(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (20)

  2021年になってもうかなり経ちますが、この前の投稿から今回までの間に、私の住むここアイルランドも、そして日本も、新型コロナウイルスの感染状況がかなり悪化してきました。 特に、アイルランドは、少し前の数日間、感染者の発生率が人口比で世界最多というかなり厳しい状況にもなりました。 今は、少し発生数は減少しているようですが、私や家族もいつ感染してもおかしくない、と思っています。 そんなことで、ブログを書くことには特に支障はなかったのですが、なぜか書く気が起こらなかったというのが、本当のところでした。 で、今回は、日頃、私が格闘しているこの英語という言語の成り立ちを、主に民族の移動という点から見てみます。

 

⑳英語を形作ってきたゲルマンの諸民族

 少し前(第15回)に、フン族の西進に始まり西ローマ帝国の崩壊に繋がるいわゆる”ゲルマン民族の大移動”に関連した諸民族を書いたが、今回は、ほぼ同じ時期に、同じく父祖の地・北欧や北ドイツなどからブリテン島に移動したサクソン人やアングル人などの英語という言語の形成に関係していったゲルマン民族や、その後の約1000年の間に、さらに英語を進化させていった別のゲルマン民族たちの歴史を少し見てみたい。 

 このサクソン人・アングル人などは、フランク人やゴート人などに比べ、西ローマ帝国の崩壊を導いた”大移動”という観点からは、あまり重要視されていないが(こちらも、小規模ながらブリテン島にいたローマ軍を撤退させてはいるが)、それより、英国の建国の基礎を築いた点、さらに、その英国の発展とその後継国家であるアメリカの影響で今や世界語になった言語・英語の骨格をも形作った点で注目される。

  今回は、いつものウィキと、もう一つ、”the Story of English(英語の物語)”という1986年にイギリスで刊行された本も参考にする。 実は、この本と同じ内容のものが、かつてBBCでシリーズものの番組となり、その後すぐ日本でもNHKにより放送されたことがある(番組の日本語タイトルは、”英語についての第9章”みたいな?)。 そのテレビ番組では、当然、古英語や中英語そしてその他の言語や方言の発音をいろいろ例示していたので、その点は、この本よりさらに魅力ある媒介となっていた。 そして、私がまだ20代後半の頃で、英語への関心をより増進させてくれた記念すべき番組でもあった。 その時、ビデオにその9(?)回分すべてを録画したのだが、後年、再生するデッキも無くなり、いつの間にかそのビデオテープも消えてしまっていた。 

 ところが、2・3年前、こちらアイルランドの古本も扱っているチャリティーショップで、その番組の元となった本を偶然見つけたのである。 本があったとは知らなかったし、感激した。 昔、日本語版が発行されていたら、多分買っていたであろうから、日本語版は出ていなかったのではと思う?

 ということで、少し余談になったが、今回は、この本の最初の4分の1程度を再読して参考にしながら、ウィキの内容に加えていくため、通常よりさらに入り組んで読みにくい文章になるので、ご了承を。 

f:id:Ayasamoneu:20210122191027j:plain

                 私自身の写真より

 まず下図は、サクソン人などが本格的にブリテン島へ進出する少し前の時代を示している。 4世紀全体を通して、ローマ化されなかった現在のスコットランドやアイルランドにいたピクト人やスコット人が、度々ブリテン島中南部の元々同じケルト系であるがローマ化したブリトン人(the Britons)の領域を急襲していた。 そのため、ローマ軍は、幾度も壊滅のおそれもあったが、その度盛り返し持ちこたえていたようだ。

f:id:Ayasamoneu:20210119072038j:plain

383-410年頃のブリテン島(注釈無しは、すべてウィキペディアより)

 そういう状況下で、今度は、大陸からゲルマンの諸民族が、ブリテン島の東岸を中心に進出してくるのである。

 まず最初に、西暦400年代に起こったサクソン人(the Saxons)の移動から始める。 サクソン族が、最初にローマ帝国に明確に記されるのは、356年のことである。 その後、彼らは、ラインラントにいたフランク族のサリー人を追い払い、そこ地に侵入した。 

 そして、441-2年にかけ、サクソン人が初めてブリテン島に移住した、とゴール系の歴史家が書いている。 大陸にそのまま残り今日の北ドイツにいたサクソン人(やや南下したと思われる)が、最初に記録されたのは、555年にフランク王国の王が死に、その機会をとらえ、彼らサクソン人が王国に反乱を起こした時である。

 大陸のサクソン人は、その後も南下をする者が多く、現在のオランダ、フランス(ゴール地方)そしてイタリアなどに移動した。 オランダでは、今もサクソン語系の言語が残るし(あまり多くないが)、ドイツではサクソン(ザクセン)州などの地域名も残っている。

 さて、今回の主眼のブリテン島への移動であるが、これは、サクソン人を初め、アングル人、ジュート人、そして、フリジア人らが、共に西ローマ帝国の崩壊前後に新天地を求め移動し始めたことが発端である。 ただ、サクソン人の海の向こうへの移動は、フランク王国がサクソン領域へ伸張してきた影響があったためとも言われる。 

 その頃、サクソン人は、ブリテン島の南東海岸沿い(Saxon shore)に砦を築くのであるが、それ以前にも何世紀にも渡り、この地域を急襲していたようだ。(※上の図にもあるように、サクソン人だけ記載があるが(Saxon raids)、彼らサクソン人の行動が、のちにアングル人など他の民族・部族の行動を誘発するようになったのか?)

 ただ、ローマ帝国の崩壊前に、サクソン人は、このブリテン島での農耕・定住を許されていたようでもある。            

f:id:Ayasamoneu:20201229224308p:plain

サクソン人、アングル人などの移動の様子400-500年

 伝説によれば、サクソン人などの入植は、実は、この島に先住するケルト系のブリトン人(Britons)からの要請があったとされている。 それは、先の時代にもあったスコットランドやアイルランドのピクト人(Picts)やゲール人(Gaels)などのブリテン島(南部地域)への侵攻を防ぐためだったとも言われる。 

 そして、サクソン人たちは、ブリテン島南部に4つの王国及び地域を建てた。 すなわち、東サクソン人(East Saxons)が建てたエセックス王国(Kingdom of Essex)、 中央部のサクソン人による(Middle Saxons)のミドルセックス地方(province of Middlesex)、南サクソン人(South Saxons)のサセックス王国(Kingdom of Sussex)、そして、西サクソン人(West Saxons)のウェセックス王国(Kingdom of Wessex)である。

  以上、今回は言語の形成や変化の様子もある程度記述したいので、それを考えると、このサクソン人の移動の経過を少し長く書きすぎたが、次は、アングル人(the Angles)について。 彼らは、サクソン人に比べ、かなり以前からローマには知られていた。 1世紀の有名なタキツスのゲルマーニアに”Anglii'とスエビ族の支族として記されている。

 このアングル人は、ブリテン島に進出し、当初は、ノーザンブリア(Northumbria), イースト・アングリア(East Anglia), マーシア(Mercia)の3カ国を樹立した。  

f:id:Ayasamoneu:20210119070229p:plain

アングロ・サクソン七王国 600年頃

  次に、ジュート人(the Jutes)。 彼らは、今のデンマークの最北端に居住していた西ゲルマン民族であったが、彼らもサクソン人やアングル人と同様にブリテン島に移動して来た。 今のデンマーク国を形成する半島は、この民族名を冠して、ユトランド半島(Jutland)と呼ばれている。 ブリテン島に移動したジュート人たちは、主に、今のケント地域(Kent)やワイト島(isle of Wight)やハンプシャーなどに定住した。 また、彼らは、今のフィンランド方面にも多く移住した。 

 このジュート人のケント王国を初め、上記のサクソン人によるサセックス、ウェセックス、エセックスの3王国、及びアングル人の3王国の計7王国を総称して、アングロ・サクソン七王国(the Heptarchy)と呼んでいる(5世紀から8世紀頃まで)。 中央サクソンのミドルセックス地方は、アングルのマーシアに吸収されたようだ。

 この内、ウェセックス王国とアングル人の3王国の計4王国が、その後も勢力を保った。 それから、これら3つのゲルマン民族の他に、もう一つ西ゲルマン語族を話す民族が移住している。 それが、フリジア人(the Frisians)で、彼らは現在のオランダ沿岸辺りからブリテン島に渡り、ケント地方やイースト・アングリアなどに入った。

 このように5ー6世紀に、今のデンマークや北ドイツ・オランダあたりからブリテン島に移動してきて、新しい国家や言語を形成していったのは、主にこの4民族であった。 当然、この4民族が流入してきた当初は、彼らは、それぞれ自分たちの言葉を話していたものと考えられるが、互いの意思の疎通はほとんど問題なかった、と言われている。 ※そこまで言語が似通っていたなら、これはもう、彼らは互いに部族とか支族とか程度の差でしかなかったのかもしれない。 

 それから、この4民族が支配した地域では、互いに交流が進み、話す言葉は、より共通なものになっていったのは容易に推測がつく。 その初期の共通言語は、古英語(Old English)またはアングロ・サクソン語(Anglo-Saxon )と呼ばれている。 といっても、全く統一された言語ではなく、サクソン人やアングル人などのそれぞれの元の言語が中心となって、新しい土地でもそれを強く反映した方言として発展形成されていったのであろうと推測される。。 

 この古英語には、それまでこの地を支配していたブリトン人のケルト系言語の影響も多少文法的なもの(進行形などの表現)にいくらかあったようだが、語彙では、英語に残った単語は、”avon"(川、river)など非常に限られている。

 一方、これまでブリトン人の土地を支配していたローマ帝国のラテン語は、当時の西ヨーロッパのlingua franca(世界語}であり、古英語にも多くの単語を残しているようだ。 それは、これらのゲルマン民族がキリスト教に改宗した7世紀以降は、聖書などを通しさらに影響が強くなっていった。(discipline, shrine, preost(priest)など)。 また、ラテン語同様、ギリシャ語(apostle, pope など)やヘブライ語(sabbathなど)も同じ理由で導入された。

 さて、上記のゲルマン4部族の内、フリジア人の使うフリジア語(Frisian language)は、いまでもかなりの話者がオランダに居住している。 もちろん、彼らの言語も、その後の1500年もの年月で変化はしていても、英語に比べれば少ないものがあるのではないか? ここで、彼らの言語を少し紹介してみたい。 

英語: The boy stroked the girl around the chin and kissed her on the cheeks.

西フリジア語(West Frisian): De jonge  streake it famke om it kin en tute har op e hangen.

ドイツ語:Der junge striechelte das Madchen ums Kinn und kusste es(sie) auf die Wange.

(※すべて現代語。 ”少年は、少女の顎をなで、そして、彼女の両頬にキスをした。” ほどの意味。 なお、英語以外の言葉には、ウムラウトなどの特殊記号がいろいろあるのだが、ここでは表記できていない。)

 フリジア語でも、現在いろんな方言があり、ウィキではその多くを紹介しているが、ここでは中心的な方言である西フリジア語を取り上げてみたが、どうだろうか? あとで詳しく書くが、英語は、その後その語彙をかなりラテン語・フランス語などから借用しているので、単語の変化はかなりあるが、それでも、基本単語と思われる英語のthe、stroke、chin、 and、herなどの言葉は、みな同一語源であるように見える。

 農業関係の単語は、当時最も大事な言葉の一つであったはずだが、その関連の単語でも、フリジア語(カッコ内)と比べると、cow(ko), lamb(lam), goose(goes), boat(boat), dung(dong、肥え), rain(rein)など非常によく似ている。 また、a cup of coffeeもフリジア語では”in kopke kofje"である。

 そして、何より 文の基本構造自体が、非常によく似ている。 このように現在の言葉でも、これだけ類似しているのであれば、アングロ・サクソン七王国時代の各民族・部族の言葉は、相当似通ったものであったに違いない、と改めて言えるだろう。

 

 古英語そのものに戻るが、土地を追われたケルト系のブリトン人にとっては、当初、この征服者たちを、皆サクソン人だと見ていたようだが、しだいに彼らをアングル化した名称で呼ぶようになる。 この地の人々は、Angelcynn(Angleーkin) と呼ばれ、この地域は、Englisc と呼ばれるようになった。 さらに、西暦1000年までには、この地域はAngles の土地、すなわちEnglalandとして知られるようになる。

 さて、今現在の英語・近代英語(Modern English)の最も基本的な100の単語は、すべてアングロ・サクソン由来である、と言われる。 これも、農業や基本生活物資関連の言葉が多くなるが、列挙すると、the, is, you, here, there, sheep, shepherd, dog, swine, ox, plough, earth, wood, field, work など数え切れない。 また、今も単語としては残っていても、意味が異なっている場合もある。 例えば、Merry Christmasの”merry"は、古英語では”agreeable(快い、同意できる)”というほどの意味であった。 

 その後、七王国の中でも、特にウェセックス(Wessex)、そして、後にはマーシア(Mercia)も、英語の発展形成の上で主要な地位を占めていくが、800年頃のイングランドでは、下に示すように主に4つの方言区域に分割されていた。 この内、MercianとWest Saxon (※言語としては、Wessexではなくこの言葉を使うようである。 西サクソン語とでも?)の境界は、テムズ川である。 

f:id:Ayasamoneu:20210120055803p:plain

800年頃の古英語の方言分布

 さて、この時代のすぐあと、英国及び英語の形成に大きく影響を与える、別のゲルマン民族が、また同じく北欧から襲(や)ってくるのである。 ヴァイキング(the Vikings)である。 これについては、アングロ・サクソン年代記(AngloーSaxon Chronicle)という、ウェセックスのアルフレッド大王時代から古英語で書かれた非常に重要なアングロ・サクソンの歴史書に、その経緯が詳しく記されている。

 9世紀頃、今のノルウェイやスウェーデンの南部、デンマーク辺りにいたヴァイキングは、ブリテン島やアイルランド、さらにロシアなどのヨーロッパ各地、そして、遥か北アメリカ大陸へも進出していったのである。 一説では、彼らの移動の主目的は、ヴァイキング社会は一夫多妻制なので、男たちはより多くの女を求め、周辺の国々に侵攻していった、ということのようだ。

f:id:Ayasamoneu:20210120070913j:plain

9世紀、ヴァイキングによる婦女略奪(19世紀の絵画)

 ウェセックス王Beorhtric(786-802)の時代、北の男たち(Norsemen)を乗せた3隻の船が、ドーセットの港に上陸した。 土地の役人が、彼らを宗教者と間違えて村に迎え入れたが、北の男たちは、その役人と村人たちを殺してしまった。 そして、ヴァイキングたちの一番最初の計画的侵攻は、793年1月6日に起こった有名なノーサンブリア(Northumbria)の海岸にあったリンディスファーン(Lindisfarne)島の修道院への急襲であった。

