着したが、彼自身は黒子に徹していた、ということなので、私のように数多くのヒット曲を口ずさみながらも、彼自身の名をあまり聞いてこなかった、と感じた人も大変多かったのではないでしょうか?

 さて、私が、好きな筒美さんの曲を挙げれば、”ブルーライトヨコハマ”や”木綿のハンカチーフ”や”さらば恋人”などキリがありませんが、やはり最高なのは、”また逢う日まで”です。 ひと時の別れの曲ですが、歌詞も曲も、本当に雄大で清々しく、中学生になったばかりの私にも、何か未来に希望がもてるような気分にさせる、そんな凄い曲でした。

 と同時に、この後も、このような素晴らしい曲がいっぱい出てくることを予感しました。 しかし、この予感は間違いでした。 この壮大さと爽快感、高揚感のようなものを持ち合わせたという点で、この”また逢う日まで”を超える曲には、私自身は巡り会えませんでした。(恐らく、マイナーな世界ではあったのでしょうが、誰もが知る大ヒット曲の中ではなかったと、私には。)

 以上、遠い昔に私が思っていたことを中心に書きました。

  

 筒美京平さんの死に、心から哀悼の意を表します。 素晴らしい歌の数々、本当にありがとうございました。 

  

  

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (14)

⑭ ゲルマン人(Germanic peoplesまたはGermani)の誕生

 ここでは、ゲルマン人の主にその成り立ちに注目するが、ここも日本語に訳されていないものが多い(と思う)ので、英語のままで記載するのも多くなる。 

 まず初めに、Nordic Bronze age(北欧青銅器時代、前1700ー500年)の集団が、のちにゲルマン語群の言語を話す集団(つまりゲルマン人)の大元の祖先であると考えられている。 この集団は、今の南スカンジナビアと北ドイツあたりにいた。 彼らは、Battle Axe culture とPitted Ware cultureの融合により生まれたとされる。 

 では、その先の文化からまず紹介する。 Battle Axe culture(戦斧せんぷ文化とも)とは、以前(※第6回参照)にみたヤムナ文化集団由来の縄目文土器文化(Corded Ware culture)からさらに分岐した集団で、前2800ー2300年頃に南スカンジナビアに出現した。(※ポーランドあたりから西北に移動してきたと言える。) 

 彼らは、数多くこの地に流入し遺伝的な変換を起こした。 彼らは、それまでこの地にいたFunnelbeaker culture(ファネル状ビーカー文化)集団を吸収していった。

※このファネルビーカー文化集団は、既述のEEF(Early European Farmers,早期ヨーロッパ農耕民)から由来する。 ただし、直接、小アジアやギリシャ経由ではなく、それらがイベリア半島やフランスに行った後、逆戻りのように北東に移動してきた集団のようだ。 だから、このファネルビーカー集団も、やはりストーン・ヘンジやニューグレンジを作った集団(イベリア半島からイギリス諸島に方に行った集団)のように、巨石を使った墳墓を作った。(第12回参照)

 さて、Battle Axe culture集団に戻ると、この集団の埋葬方法は、平坦な単葬の墓で墳丘はなかった。 遺体は、南北軸に並べられ、顔は東向きにされた。 男たちは左側に置かれ、女たちは右に安置された。 男女ともに、通常の斧は置かれたが、戦闘用の斧(戦斧)は、男だけにその頭近くに置かれた。これは、戦斧が勇者のステイタスシンボルであったものと考えられる。 他に副葬品としては、弓矢の先などの武器や縄目文土器、動物の骨などがある。 

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前2800-2300年頃の舟型戦斧。 これは、SIingle Grave culture のもの。

 一方、Battle Axe culture文化集団の出現と同じ頃、そのやや南の地域のデンマークや北ドイツあたりでは、同じく縄目文土器文化から分岐したSingle Grave culture(単葬墓文化と訳されているものがあり、そこでは、縄目文土器文化と同義語とされている)集団がいた。 このSingle Grave culture集団の墓は、墳丘があり低い丸い墳丘であるが、初めには木材が周囲を囲っていた。 墓内部は、通常1つか2つの木棺があり、各木棺には遺体が一つ置かれた。 男の棺には、戦斧や琥珀の円盤、石火用器具など、女の棺には、小さなビースでできた琥珀のネックレスが添えられた。 また男女とも、ビーカー土器が副葬された。 この文化では、男女による差がなかったものと見られる。(※この文化集団も、当然、Nordic Bronze age文化の形成に関わったものと思われる。 ここの記事では、そのこと自体は明記されていない。)

 次に、もう一つの主な民族であるPitted Ware culture (穴あき土器?)は、これも前に紹介したSHG(Scandinavia HunterーGatherers、スカンジナビア狩猟採集集団)由来の集団である。(※これまで見てきた集団と繋がり合うのは、大変うれしいものがある。 何か、その歴史が大いに理解できたような気になる? 第12回参照) 

 彼らは、前3500年頃から上記のBattle Axe culture集団よりやや先にこの地に分布し、前2800年頃のBattle Axe culture集団の流入後は、しばらく共存が続いたが、前2300年頃に融合してNordic Bronze age 集団となる。 この時、彼らも、Funnelbeaker culture 集団を追いやったようだ。

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Pitted Ware 穴あき土器

 彼らの墓地は、主に平らな土地での土葬だが、火葬も行われたようだ。 巨石の石室はなかった。 また、彼らの墓には、赤い土が使用された。 年齢や男女の区別なく埋葬され、社会的な階層は未だなかったようだ。

※彼らが、SHGの子孫であれば、彼らは印欧語の言語を持っていなかったと思われる。 Battle Axe cultureとの融合で、Battle Axe cultureの言語を主に採用したということか?

