加藤剛も、柔道やっていた! 

 先日、ユーチューブを見ていたら、1972年のインタビュー番組に加藤剛さんが出ている動画に出会いました。 他に加藤の出ていたドラマなどの動画を見ていたせいでしょう。 

 で、なんとなくその40分以上ある長い番組を見ていたら、なんと、彼が、高校時代、柔道に打ち込み黒帯も取り、さらにその柔道部の主将となるなど、柔道が青春時代の一番の思い出であった、と本人が語っているではありませんか! その番組では、その柔道部時代の写真が出たり、当時の柔道部員仲間もゲストで呼ばれていました。 これには、ちょっと興奮しました。 

 前々から、加藤剛の体形は、腰や尻あたりがやや太めであり、足がそんなに長くはないな、という感じでは見ていましたが、まさか、それが柔道体形の証拠であったとは思いもよらなかったです。 

 で、その高校時代の仲間の言うことには、彼らの高校が他校と試合をする時、その他校の女子生徒たちは、加藤の試合の番(主将だから最後の五人目に登場する)になると、なんと加藤の方の応援に回ったなど、と当時からすでに彼がかなりの人気者であった様子を語っていました。

 このテレビ番組は、私が14歳頃、正に中学校で柔道をしていた頃のものであり、朝の8時20分頃に始まるインタビュー番組であったため、当然、私自身はこの回は見ていません。 しかし、こういう番組があったことは、うすうす思い出しました。 それで、ウキペディアで確認したら、加藤剛の柔道経歴のことちゃんと書いてました。 ずっと前のウィキでも同じように書いてたのかなあ、とちょっと疑問でしたが。

 まあしかし、当時、このことを知っていたら、加藤剛に対する見方も大いに変わっていて、もっともっと親近感を持って応援していっただろうと思われ、今更ながら、なんか残念な気がしています。 彼は、このテレビ番組の2年後には、あの映画”砂の器”にも主役級で出ましたね。

 さて、私の知っている人で、他に柔道をやっていた俳優さんと言えば、若山富三郎、菅原謙次、小林旭、勝野洋、藤岡弘あたりが本格的にやっていた人たちで、他に少しやっていたと聞いているのは、加山雄三(映画:姿三四郎)や桜木健一(柔道一直線)などでありますが、その役作りのために少し齧った程度なのかもしれません? 

 この中で、比較的足が長いのは、勝野洋ぐらいで、あとは皆、典型的な柔道体形ですかね!?  その線でいくと、高橋英樹なんかも立派な柔道体形ですが、まあ、彼は柔道とは関係ないかな? (とまあ、これは冗談で、柔道をやったから柔道体形になるのでなく、すでにそういう体形の人が、柔道をたまたまやったまでのことですので、誤解なく! ただ、柔道をかなりやると、胸や腰回りの厚みは増すと思いますし、脚や腕が太くなるのは、必然かと。)

 他にも柔道経験者はいたと思うのですが、ちょっと出てきません。 芸能人でなく、有名人ということであれば、作家の井上靖は、かなり強かったみたいですし、彼の確か”北の海”という小説は、彼自身の柔道学生の青春を謳ったものであります。

 さてまあ、ごく最近の私自身は、特に下半身の不調などがあり、打込みの動きすらなかなかできなくなってきました。 上半身の運動や走ることは、まだ何とかできますが、下半身にそれ以上の強い負荷は、今はできません。 また、いずれ改善すれば、柔道用の補強運動も再度やっていきたいと思っています。

 さて、最後に加藤剛さんの話に戻りますが、彼が、映画やドラマの世界に入ってからも、姿三四郎は、幾度も作品化されております。 ですので、こうやって彼の経歴を知ってみると、きっとその映画やドラマの企画が持ち上がる度に、彼は周囲から出演の打診があったのではと推測するのですが、どうかな? もしかしたら、私の大好きな竹脇三四郎(1970ドラマ)も、加藤三四郎であったかもしれません? 

 

※2026年7月10日、追加。 ウィキペディアを見ていたら、木下恵介アワーやもっと以前にはその悪役の凄みで知られ、そして、竹脇三四郎では、講道館の和尚役を演じた進藤英太郎さん(1899年生)も柔道をやっていた、ということがわかりました。 彼は、長身の立派な体格だったので、さぞかし強かったことでしょう。

日本映画(戦後)男優トップ10 改訂版

 2026年も早2月中旬となりました。 あと半年で68歳、いよいよほぼ70という年になってしまいます。 まあ実際、70歳になる直前に自分の心境がどうなるのか、ある意味とても興味がありますが、まあその辺のことは、また来年以降にでも、です。

 さて、2014年12月に菅原文太(敬称略)が亡くなった時に、戦後の日本映画で活躍した男優の中で(戦前から引き続き活躍している人を含めない)、私が思うトップ10の方々を挙げたことがあります。