 さらに、865年以降、今のデンマークあたりに住むヴァイキング・デーン人(the Danes)が、侵攻に加担し、やがて彼らは東アングリアを中心にその占拠する地域を拡大し、のちにノーザンブリアのヨーク地方も制圧した。 これらの占領地が、後にデーンロー(Danelaw)と呼ばれる地域である。

 アングロ・サクソンの諸王国は、この侵攻にほとんど抵抗できなかったが、唯一ウェセックスのアルフレッド大王(Alfred the Great)は、878年、ヴァイキングのリーダーGuthrumの軍隊にエディングトンの戦いで勝利し、その後協定を結んで旧アングロ・サクソン諸王国とデーン・ヴァイキング国家の棲み分けのための境界線を確定した。(the Danelaw)

 しかし、その後も、両者の小競り合いは続いたが、アルフレッドの後継者たちは、徐々にデーンロー地域を縮小させ、やがてヨーク地方も奪い返した(919年頃)。 そして、アングロ・サクソン人とデーン人との混血混住も進む中、ウェセックス王国とマーシア王国の血を引く後継者たちは、10世紀中頃までに全イングランドを統一した。(ただし、イングランド最北西の地・カンブリアCumbria 地方は、11世紀末まで含まれなかった。) 

f:id:Ayasamoneu:20210120061946p:plain

878年、デーンロー区域(赤色)とアングロ・サクソン諸王国(茶色系) 

 さて、旧アングロ・サクソン領域では、ウェセックスの力が強かったので、その方言・West Saxon(西サクソン語) が、域内の主要な言語となった。

 デーン人を初めとするこのヴァイキングたちは、同じケルマン民族でも北ゲルマン語族に属する古ノルド語(Old Norse)を話す民族だった。 この古ノルド語は、それまでのアングロ・サクソンやジュートそしてフリジアの4部族の話した言語・西ゲルマン語族に比べ、幾分かの違いがあったはずだ。 

 この間の民族の移動をもう少し説明すると、5世紀あたりでは、今のデンマークを中心に北ドイツ、オランダなどにいたのは、既述の西ゲルマン語を話すジュート人やアングロ・サクソン人であったが、8世紀頃では(正確な時期など詳細は不明だが)、デンマークに住む民族は、その北のスウェーデン南部やZealandあたりから南下してきた、それまでヴァイキングと呼ばれていた集団である。 その後、この地のヴァイキングはデーン人(the Danes)と呼ばれるようになった。 なお、ブリテン島などに移住せずにデンマークに残ったジュート人などは、のちに、このデーン人の集団に埋没していったと考えられる。

 さて、この古ノルド語を話す民族の流入によって、英語はどう変化したのだろうか? 一説には、この古ノルド語は、英語の進化という点で最も大きな影響を与えたとも言われる。 まず、この古ノルド語は、基本的には古英語の文構造に大きな差はなく、両者はあまり苦労せず意思の疎通ができたようである。 ある種の文末の表現などが違っていただけのようだ。 

 また、単語も似たような形のものが多かったようだが、かなりの単語が古ノルド語から古英語の語彙に流入してきた。 たとえば、デーン人は多くの地名などを残した他、戦いや法律用語などに関連したwindow, knife, plough, leather, raft, husband,  bylawなどの多くの単語や、木曜日などの曜日の名称を英語に残していった。 既述のように、古英語と古ノルド語には、文法的には幾分かの差異があったようだが、集団の交流が増す中、それを解消するように英語の文法はより簡略化していくようになった。

 例えば、この時代のアングロ・サクソン人と古ノルド語のデーン人の文を比較してみると、現在英語で、I'll sell you the horse that pulls my cart. (私の荷車を引っ張っているあの馬をあなたに売ろう。)という文を、アングロサクソン人は、”Ic selle the that hors the draegeth minne waegn. ”と言い、  一方、デーン人は、” Ek mun selja ther hrossit er dregr vagn mine. ” と言っただろう。 この内容の文なら、互いに大意はつかめたであろうが、問題は、アングロ・サクソンの古英語では、”hors"の場合、単複同形だったので、デーン人には何頭の馬を売りたいのか、分からないということがあった。 こういう問題が、簡略化で解決していく。 

 なお、アングロ・サクソン人は、最初はほとんど文字による伝達がなかっと言われるが、後には、このヴァイキングたちと同じようにルーン文字を使っていた。 しかし、これはブリテン島では、10世紀頃にラテン・アルファベットに置き換わっていった。

 余談だが、このヴァイキングたちは、ロシア方面へも進出し、現地のスラブ人たちと混じり合ったようなのだが、言語においてはこの地域ではほとんどその痕跡を残していないようだ。 両者の言語の違いが多き過ぎたことと、ヴァイキング人口の相対的な数の少なさによるものと言われる。

 英語に戻って、古英語(Old English、OE)は、時代によりさらに3期に分けられている。 450-650年頃までは、前史古英語(Prehistoric OE)とよばれ、アングロ・サクソン語及びその4方言の時代であるが、文献的証拠はほとんど無い。

 それから、650-900年頃までは、早期古英語(Early OE)と呼ばれ、そして、それ以後1150年頃のノルマン人の征服時期までを後期古英語(Late OE)と呼んでいる。 その後は、早期中英語(Early Middle English)に移行していく。 このデーン人やヴァイキングが来襲し定着していく時代は、早期古英語の終わりとほぼ一致する。

 ここで、改めて古英語の一般的な特徴を書いていくと、まず文法では、格は5つあった。 名詞は男・女および中性名詞の3形態。(※近代英語では無くなった。ドイツ語は同じく3形態。) そして、単数・複数の区別も当然あった。 ※参考:例えば、格が多いということは、それがしっかりしていれば、文の中の各単語の位置はあまり重要ではない、ということになる。

 たとえば、近代英語では、”to"や”from"などの前置詞が置かれるが、古英語では、"the king" を "se cyning" と言い、"to the king"を "thaem cyninge" と言っていたように、格の形の違いで意味が理解できた。 また、複数形の変化も、古英語では、例えば one "stan"(stone) , two "stanas"(stones) のようであった。 

 他にも例を挙げると、地名ではBirmingham などの”ham” 、Brightonの”ton”、 Oxstedの”sted”などの語尾がつく地名は、アングロ・サクソン由来であり、Derby の”by”や Swainswickの” wick”が付く地名は、デーン人やヴァイキング由来である。 さらに、既述したが、単語は似ている部分も多いので正確にノルド語由来と言うのは難しいものもあるが、get, hit, leg, low, root, skin, same, want, wrong などの少なくとも900語は、北欧由来である。 また、skyなど”skー”で始まる単語も古ノルド語系である。 

 ここで最後に、聖書にある古英語をいくつか書いてみる。(かっこ内は、現代英語)

Ume daeghwamlican hlaf sele us todaeg      (Give us our daily bread today.)

And forgief us ure gyltas, swa swa we forgiefap urm gyltendum   (And forgive us our             debts, as we forgive our debtors.) ※ここでも、古英語に多くある特殊な記号(文字上の・など)は、書けていない。

 どうであろうか? ウィキには、発音の仕方もあったが、ここでは表記不可能なので載せてないが、これらの単語以上に発音では、現在英語との差が大きいようだ。 

 

  さて、それからまた100年ほど経過し、次に英語(この時はまだ古英語)の発展に大きな影響を与えた集団も、その大元は、同じゲルマン民族でありヴァイキングでもあった。 しかし、彼らに付けられた新しい名前は、ノルマン人(the Normans)というものであった.。 

 北欧のヴァイキングは、ヨーロッパ各地に侵略していったと先に述べたが、その一つの地域が、現在のフランス北西部にあるノルマンディー半島である。 この地に定住したデーン人を中心としたヴァイキングは、元々この土地にいたフランク王国のフランク人やガロ・ローマ人たちと混ざりあった結果、9世紀の前半には、ノルマン人としてのアイデンティティーを確立したという。 ちなみに、ノルマンという語は、北の男という意味の言葉(Norsemen など)から派生しており、さらに、そこから地名のノルマンディー(Normandy)も生まれたようだ。

 言語面で言えば、このノルマン人は、最初土地のガロ・ロマンス語を借用していたが、彼らの古ノルマン語方言(Old Norman dialect)は、ノルマン語(Norman)またはノルマン・フランス語(Norman French)と呼ばれる言語となっていった。

 このノルマン人のノルマンディー半島は、やがてノルマンディー公爵の土地領土として継代されていく(ノルマンディー公国)。 そして、彼らは、別のヴァイキング集団が作った対岸の国・イングランドにもその勢力を伸ばし、1000年頃以降、姻戚関係などによりノルマンディー側は、イギリスへの本格的な侵攻を図った。 11世紀半ばには、イングランド王位を奪い、多くのノルマン人貴族などが流入し、その宮廷からアングロ・サクソン人を追い払った(ウイリアム征服王、Willium the Conqueror)。 

f:id:Ayasamoneu:20210122221420p:plain

ノルマン人が征服した地域(赤色)1130年頃

 実は、このノルマン人の来襲の数十年前に、デンマークにいたクヌート大王(Cnut the Great)というデーン人の王が、先にイングランド全域及び北欧も支配するという動きがあった。 

 さて、ドーバー海峡の両岸の国々を治めたノルマン人であるが、やがて、彼らにとって、イングランドの方がより重要な土地になった。 そのイングランドで彼らの使う言葉は、アングロ・ノルマン語(Anglo-Norman)または、アングロノルマン・フランス語(Anglo-Norman French)呼ばれる新たな言語であった。 

 しかし、そのアングロ・ノルマン語という名前であるが、この言語は、古フランス語の方言の一つから派生した古ノルマン語(Old Norman French)に由来しており、基本はほとんどフランス語であった。 この新しい言語は、古英語に対して、文法的にはあまり大きな影響を与えていないが、膨大な単語を注入し、英語の語彙を豊かにした。 既述のように、征服ノルマン人は、王侯や貴族、上流階級の人間が主体であったので、言葉の上でも、宮廷言葉や政治・法律などの関係用語がまず流入した。

フランス語 >ノルマン語 >英語   フランス語 >ノルマン語 > 英語

chateau           caste              castle    chasser       cachi       catch

 chaptel      cate     cattle    jardin     gardin       garden

 chenil      kenil      kennel   poche             pouquette      pocket

 このアングロ・ノルマン語は、しかし、初期では、一般庶民の言語生活を変えるほど大きなものではなかった。 それは、この上流階級だけで流入人口が少なかったことや、イングランドでの混血が進んだこと、そして、ノルマンディー半島が、13世紀初めに、彼らの領土でなくなるという事態が起こったことでフランス語との決別の意識が生まれたなど、それらの要因で英語への影響が当初は限定的であった、と考えられる。 

 しかし、これらの新しいフランス語やラテン語由来の単語は、時代が進むにつれ社会や文化の高度化も進み、その需要が一層増し、同時に一般庶民の教育水準や識字化の向上も相まって、徐々に英語の語彙として確実な地位を得ていく。 attorney, nobility, felony などなど。 そして、これまでの単語と合わさって、英語では、一つの概念に2つ以上の語彙が生まれるのである。 例えば、royal- regal - sovereign や  time-age-epoch など。  

 最後に、下図は、やや古いが、現在英語の語彙の由来を示している。 もちろん、どの分野の単語を多く採用するかで、傾向は若干異なるが、原語のゲルマン語とラテン語、フランス語の割合が、ほぼ同じくらいの比率になっているのは、驚きだ。 

f:id:Ayasamoneu:20210122040455p:plain

オックフォード辞典の8万語よりその語源を調査、1973年

 以上、見てきたように、古英語に始まる英語の変化(進化)は、いくつかの異なる集団であったが、どれも皆同じゲルマン民族によって形成されていった。 ただし、語彙的には、彼らゲルマンの諸言語の基礎語に加え、ラテン語、フランス語などから多くの単語が借用されてきたのも事実である。

 今回は、英語の変化の凡例も含めたので、かなり長い文章になってしまった。 しかし、私自身、デーン人とヴァイキングそしてノルマン人という各存在の定義が、あまり判然としていなかったところがあり、この度、それがはっきり確認できた。

 なお、英語は、これ以後、中英語(Middle English)、そして、近代英語(Modern English)へと変化していく。 そこでは、印刷術の利用に絡む各方言と綴り(スペル)の関係、ラテン語などの継続的な流入、そして、母音の発音が大きく変化する大母音推移(Great vowel shift)などにより、英語には、形態的にさらなるダイナミックな変化が起きる。 

 非常に大事なので極く簡潔に書いておくが、英語の綴りと発音は、非常に一貫性がない。 というのは、この各地の方言の発音とそのスペルをゴチャ混ぜにしたからであり、また、私が長年疑問に思っていた(それまで、英語の主語は、IcとかIk、Ichとか書かれ、イクとかイッヒとかと発音されていたのが、今のI(アイ)という極めて異なる発音になったのだが、それが具体的にいつ頃だったのか?)という疑問は、ウィキに大母音推移という現象で詳しく説明されており、大いに参考になった。

※ちなみに、最初に紹介した本”英語の物語”では、この大母音推移は、巻頭の詞の中でその単語が一言書かれているだけで、本文のどこにも説明など一切無い。 巻頭の詞は、普通、本が発行される直前に書かれるので、その時期の最新情報が盛り込まれることが多い。 ということは、この大母音推移は、1980年代後半になって、やっとその現象が解明され始めたのかもしれない?

 ということで、現在までの英語自体の変化を正しく書くには、この大母音推移などをしっかり書くべきところなのだが、今回は、字数が大変多くなったことと、このゲルマン民族の移動という観点からであったので、それ以後の時代の変化については割愛した。

 なお、次回は、どの地域をテーマにするか、今検討中なのであるが、ナカナカ思いつかない。 そろそろ東アジアに行くべきか?