  さて、やっとNordic Bronze age culture(北欧青銅器時代文化という訳がある)集団そのものに入る。(位置関係は、第11回の骨壷場文化の地図参照) 

※この文化の開始は、前1700年とあるが、上記のBattle Axe cultureとPitted Ware cultureの融合が、前2300年であるので、新たな集団としての明確な文化の発進・機能的な社会を形成するのに、約600年かかったということなのか? そして、それは、彼らの話す言語が、それまでの印欧語の中から、現在のゲルマン諸語の基礎となる言語体系ができていく時間だったということなのか?

 この文化は、前1700ー1100年を前期、前1100ー550年を後期と2分されている。

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北欧青銅器文化の領域。前1200年頃。

  彼らの文化では、まず岩石へ絵を彫る文化が挙げられる。 これは、当時の海岸沿いの岩に彫られたもので、日常生活の様子・武器・各種動物・太陽などが書かれているが、特に多いのは、船と人間の姿である。 海岸沿いの丘陵地に家が立地されたが、大きな村や町を形成することなく、農民の家屋がまとまった程度であった。 家屋の形は、長い家で中に2つの通路があり、のちにそれは3つになった。

 この文化集団での埋葬形態は、墳丘及び墓地埋葬があり、それにはオーク材製の棺や骨壷を使う埋葬があった。 また、彫刻岩や青銅器武器の副葬も行われた。

 農業では、小麦や大麦などを栽培、家畜は、牛・羊・豚などを飼育。 魚や貝も食料であり、鹿やエルクなどの野生動物も狩猟した。 牛は、農耕用に利用され、犬も家畜化されていた。 馬は、あまり見られす、おそらくステイタス・シンボル的な高価なものだったようだ。

 この文化集団は、ケルト系の祖先として出てきた墳墓文化(Tumulus culture、第11回参照)とギリシャのミケーネ文化との交流があった。 彼らは、これらの集団に”琥珀ロード”を通じて、北欧特産の琥珀を輸出し金属を輸入していた。 銅や錫、金は、大量に輸入され、そのうち、銅はサルジニア島やイベリア半島から得ていた。 この交易網は、前12世紀に突然途絶えてしまった。(※ギリシャの暗黒時代と関係があるのか?)

 北欧青銅器時代文化の芸術は、ギリシャ・ミケーネ文化と非常に似通っている。 これは、旅行者や戦士の交流など密接な交流を思わせ、他のどのヨーロッパの文化も北欧青銅器文化ほどミケーネ文化に類似していない。 また、この集団の文化は、カスピ海北東部に広く展開したAndronovo cultureなどにも類似していると言われる。

※このAndrobovo culture(アンドロノヴォ文化)集団は、あのスキタイなどのイラン系印欧語の祖先だと言われているスルブナヤ文化(Srubnaya culture) の東隣にあって、非常に密接な関係にあったとされる。(第7回参照) つまり、すべてヤムナ文化より発祥しているが、それがゲルマン語系であろうと、スラブ系であろうと、またイラン系であろうと、この段階では、文化面全体では、まだかなり似通っているということなのか? 

 さて、ヨーロッパの中では、スカンジナビアは、青銅器の交易は遅く始まったが、遺跡には数多くの青銅や金の遺品が保存されている。 これらは、まず中欧からの輸入ものが主であったが、やがて独自の高い水準の金属製品を製造した。 また、木工製品も作った。 そして、前15-14世紀には、ヨーロッパのどの地域よりもスカンジナビアは、青銅の生産と墓などの副葬品の多さを示している。 その金属製品の数と密度から、当時のスカンジナビアは、ヨーロッパで最も豊かな文化を持っていた、と言える。

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北欧青銅器文化の石への彫り物。 船と太陽を描写

※なお、この北欧青銅器文化集団のDNA情報も記載されているが、もうこのあたりは、ヤムナ文化集団以降のほぼ同じ遺伝情報を発信しているので、特にここでは記さない。

 それから、この北欧青銅器文化(Nordic Bronze age culture)の最後期近く(前650年頃)になって、それまでわりと温暖であったスカンジナビアの気候が、より寒冷多雨になっていたとされる。 

 それで、この集団の次に来るのは、Pre-Roman Iron age culture とJastorf cultureである。 

 まず、Pre-Roman Iron age(先ローマ(帝国)鉄器時代という訳があるが確かではない)は、この地の前5-前1世紀にかけて存在した。 この文化は、まずケルトのハルシュタット文化との接触に絡んで出現したが、ケルトのハルシュタット文化は、その後、ラテーヌ文化に発展していくが、Pre-Roman Iron age文化は、ラテーヌ文化とは違ったものを築いたようだ。 上記にあったように、青銅器時代の最後に、ミケーネなどの地中海文化との交流がなくなり、この地独の文化は大きく変化した。 青銅の材料は輸入したが、鉄器の材料は自前で調達でき、その量も増え、ケルト人から伝授された製造・加工技術も向上した。

 埋葬方法は、青銅器時代からの継続して火葬とその後の骨壷の埋葬形態は続けられた。(※ケルト・ハルシュタット文化の前段階である骨壷場文化の形式であるが、ということは、ケルト人もこの形態を続けたということか? ケルトの章では、この関連は見つけられなかったのだが。) 

 ラテーヌ文化の影響は埋葬形式にはあったようで、今のドイツ西北から入り、後にはスカンジナビア全土に拡がり、武器やハサミ・ナイフ・針・ヤカンなどが一緒に埋葬された。 青銅器もまだ使われていたが、この時期の一番特徴的な産物は、銀製のカップと青銅の部品の入った木製の4輪荷車である。