 それから今日まで、ユーチューブに出されたものを中心に多くの映画を見てきました。 恐らく、それまでの私の人生で見た分と同等かそれ以上の数を、この11年あまりの短い時間に見てきたと思います。 そのほとんどは、1980年代以前の古い作品、そして白黒作品が主でした。 1990年代以降のものは、”あまり感動的なものはない”、というのが私の思いでして、かなりの偏見なのでしょうが、実際、そう思うので仕方がありません、 ご理解を、です。 また、私にとっては、コンピューターやCGの多用作品、あるいは、アニメ作品などは、評価の上位には来ません。

 ということで、ここ数年、映画やドラマをたくさん見てきましたので、それに伴い、自ずから私自身の各俳優さんに対する評価や思いが、以前と少し変わりました。 それで、今回、以前書いた、戦後の日本映画に登場した男性俳優の中で私が思うトップ10を、改めて作り直したいと思います。

 それで、まず、私が以前に増してより凄い役者だと思い直したのは、市川雷蔵と佐田啓二です。 前のにも次点として挙げてましたが。 このお二人とも早逝ということであり、私自身が年少すぎて、彼らの作品にあまり接することが出来なかった面がありました。 でも、今回、ユーチューブに彼らの古い作品が多く紹介され、それらを見た時に、私は、この二人がすでに一流の俳優として評価されるに十分な数多くの素晴らしい作品に出ていたのを知りました。 雷蔵は、時代劇では、20歳近い年上の長谷川一夫と共演しても(長谷川の主役がほとんど)、存在感に引けをとらないものがあったし、姿形や声色でも長谷川より優れているように私には感じられました。 また、現在劇でも陸軍中野学校を舞台にした作品群や犯罪者の役などでも独特の際立った演技を見せていたように思いますし、それらの映画も非常に面白かった。 

 一方、佐田啓二は、恐らく現代劇しか登場してないと思いますが、定番の好青年・好人物役に加え、陰影のある役・悪役なども見事に演じている作品がありました。 そういうことで、この二人は、トップ10に入れたいと思います。

(※あとで生年月日などを調べている時に気づいたのですが、このお二人とも京都市生まれであり、同じく37歳の時に亡くなってます。 佐田啓二の方が、5年早く出生しています。

 それと、私は、占いや運勢などというものは、全く受け付けませんが、8月28日の自分の誕生日については、ある種の強い思いがあります。 それは、このブログの極最初の方でも書いたと思いますが、中学1年の時、銭湯の日捲りを何気なくめくった時、ドイツの文豪ゲーテが同じ誕生日と知ってから彼の著作を読み始めたり、さらにすぐ、トルストイも同じ誕生日と知って、そこから欧米の古典的作家の作品を読もうしたのも、言わば、この同じ誕生日の由縁なのでした。 それから、明治の解放令やマーチンルーサーキング牧師のワシントン行進日など人権差別に関する重大な記念の日が、この日に起こっています。 そういう自分の誕生日に関連したことが、実際、私のこれまでの生き方・行動にかなり影響を与えた、あるいは、意識させたことは確かなのです。 

 それで、ちょっと前置きが長くなりましたが、今回、市川雷蔵が、私より1日遅い8月29日の生まれであること、また、彼が映画で成功するまでは、相当辛い人生があったということなどを知り、彼への愛着が益々高まっています。 まあもっとも、この後、ここに挙げる映画スターたちのほとんども、そんなに裕福な家庭で育ってきたわけではなく、むしろ、その前半生において、人生の辛酸をなめてきた人たちばっかりであったようなのですがーーー。)

 さて、気を取り直して、つぎにトップ10に入れたいのは、田宮次郎です。 この人の死も割と早かったのですが、前述のお二人よりは、時代的にやや後だったので、私には彼はよりなじみがありました。 でも、やはり、この人の若い時の作品をそんなに見てきたわけではなかったのですが、今回、”黒シリーズ”などを見て、非常に良いなと思いました。 ですので、彼も、トップ10入りです。 こうしてみると、大映系の役者が多いかもしれません。 ユーチューブに大映の作品が多く出ていたせいなのかもですが、でもまあ、これらの俳優さんは、素晴らしいと思います。

 それと、この人は長寿でしたが、前回のトップ10には入れず、これも次点にしていたと思いますが、いろいろ作品を見てきてやはり入れたいと思います、その人とは、三國連太郎です。 豪快というか豪胆というか、そういう形容詞がピッタリの役者だと思います。

 そのほか、すでにトップ10入りしてましたが、若い時のいろんな役を見て、改めて良いなと思ったのは、鶴田浩二です。

 さて、こういう風に、トップ10に新たに3・4人を入れるとすると、当然、その人数分だけトップ10から出て行ってもらわなければなりません。

 それで、まず、私が選ぶのは、申し訳ないですが、高倉健です。 極若い時の作品も見ましたが、当然、若い時分の方が、もっと”大根”なのは、明白でした。 それと、次には、渥美清です。 彼は、”寅さん”で圧倒的な人気と名声を得ていますが、果たして、それ以外に良い作品・印象に残る作品はあったでしょうか? 