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (19)

⑲ オスマン帝国までのテュルク系民族国家の系譜

 この書き込みの第8回及び9回あたりで、テュルク系の民族の移動を少し書いたが、現在のトルコ人の直接の成り立ちそのものは、ほとんど書いていなかったので、ここでもう少しだけ掘り下げてみたい。 といっても、歴史の事実の変遷を細かく取り上げるわけではなく、これまでと同様、図などとともに簡潔に記すだけであるが。

 さて、フン族の由来は匈奴、あるいは、アヴァール人の出自は柔然である、などの説はよく言われ、ここでも少し書いたが、絶対的な確証は今のところないらしい。 しかし、セルジュークやオスマンなど今のトルコ共和国に直結する王国・帝国を建国した民族の起源は、今のモンゴルや中国北方にあった突厥(Gokturks)であるのは、ほぼ間違いのないところらしい。

 ただし、突厥以降に入る前に、まず言わなければならないのは、テュルク系民族は、そのずっと以前に出現しているということであり、その起源は、今の中国東北部あたりと考えられている。 今のシベリアの最北・サハ共和国にもテュルク系の民族がいることを鑑みれば、それも理解しやすい。 

 その後、テュルク族の主流は、徐々に西方に移動し、数多くの民族・集団を生み出していくことになる。 ウイグル人やカルルク人、現在の中央アジアの諸民族(カザフやキルギスなど)なども、このテュルク系である。 その間、中国北方ではモンゴル語系などの集団、そして、西域やその以西の地域では、イラン系の集団などとも入り交じり、多様な民族が分岐・形成されていった。

 ただ今からは、初めに書いたように、そのテュルク系の中でも現在のトルコ共和国に繋がる中心的氏族・家系に焦点を当て、その移動の変遷などを英ウィキを中心に見てみたい。

※その前に、国としての突厥(とっけつ)の英語表記は、The Gokturk Khaganate や The first Turkic Khaganate などがある。 Khaganate という言葉は、可汗Khaganや汗khanなどのテュルクやモンゴル系の最高権力者の治める国という意味で使われる。 King王 のkingdom王国と同じ意味合い。 また、英語では、突厥をFirst Turkic Khaganateと歴史上の最初のテュルク系可汗国と明記もしていることにもなる。

 なお、これらの表記や発音に関しては、なかなか難しいものがあり、日本語ウィキペディアでは、このタイトルとしてのKhanは、ハーン(ハン)を主に使っている。 しかし、モンゴル帝国の始祖・成吉思汗(漢字表記)を日本語ウィキでは、チンギス・カンと書いている。 チンギス・ハン(ハーン)ではなく、ジンギス・カンでもない。 英語では、Genghis Khanと書かれ、ジェンギス・カーンのような発音になっている。 とにかく、外国の地名や人名を日本語に置き換えるのは、とても難しい。

f:id:Ayasamoneu:20201213221641p:plain

576年、突厥の最大勢力図

 突厥族は、イェ二セイ川の中上流域(モンゴルのかなり北西)が起源とされる。(※キルギス人などもそうであるが、原初は、シベリアのかなり北部から来ているように言われる。 これは、テュルク族が、それ以前すでに中国北方やシベリアに広く分散した結果によるもので、ある集団は、ある地で再度大同結集し、勢力を伸ばし、国家形成などという大きな流れになっていったもの、と推測する。)

 突厥は、中国北方を支配していた柔然の下で、鍛鉄奴隷として鉄工の生産に従事した。 その鉄工の技術は、柔然以前の匈奴の時代に得たものらしく、やがて、この鉄器生産技術でこの地方の有力な部族となり、周辺の民族(契丹族、キルギス人、エフタル人など)を征服したり併合したりして、550年頃には西はアラル海に届く広大な国となる。 しかし、突厥は582年頃、東西に分裂する。

f:id:Ayasamoneu:20201214023021p:plain

7世紀初めの東西突厥可汗国

 東突厥(the Eastern Turkic Khaganate)は、中国・唐王朝から侵略をうけ、その支配下(きび政策)に入る(630-680年頃)。 その後、再興して680年頃から744年頃まで存在する。 この再興後の国については、英語では、Second Turkic Khaganate(第二テュルク可汗国)と呼ばれている。 なお、唐朝支配以前を第一テュルク可汗国とも言う。 (※これらの名称は、他にもテュルク系部族があることを考えるとあまり適切でないように思うが?) 第二テュルク可汗国は、後突厥という漢字名(中国名?)もあり、中国でも分離して扱っているのかもしれない。

 ともかく、この東突厥は、744年頃までに、同じテュルク系のウイグル族やカルルク族などの部族により滅びる。 

 一方、西突厥(the Weastern Turkic Khaganate)も、650年頃から唐の支配下に入り、その後、780年頃には、カルルクとウイグルに従属していき、その中に埋没していく。

 この西突厥の崩壊の後、そのテュルク系の集団は、様々に分散していき、また別の国家を樹立する集団もあらわれるが、その中で、後にセルジーク・トルコやオスマン・トルコ帝国を建国していく集団(氏族・家系?)が現れる。 それは、ほとんどの日本人にはあまり馴染みのない名であるが、オグズ族という。 (※この名前は、私が持っている高校生用の世界史年表には全く出てこない。なお地理的には、西突厥は見てきたように、すでにアラル海周辺にも領域を広めていたので、のちの各テュルク系集団は、それほど西進したということでもない、と言えるのかも。)

 オグズ国(Oguz Yabgu State):オグズ族(Oghuz Turks)によって766年に建国。 オグズは、突厥で元々中心的な役割をしていた部族(十姓)であったわけではないようだ。 このオグズ族の言語、オグズ語は、現代のトルコ語と直結しており、これらの言語・文化を持った集団が、後のセルジュークやオスマン建国の中心的な存在であることは間違いないようだ。

 9世紀初め、オグズ族は他のテュルク系集団と共に、カンガル国を破り、西はアラル海近くまで勢力を広げる。 965年、オグズ国は、キエフ・スラブ系とともにハザール国と戦い、985年には、同じくキエフ軍とともにヴォルガ・ブルガールを破り隆盛した。

 しかし、10世紀後半には、国内のセルジューク一族との対立が激化、11世紀には、セルジューク族は、ペルシャや中東に移動し始める。 オグズ国の最後のリーダー・Shahmalikは、1041年にガズニ朝からホラズム(地方)を奪ったが、その2年後、彼はセルジューク族に捕まり処刑される。 内部分裂で弱まったオグズは、キプチャク族(これもテュルク系)によって滅ぼされる。

 多くのオグズ人は、東ヨーロッパに逃れ、セルジューク族は、南の小アジアに向かった。 その他のオグズは、セルジーク朝やカラ・ハン朝に移動したり、その地でキプチャク汗国に混入した。 このオグズ族の分散は、しかし、今日の様々なテュルク系住民の形成に貢献した。  オグズは、当初は、以前からのシャーマニズムを信仰していたが、のちにイスラムとなった。

f:id:Ayasamoneu:20201218074607p:plain

オグズ国(黄土色)及びカラハン国(薄紫色)の位置。 その他の周辺国もテュルク系が多い。 

 

 オグズ国のあった地域は、その以前の750年頃までは、同じテュルク系であるが、突厥の中心部族とは直接繋がらないKangar Union(カンガル連合国?)があったし、また、その西隣にはハザール国Khazar Khaganateなど(※同じような国名が並ぶ。語源が同じようなものだったためだと思われる。)があり、また、オグズの東隣りの地域では、960年頃、オグズ国より少し遅れて、これもテュルク系国家が誕生する。(さらに突厥系とも言われる?) 

 それは、カラ・ハン朝(Kara-Khanid Khanate)と呼ばれる。(※ただし、カラ・ハン朝の言語とウイグル語などは、近い関係であるのに反し、上記の現代トルコ語などのオグズ語群には属してないので、やはり系統はやや違うのか?)

 カラ・ハン朝は、11世紀半ばに東西に分裂。 このあと、東西カラ・ハン朝は、セルジュークトルコと一時争ったりしたが、後にセルジュークと協力して、契丹族系のカラ・キタイ国と争った。 東西カラ・ハン朝とも13世紀初頭前後に滅亡する。 

 このカラ・ハン朝が重要なのは、この国の時代に、初めて多くのテュルク系住民がイスラム教に改宗したことである(10世紀半ば)。 そして、名前や敬称もイスラム化した。 汗や可汗の称号は残ったが、やがて、これもスルタン(Sultan)に代わっていく。 なお、イスラム化したテュルク系遊牧集団をペルシャ語でトゥルクマーンという。

 なお、この頃のテュルク系の人種的外見は、周辺のイラン系やアラブ系からは、かつてのフン族などと同じような東アジア系の容貌(目が小さい、頭が大きいなど)であるらしく、それは、次のセルジューク朝の時期(全期間かどうかは?)でもそうであったらしい。

 セルジューク・トルコ(Seljuk dynasty): 初代のセルジュークは、オグズ族24氏族の内のクヌク家(qiniq、またはカニク家)の出身で、一族の長(bey)であった。 セルジュークは、985年頃までにはハザール国の軍隊に属していたが、今のアラル海南部低地に移動し、イスラム教に改宗した。 そのころ、この地域は、ペルシャ系のサーマーン朝に帰属していたが、999年までには、カラ・ハン朝に属し、南部はガズナ朝に支配されていた。 セルジューク集団は、サーマーン朝に組みし、カラ・ハン朝との戦いに参加した。

 セルジュークの孫、Tughril(テュグリル?)は、ガズナ朝(同じテュルク系)との諍いを繰り返していたが、1040年にこれを打ち負かし、その西半分の地を支配する。

 1046年までに、セルジューク集団は、現在のイラン北部まで征服地を広げた。 1048-49年には、この集団(the Seljuk Turks)は、ビザンチン帝国の領地であった小アジアの東側国境にまで進出。 1055年には、バクダッドを攻略し、時のカリフ(caliph)から信託を得る。 

 Alp Arslan (Tughrilの甥)は、その後も領土を拡大し、1068年には、ビザンチン帝国の支配地だった小アジア(アナトリア)のほぼ全域を収めた。

 

f:id:Ayasamoneu:20201218074922p:plain

1092年頃のセルジューク帝国

 Alp Arslan の後継者Malik Shah は、さらに帝国の領土を拡張し、東は中華帝国と西はビザンチン帝国とに境界を接するようになり、最盛期を迎え、Malik Shahは、時のカリフからスルタン(sultan)の称号を与えられる(1087年)。(※と、書いてあるが、11世紀の後半頃は、中華の王朝(この時は、北宋)とセルジューク朝の地理的間には、東から西夏・ウイグル・カラハン朝(セルジュークに従属していたかもだが)などがあった、と思う。)

 Malik Shahの死後、帝国は、息子たちや兄弟によって、分割統治される。 その中で、後に唯一残るルム・セルジューク(Rum Seljuk)国も生まれる。 Malik Shahの息子・Ahmad Sanjarは、兄弟との確執の後1118年にリーダーとなるが、1141年にカラ・キタイ(Kara Khitans)との戦いで初めて敗れる。 その後、帝国は衰退し、さらに、同じ帝国内の集団によって崩壊していく。 1157年にSanjarは死に、1200年代早々に帝国は、ホラズム(Khawarazmiasnsなど英語では多くの表記がある?)によって滅亡する。

  セルジューク帝国の関連でもう一つ重要なことは、彼らがこの間エルサレムを含む地域も占領したことにより、西欧諸国がその奪還のために十字軍を起こしたことである「1095-6年、第1回)。

 ルム・セルジューク(Rum Seljuk, Sultanate of Rum) :  既述のように、セルジューク朝の時にすでに、ルム地方(アナトリア中部)を管轄するスルタンの親戚一族がいた。 ルムとは、簡単に言えば、ローマの意味で、この辺りがビザンチン帝国領だったことによる。 やがて、この一族は、1077年には、このあたりの領有を主張し、自らスルタンを名乗る。 そして、十字軍とは、主にこのルム・セルジュークが迎え撃つことになる。

f:id:Ayasamoneu:20201227214526j:plain

ルム・セルジューク、1100-1240年

 ルム・セルジュークの最盛期は、1200年代の初め頃であった。 首都は、Konya. その後、モンゴル帝国がこの地に侵入し、ルム朝は従属した。 さらに、1260年頃には、当時のスルタンの死後、3人の息子たちにより地域は3分割される。 さらにその後、少分割され、1320年代にカラマン朝(これもオグズ族出身)によって滅ぼされる。

 オスマン帝国(Ottoman Empire): 13世紀には、上記のルム・セルジュークは衰退し少分割されていたが、その内の一つで、ビザンチン帝国に接する地域を治めていたのが、テュルク系の部族長・オスマン1世(Osman)であった。 オスマンは、オグズのKayi部族の出身であるという。 英語の国家名Ottomanは、このOsmanから由来。 オスマンに従う者は、テュルク系の他にビザンチン帝国から逃れた者などで、多くはイスラム教徒だったが、そうでない者もいた。 彼らは、その勢力を現在のトルコ西部に流れる川・Sakarya川沿いに拡大していった。 ただし、このオスマンが、その周辺国をどのように制圧していったのかは、資料があまりなくよく分からないという。

 オスマンの死後(1324年)から14世紀末までに、この国は、小アジアとバルカン半島を手中にしていた。 その間には、ビザンチンやブルガール、セルビアなどとの戦いがあった。 1389年のコソボでのセルビアへの勝利は、その後のヨーロッパへの進出の道を開いた。 さらに、1396年のブルガリアとの戦いに勝利したことで、ビザンチン帝国の領土は実質、首都のコンスタンティノープルだけとなった。

 しかし、このコンスタンティノープルは、堅固な要塞都市であった。 また、1402年には、オスマン帝国は、東からのチムール帝国との戦いに破れたり、内戦などのためバルカン半島を失った。

 しかし、ムラド2世(Murad)の治世時(1430-1450年代)に、ハンガリーやポーランドなどに対し、ヴァルナの戦いなどで勝利しバルカンの土地を奪い返した。 そして、ムラド2世の息子・メフメト2世・征服王(Mehmed the Conqueror)は、1453年5月29日、コンスタンティノープルを陥落させた。

 

f:id:Ayasamoneu:20201218075438p:plain

オスマン帝国、1566年時の勢力範囲

  オスマン帝国の歴史は、膨大に長く、とても紹介しきれないし、民族の変遷というここのテーマでは、それほど重要でないので、端折るが、その後もオスマン帝国は勢力を伸ばし、16世紀末頃にその最盛を迎える。 ただ、その後もこの地域に大きな影響力をもち続け、20世紀初頭まで存続したのは、誰もが知っているところである。