 そして、北欧青銅器時代末期に起こった気候変動は、スカンジナビアの植物相や動物相に影響し、人口も減少が続き、この文化のうち南側にあった文化を特にJastorf culture(ジャストルフ文化)というが、それが更に南に移っていく。 この集団は、ゲルマン祖語を話したと思われるが、それがいつ発生したかは、わかっていない。

 Jastorf cultureは、前6世紀ー前1世紀に存在。 Pre-Roman Iron ageの中の南部地域の名称であり、ハルシュタット文化の影響を受けた北欧青銅器文化から生じた。 当初は、今のドイツ最北部あたりに限定されていたが、のちに南方へも拡大。 副葬品などは、あまり多く出ていない。

※この箇所の英語版のウィキを見ていて、Jastorf cultureと、ハルシュタットやラテーヌのケルト文化とは、密接な関係がみられるが、その量や質についての詳しい内容は、近年のいろんな発掘や研究の結果が異なっているせいなのか、研究者間でかなり意見のバラつきがあるように見える。 

※ついでに言うと、ヤストルフ文化として日本語ウィキもあるのだが、英語版のものとかなり内容が異なる。 量も多いし珍しく内容がより多岐にわたり、住居・生活様式などが詳しく書かれている。 間違いなく、今ある英語版からの翻訳でない。 ただ、参考文献が一つで、しかも古い(1997年)ものだが、そこからの直接の翻訳なのかもしれない。 そうであれば、まとめやすく断定的な文章を書きやすいのだが。 

 

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先ローマ鉄器時代の民族分布(前2世紀ー後1世紀) 赤紫色とその周辺はJastorf culture及びその関係、濃緑色は北欧グループ、橙色はケルト系(ラテーヌ文化)、ポーランド辺りの薄緑色はPrzeworsk culture(プシェヴォルスク文化、ゲルマン系ヴァンダル人とスラブ系との関係が示唆)、その北の紫色は西バルト文化など。 

  次に、文化集団を焦点にしたウィキから少し離れて、言語関係の記載からゲルマン語族の経緯をみてみたい。

 紀元前2500年頃に縄目文文化集団によって、スカンジナビアの地に印欧語がもたらされ、前2000年以降、北欧青銅器時代を通じで発展していった。 先ゲルマン祖語(Pre-Proto Germanic languages)が、Pre-Roman Iron age文化の間に、ゲルマン祖語(Proto Germanic languages)になったと考えられる。 この先ゲルマン祖語が、ゲルマン祖語に変化したのは、印欧語でない別系統の言語との交流があったからだ、とする説がある。(Funnelbeaker cultureなどがその候補に出されている。)

 ゲルマン祖語は、おそらく前500年以降に話されたと考えられる。 そして、Proto-Norse(ノルド祖語)は、後2世紀に始まったと思われる。 ゲルマン祖語の拡散は、前5-1世紀のPre-Roman Iron ageにあったと思われるゲルマン祖語の拡散によって、ケルト人のラテーヌ文化と遭遇する。 そこで、ケルト語族から、多くの語彙を借用した。

 その拡散は、後1世紀には、南方ではドナウ川やライン川上流に及び、有史の時代に入る。(ローマ帝国との出会い) ほぼ同時期に、東方へ向かったゲルマン人は、スラブ系の民族との接触が起こり、スラブ祖語(Pro-Slavic)にゲルマンの語彙が入り込む。

 後3世紀までに、後期ゲルマン祖語の話者は、ライン川からドニエプル川までの広大な範囲(1200km)に拡散し、その時期は、後期ゲルマン祖語の分裂とその後の歴史上のゲルマン民族の大移動(Germanic migrations)の発端となる。

 最古い古ゲルマン語で書かれたものの記録は、4世紀後半に書かれたゴート語の聖書(Gothic Bible)である。 また、ノルド祖語(Proto-Norse)では、4世紀に書かれたルーン文字(Runic alphabets)を使った動詞などを含む完全な文章が残されている。

※ルーン文字は、2世紀頃スカンジナビアで発明。

 

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後1世紀のゲルマン語族分布。青色はNorth Germanic (300年までにPro-Norseノルド祖語に)、赤色はNorth Sea Germanic(古英語や古フリージア語など),、橙色はWeser-Rhine Germanic(オランダ語などの祖), 黄色はElbe Germanic(高地ドイツ語の祖),緑色はEast Germanic(300年までにGothicゴート語に)。

 

 ゲルマン人の出現及びゲルマン祖語の発生、その全体的なものの経緯については、これぐらいにしておく。 

 次回は、ゲルマン人の中でも、私が特に興味を持ついくつかの集団について個別にその歴史を見てみたい。 そして、出来れば、あのフン族の侵入に始まるゲルマン民族の大移動までみてみたいものである。 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (13)

※今回は、いよいよケルト。 現在のアイルランドについての記述なども入れたので、この際、書体も少し変えます。 本当の疑問文の場合には?マークをいれたり、ハハなどを冗談や自嘲の際などに使います。

 

⑬ ケルトの世界

※ケルト人(Celts)の文章に入る前に一言。 前回紹介したように、ニューグレンジなどの巨石文化は、このケルト人がアイルランド島などのイギリス諸島に移動してくる時期より、2000年以上も前に出来たものである。 ケルトとは直接の関係は無い。  ただ、現在のアイルランド人を含む多くの世界中の人たちが、巨石文化はケルト人が作りあげたもの、あるいは、何かケルトと関係のあるもののように勘違いしている場合が多い。  

 それと、このCeltという英語の言葉は、だいたい今ではケルトと発音される場合が多いが、一部スポーツチームなどで、セルティック(Celtic)と発音される時もある。 アイルランドでは、この形容詞形の場合でも、ケルティック・タイガー(Celtic Tiger、2000年代のアイルランドの好景気の代名詞)などケルティックと発音されるのが、通常である。

 それでは、ケルトについて、少しその出現の経緯を書いてみたい。 前々回に紹介したように骨壷場文化(Urnfield culture)が、前1200-750年頃の後期鉄器時代に中欧の西方で隆盛していく。 この間、域内の人口は、その農業技術の革新などで急激に増加していった。 そして、鉄器の利用に伴う形で、骨壷場文化は、ケルトのハルシュタット文化(Hallstatt)に変遷していく(前700-500年)のだが、この間にすでにすべてのケルト系言語の祖語であるケルト祖語が形成されていたと見られる。 このケルト祖語は、イベリア半島やイギリス諸島に、前1000-500年の間に広まったとも言われる。

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ケルトの分布図。 濃い黄色は、ハルシュタット文化の中心域(前800年頃) 灰色に見える地域は、ハルシュタット文化の影響が及んだ地域(前500年)。 緑色は、ラテーヌ文化の中心域(450年)で、水色に見える区域は、その影響の及んだ地域を示す(250年)。 文化が重なりあっている地域があり、色が異なるので注意。 また、各部族の名前が書かれている。 

 ラテーヌ文化(La Tene)文化は、後期鉄器時代(前450年ー前1世紀)に中欧の広い範囲(フランスからハンガリー)で花開く。 ただし、これは、ハルシュタット文化から画期的な文化的変化があったわけではないようだが、ギリシャやエトルリアの地中海文明の影響があったと考えられる。 彼らの定住化の促進は、前4世紀頃に起こった。

 ローマ帝国は、今日のフランスに住むケルト人をガリア人(またはゴール人Gauls)と呼んでいた。 ガリア人の占領するところは、北の中欧低地からアルプスそして北イタリアを含んでいた。 のちに、ユリウス・カエサルが、その”ガリア戦記”の中で書いた戦いは、後1世紀頃のケルト人(ガリア人)たちとのものであった。 東部のガリア人は、ラテーヌ文化の西方の中心地域となった。 社会機構は、ローマ帝国のそれに類似したものとなり、紀元前3世紀には硬貨も作られた。

 イベリア半島では、ピレネーからのガリア人の流入に加え、3つの大きなケルト集団の地域があったようだ。 メセタ盆地の東部にいたCeltiberians、南西部のCeltic、そして、北西部のGallaecia とAsturiasなどの集団である。 このうちCeltiberiansは、前6世紀頃から流入が見られ、当初は丘陵上での定住であったが、前3世紀末期頃から、より集団化した生活様式に変化し、前2世紀頃には、この集団が使う文字での硬貨も製造された。 それにより、このCeltiberian 語が、ヒスパニック・ケルト語であると証明された。 彼らは、ローマ帝国の侵入の前までには、スペインの各地に拡散したようである。

 この他にも、中欧にいたケルトは、ローマ帝国内のイタリアやギリシャ、あるいはバルカン半島や小アジア(トルコ)などに急襲の形で侵入したりしたが、後のゲルマン民族のローマ帝国への流入ほどの影響はなかったようだ。 また一部は、その地に留まった。

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前3世紀のケルト民族の分布

  さて、ケルトのイギリス諸島への流入は、いつ起こったのか(英語では、イギリス諸島のケルト人をInsular Celtsと呼ぶ)。 これは、前6世紀頃とされてきたが、近年の調査などではかなり異なる意見もあり、はっきりしない。 一部には、約2000年前に到達した鐘状ビーカー文化集団が、すでにケルトの祖語のような言語を持っていた、とする説さえある。 

※ケルトのイギリス諸島への移動の時期が明確でないので、当然、その経路もはっきりしないものと思う。 しかし、2000年近く前のビーカー文化集団は、主にイベリア半島からイギリスやアイルランドに到着したと見てきた。 なので、このケルト民族の場合も、おそらく同じ経路を中心に移動してきた可能性が高い、と想像する。

 また、ケルトの言語は、アイルランド島などのゴイデル語(Coidelic)とブリテン島などのブリトン語(Brythonic)に早くに分岐するが、その経緯も、イギリス諸島内で分岐したのか、大陸からいくつも違った部族の侵入によってもたらされたものなのか、わかっていない。 

 その後、大陸のケルトは、ローマ化されてゆき、その圏内ケルト人は、俗ラテン語(Vulgar Latin)を多用するようになっていった。 この俗ラテン語が、ローマ帝国の崩壊後、各地でさらに発展・分化し、それぞれの地で各ロマンス語系言語(イタリア語やフランス語など)になっていく。 イギリス諸島の内、ローマ帝国が支配したのは、今のイングランドだけと言ってよい。 ここでは、その後のゲルマン諸族(特にアングロ・サクソン族の大量流入により、ゲルマン語が主流となり、後の英語に発展していったのは、よく知られているところである。

 

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前58年、カエサルの時代のローマ帝国(黄色)と周辺の民族。 ケルト民族は緑色で、ゲルマン民族は紫色。 イベリア半島はすでにローマ領に。

 

 文化面では、ケルトには、各部族の王がいたようであるが、数人による統制も行われていたようだ。 ケルトの社会では、3つの階級が存在した。 戦士・貴族階級、特殊教養集団(宗教者的存在のドルイドDruid、詩人、司法官など)、そして、その他(平民)である。

 アイルランドやスコットランドでは、王位の継承は、Tanistry制によって行われた。(※この言葉は、現在のアイルランド語のTanaiste(最初のaの上に/記号あり)に由来する。発音は、トーニシチャに近い。ただし、現在のアイルランド語では、この単語の第一の意味は、副首相である。また、アイルランドの首相は、Taoiseach ティーショックと呼ばれる。) 