 それで、私のより興味のある民族的・人種的な変化について少し見てみたいが、今回見てきたテュルク系の国家・集団を扱ったウィキには、遺伝的な分析調査の記述は、非常に少ないか、ほとんど無かった(見つけられなかった)。 しかし、上記に書いた、セルジューク朝までのテュルク人たちは、まだ東アジア系の容貌を残していたという証拠になるかもしれない写真は数枚あった。 

f:id:Ayasamoneu:20201228055222j:plain

1307年頃に描かれた当時のスルタンBarkiyaruq(1092-1104)の戴冠の様子

f:id:Ayasamoneu:20201228055326j:plain

スルタンArmad Sanjar(1118-1153、最後のスルタン)の戴冠の様子(上と同時代同画家による)



f:id:Ayasamoneu:20201228055650j:plain

”セルジューク朝の女性”とだけ説明がある。

 さて、上の3枚の写真を見て、どうだろうか? 女性の塑像は、まさにアジア系であると言えると思うが、残念ながら年代などタイトル以上のことは何もわからない。 2枚のスルタンの肖像画はどうだろうか。 100年以上後に描かれているらしく、画家自身がテュルク系(イラン系か?)かどうかも分からない。 それらの要因を考慮すると、実物よりもっと西洋化あるいはイラン化した容貌に描いたとも想像できる。 スルタンの目元などは、かなりそのいう要素が入っているようにも見える? しかし、取り巻く人間の中には、よりアジア系の容貌を示すものも認められる。 これらの絵からは、少なくとも現在のトルコ人のように完全に周囲の民族と違わない西洋化(あるいはイラン化・アラブ化)した容貌ではない、ということは言えるのかもしれない。

 

 次に、オスマン時代のスルタンの肖像などを探してみたが、ウィキ上にあるのは、初代のオスマン1世からして、すでにかなりイランや西洋風の顔立ちであった。 少し探してみたが、アジア系を思わせるオスマンのスルタン画像は、ウィキでは見つけられなかった。 やはり、オスマンの時代まで下ると、もうすでにイラン化・欧州化の外見に完全に変化したのであろうか?  次の写真を見てほしい。

f:id:Ayasamoneu:20201228035436j:plain

メフメト2世(征服王)時代のヨーロッパ(オスマン治世下のバルカン半島だけだと推測されるが)に出た青銅製メダル(1481年)

 これは、おそらく忠実にメフメト2世を描いたものと思える。 しかも同時代のものと思われる。 先の二人のセルジーク朝のスルタンから約300年後のスルタンである。 

 最後に、オスマン朝の肖像は、初代から皆アジア風ではなかったと既に書いたが、そのうちの1枚を貼っておく。 これは、まさしくその初代・オスマン1世の肖像である。 どうみても、アジア系の面影は無い。 これら歴代のスルタンの肖像画は、恐らくトプカピ宮殿にあるものだろう。 私も、ちょうど20年前にイスタンブールに観光に行った時に見た。 なので、宮殿の資料を調べれば、この肖像画の描かれた経緯が分かるのかもしれないが、ここではやっていない。

 だが、繰り返しになるが、恐らくこの時点(オスマン1世)では、もう周辺の民族との遺伝的融合が、そうとう深まっていた、と言えるのだろう。

 このあたりについては、また何か新しい情報でもあれば、記してみたい。 

(※以上で一旦この回を公開したが、その後、トプカピ宮殿などのページを見てみると、メフメト2世・征服王以後は、実際の各スルタンのその治世時に肖像を描かせたようである。 メフメト2世以前の肖像は、残った本人に関する記述や想像で描いたようである。)

f:id:Ayasamoneu:20201228192013p:plain

オスマン1世の肖像

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (18)

⑱ ヨーロッパに侵入したその他のアジア系民族

 一般には、フン族やモンゴル帝国のようにそれほど知られているわけではないが(?)、彼らと同様に、アジア地域からヨーロッパに進出(侵入)した民族は他にもかなりある(一部はその後定着も)。 以下に、その主なものを簡潔に記す。 

 まず、マジャール人(Magyars):マジャール人(ハンガリー人Hungarians人種民族的には同義語、社会的・国籍的には当然異なる。 なお、ハンガリー語では、長音とならずマジャルと言うのが正しいようだ。)は、ウラル系言語(Uralic  languages)を話す民族で、4ー5千年前には、ウラル山脈の東、西シベリアあるいはヴォルガ川中流域に発祥したと言われる。 前2000年頃までには、ウラル語族の中から、後のマジャール人たちを含むウゴル諸語(Ugric languages)を話す集団が形成される。 彼らは、埋葬方法や定住形態から、インド・イラン系のアンドロノボ文化と交流があったと考えられる。 以後、徐々に西に移動し、800年頃に黒海北岸、900年頃に現在の国があるあたりに入植した。

f:id:Ayasamoneu:20201207234901p:plain

現在のウゴル諸語(Ugric)の話者の分布。 これからでも、マジャール人の由来は明白?

 4-5世紀の間に、マジャール人は、ウラル山脈の南ないしヴォルガ川周辺(カスピ海北部)に移動してきた。(※フン族がヨーロッパと戦っていた時期) 8世紀の初めには、マジャール人の一部の集団は、ドン川(ヴォルガ川の上流)に達した。 ヴォルガ下流に留まった集団は、バシキリアと呼ばれ1241年までその地に留まっていた。

 830年頃、隣接するカザフ族(ハザール)の内紛で、その一部がマジャール人と一緒に黒海北部に移住する。 854年、マジャール人は、テュルク系の集団(Pechenegs)に初めて攻撃を受ける。 以降、マジャール人の周囲には、スラブ系がほとんどとなる。

 900年頃に、Arpadというリーダーに導かれた集団が、カルパチア山脈を越え、後のハンガリー国となる地・パンノニア(カルパチア盆地とも言う)に入った。 この頃は、この地域には少数のスラブ系住民しか居なかったようだ。 

 

f:id:Ayasamoneu:20201126054424j:plain

マジャール人の西遷。 ⑤の位置は、ほぼ現在のハンガリー国と同じ

 この後、900年代は、周辺国との確執や西方のヨーロッパ各地への襲撃などを繰り返したり、また逆に、テュルク系などに侵攻されたりもした。 

 だが、そののち、一時オスマン・トルコ帝国の支配下になった時期もあったが、中世以降全体を通して、ハンガリー王国やオーストリア・ハンガリー帝国などとして、長く中欧・東欧の中心的な大国であった。 

 以上が、大まかなこの民族の草創期の歴史であるが、次に、その民族の遺伝的情報を記すと。

 少し前の遺伝的な資料では、10世紀頃のハンガリー人(マジャール人)の骨によると、16.7%の割合で、ヨーロッパとアジアの混血及びアジア系(モンゴロイド)であったという。

 より最近の調査のY染色体(父性)の遺伝子分析では、57%で隣接のスラブ系と同じ系統のものが見られた。 別の分析では、ルーマニアに住むハンガリー系の集団で、アジア系由来の遺伝子が見られた。 また別のものでは、マジャール人とスルブナヤ文化集団(※スキタイの祖先集団?)との関係を示唆した。

 一方、2008年のミトコンドリアDNA(母性)の分析では、現代ハンガリー人は、その西部のスラブ系民族とは遺伝的な差がなかったが、古代のマジャール人とは差があったとする報告がある。 10世紀のマジャール人4人の遺骨の内二人のDNAが、ウラル系であると示された。 また、ある研究では、極初期のコアなマジャール人は、中央アジア・南シベリアの起源だが、西方移動に伴いヨーロッパ起源の民族やコーカサス地方の民族との混血が進んだとしている。

 別のミトコンドリア遺伝子分析では、アジア系由来のものを5%保持しているハンガリア人は、他のヨーロッパ人に比べて特異である、としている。

 性染色体以外のDNAでは、ハンガリー人が、他のヨーロッパ人に比べ、非ヨーロッパ非中東関係のDNAの持ち主の割合が、一番高かった(4.4%、ルーマニア人では2.5%、ブルガリア人2.3%、ギリシャ人0%など)

 現在のハンガリー人は、遺伝的には、ヨーロッパの中で、隣人のブルガリア人と最も近く、エストニア人やフィン人(※どちらもウラル語族系であるが)は、最もかけ離れたグループであったとしている。

 2018年のある調査では、古代のマジャール人とアヴァール人には、東アジアやシベリアとの明確な関連が示されたとある。 これによると、古代マジャール人やアヴァール人は、現在のヤクート人やツングース人と近い関係があったとしている。

f:id:Ayasamoneu:20201207235028p:plain

ハンガリー人(マジャール人)の人口推移。 どこまで正確なのか分からないが、これを見ても、人種・民族の混血や交差は、相当なものだったと推測できる。 なお、これは、全世界にいるマジャール人の総計である。 現在のハンガリー国内の人口は、約1000万人。

※最後に、ハンガリーでは、姓名は、東アジアと同じ順序である。(隣国のルーマニアもそうであるようだが、こちらは、イタリア語などと同じロマンス語系の話者の国、どういう経緯なのか? また、アルバニアなどもそうであると言う。 さらに余談だが、かつて、ナディア・コマネチが体操で旋風を起こした時、彼女の母国ルーマニアでは、日本と同じ姓名の順であるので、本当は、コマネチ・ナディアである、というニュースを聞いて大いに驚いたことがある。)

 次に、そのアヴァール人について。(※第8回で、中国北方にあった柔然Rouranの一集団か、と記載したが、そう確定してものでもない。) アヴァール人(Avars)には、実は、2つの集団があって、現在のダゲスタン人の祖先と言われるアヴァール人は、コーカサス・アヴァールと呼ばれ、パンノニアに侵入したアヴァールは、パンノニア・アヴァールと呼ばれている。 この2つの集団の関連性についてはよくわかっていない。 ここでは、ヨーロッパに入ったパンノニア・アヴァールについて簡潔に記す。

 このパンノニア・アヴァール人は、マジャール人がパンノニアに来る前にいた民族で、560年頃から820年頃まで存在した。 ※パンノニアは、ローマ帝国時代やフン族の時でもそうであるが、広い平野が拡がっているので、どの民族もこの地に移住したがってたのかもしれない。

 先に、遺伝情報を書くと、7世紀から9世紀のパンノニア平原にあった31体の人骨からのミトコンドリアDNAでは、そのほとんどがヨーロッパ系(主として南および東ヨーロッパ系)の傾向を示したが、15%はアジア系であった。

 2018年の62体(※この種の分析調査にしては、この検体数は多い。)のミトコンドリアDNAでは、93%で西ユーラシア、6.5%で東ユーラシア系との関連が見られた。 2019年の調査されたアヴァール人は、すべてダークな髪でダークな目の持ち主であり、そのほとんどが、主に東アジアの起源である、としている。

 2020年の上層階級出身と思われるアヴァール人の分析では、父系母系とも東アジア起源を強く示した。 このことは、アヴァール人が、東アジアから混血がほとんどない状態で、パンノニアまで移住移動してきたのかもしれない。(※フン族を思い起こさせる。)

 歴史資料的には、557年頃、おそらくコーカサスにいたアヴァール人は、ビザンチン帝国のコンスタンティノープルに交易のための大使を送ったのが初めである。

 その後、580年頃までに、アヴァール人は、パンノニア周辺のスラブ人やブルガール人・ゲルマン人などを支配し、やがてそこに国を建てる。 ビザンチン帝国の記録では、彼らをやはり”フン族”と表現していた。

 600年には、現在のオーストリアから黒海沿岸までの広大な遊牧民族の帝国となった。 そして、700年代の後半からのフランク王国そしてブルガール人などとの対立によって、820年頃には滅んでいく。  

f:id:Ayasamoneu:20201208070146p:plain

アヴァール人、スラブ系民族、ブルガール人の勢力範囲と移動の様子。 560-700年頃。

※以上、その歴史を簡単に書いたが、今回、このアヴァール人は、現在の東欧において、フン族とは比べ物にならないほど長い丸200年以上もその地を支配したアジア系国家であったという非常に興味ある事実を知った。 このアヴァール人の侵略があったからこそ、このすぐ後の上述のマジャール人たちによる進出も、あまり問題なく進んだのだろうか? マジャール人の時は、この地域は、スラブ人が少数いただけであったとあるし、また、マジャール人は、初期のアヴァール人に比べよりヨーロッパ化した外見になっていたということも考えられる?

 アヴァールの言語は、モンゴル語かテュルク語系などが考えられているが、不明である。

  次に、ブルガール人(Bulgars): ブルガール人は、原初は半遊牧のテュルク系民族で、7世紀にはカスピ海北部や黒海沿岸を中心に展開した。 西方への移動の間に、印欧語系やウラル語系、フン族系などの民族と融合していく。 そして、679年には黒海西岸を征服し、さらに南下し国を立て、さらにブルガリア王国まで発展した。 一方、ヴォルガ川地域に留まったブルガール集団は、そこで13世紀まで存続した。 

 現在のブルガリア人は、このブルガール人の名前に由来するが、他の遊牧民族と同様、当初のブルガール人自身の人口は非常に少ないものであったようで、周辺のスラブ系などとの混血によって現在のような集団になった。

 遺伝的には、彼らは、元はテュルク系であったと思われ、中央アジアから徐々に西進して東欧に入ったので、当然その過程での様々な混血が進み、DNAもアジアとヨーロッパの両方の特徴の入り混じったものになっているようだ。

※このブルガール人も、非常に興味ある対象であった。 私は、ブルガール人もこれまでその名前ぐらいしか知らなかったが、フン族などと同じようにアジアから入った民族で欧州にこれだけの歴史を残していたのである。 今回は、短くまとめる形になってしまったが、いつか詳しく書く機会があるかもしれない。 

 次に、アラン人(Alans):この民族については、既にスキタイやフン族・ゲルマン民族大移動の箇所で幾度か簡単に登場してもらったが、彼らは、イラン系で元は中央アジアにいたのが、あのフン族の西進の影響で、彼らも更なる西進を余儀なくされた。

 外見的には、イラン系なので、ヨーロッパ人とは大きな差はなかったものと考えられる。 以前の回で少し書いたが、主たる集団は、さらなる西進のあとイベリア半島などでゲルマンのブルグント族と共に行動し、最後は北アフリカで運命を共にすることになる。 ただ、一部の集団は、父祖の地近くのコーカサスに残り、そのまま現在のオセチア人(Ossetians)に繋がっていく、という。

f:id:Ayasamoneu:20201210143415j:plain

働くオセチア人女性、19世紀

 

 下図は、すでに示した勢力地図と似たようなものだが、650年頃時点の黒海周辺の各民族・国家の分布を示している。

f:id:Ayasamoneu:20201209073618p:plain

650年頃の今回紹介したアヴァール人(Avars)、ブルガール人(Bulgars)、オセチアのアラン人(Alans)、フィン人(Finns)などの民族国家の位置関係がわかる。 なお、マジャール人(Magyars)は、ハザール国(Khazars)の支配下にあったとして、ここでは表記されていないのかもしれない?