 これは、王位継承に関わる制度で、当時のアイルランドやスコットランドでは、継嗣は、同じ祖父(曽祖父の場合も)を持つ男子の王族から選ばれる制度である。 この制度は、封建時代のヨーロッパの嫡男が継承する制度(Primogeniture)とは全く異なる。

 住居は、既述したが、早期では丘上の砦の形態が多く、後期では、村落や町の形成もみられた。

 奴隷売買は、ケルトでも、古代ローマやギリシャと同様、さかんに行われた。 奴隷制は、基本的には継代化されていったようであるが、解放も可能であったようだ。 アイルランドやウェールズの奴隷を意味するケルト語は、ラテン語のそれから由来しており、それは、ケルト民族とローマ帝国の間で奴隷の取引があったことを示す。

※日本語のウィキには、遺伝分析の結果があまり書かれていない、と以前に書いたが、この奴隷関係の記述についても、日本語ウィキでは何の言及もない(全体的に文章量も少ない)。 あるいは、日本語ウィキは、英文のものからの単なる訳ではなく、独自の見解に基づいて書かれているのかもしれないが? 逆に、この英語のウィキを書いている担当者には興味ある課題なのかもしれない。 また、私自身も英文ウィキを全訳しているわけではなく、自分が特に興味を持つ箇所を抜粋しているのだが。

 また、イギリス諸島のケルト地域では、錫、鉛、鉄、金、銀などが産出し、ケルトの鍛冶工は、それによって武器や宝飾をつくり、ローマなどとの交易を行った。

 ケルト人は、ほとんど筆記を残さなかった。 前期中世では、Ogham(オーム)という特殊な記号文字が使われたが、これは、もっぱら墓石などに限られていた。 アイルランドでは、口承伝達が主な手段で、バード(Bards)と言われる吟遊詩人たちがそれを行った。 

※つまり、ここに書かれているようなケルト人に関する情報は、のちの世まで、この口承伝達によって語り継がれたものをその後のキリスト教時代の人間が記録したものと、ローマ帝国やギリシャの政治家や歴史家の記述によって得られているのであろう。

 ケルトの宗教については、ここではあまり多く記さないが、多神教でありドルイドと呼ばれる宗教者が、儀礼や生贄などを執り行った。 

 Head hunting:優秀な人材の引き抜きではない、ハハ! ケルト人の間では、戦闘などで勝利した戦利品として、相手の生首をとり飾る儀式があった。 ケルトにとって、頭には霊あるいは魂が宿り、それは感情や命の根幹でもあり、神聖で死後の世界の力の象徴のようなものであった。 つまり、生首を飾ることによって、その相手の力を自分のものにするなどといった意味あいがあったのであろう。

 なお、遺伝的分析では、ずっと以前のビーカー文化集団と同じく、ステップ集団(黒海北岸ん)の遺伝的関与が強くうかがわれるとしている。 また、下の地図にあるように、父系の遺伝を示すY染色体の分析では、RーM269という下部グループ(ハプログループ)の分布が、現在のケルト語残存地域やイベリア半島などで高い分布を示している。 スペインでは、特に、Celtiberiansの流入は、この北部ヨーロピアンの血脈をこの地に残すことになった。 

※なお、カエサルの書いたものには、”ケルト人は、背が高く筋肉質、色白で髪は金髪である。 さらに、彼らは、その髪を石灰水などでよく洗い、より淡い色にしている。”などとある。

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ケルトに非常に特徴的なY染色体(父系)のR-M269ハプログループの分布状況。

 ※以上、ほぼ英文のウィキにより見てきたが、一つ気になるのは、その前の文化の骨壷場文化集団やさらにその先の文化集団の場合も、その埋葬形態などから、それぞれ文化を規定していたのだが、ケルトに関しては、そのあたりの記述がなく、どうなったのか、いまひとつよくわからない。 その部分では、骨壷場文化との差異があまり顕著でなかったのか、あるいは、様々な形に分散したためなのだろうか?

 それと、最初にも書いたが、ケルトと巨石文化は、直接関係がないし、また、ケルト文化からキリスト教文化に代わったアイルランドでは、当然、ケルトの主要な文化は衰退していった。 ただし、ケルトの唐草模様のようなデザインや意匠は、ケルト十字と言われるアイルランドの特殊な墓石に書き込まれたり、様々な後の装飾品などにも取り入れられた。 他に、今日でもケルト文化の影響のあるものとしては、ハロウィーンや聖ブリジット(元はケルトの女神)の伝説などは、今でも多くのアイルランド人が知るところである。

 私が若い頃、BBC制作の”the Celts"という番組がNHKで放送され、非常に興味を持ってみたものだが、その内容は、もうほとんど覚えていない。 ただ、この番組のメインテーマとして使われたエンヤEnyaの音楽は、ケルト民族の音楽はこんなもんだ、と決定づけてしまうようなインパクトがあった。 まあこれも、もちろんケルトとは直接なんの関係もないのだが、あの頃の私も、ケルト関係の本を読みながら、このエンヤの音楽が頭に響いていたものである。

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900年頃にできた聖杯Chalice 上方の帯の中にある黄金色のデザインなどが、ケルト的であると言われる。

 唯一、主要な文化の遺産としては、言語がある。 もちろん、現在のアイルランド語も、ケルト人のいた時代のものとは、かなりの変化があるだろう。  しかし、ともかくアイルランド島では、およそ1600年あたりまで、東部のほんの一部のエリアを除きほとんど全国でアイルランド語(Irish またはGaelic、ゲール語自体ではGaeilge)が話されていた。 その後、英語が、東部より拡散浸透し、1850年頃には全国ほぼ英語化されてしまった、(イングランドの政治的侵略自体は、そのずっと前の12世紀頃から始まっている。)

 いまでは、西部地方にいくつか分散してゲール語を話す地域(ゲールタハトGaeltacht)が、残るのみである。 ただし、この地域の人々も全員(全人口からみれば1.7%, 2011年)、英語のできるバイリンガルである。 

 政府の手厚い保護政策のもとで、専門のテレビチャンネルを設けるなど話者人口の増加あるいは維持を図っているが、なかなか難しいようでもある。 道路標識は、常に英語・アイルランド語の両表記であったり、政府から各家庭に届く連絡通知などは、全てバイリンガルで書かれているなども行われているが。 

 また憲法上も、アイルランド語が国の第一言語になっているのだが、実際は、国会などでも皆英語を使うし(時々、アイルランド語で質問する議員もいる、その時は、首相もアイルランド語で返答している)、この国の人々の生活や経済・文化もすべて英語によって動いている。

※文化的にその言語が認知あるいは愛用されるには、最低、その言語で映画や歌がヒットしなければいけない、と私は常々思っている。 アイルランド語には、私の知る範囲、それはない。

 そして、私が、アイルランド語について強く疑問に思うのは、この言語が、小学校から高校生までのすべての生徒に必修となっており、大学受験の必須科目になっていることである。 かつての文化の再興を願う気持ちは、よくわかる。 しかし、たとえば英語ができるだけでアイルランドに移住して来ても、その親たちは、自分の子供たちの学校のアイルランド語の宿題などに苦労することになる。(ごく特例で、履修しなくてもいい場合もある。) 

 ご存知のとおり、アイルランドは、大いなる移民の国であった。 もちろん、移民を出す方の国としてである。 かつては、英語圏以外に、中南米などにも出かけた。 いまでも、アメリカ・オーストラリアなどに職探しに行く人は多い。 しかし、極く最近は、出ていく数より、東欧からなどから、より多くの移民が、この国に入ってくる。 

 だが、アイルランドで警察などの公務員になるには、アイルランド語が出来なければいけない。 どの程度の語学力がいるのか知らないが、これは、アイルランド語が出来ないだけの理由で、そのような移民などの人々を排斥しているように、私には思える。 自国の歴史を鑑み、もう少し移民に寛容になっても良いのでは、と思ってしまうのだがーーー。 長くなるので、現在の課題については、これぐらいにしておく。

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アイルランド語の使用率(2011)学校以外で日常的に使う人の割合。 北アイルランドは除外。

 さて、次回は、ゲルマン民族を取り扱いたい。 以前、私は、ケルトとゲルマンは、違うのか同じなのかよくわからないでいたし、ギリシャやローマ人が混同して使っていたのではないかなど、いろいろ想像したり誤った認識を持っていたりした。

 英語のウィキをちらっと先に見たが、さすがにアングロ・サクソンの末裔である英語話者が書いているだけあって、その記述は膨大である。 まあ、それらを参考に、ゲルマン民族の概要を知りたいものである。

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (12)

⑫ ニューグレンジやストーン・ヘンジを作ったのは、どんな人たちか。

 前回を展開を受けて、ケルトの前に、ストーン・ヘンジなどの巨石文化を作りあげたのはどんな集団なのか、それは、現在ではかなり解明されているようなので、そちらを先にみてみたい。 

 イギリスやアイルランド(その他のヨーロッパ大陸にもあるが)にある巨石建造物は、この地方では、新石器時代に作られたようだ。 それぞれ一番有名なのは、おそらくアイルランドでは東部地方にあるニューグレンジ(Newgrange、前3200年頃)であり、イギリスでは南部のストーン・ヘンジ(Stonehenge、土塁などは3100年頃、巨石の設置は2600年頃)であろう。 

 そして前回には、前2500年頃には、このイギリス諸島に鐘状ビーカー文化をもった印欧語を話す集団が、ヨーロッパ(主にイベリア半島やブルターニュ地方)より大挙流入し新たな文化を花咲かせた、ということを見た。 つまり、このビーカー文化集団の到来は、巨石文化の時代より約500年後ということになる。 では、その巨石文化の時代には、どのような民族・集団がいたのだろうか。 

 ではまず、イギリス諸島を含めたヨーロッパ全体のより古い時代を、ウィキぺディア等の記述を通して見ていきたい。 

 なお、これから書くところは、このシリーズの一番最初の頃に書いた、ホモ・サピエンスが7万年ほど前にアフリカを出て世界中に拡散し、それぞれの地で人種や民族を形作っていく、まさにその時期の直後にあたる。 ヨーロッパでは、まだネアンデルタール人も生存している地域があったり、その混血が行われたりもした時期でもあり、ここでまた歴史が繋がっていくのである。

 さて、そのヨーロッパの中石器及び新石器時代には、Western Hunter-Gatherers (WHG)という集団がいた。 日本語ウィキには、この固有名詞自体がなく(見つけられなかった)、当然その訳名もないので、ここではWHGと英語での略称を主に使う。 日本語訳をするとすれば、”西方狩猟採集民”とでもなるのか。 

 このWHGは、西欧や東欧にいた中石器時代の狩猟採集民(Mesolithic  Hunter-Gatherers)から由来しており、その集団・MHGの中石器時代の居住地域は、西はイギリス諸島、東は現在のウクライナまで及んでいたようだ。

 最終氷期が終わった時期(つまりメソポタミアなどの先進地で農耕が始まる頃)のヨーロッパに居住する集団は、このWHGとEastern Hunter-Gatherers(EHG、東方狩猟採集民) そして Scandinavian Hunter-Gatherers(SHG、スカンジナビア狩猟採集民)に区分される。(※ここの西方や東方は、ヨーロッパの中での西側や東側ということを示す。) 当時のこのWHGとEHGの居住境界線は、ドナウ川下流域である。 SHGは、この両集団の混血のようであり、スカンジナビアを中心に存在した。 