 以上、各民族とも、英文ウィキにはもっと詳しい書き込みがあり、それぞれ興味のある民族ばかりであり、特に、私はアヴァール人などはほとんど知らなかったのだが、今回のここでの書き込みは、これぐらいにしておく。 また、これら以外にもヨーロッパに侵入したアジア系民族集団は、もっとたくさんあったと思うが、今回は省略させていただく。

  ただ、最後に、アジアからヨーロッパに入った民族を、もう一つだけ紹介したい。 フィン人(Finns)である。 今あるヨーロッパの国では、、元アジア系の民族として有名な国家は、上記のハンガリーとこのフィンランドであると思う。 ただし、フィン人の場合は、マジャール人やフン族などよりずっと以前に、現在の場所に移動してきた民族である。

f:id:Ayasamoneu:20201209075950p:plain

ウラル語族のうち、フィン・ペルム諸語(Finno-Permic)集団の分布。(ただし、この分類法は、全体に受け入れられているわけではない。)

 上の関係する言語集団の地図でもわかるとおり、この場合も、ハンガリーのマジャール人同様、アジア(ウラル山脈周辺)からの移動民族だと言える。 ただし、フィン人(今のエストニア人なども含む)は、ハンガリー人などに比べ、そうとう古い時代、紀元前1000年以前にはこのバルト海周辺に到達していたようだ。 さらに、この言語集団の中には、北欧の最北部に居住し、最近までラップ人と言われてきたサーミ人(Sami)も含まれている。 

 フィン人の歴史を少し書くと、前8世紀頃には、バルト海周辺から現在のフィンランド南西部海岸に移動したらしい。  

 DNA分析では、ヨーロッパ人の中では、もっとも古いタイプのあるミトコンドリア遺伝子をこのフィン人やエストニア人・サーミ人が最も高い割合で有しているとある。 EEF(ヨーロピアン早期農耕民)の前に広く欧州にいたと思われるEuropean hunter-gatherers(ヨーロッパ狩猟採集民)に、フィン人は、現ヨーロッパ人の中では最も近い遺伝情報を持っている、という。 

 Y染色体では、フィン人は他のバルト海周辺の民族やロシアなどと同じタイプの遺伝子を高頻度で持っており、これは原始はアジア由来だと考えられている。

 フィン人は、ヨーロッパのどの民族より、自国内の国民の遺伝子変異の幅が大きい。(※これは、元はアジア系の民族集団が、長い期間のヨーロッパ居住と周辺民族との混血によって複雑で多様な遺伝的分布になったことを意味するのであろう?)

 フィン人には、地中海やアフリカ由来の遺伝子は、ほとんど存在しないが、シベリアのものは、10%のフィン人にある。 

  多くのフィン人の男性は、Y染色体のある特有な遺伝子N-M231を有している。 一つの仮説として、約2万年前に起こった東アジア起源であるこのN-M231遺伝子を持つ集団は、最終氷期のあと、北ユーラシアで再度人口が増加し、それに伴い北上した。 そして、反時計周りに今の中国やモンゴルからバルト海やフィンランドに移動したものだ、とする。 また、この遺伝子は、アメリカ大陸に渡ったネイティヴ・アメリカンなどには全く欠如している。 そのことは、この遺伝子の出現は、約1万1000年前にシベリアとアラスカがベーリング海で分離した後に生じた変異であることが示唆される、と。

 また、この遺伝子は、北東中国やその周辺、南シベリアのバイカル湖周囲にあった新石器時代(遼河文明あるいは紅山文化)の人骨から多く見られた。 それで、ウラル語族及びテュルク・ヤクート族の集団は、今から8ー6000年前にこの地に出現したものと言えるのかもしれない。(※このあたりは、非常に興味ある考察である。)

 もうひとつ、フィン人の由来についての有名な仮説(Refugia):1990年代にWiik氏が提唱したRefugiaという説。 この説によると、フィン語などを話す集団は、氷河期が終わると同時に拡がっていった。 彼らは、中央及び北ヨーロッパに拡散した。 一方、バスク語の集団は、西部ヨーロッパに拡がった。 その後、農耕が南東より広まるにつれ、印欧語が狩猟採集民の間に広まった。 この過程で、フィン語やバスク語の集団は、土地を耕すことを習得するなど印欧化していった。 Wiikによれば、こうやってケルト語やゲルマン語、スラブ語、バルト語などが形成されたとし、だが、フィン人の祖先は、その位置的孤立からその言語を変化させなかった、というものである。 この説には、賛同者もあったが、多くの批判も存在した。 しかし、最近の科学で、この説は見直されている部分もある。

 このフィン人と親戚関係にあるサーミ人についても少しだけ書いておきたい。 サーミ人(Sami people)は、スカンジナビア半島の最北部に住む少数民族で現在約10万人が残るのみである。 彼らは、ラップとかラップランド人とか言われれきたが、この用語は差別的であるとして今では使われていない。  

f:id:Ayasamoneu:20201210071152j:plain

1900年頃のノルウェーのサーミの家族。 現在のサーミ人は、各国からトナカイの遊牧の権利を与えられている。

  サーミ人は、既述のようにフィン人とは同じウラル語族の言葉をもったアジア由来の集団であり、彼らを含む集団は、ヴォルガ川の中上流域に起源を持つ。 その後、前1600ー1500年頃に現在のフィンランドの南部の湖水地方に至り、サーミ語を話す集団が形成された、という。

 その後、サーミ人といわゆるスカンジナビア人は、基本的にはあまり長い期間の接触はなかったようだ。 サーミ人が、ウラル方面からフィンランドあたりに来る前に、スカンジナビア人は、スカンジナビアの南部にすでにいたし、その後、サーミ人はスカンジナビアの北部やコラ半島(スカンジナビア半島の最北東部、現在ロシア領)に居住域を進めていったからである。 

 しかし、その後、スウェーデンやノルウェーなどの近代国家によるサーミ人の抑圧・差別政策が開始される。 これらについては、英文のウィキなどには、詳しく出ているので参照していただきたい。

 さて、ここでも、遺伝分析の情報はあるが、サーミの長い移動期間を反映してかヨーロッパの古い遺伝子とシベリア由来のものがあるようだが、初めの部分に書かれている内容は、私には少し理解しがたいので、省略する。 

 それ以外の遺伝情報として、中石器時代のWestern Hunter-Gatherers(西部狩猟採集民)の要素が15%、EEF(ヨーロッパ早期農耕民)にものが10%、そして、ヤムナ文化集団のものが50%であった、という報告もある。

※おそらく、基本的にはフィン人の場合と同じような遺伝的特徴を持っているものと考えられるが、現在の地に移ってから(遊牧形態であるが)長い年月を経ており、しかも、フィン人に比べ外部との接触はより少なかったと推測できるので、遺伝子の固定化はより進んだものと想像できる。

  以上、それぞれの民族の内容は、非常に簡潔になった。 次回は、もう一度、中央アジアに戻って、あるテュルク系の民族がオスマン・トルコ帝国を建設するまでを見てみたい。

  

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (17)

⑰ フン族とは?

 第8回で、中国北方の民族を取り上げた時、このフン族(Huns)と匈奴(Xiongnu)との関係を少し書いた。 つまり、4世紀後半にヨーロッパで暴れるこのアジア系の民族は、匈奴から分岐した北匈奴が、さらに西に流れて西洋でフン族と呼ばれる集団に変化したものであると。 

 西暦150年頃には、北匈奴が西域にいたことは知られているが、370年頃までに黒海北岸近くにまで来ていたかどうか、これが大きな謎となっている。 

 多の研究者は、フン族が中央アジアに由来するということでは異存はないが、具体的な位置についてはまとまっていない。

 

 私は、フン族の場合、ヨーロッパを荒らす以前の彼らの起源や人種民族的な特徴に最も興味があるのだが、まずその前にフン族のヨーロッパでの歴史を見ておきたい。 ただ、その歴史はそんなに詳細にあるわけでもなく、すでにこれまでの回で書いてきたことで、ほぼ出尽くしている。 

 つまり、376年に東ゴート族などに侵攻して、その一部を自軍に取り入れたりした後、西ゴートを攻めたてたので、その西ゴートの多くは、ローマ帝国内に逃げてくるなどの事件があった。 ただし、ゴート族の前にゴートより東にいたイラン系のアラン族を襲われていて、彼らもフン族の軍に引き込まれ、ゴートを攻めたようだ。 アラン族襲撃の前から換算すると、おそらく350年頃までにはカスピ海北岸から黒海の間に迫っていたのかもしれない? 

 395年頃からまた活発に東ローマ帝国に侵入し、多くの都市を破壊していった。 襲った地域は、小アジアやシリアなどもあり、ササン朝ペルシャとも戦った。 そして、410年頃まで周辺の地域への襲撃行為が繰り替えられるが、その後少し情報は途絶え、430年頃からあの有名なアッティラ王(Attila)が台頭して、ヨーロッパの民族にとって、フン族の存在はより大きな脅威となる。

 434年、アッティラとブレーダ(Bleda)の兄弟が、フン族を統治するようになる。 翌年、東ローマ帝国と交易の権利と貢物を確約させる取り決めに成功する。 しかし、ローマがこの条約を破ったため戦闘となり、フン族の攻勢が続く中443年まで続く。 ローマはフンの要求をのみ、休戦の条約をフンの二人の王に交わす。 しかし、ブレーダは445年に死に、以後、アッティラの独裁となる。

 アッチッラは、西ローマ帝国とも争っていたが、皇帝ヴァレンティニアン3世の姉のホノリア(Honoria)が、アッティラに指輪を贈り、助けを求めてきた。 そこで、アッティラは、彼女が自分の妻であり、西ローマ帝国の半分も自分のものであると主張し始めた。 同時に、サリー族のフランクとも戦闘に入った。 そうして、この後、前回も書いたガリア地方での有名なカタラウヌムの戦いとなる(451年)。 

 翌年、アッティラは、再度ホノリアとの結婚と半分の領土を主張しイタリアに侵入するが、ヴァレンティニアン皇帝の特使や時の教皇などとの折衝で、アッティラは譲歩し、イタリアから撤退と新しい条約を交わすことになった。 それを見た東ローマ皇帝が、フン族への貢物を拒んだため、アッティラは、今度は東ローマへ侵攻しようとした。 ただ、その前に、彼は絶世の美女と言われるある女性と結婚した。 がしかし、その初夜の明けた朝、アッティラはベッドで血まみれになって死んでおり、花嫁は片隅で泣いていた、と歴史にはあるようだ。(※彼にとっては、何度目かの結婚であったようだ。)

 

f:id:Ayasamoneu:20201122034839p:plain

アッティラ時代のフン族晩期(450年頃)の勢力図。 この時の本拠は、パンノニア(今のセルビアあたりを中心)にあった。

 アッティラの死後、息子たちがフン族を率いたが、西でのゲピッドGepidsなどのゲルマン族との戦いや東方でのチュルク系の民族と戦い、徐々に衰退していく。 そして、469年、トラキアでのローマやゴートなどとの戦いでフン族は王を失い、それ以降、ブルガール人(テュルク系)などの集団に徐々に埋没していった。 

 文化面について少し。 このフン族は、遊牧騎馬民族であり、以前は、農耕は全く行っていないという説が主流であったが、実は、穀物などの栽培は行っていたようだ。 彼らの使用した言語は、よくわかっていないが、テュルク系であったという説が強い。

 そして、彼らは、ヨーロッパの中で伝説として長く伝えられていくことになる。 キリスト教の説話の中や、既述のゲルマン・ブルグント族を主題にしたドイツ文学史上の一大叙事詩”ニーベルンゲンの歌”の中にもアッティラと見られる登場人物がいる。 また、あるゲルマンの王は、自分はフン族の末裔である、と肯定的な態度をとる者も現れたと言う。 それだけ、フン族の印象は、ローマ人やゲルマン人には大きかったのかもしれない。

 

f:id:Ayasamoneu:20201119065148j:plain

アッティラの肖像として有名だが、千年以上後世のものであり、この形相は、当時のヨーロッパ人がイメージする悪魔的で恐ろしい人間の顔の代表ということなのであろう。 しかし、アッティラは、純然たる東アジア系の容貌の持ち主であったとされる。

 

  さて、ここから、いよいよフン族の起源や人種的特徴について少し書いて行きたい。 まず、当時のローマ人やゲルマン人が、フン族の外見についてどう見ていたかをウィキを中心に見てみる。 

 ウィキでは、まず、ローマ人から見れば、フン族の外見は奇妙だという点で一致している。 よく使われる表現は、怪物(モンスター)である。 ある歴史家は、フンは、短躯で日焼けしていて、頭は丸く形が無い(※形が悪い)。 また、小さな目と扁平な鼻をしている、と。 そして、王アッティラについては、背が低く胸が大きく、頭も大きい。 さらに、目が小さく、ヒゲは薄く白髪が混じっている。 また、彼は、鼻も低く焼けた肌をしているなど、アッティラの出自を強く証明しているような記述になっている。

※以上は、ウィキ英文版にあった当時のローマ人などの”証言”であるが、別の私が最近読んだ本に、あるローマ人歴史家がゴート族から聞いた内容(ウィキのものと重なっている可能性も大であるが)があり、それを以下に記すと、

 ーーー彼らは、小柄でガッチリとした体格で、頑丈な手足をもち首は太い、怪物のように醜くて不格好なので、二本足の獣と思いこむかもしれない。ーーー

 この本の箇所では、他にもフン族の生活や戦闘方法なども書いてあり、生活様式では、その遊牧の形態を非常に否定的に見ているが、ただ馬の操作が巧みなので戦闘的な面での優秀さは認めているような表現であった。

 さて、ウィキに戻ると、現在の研究者の間では、上記のような表現は、典型的な東アジア人に対する当時の”西洋人”の偏見に基づく否定的表現であるとしている。 また、フン族は、アジア系ではあるが、今のヤクート族やツングース族のような容貌ではないとする。(※これまた、別の意味の偏見?) さらに、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であるとしたり、フン族は、ほとんどヨーロッパ系であり、アジア系の痕跡はほとんどない、とする意見まである。

 また、フン族のリーダーなどの上層部は、アジア系の外見が多かったが、全体的にはヨーロッパに移動してくる過程でよりヨーロッパ人化した、とする研究者があったり、451年の戦いがあった頃では、アッティラに率いられた多くの兵隊たちの外見は、ヨーロッパ起源を思わせるものであった、などとしている(アッティラ自身を除いて)。

  次に、DNA分析結果では、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であり、彼らは、匈奴の子孫で西に移動していく中でスキタイと近い関係のサカ族(Sakaイラン系)との混血によって形成された、とする研究者もいる。 また、5世紀のパンノニア(バルカン半島の中央部)のフン族の墓から採取された3体の分析では、彼らの父系の遺伝子は、現在ヨーロッパ人にはほとんどないが、現在のルーマニアに住むハンガリー系の集団SzekelysのDNAに高頻度で見られるものであるとしている。 この研究者も、彼らは、茶色い目で黒か茶の髪の毛をもつ、アジアとヨーロッパの混血であるとしている。

  これらの科学的結果は、ただし、アジア的な要素があるにしても、それが、匈奴との関係にどこまで関わるのか、そこは全く示されていない。

 

f:id:Ayasamoneu:20201119065305j:plain

ガリア地方を襲うフン族。 これも後世の絵画であるが、ここに見られる略奪者の容貌は、現在の東アジア人とほぼ同じように見える。

※第8回で匈奴(Xiongnu)のことを書いた時は、その匈奴のウィキ英語版にあるDNA分析結果の文章は、フン族と匈奴の関係性をかなり肯定的に書いていたが、このフン族のページのウィキでは、それほどその繋がりに肯定的ではない。 いろいろなリンクを使うことで、同じ一つの対象物でも、多くの違った表現をみることができるのが、ウィキペディアの良いところだが、こういう風に多少ニュアンスの異なる結果に出くわすことも結構ある。(筆者がそれぞれ違うというのが、大きな理由?)