 WHGは、一時期、ヨーロッパのかなり広範囲に浸透したが、新石器時代の初期には、彼らも、Early European Farmers(EEF、早期ヨーロッパ農耕民)にその地位を奪われていった。 中期新石器時代の一時、WHGの主に男性の集団が、この地域に再興したが、後期新石器時代及び初期青銅器時代には、Western Steppe Headers(WSH、西方草原遊牧民) が、黒海北岸ステップから大量に移入してきた。 (※ここでの西方とは、広大に拡がる草原(ステップ)地域の西側部分を示す。) このWSHは、すなわちこれまで何回か紹介してきたヤムナ文化集団及びその近縁集団のことである。 現在の国で、WHGの遺伝子を最も強く残すのは、バルト海沿岸諸国(特に東方)である。

 WHGのあとにヨーロッパを制したのは、EEFと略される早期ヨーロッパ農耕民である、と書いた。 このEEFの祖先は、WHGから4万5千年前に分岐し、コーケイジアン狩猟採集民(CHG)からは2万5千年前に分岐したと言われる。 彼らは、約9千年前に小アジア(アナトリア)からバルカン半島に移動し、その地でWHGを圧倒したようだ。 バルカン半島のEEFは、一部は、ドナウ川沿いに今のドイツあたりに進み、別の集団は、地中海西方にも達し農耕文化を拡めた。 中期新石器時代には、WHGの男たちが、これらの地域に再度入り込み、彼らの父系の遺伝子をこの地域に残した(既述)。

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WHGから、CHGとEEF(この図ではEF)の分岐

 後期新石器時代(または銅器時代)や青銅器時代になって、 EHG(Eastern hunter-gatherer)の子孫(一部CHGも含まれる)と思われるWSH(Western Steppe Herders、西方草原遊牧民)が、EEFの居住地域を席巻し、その後のヨーロッパ人の遺伝子分布に大きく影響した。 しかし、それは主に父系であって、母系のミトコンドリアDNAでは、このEEFの遺伝子は幾分か残っている。 つまり、主にEHG/WSHの父系遺伝子とEEFの母系遺伝子の混合によって、この民族変化が起こったものと考えられる。

 今現在のヨーロッパでは、地中海地方の人々が、このEEF遺伝子を高頻度にもち、バルト海周辺で最もその割合が低かった。 WSHは、EHGが主でCHGがある程度混血した民族であったが、この場合も、主としてEHGの男性とCHGの女性との混合で成り立ったようだ。

※以上、同じような書き込みを繰り返したようになってしまったのは、ウィキペディアでは、出てくる言葉のリンクにたどって、次々と新たな文章に接することができるが、同じ民族の記述でもリンク先で多少異なるので、それらをまとめるのも若干煩わしいこともあり、そのまま記載したからである。 

 ともかく、要約すれば、青銅器時代までのヨーロッパには、まず、西方狩猟採集民(WHG)とと東方狩猟採集民(EHG)、及びその2つの混血と思われるスカンジナビア狩猟採集民(SHG)の3種の民族あるいは人種がいた。 このうち、WHGからは、コーケジアン狩猟採集民(CHG)が枝分かれして、さらに、EEF(早期ヨーロッパ農耕民)という農耕民が形成されていった。 一方、EHGからは、多少のCHGとの混血もあるが、そこからWSH(西方草原遊牧民)が形成されていった。 

※このWSHが、いままで何回か述べてきた印欧語の祖語を有するヤムナ(あるいはヤムナヤ)文化集団になるのであるが、結局、上の各民族の由来からまとめるとすれば、このヤムナ文化集団は、EHG(東方狩猟採集民)を主体にして、WHG(西方狩猟採集民)の血も幾分入り込んだ人種あるいは民族ということになるのか。

 ここで、上に書いた民族集団のDNA分析から得られた外見上の特徴をまとめて列挙する。

WHG:肌は暗く(dark)、眼は青かった(blue)とされている。 しかし、彼らの祖先と思われるバルト海地方の中石器時代の狩猟採集民は、肌は明るい(light)とされている。 

SHG:彼らの肌色は、EHGより肌は暗いが、WHGよりは明るいとされる。 眼は、青から薄茶色(light brown)であったようだ。

EHG: 彼らは、明るい(light)の肌色で、茶色(brown)の瞳を持っていたと言われる。

CHG: (彼らの外貌に関する記載は、見つけられなかった。)

EEF: 彼らは、狩猟採集民より背が低く、彼らが侵入したため、当時のヨーロッパ人の身長は低くなったとされる。 新石器時代の後の段階では、ヨーロッパ人の身長は、幾分高くなったと言う。 おそらく、狩猟採集民との混血のせいか。 さらに、後期新石器時代から青銅器時代にかけて、東方の草原遊牧民の流入で、身長は、さらに伸びた。 現在の南のヨーロッパ人が、身長が低いのも、このEEFの遺伝子頻度が高いことに由来し(地中海のサルジニア島で最高頻度)、北部ヨーロッパ人の高身長は、草原遊牧民の割合が高いことと関係していると言えるかもしれない。

WSH: がっしりと背が高い。 新石器時代の中欧にいた集団よりかなり背が高い。 圧倒的に暗い眼(brown)で、暗い髪の毛。 肌の色は、かなり明るく(light)、しかし、今日の平均的ヨーロッパ人より濃い(darker)。 遊牧の生活と言われるが、乳糖耐性であるという証拠はほとんどない(※牛乳が飲めなかった)。 現在の北ヨーロッパ人が、南の人たちより背が高いのは、このWSHの遺伝頻度が高いことによる、と思われる。

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前5000年頃のスペインにいたWHG(西方狩猟採集民)の想像復元図。 眼と肌の色に注目。(顔全体のイメージは、研究者によって異なるので注意。) Euronews、2014より 

※以上の外見的表現型の記述を見て、私が思ったのは、少なくともこの時期のヨーロッパ人においては、眼(虹彩)と皮膚の色をコントロールする遺伝子は、別々であるということ。 また、現在の印欧語を拡めたヤムナ文化集団、すなわちWSHは、それほど色白ではなかったように書かれていること。 その祖先のEHGは、それより白かったようだが。 それでは、ヤムナ文化集団が、たとえば北欧などより高緯度地域に行って、新たにより白くなったということなのか、この辺は、もう少しDNA分析が進まないとわからないのかも。

※これは、今から40・50年前に見た文章だが、今のヨーロッパ人種の中で一番色素の薄い亜人種(今ではこういう表現はあまりしないが)は、スカンジナビアに住む人々ではなく、東欧・ロシア系の集団である、と言われていた。 そうであれば、この地域は、ヤムナ文化の発生地との距離が非常に近くであり、その頃から現在までのこの地域に住む集団の遺伝的変化がどういう経過をたどったのかということも、大変興味がでてくる。 

※それと、WSHは、背が高く体格も良いということだが、同時に、牛乳は飲めなかったようだ。 牛や羊などの家畜も飼育していた農耕民のEEFは、当然飲めたはずだが(特に記載はない)、体格は小さかったようだ。 このあたりは、現在の常識から言えば、何とも説明に困る。 WSHは、ヤムナ文化やそれ以降の集団に移行するなかで、いつ頃、牛乳が飲めるようになったのだろうか(乳糖分解酵素を獲得したのか)。

 

 さて、ヨーロッパ全体の人種・民族集団のヤムナ文化までの変容の概要を見てきた。 次に、イギリス諸島の状況を見てみる。 

 中石器時代(前9000-4300年頃)から入ると、この時代のブリテン島では、現在のフィン人やサミ人、エストニア人などに高頻度に発現する遺伝子タイプを持つ集団がいた。  この時のブリテン島の集団は、他の西欧地域と同じ集団であったと言われる。 彼らの遺伝的特徴としては、眼は明るい色(pale coloured)、乳糖の分解酵素無し(牛乳が飲めない)。 髪の毛は暗くて(dark)、カーリーかウェイヴィー(波状毛)。 皮膚は褐色(very dark)か黒(black)だった。 (※WHGを示すものと思われる。)

 しかし、新石器時代にいた集団では、その遺伝子の75%は、小アジアからイベリア半島や中欧ヨーロッパ経由した農耕民(EEFと同じだと思われる)であるとされ、あとは、WHG(西方狩猟採集民)のものとされる。 ただし、ウェールズでは、WHGの遺伝子は全く見られず、イングランド南東とスコットランドには、WHGの頻度が高く、イングランド南西と中央部は、その中間的な値を示したとある。

※こういう風に、青銅器時代以前の集団の様子について、ウィキでは、とくにまとめた記述ではなく、各研究者の報告や文献を列挙している場合がほとんどである。

 また、このあたりの記載は、イギリスやスペインの先史時代のウィキを見ても、あまり記載がなく、EEF(Early European Farmers)のページなどで提示されていたものだ。 さらに、もう少し、そういう報告を挙げてみる。

 まず、Olaideらの2019年に出された報告によると、イベリア半島の初期の新石器時代では、EEFの集団がほとんど優勢であったが、中期新石器時代になるとWHGの流入があり、彼らの混入割合は、初期に比べ増加した、特に半島の北部と中央部で。 青銅器時代になると、WSHが大挙流入し、その遺伝子マップを大きく変えた。(父系で100%、全体でも40%)

 Braceらの報告(2019)では、新石器時代(前4000年頃)のイギリス諸島では、EEFの大量の流入があった。 80%のEEFと20%のWHG構成であり、イベリア半島の新石器時代の集団と密接な関係があると思われる。 この農耕民は、バルカン半島などから地中海沿岸を経由してきたものと思われる。 イギリス諸島では、この農耕民の侵入があまりに大きく遺伝情報をほぼ完全に置換した。  そして、この後もWHGの再流入は起こらなかった。

※以上の報告などをうけて、極く簡潔にまとめると、新石器時代(前2500年より以前)のイギリス諸島では、それまでの集団(WHG)に、EEFという農耕文化を持った集団が、それまでの遺伝子分布を大きく変えるほどの人口流入を果たした。 その農耕民たちの起源は、遠く小アジアやギリシャ近辺にあり、そこから地中海沿岸経由でイベリア半島(スペイン・ポルトガル)に到達し、さらにこのイギリス諸島にたどり着いたもの、と考えられる。

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EEF(農耕集団)の拡散図。 この図では、EEF由来の2つの土器タイプ集団の拡散を示している(数字は紀元前)。 この後、イベリア半島からイギリス諸島に移動した集団がいた。

 

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EEFの居住形態の想像図。 Stravaganza by Leopoldo Costa 2017より

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イギリスにいたEEF早期ヨーロッパ農耕民女性(復元)、前3600年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加) 

 さて、締めくくりとして、繰り返しになるが、ストーン・ヘンジやニューグレンジなどの巨石遺跡は、はるか小アジア(あるいはギリシャ・バルカン半島)に由来し地中海を経て直前にはイベリア半島にいたEEFと言われる農耕集団が、イギリス諸島に渡ってきてから作ったものである、と言える。

※そうであれば、定住農耕民族にとっては、季節や日照時間、太陽の位置などを正確に知ることは、おそらく狩猟民族より、さらに重要であったにちがいない。 そのあたりの要素は、これらの巨石遺跡の制作・造成に大きく関与しているものと考えられる。 

 次回こそ、ケルト民族自体を取り上げたいと思っている。