※さて、このフン族の帰属や外見に関することで、私自身の今思うところを書いてみたい。 フン族が、匈奴からの集団であるかないかは、さておき、非常にアジア的な外見を有していたのは、間違いなざそうだ。 それで、370年頃までに黒海北岸あたりにいたアラン人をまず襲撃していること。 そして、アッティラ王が死ぬのが453年頃。 この期間だけでも80年を数える。 アッティラ自身は、400年頃の出生であるので、50歳前後で死んだことになる。 

 当時は、現在よりも世代間の間隔は、もっと短いだろうが、一応世代を20年間隔としても、80年で4世代が経過する。 仮に、多くの兵士や庶民が、出あったイラン系のアラン族やゲルマン系のゴート族の女性と結婚し、その子たちも、さらに現地の印欧語系の女性と子孫を持つようになると、その子孫たちの外貌の変化は、十分大きなものになると推測できる。 例えば、現在の欧米人と日本人の混血でも、日本人の血がクウォーターであれば、その容貌は、ほとんど欧米人的である、孫の代ですらそうなる。

 アッティラ自身がアジア的外貌を持っていたとするなら、アッティラの父やその父も元のフン族の女性を正室に選んだのだろう。 アッティラの父は、400年頃にアッティラをもうけているので、少なくともその前30年以上は印欧語族の女性を見てきたはずだが、自国のフン族女性を選んだのは、美的感覚なのか、それとも、先祖代々の家訓のようなものがあったせいなのだろうか? 

 アッティラは、最後の妻との初夜の晩に死んだが、その妻は絶世の美女であったという。 この”美女”という概念は、どこから来たものなのだろうか? ヨーロッパを襲った有史上(文章に残されている)の最初のアジア民族は、フン族であろう。 それは、ローマの歴史家による記述だ。 であれば、このアッティラの妻が”美女”であるのも、ローマから見た視点であり、ヨーロッパ的な美女になるはずだ。(ゲルマンからの伝聞にしても、ほぼ同じ。) だとすれば、アッティラは、すでに伝統的なフン族の女性から生まれた後継の息子(外見の記録がない)がいたので、それ以降の新たな妻(側室)たちは、どんな民族の出身でも良かったのかもしれないし、アッティラ自身、この最後の妻を美しいと思ったのであろう?

(※この最後の妻は、ゴート族の出身ということがわかった。 やはり、そうであったか、という思いだ。 2021年2月追加)

 さて、フン族の王侯や上層部は、フン族同士の婚姻を推奨していても、一般の男性(兵士など)は、移動していく途中の地域で、それぞれ印欧語系など他民族の女性と結ばれていくケースの方が多かったのは容易に推測できる。  ただ、もしそれが許されるなら、それ以前の西域から黒海北岸近くまで移動してきた200年あまりの間に、イラン系などの紅毛碧眼の民族は多くいたので、一般人はかなり混血が進んでしまった可能性もある。(DNA結果などが、それを示唆しているのかもしれないが?)

 しかし、フン族の兵士の人口が、もともとそんなに多くなかったため、戦争に負けフン族の集団としての塊が崩壊したあとすぐに、周辺の大きな民族の中に埋没して、外見的には、その周辺とほとんど同じになり、遺伝的にも文化的にもその影響をほとんど残すことが出来なかったのかもしれない?

 しかし、現在のトルコ人(テュルク系)やハンガリー人(マジャール人)やフィンランド人(フィン人)なども、その外見は、もとのアジア系とはかけ離れてしまったが、彼らは、言語などの文化的な要素を強く残してきた。 であるとすれば、フン族の場合、もう一つの問題は、単一の集団としてある地点(バルカン半島が中心)に留まった期間が短すぎて、文化的な要素を残す時間がなかったのかもしれない?

 もう一つ考えられるのは、これらのアジア系民族の集団が、ヨーロッパに侵入する際に、そのやり方が残虐なものであったのか、または友好的とまでは言わなくても比較的大きな軋轢がなくて入ってきたのか、の違いもあるのかもしれない? (トルコ人の場合、その西方への移動に際し、小アジアの東部地方までは、ほとんど同じイスラム教徒の民族が多かったので、そのへんの軋轢がどのようなものだったか、わかりにくい面もあるが?)

 私が、これまで大雑把に思っていたことでは、このフン族と後のモンゴル帝国のヨーロッパでの行動は、非常に残虐であったという話をどこかで聞いたような印象がある。 モンゴルも、東ヨーロッパに来たと思うが、その一部の集団でも、その後どこかに存続・定住してきた者たちがいただろうか? そういう侵攻時の残虐性も、その集団のその後を運命づけたかもしれない? 

 とはいうものの、現在は、一般にスラブ系と言われるバルカン半島からロシアまでの民族は、その丸顔の特徴からして、薄いものであってもかなり全般的にアジアの要素が入り込んでいるという証拠があるのかもしれない。 このフン族のあと約100年後には、アヴァール人というこれも元アジア系の民族が侵攻してきた。 彼らも、フン族同様、周囲の民族に割と短期間で壊滅させられたが、スラブ系の中に混入していったものと思われる。

 まあ、以上のようなことは、雑多に書き並べただけで、全く見当外れなことなのかもしれない。 とにかく、今後よりDNAのサンプル数などが増え、科学的な証拠が多くでて、こういう人種的な分散の課題が解明されていくのを期待する。 

 最後に、今のトルコ共和国で、かつて発行された切手を紹介したい。(私が読んだ本にあり、ネット上にも出ていたもの。) これは、アッティラ王だが、ここでも、今の彼ら同様、西洋化した顔をもった肖像になっている。 しかし、こういうことからみても、トルコ人が、フン族を誇りに思っていることは、間違いないようだ!

 

f:id:Ayasamoneu:20201122051946j:plain

トルコ共和国の切手にあるアッティラ。 ネット上の画像より。 

 

 

   

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (16)

⑯ ゴート族

  さて、ゴート族(Goths、形容詞はゴシックGothic)は、ヴァンダル人やGepids(ゲピッド?)と同じく東ゲルマン語群を話す民族だった。 しかし、いわゆるゲルマニアの域外に早い段階で出たので、古代ローマ人からは、スキタイか他の部族かと思われていた。 

 このゴート(Goths)という名の由来は、不明だが、ゲルマン祖語のgeuta-という語幹から出たものらしく、それは”to pour注ぐ"を意味する。 それで、水域に住む民族だったのでは、などの説があるがよくわかっていない。

 最初に、古代ローマ人に記されたのは、3世紀である。 しかし、それ以前についても、いくつかの証拠から、彼らが、ヴィスツラ川(ポーランド中央部を下降し、バルト海に注ぐ大河)近辺の起源で、さらにはスカンジナビア(Gotlandなど)に繋がるものと思われる。 ただし、ゴートの言葉とスカンジナビアの言語の差異が大きいことから、これを否定する研究者もいる。 

 ある研究者によれば、ゴートは、Berig(ベリグ?)という王の下、スカンジナビアから海を越えて、ポーランド北部に到着したとある。 そこでは、他のゲルマン諸族(Rugiiなど)とともにWielbark文化を形成したようだ。 このWielbark文化は、1世紀頃出現し、それまでのOksybie文化と置き換わったようだ。 それは、土葬の方法、墓室に武器がないこと、ストーンサークルの存在などの点において、全く異なった文化となった。 これは、その先の時代の北欧青銅器時代文化やルサティアン文化(Lusatian vulture)にも見られた習慣であった。 (※ Lusatian cultureは、ポーランドあたりを中心にした文化で、北欧青銅器時代文化に類似し、またケルトの影響もあると言われる。)

 その後、ゴート族は、Rugii部族の土地を奪ったとされ、それは、考古学的にも、このWielbark文化がヴィスツラ川の左岸(西側)沿いに南下したものと一致する。 そこには、ストーンサークルと土葬埋葬の高頻度に認められた。 紀元後になって、ローマの歴史家たちが、ゴートとヴァンダルの戦いなどを記している。

 2世紀の中頃以降、Wielbark文化集団は、南東へ移動し黒海周辺に至る。 その過程では、Przeworsk culture(ヴァンダル人との関連がある)集団を排除したり、一部取り入れたりしたと考えられる。 この移動は、恐らく人口増加により、他のゲルマン民族も含めた全体的な動きの一つであったが、その結果、他の部族は、ローマ帝国領内に押しやられ、マルコマン戦争(Marcommanic war)の引き金となった。 200年までには、Wielbark ゴートは、ローマから傭兵として雇われたようだ。

f:id:Ayasamoneu:20201108064558p:plain

ゴートに関係する文化集団の移動と拡大.。緑色Gotaland, ピンク色Gotland島、赤色Wielbark 文化、橙色Chemyakhov文化、青色ローマ帝国領。

 ゴートは、スキタイ国の西側に入り、Spaliという集団を打ちのめした。 Spaliとは、スラブ語で巨人という意味であり、この集団は、スラブではないらしい。 3世紀の初めには、スキタイ国西部は、スラブ系文化集団とサルマタイ(イラン系)に占領されたとある。 3世紀の中頃までに、Wielbark文化は、スキタイ国でChemyakhov cultureを育み、この際立った単一の文化は、西はドナウ川から東はドン川まで拡がった。 この文化の中心となったのは、ゴートやHeruliと言われるゲルマン系集団であるが、イラン系やダキア系、ローマ人、そして恐らくスラブ系も含んでいた。

 黒海北岸草原では、ゴートは、遊牧民のサルマタイからいろいろな習慣を習った。 乗馬や弓矢、鷹狩りなど、また農業や漁業も取り入れた。 240年頃からローマ軍に雇われ、ローマとペルシャの戦いに参加した。 しかし、同時にゴートは、ローマ帝国内で暴動を起こしており、250年には、ローマ王を殺害するなど、大きな損害を与えた。

 253年には、ゴートは、黒海沿岸地域の海戦も始めた。

f:id:Ayasamoneu:20201108064949j:plain

黒海沿岸での戦い

 10年後には、ゴート族とHeruli族は、ビザンチウム(今のイスタンブール)などの都市を蹂躙した。 その後、ローマ軍に敗れたが、そこからギリシャに侵入した。  しかし、ギリシャの軍に押し返され撤退した。 しかし、その後も他のゲルマン民族とともに、ギリシャや小アジアに攻撃をかけたが、275年の攻撃、そしてその翌年の敗戦を最後に小アジア地方に関与しなくなった。

 3世紀の後期までに、ゴート族は、ドニエステル川を境に2つのグループに分裂した、ThervingiとGreuthungi である。 その3世紀後半、Gepids(他のゲルマン)は、ブルグント族を破り、Ostrogotha王率いるゴート族と戦った。 3世紀の最後の10年に、Capri族は、ダキア地方からローマ帝国内に逃げてきた。 おそらく、ゴート族による侵入だと思われる。

 ローマ帝国との共存

 332年、ローマのコンスタンチン皇帝は、ドナウ川北岸地域の防御をサルマタイ人に依頼し国境を強化して、ゴートの侵入を阻止した。 10万人のゴート人が、この戦いで死に、Thervingiの王Ariaricの息子Aoricが捕らえられた。 334年、皇帝コンスタンチンは、サルマタイ人奴隷の反乱があったので、ドナウ川北岸からサルマタイを除いた。 そして、その翌年もゴート族を負かした。 ローマ帝国にドナウ川から排除されたゴートは、しかし、サルマタイの撤退した地域に侵入し、この時のゴートの王・Geberic(Aoricから代わっている、息子ではない?)は、その後ヴァンダル人との戦いをして、彼らをローマ領内へ押しやった。

 4世紀の間に、Thervingi もGreuthungiも、かなりローマ化していった。 これは、ゴート族とローマとの交易によるもののと、おもにビザンチウムでのローマ軍への編入という面による。 4万人ものゴート兵が、コンスタンチン帝のいるコンスタンティノープル(330年にビザンチウムから改名)を守るために派遣された。 このころは、ローマ人の軍はもうあまり強力ではなく、ローマ軍はほとんどゲルマン民族で成り立っていた。 ゲルマンの兵士がいなければ、ローマ帝国はもっと早く滅亡していただろう。

 Gebericの次の王、Ermanacは、周辺の民族を打ち負かし、スキタイとゲルマンの領土全てを一人の力で獲得した。 それ故、彼は、アレクサンドロス大王に比較された。 その領域は、草原地域全域に拡がり、北はバルト海、南は黒海、東はウラル山脈にまでいたった。 その征服には、Greuthungiは、もちろん、スラブやフィン人、アラン人、フン族、サルマタイ人そして恐らくバルト人などの諸民族も含んでいた。

 Chernyakhov文化の影響は、その考古学的範囲よりもさらに北に拡がっていたと考えられ、ゴートを中心としたその文化が、森林ステップ地帯(草原地帯の北に長く横たわるエリア)にもあったと思われる。 ただし、歴史家の中には、Ermanacの業績は、過大に評価されすぎているという意見もある。

 360年、Aoricの息子Athanaricが、Thervingiのリーダーになり、東ローマ皇帝のVelansに対抗するプロコピウスを支持した。 それで、皇帝Velansは、Athanaricを攻め、これを打ち負かしたが、決定的に破ったわけではなかった。 その後の和平協定ではうまく行かず、ゴート内のAthanaricのライバルでありキリスト教アリウス派に改宗したFritigernが、Velansの味方になったので、Athanaric と Frirtigern の内部衝突となった。 結果は、Athanaricの勝利に終わり、彼は、領土内にいたキリスト教徒の迫害を行った。

f:id:Ayasamoneu:20201114070626p:plain

Athanaric と Valens の船上会談。 19世紀の絵。

 フン族の来襲

 375年、ゴートの東にいたイラン系のアラン人に、フン族が急襲した。 そして、スキタイ(この場合は地域名)地方にあったゴート王国にも侵攻してきた。 Ermanaric王の自決もあり、Greuthingiは、徐々にフン族の影響下になった。 さらに、フンは、Thervingiへも攻撃を始め、王Athanaricは、山間部への逃亡を余儀なくされた。 フン族は、このゴートとの戦いを優位に進めたが、既述のFritigernが東ローマ皇帝Velansの許しを得て、ドナゥ川の南岸への定住を始める。 そこで、ゴート族は、武器を捨てるよう指示されていたが、多くの兵士は武器を手放さなかった。

 ゴート戦争(Gothic war、376年-382年)

 帝国内の腐敗した役人のせいで、流入してきたゴート族は、すぐに飢饉に陥った。 ある者は、腐った犬肉を得るため、ローマの奴隷商人に子供を売らなければならなかった、という。 この裏切りに怒ったFritigernは、反乱を起こした。 それは、ゴートの避難民や奴隷のみならず、ローマの労働者や農夫を含んだ大掛かりなものであった。 このゴート族と東ローマ帝国の戦いが、ゴート戦争であり数年に及んだ。 そして、Greuthingi集団もローマの許可なくドナウ川を越え戦闘に参加した。 ゴートは、378年のアドリアノープルの戦いで勝利し、皇帝Valensは殺された。

 アドリアノープルで勝利したゴートであったが、ローマ帝国は、小アジアやシリアにいたゴート族を虐殺した。 379年、テオドシウス1世の元、ローマは、新たに軍勢を立て直し、Fritigernやその取り巻きを攻撃した。 同じ頃、Athanaricが帰還し、テオドシウス皇帝に歓待を受けたので、Athanaricも帝国を褒め上げた。 それゆえ、Athanaricは翌年死ぬが、帝国により盛大な葬儀が営まれた。 382年、テオドシウス帝は、Thervingiのグループとの和平協定を結ぶことを決め、以後、ゴートは、テラス地方(現在のブルガリアやトルコの北部地域)でローマの同盟国になり、兵隊を供出することになった。

 フン族の来襲の後、ゴート族の中で、2つの主要なグループができる。 Visigoths とOstrogothsである。 Visiは、良いとか高貴を意味するらしく、彼ら西ゴート族は、ローマ帝国領内に住み、Thervingiの系統であるとするBalti dynasty(バルティ王朝)が率い、一方、Osrtogothsとは、日の出のゴートあるいは東のゴートを意味し、フン族に従属したGreuthingiの系統でAmali dynasty(アマリ王朝)に率いられていた。

 ローマ帝国の歴史家は、当時の地理的関係から、Visigothsを西ゴート、Ostrogothsを東ゴートと訳した。 ゴートと関係の深かったGepidsなどの他の民族も、フン族の支配下にあった。 ゴートの小さな集団は、クリミア半島に生き延び、中世まで存続した。

※教科書などでは、フン族の侵入以前から東西ゴートがあったように書かれているが、これによると、その時点では、東西も分離はまだ始まっていないように聞こえる?

 なお、このostro-とvisi-は、現在のドイツ語でも、東はost、西はwest(ドイツ語のwはvの発音)であるので、非常によく似ていると言える。

 西ゴート族:

 西ゴート族(Visigoths)は、382年以降テオドシウス帝からバルカン半島での定住を許可され、最初のリーダーAlaricの元、ローマでの地位を固めた。 しかし、その後もローマとは、離反融合を繰り返していたようだ。 ゴートは、394年ローマの内戦でテオドシウス側に援軍したが、大きな被害を受けた。 395年、テオドシウスの死後、バルカンのゴートは、ギリシャに侵攻した。

 401年以降、Alaricは、イタリアに攻め込んだ。 西ローマ皇帝のホノリウスは、ゴートに対して虐待を加えたので、Alaricは、ローマを攻め、北アフリカへの移住の許可を願い出た。 Alaricの後継者Athualfは、Alaricのローマ占拠の際に囚われていたホノリウス皇帝の妹(か姉sisterとだけある)Galla Placidiaを妻とした。 Athualfは、西ゴート族を南ガリアに定住させようとしたが、ローマの許可が得られず、415年イベリア半島に向かった。 しかし、直後バルセロナで暗殺された。 その後の後継者により、西ゴート族は、イベリア半島に渡り、そこで451年、テオドリック1世(Theodoric)王の下、ローマ帝国とともにフン族のアッティラ王と戦った。

 ※これは、フランス北部・カタラウヌムの戦いで、歴史上重要な戦いである。 はっきりとした勝敗はついてないらしいが、両軍とも大きな損害を被った。 この時、テオドリックは戦死し、アッティラもこの後すぐ死に、70年以上に渡ってヨーロッパを震撼させてきたフン族は、以後急激に衰退していった。 

 このカタラウヌムの戦い以降、西ゴート族は、イベリア半島で王国を確立した。 ただし、ここでも、ゴート人は、ヒスパニック・ローマ人の中で少数派であった(6百万人の内、2百万人程度)。 507年、フランク王国のクロヴィスによって、ガリア地方のほとんどから撤退させられた。 しかし、東ゴートの援軍などにより、一部の南ガリア地域は維持できた。 この後、西ゴートは、イベリア半島のさらに深部に至るようになり、そこで、スエビ人やアラン人などへの攻撃をかけ滅ぼす。 この西ゴート王国は、以後、8世紀前半まで存続した。

 東ゴート族:

フン族の侵入の後、多くのゴートは、その従属化になったが、他方一部は、ローマ軍に参加した。 しかし、399年、ゴート族は、ローマ軍内で反乱をおこした。 これは、西方でのAlaricの活躍に呼応しての行動であった。 しかし、結果として、ゴートは破れ多くが殺された。 後に、小アジアへの定住が許可された。

 東ゴートは、既述の451年の戦いでフン族と共に、ローマ帝国と戦った。(※つまり東西ゴートは敵同士になった。) その直後、フン族の王アッティラは死亡し、東ゴートはValamir王の下、フン族の支配から逃れる。 その後継者Theodemirは、フン族を完全に粉砕した(468年)。 469年には、ローマ軍と他のゲルマン族の同盟軍を破り、ドナウ川上流地域パンノニアを収めた。 

 493年までに、Theodemirの息子Theodoricは、イタリアに侵入し、そこで東ゴート王国を立てた。 ここでは、ゴートは少数派であったが、ゴートとローマ人の結婚は許されなかった。 また、ローマ人は、武器の所持も許されなかったが、一般に待遇は公平なものであった、と。

 このTheodoric the Greatは、6世紀の始めの一時期、西ゴート王国を含めた全ゴート族のリーダーとなった。 西ゴート王国のAlaric2世が、既述のフランク王国との507年の戦争で死んだためである。 しかし、この東ゴート王国も6世紀中頃には、ビザンチン帝国や他のゲルマン、ロンバルト族などによって滅ぼされた。

 クリミア・ゴート族:

 クリミアや黒海沿岸に残ったゴート集団は、その地で、5-6世紀頃、ヨーロッパを荒らした後、東に戻ろうとするフン族を排除しなければならなかった。 また、西ゴートのテオドリックのフン族との戦い(カタラウヌムの戦い?)に参加せよとの要請には応じなかった。 

 彼らは、東方正教教会に属し、ビザンチン帝国内で地位を築く。 その後、東方の国などとの確執が続くが、15世紀後半には、オスマン・トルコの支配下になる。 ただ、このクリミア・ゴート語の話者が、18世紀まで少数ながら存続したと言う。

f:id:Ayasamoneu:20201113234813g:plain

523年、東のテオドリック大王の時代、ゴート族の最大勢力範囲

  さて、英文にはいつも書いてあるゴート人の外見についてだが、彼らは、背が高くスポーティで、lightスキン、ブロンド・ブルーアイを持つと多数表現されている。 こういう外見は、時には、ローマ人の嘲笑の的となった。(※日本人にもある僻み根性のようなものか?) あるローマの歴史家は、彼らは、ヴァンダル人やGepidsとよく似ており、同じ起源であるとした。 彼らは、白い肌・淡い毛色そして背が高くハンサムである、とも。

 他、文化的なことは省略するが、ゴートの経済について一言。 西ゴート人は、主に農業で生活していた。(東ゴートは、そうではなかったようだ。) 小麦・大麦・ライ麦を栽培し、豚・鶏・ヤギを飼っていた。 馬とロバは、労働に使われ干し草を食べさせた。 羊は、羊毛のため飼われその衣服も作られた。 彼らは、土器や鉄工の技術に優れていた。 ローマとの平和協定後は、ローマからワインやオリーブ油などを輸入した。 

 また、西ゴートでは、税金やその概念もなかった。 5世紀始めのあるキリスト教徒は、ガリア地方のローマの貧者に比べ、西ゴートの貧者に対する対応がずっと優れていることを記している。(ゴート王国内に住む貧しいローマ人は、ローマへの帰還を拒んだ、という逸話がある。)

 

 ※詳細には書けてないが、ざっと見ただけでも、ローマ帝国とゲルマン族そしてフン族などの関係も非常に複雑であったようだ。 互いの国の存続あるいは自己の地位の保身のため、権謀術数と言うか様々な工作・探り合いなどが行われて、それによる様々な具体的な行動(政略結婚や大量虐殺などなど)があったようだ。 いずれの時代も人間のすることは、あまり大差無いということなのか?

 あ、それと、一番最初にゴートの英語の形容詞は、Gothicであると書いたが、この言葉を聞くと、のちのヨーロッパの高い塔を基調とした荘厳な建築様式を思い浮かべる人もいると思うが、実は、このゴート族から由来しているらしい。 この建築が北欧で始まった時、当時のイタリア人が(まだその分野の先進国であったのかもしれないが)、否定的な意味を込めて、この建築物をゴートのようだ、と表現したからであると。

※以上、ゴート族の歴史の後半部分は、ほとんど端折ってしまったが、それでもかなり長くなってしまったので、フン族の歴史は、次回に回すことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (15)

⑮ ゲルマン諸民族の動き

 今回は、ゲルマン人の中の各部族の由来やその移動の経緯などを書いてみたいが、少し前の匈奴などのアジアの遊牧騎馬民族と同じで、このあたりの時代になると各民族(部族・集団)に関するウィキの情報量も相当多いので(ただし、部族によっては、やはり日本語版にはあまり情報の無いのもある)、今回はそれらを私なりにまとめて書くことになる。

 ではまず、ゲルマン人の集団・部族の中から、フランク人(Franks)を取り上げたい。(※このフランク人に関しては、日本語ウィキが充実している。) 

 フランク人の中の各部族に関して、ローマ帝国の記録があるのは、一番早いので289年である。 それ以前はっきとしないが、遅くとも5世紀には、各部族は、共通の髪型をしていた。 王族は、髪を伸ばし続け、戦士は後頭部を剃ったという。

f:id:Ayasamoneu:20201101062350p:plain

3世紀のフランク人の各部族の位置(緑色文字)、サリー族は最西端に。黒字はフランク人以外のゲルマン各部族。オレンジ色はローマ帝国。(すべてフランス語表記)

 ローマ帝国とは、最初の頃は、争いや融和を繰り返していたが、358年に主な部族であるサリー族(Salians)は、ローマ帝国から南方への移住を認められ、国境管理の役を任された。 それ以降、ローマ軍に組み込まれ、徐々に地位を高める。 377年以降、コンスル(執政官)という高い地位にまで登る者も現れた。 この時期には、”フランクの王”と称する者も何人か現れた。 しかし、フランク人の他の部族によるローマ帝国との諍いの中、サリー族の帝国内での栄達もこの時期(4世紀後半)だけに終わった。

 その後、西ローマ帝国の崩壊があり、フランク人によるフランク国が、フランク人の王によって確立するのだが、その王族の記録は、数代分しかなく、その出自にあまり信憑性はない。(※つまり、それ以前の王朝の近親や末裔というわけではない?) 

 すなわち、もっと先に、別の系統と思われる王やそれに準じた地位についた者たちがいたが、その後、クロディオという者の家系から、メロヴィック、その子キルデリク1世、そして、孫のクロヴィス1世が、フランク王国(メロヴィング朝)を立てた(481年)とある。 このサリー部族によって立てられたフランク王国は、5世紀末までには他のフランク部族を統一し領土を広げ、またキリスト教に改宗した。

 フランク人は、所謂ゲルマン民族の大移動に中でも、その移動はかなり小さくライン川を越えた程度であったが、それ自体、この集団・民族が強固であったことを示すという説もある。 

 メロヴィング朝の後、751年にピピン3世が、カロリング朝を起こし、その息子カール1世(大帝)は、西ヨーロッパ全域を制覇し、800年には、ローマ皇帝の地位を時の教皇から得た。 このフランク王国では、ガロ・ローマ人(Gallo-Romans)やゴート族、ブルグント族など多くの民族を抱えていたが、それぞれ自分達の言語や習俗を維持していたという。

 拡大した王国内の西方のガリア地方(フランク人の前はローマ帝国、その前はケルト人がいた土地)では、ラテン語が変化した俗ラテン語が広く話されており、カール1世は、これを是正すべくラテン語の変革を行うが、それは、ラテン語とこの俗ラテン語の明確な分離を促進したが、ガリア地方の人々(ガロ・ローマ人やフランク人たち)は、この俗ラテン語を使い続け(地域化し)、それはロマンス語群と呼ばれる言語の一つ(フランス語)になっていく。 

 一方、フランク王国の東の方では、ゲルマン語系の言語がより保たれ、後の東フランク王国内では、主にこの系統の言語が存在することになった。(後のドイツ語など) また、この東西のフランク王国では、互いに自分の方が正統であるような主張を繰り返していたという、よくある話も見られたようだ。

 少し時代を遡るが、600-700年頃までのフランク王国では、古フランク語(西ゲルマン語群)が話されていた。 この頃、ゲルマン語に第二次子音推移(p音→ph音やf音に、あるいはt音→tsS音やs 音に変化するなど)が起きた。 この子音推移のあと、西ゲルマン語群は複数の言語に分岐した。 

 主なものとして、子音推移の影響を受けなかったものは、この古フランク語や今のオランダ語など低地ドイツ語(北部)の系統であり、影響を受けたのは、のちに現在の標準ドイツ語になる高地ドイツ語(南部)などの系統である。 当然、現在のオランダ語には多くの語彙が、この古フランク語由来のものがあるが、フランス語においても、かなりの単語が借用されているようだ。(東西南北を意味する言葉など)

 ここで、もう一度、極く簡単に現代のフランス地域(ガリア地方)の言語の形成経緯を書いてみる。 (※私にとって、フランス語は、発音上、他のロマンス語よりかなり変化が大いと思っているので、その整理も兼ね。)

 まず、紀元前にはケルト人のケルト語があった。 ここに、紀元前後、ローマ帝国の兵士などが派遣されラテン語が入ってくる。 その後(3世紀後半?)、このフランク人が来て、その西ゲルマン語群の言葉が中心になる。 しかし、キリスト教の信仰とともにラテン語の影響はより強くなるが(700年以降?)、同時に地域化方言化し、俗ラテン語という口語の言葉が、この地の主要な言語に置き換わっていく。 

 その後、この俗ラテン語は、この地ではガロ・ロマンス語と呼ばれ、その中の一つが、古フランス語であった。 この古フランス語が、14世紀にはオイル語と呼ばれ(フランス南部地方のイベリア・ロマンス語系のオック語との対比)、そこから、このオイル語のパリ周辺の方言が、中世フランス語になっていく(17世紀初頭まで)。 そして、統一化規則化を経て現代フランス語となった、という感じである。 

※他のロマンス語(イタリア語やスペイン語など)に比べ、フランス語には日本人には難しい母音が多くあると感じているが、それは、このようなケルト語やゲルマン語(フランク語やその後のノルマン人による北欧語なども)から多くの単語の流入があったからではないか、と推察する。  

 次に、ブルグント人(Burgundians)について簡潔に書く。 ブルグント人も、原初はスカンジナビアにいたと思われるが、歴史上にあらわれるのは、今のホーランドあたりにいた時である。  それから3世紀末には、ライン川の右岸(つまり東側)にいたようである。(であれば、フランク人と隣接している?) 278年には、ヴァンダル族とともに、ローマ帝国に打ち負かされたとある。 彼らは、ライン川の東方に移動してきたアレマニ人(Alemanni、別名スエビ人Suevi)と共に、ローマと戦ったともある。

 一方、369年、ローマ皇帝は、アレマニ人との戦いにため、ブルグント人に助けを求めたとある。(※このあたりは、フランク人同様、帝国との付いたり離れたりの関係があった模様。) 次に、ブルグントの名前が出てくるのは、この約40年後。 406年にローマが、西ゴート人(Visigoths)との戦いに退却してからである。 多くの他のゲルマン部族が、先にこのブルグント人がいた土地に大挙押し寄せてきた。 主なものは、アラン人(Alans、※アラン人は、正確にはゲルマンでない)やヴァンダル人(Vandals)そしてスエビ人(SuebiまたはSuevi)である。

 それで、ブルグント人は、更に西方に移り、帝国内で定住したものもあれば、一部は東に戻り、フン族の軍に合流した者もあるようだ。 411年、ブルグントの王(Gundahar)は、ライン川左岸(ローマ帝国内)でアラン人の王と共に国を立てた。 休戦の後、帝国は、王にその土地所有を認めた(現在のWormsヴォルムス辺り)。 にもかかわらず、この王は、帝国に抵抗したりして、437年帝国が呼び寄せたフン族に打ちのめされ戦闘で死ぬ。

 このフン族との戦いで死んだGundahar王、そして、ヴォルムスの王国の滅亡は、後に叙事詩”ニーベルンゲンの歌”(Nibelungenlied)の題材になった。(※このニーベルンゲンの歌は、ドイツ語圏の人間なら誰もが知る一大英雄叙事詩である。 価値としては、日本で言うなら、日本書紀かあるいは源氏物語に相当するのか? 私も学生の時、ドイツ文学の授業で少し勉強したが、題名以外はほぼ忘れていた。 このブルグント人との関係とは驚いた。 この英雄叙事詩についても、もう一度またじっくり見てみたい。)

 その後、経過は不明だが、443年、Gundaharの息子と思われる者が王になり、今のリヨン近辺のフランス南東部に建国を許される。 西ローマ帝国崩壊(476年)後、この周辺を抑えたフランク人と当初仲良くやっていたブルグント王国であったが、534年、そのフランクの王・クロヴィスによって滅ぼされる。

 ブルグント語は、東ゲルマン語群であったと思われるが、あまり資料はない。 6世紀末までに消失した。 彼らの宗教は、先には、ゲルマンの多神教であったが、のちにアリウス派キリスト教に改宗したとある。 ガロ・ローマ人の詩人が、彼らの身体的特徴として、長髪で素晴らしい体格である、と書いている。 なお、このブルグントという名は、今もフランスのブルゴーニュ地方という名(当然フランス語式スペルなので、多少変わってくる)で残っている。

 

f:id:Ayasamoneu:20201102042831p:plain

460年頃(西ローマ帝国崩壊直前)の西ヨーロッパの勢力図。 赤は西ローマ帝国(イタリアとフランスあたりのみ)、黄色がフランク王国、濃青がブルグント王国、水色がアルマン王国など。

 次は、スエビ人(Suebi またはSuevi)を極く簡潔に。 これももとは、バルト海に面した地域にいたが、移動し最終的にはイベリア半島まで行き着く。 単一のグループではなさそうだが、ゲルマン語を話す集団であるのは確かなようだ。(日本語ウィキでは、ケルトであったかなどの懐疑的な表現がある。)

f:id:Ayasamoneu:20201102060134j:plain

スエビ人の移動経路

 彼らは、同じようにイベリア半島に移動してきた西ゴート人に征服される。

  このスエビで思うのは、他とは少し語感の違うこの名であるが、この名は、ゲルマン祖語(あるいはもっと前の印欧語か)に共通の意味があるらしく”one's own-'などのような意味あいらしい。 つまり、”自分たちの(土地や民)”などと表現したのか。 ちなみに、スウェーデンの”swe”(スウェーデン語ではsve)も同じ語源らしい。 また、ドイツ南部には、スワビア地方(Swabia)というのがあるが、これもスエビ人から由来している。

 次は、アレマン人(Alemanni)。 彼らは、既述のように元はスエビと同族だが、そのまま今のドイツ南部に留まった部族である。 このアレマンやスエビなどは、ゲルマン民族大移動に関する日本の教科書などでは、あまり馴染みのない民族だが(私だけか?)、このアレマンの民族名は、後にフランス人がドイツ人をこの名前で呼ぶということを考えても、欧州では重要な存在なのかもしれない。

 彼らは、200年頃には、ライン川上流にいたが、次第に南下していった。 しかし、その距離は、他のゲルマン人に比べ大きくはない。 彼らも、496年、フランク王国のクロヴィスによって征服され、以後その傘下の国となる。

 

f:id:Ayasamoneu:20201102063001p:plain

アレマン人の移動、3-6世紀

 

 ロンバルト人(Lombards) 。 この民族も、のちにイタリアに定着することになり、ロンバルディア平野などの地名を残した。  ロンバルト人も、北欧・北ドイツあたりにいたが、5世紀末までにドナウ川北岸にまで移動、そこでGepidsなどの別のゲルマン部族と戦闘しそれに勝利(550年頃)、さらに南下し、西ローマ帝国崩壊後のイタリアを支配した。 この時、北イタリアは、東ローマ帝国と東ゴート族との戦争後で疲弊しており、ロンバルト人のこの地への入場はスムースなものだったようだ。 彼らは、ここに王国を建てる。(570年頃)

 しかし、774年にフランク王国のシャルルマーニュによって征服され、その傘下にくだる。 しかし、南イタリアでは、11世紀頃までロンバルトの貴族たちが支配していたようだ。 

 他のゲルマン部族の言語との識別は難しいものがあるが、エルベ川流域のゲルマン語であるロンバルト語の語彙は、イタリア語の中にかなり入り込んでいるらしい。 また、ロンバルト人の骨格は、同時期のスカンジナビア人のものとそっくりであるようだ。

   今回のゲルマン部族の最後は、ヴァンダル人(Vandals)。 英語のvandalism という単語は、破壊行為や乱暴を意味し、結構新聞などでも目にするが、この言葉は、このヴァンダル人由来である。 このことから、ゲルマン民族に対する時の支配者(ローマ人)の印象は、このような否定的な意味合いを持っていたものが多い。 まあ、当然と言えるかもしれないが。

 彼らは、当初わかっている時点では、今のポーランド南部にいたが、ガリア地方を経由して、イベリア半島にまで移動した。  

 ヴァンダル人が、ローマ帝国に知られるようになったのは2世紀で、ヴァンダルのいくつかの部族が、ローマとのマクロマニの戦い(168-180年)でローマに多大な損害を与え、イタリアに侵入した時である。 彼らは、その戦争中、さらに南下し(南東)、ドナウ川近くのダキア(当時はローマの同盟国)の地域まで侵攻した。

 270年頃には、ヴァンダル人は、ドナウ川の東岸でローマと共存していたが、278年の戦いでは、ローマに破れ、多くがイギリスに連れていかれたとある。 その後、ゲルマン人同士の争いがいろいろあったが、ヴァンダル人は、4世紀の末頃まで、ドナウ川右岸にいた。 401年に、彼らはローマ領内で反乱を起こしたが、それはドナウ川中流域で彼らが勢力を持っていた証拠である。 406年に、ヴァンダル人はさらに西に向かい、ライン川までは抵抗なく進んだが、そこでフランク人に進行を阻まれる。 2万人もの死者を出したが、ヴァンダル人は、アラン人の協力もあって、フランク人に勝利しガリア地方に侵入する。

 409年、ヴァンダル人は、ピレネーを越えイベリア半島に入る。 そこで、西ローマ帝国から土地を得る。 しかし、イベリア半島には、先にスエビ人がいた。 そして、同じく先住の西ゴート族は、417年ヴァンダル人そして418年にアラン人を襲った。 この時、アラン人の王が殺され、以降、ヴァンダルの王が、アランの王を兼ねた。

 その後、ヴァンダルは、ローマとスエビや西ゴートの連合軍隊と戦いを続けながら、425年までには、北アフリカのカルタゴあたりまで勢力を伸ばし、西地中海もその活動に利用した。 429年には、完全にイベリア半島から離れた。 

 この時の王は、ゲンセリック(Genseric)という王であるが、実は、彼はローマの奴隷の女から生まれたとして、本来は王位継承の権利はなかったが、多くの歴史家は、このゲンセリック王(ヴァンダルとアランの王)が、ゲルマン民族の大移動(それによる西ローマ帝国の崩壊)の時期における 最も優秀な王であった、としている。

f:id:Ayasamoneu:20201105062004g:plain

ヴァンダル人の移動

 429年、ゲンセリックに率いられたヴァンダル・アラン集団は、アフリカに入った。 この時の人数は、総勢8万人ぐらいで、うち兵士の数は1万5千から2万人と言われる。 彼らは、東進の途中でアフリカの軍隊や西ローマ帝国から派遣された軍隊などと戦ったのち、439年にはカルタゴを支配し、そこをヴァンダル王国の首都とした。 その後もシチリア島やサルジニア島も占領した。 

 ゲンセリックは、477年に88歳で死去。 その後、国力は衰え、534年にビザンチン帝国(東ローマ帝国)によって、ヴァンダル王国は滅亡。 残ったヴァンダル人の多くは、今のアルジェリアにいたベルベル人の中に混入したり、東西ゴート王国に入る者がいた。 ヴァンダルの女たちの中には、ビザンチン帝国の兵士と結ばれ、北アフリカに定住した者もいた。

 6世紀のビザンチン帝国の歴史家は、ヴァンダル人は、lightな髪の毛で背が高かったと評した。 また、彼らは、白い体でfairな髪を持ち、背が高くハンサムだったともある。

  以上、この他にも、ゲルマン民族には、私たちがよく聞くここに書いた部族以外にも沢山の部族・集団があることを今回知ったのだが、ここには書いていない。(大きな集団ではなかったと思うが。) 

 ただし、次回は、もう一つ残っていた重要な部族で、いわゆる”ゲルマン民族の大移動”とその後のローマ帝国の混乱を引き起こした中心的部族・ゴート族について見てみたい。 そして、そのゴートの移動の原因となったアジア系のフン族の動きについても知りたい。

筒美京平さん、本当にありがとうございました。 ”また逢う日まで”!

 その死から、ちょっと時間が経過しましたが、おとといの土曜日に、NHKスペシャルでも筒美さんの偉大さを伝えてましたので、私も、少しだけ昔私が思っていたことを、感謝の意味を込めて書いてみます。

 さて、私たちが、小学生や中学生の頃は、レコード大賞が絶大な人気と権威を持っている時代でして(他の音楽賞がまだほとんど無い頃)、この私も姉たちと一緒に、大晦日はワクワクしながら、誰が取るのかテレビに見入っていたものです。 

 それで、大賞や新人賞などの各賞を獲得する歌手は、まあいろいろ出てきますが、この時同時に紹介される作詞家・作曲家では、この頃の私の印象では、同じ人の名がよく呼ばれるなー、というものでした。 そして、その中でも、この筒美京平さんは、まさに一番頻繁に呼ばれた人だったのでは、という印象がずっとありました。

 それから時代は流れて、その後、私は彼の名をほとんど聞くことがありませんでした。 しかし、今は、ウィキなどで過去のヒット曲が簡単に調べられる時代ですね。 そして、この度、そのヒット曲の数の多さに、改めて驚嘆したところです。 そのNHKの番組でも言ってましたが、彼はヒット曲を出すことに執着したが、彼自身は黒子に徹していた、ということなので、私のように数多くのヒット曲を口ずさみながらも、彼自身の名をあまり聞いてこなかった、と感じた人も大変多かったのではないでしょうか?

 さて、私が、好きな筒美さんの曲を挙げれば、”ブルーライトヨコハマ”や”木綿のハンカチーフ”や”さらば恋人”などキリがありませんが、やはり最高なのは、”また逢う日まで”です。 ひと時の別れの曲ですが、歌詞も曲も、本当に雄大で清々しく、中学生になったばかりの私にも、何か未来に希望がもてるような気分にさせる、そんな凄い曲でした。

 と同時に、この後も、このような素晴らしい曲がいっぱい出てくることを予感しました。 しかし、この予感は間違いでした。 この壮大さと爽快感、高揚感のようなものを持ち合わせたという点で、この”また逢う日まで”を超える曲には、私自身は巡り会えませんでした。(恐らく、マイナーな世界ではあったのでしょうが、誰もが知る大ヒット曲の中ではなかったと、私には。)

 以上、遠い昔に私が思っていたことを中心に書きました。

  

 筒美京平さんの死に、心から哀悼の意を表します。 素晴らしい歌の数々、本当にありがとうございました。