 それに、”寅さんシリーズ”自体も、私には、それほど映像的に価値のある作品には思えないのが、正直なところです。 ”車”という苗字を付け、テキヤという商売を世に知らしめ、かつ、そのことが自身の恋愛や結婚に大きく関係してくるその初期の作品群にあるそのような内容は、社会的には一定の意義があったとは思うのですが、そのような意味合いは、作品が増えるに従い薄れていきました。 このブログでも書きましたが、ちょうど勝新太郎の座頭市が、最初の頃の身分差別を鮮明に憤った内容から、よりチャンバラ主体の娯楽ものになっていったように。

 あと、トップ10から出ていかなければならないのは、若山富三郎になるかな。 彼は、雷蔵たちと反対に、後年の演技やドラマなどでの活躍が評価を高めていたと私は思いますが、個人的には好きな俳優で、柔道五段の親分肌であるけれど、京大(正確には京都帝大かな?)の卒業生にはいたって尊敬の念を隠さないなどの面白い個性ではありますが、トップ10外とさせていただきます。

 以上、ということで、2026年初頭時点での私が選ぶ男優トップ10は、

 三船敏郎(1920ー1997、77歳没)

 丹波哲郎(1922ー2006、84)

 三國連太郎(1923ー2013、90)

 鶴田浩二(1924ー1987、62)

 佐田啓二(1926ー1964、37)

 市川雷蔵(1931ー1969、37)

 勝新太郎(1931ー1997、65)

 萬屋錦之介(1932ー1997、64)

 菅原文太(1933ー2014、81)

 石原裕次郎(1935ー1987、52) 以上、となります。

 上述の中で、田宮二郎をこの中に入れると書きましたが、やはり入りきれないので、次点とします。 萬屋錦之介は、私個人的には、あまり好きな映画はないのですが、彼の演技力や時代劇におけるその人気ぶりも知っていたので、やはりこの中に入れないわけにはいきません。 

 実は、2014年のトップ10に丹波哲郎は、入れていたかどうかはっきり思い出せなかったのですが、今回改めて見て、入れていることがわかり安心しました。 彼の若い頃の無国籍映画的なものの中での役柄も面白いものがいっぱいあったし、とにかく、あの”砂の器”の名演技だけでも、十分この中に入れられます。 

  まあ、だいたい以上なんですが、何人かの世間的には偉大な俳優さんに、私如きが批判めいたことを書いたかもしれませんが、あくまでも、他の役者さんと比較し差をつけないといけない必要性からということを、どうかご理解していただきたいと思います。

 そして、この10人に続く次点の男優陣としては、池辺良、渥美清、若山富三郎、高倉健、仲代達矢、田宮二郎、山崎努などが(大体年齢順?)、私の考えでは来ます。  では。

2025年も残り2か月!

 表題のとおり、今年もあと2か月を切ってしまいました。 ずっと、このブログ、御無沙汰でしたので、今年も最低でも何か一つ書かなければ、と思っていたところ、10月後半になって、私にとって大きな出来事が重なったので、今こうして書くことにしました。

 そこで、まず、最近、私がいつも朝起きた時にすぐにしていたことを書きます。 それは、野球大リーグMLBのドジャーズの試合結果と、大谷を中心とする日本人選手の活躍を確認することです。 ここアイルランドの時間では、アメリカの野球、特に西海岸のチームの試合の場合、夜7時の試合開始は、こっちでは、それは夜中の3時になり、終了するのは朝の6時頃となります。 到底、その試合経過を知ることは、早寝の私には全く無理なんですが、最近6時頃起床する私は、少し朝の食事及び雑用をすませて、7時前くらいに、その試合の結果を見るのが、日課で本当に楽しみなことだったのです。 まあ、2025年の場合、大谷の投打の活躍、そして山本由伸、それにカブスの今永と鈴木、メッツの千賀、エンジェルスの菊池などの投や打の結果がとても気になってました。 

 そして、最終的に2025年は、御存知のとおり、ドジャーズが、今回の壮絶なワールドシリーズを制し2連覇しました。 この私は、いまだその興奮冷めやらぬというところです で、ひとつ、このワールドシリーズ中の試合で、私的には衝撃的な事件というか状況というか、そういうものがあったので書きますと、このシリーズは、全試合ロサンジェルス(西海岸)時間では、夕方5時開始で、こちらでは夜中の0時か1時(途中、冬時間移行もあり、ややこしかった)でした。 だから、たいていの場合、私が起床すれば、結果は出ているはずでした。 通常、私が、試合結果を最初に確認する方法は、大谷選手のインスタなんです。 彼は、いつもチームが勝つとインスタグラムに早めに投稿するので、インスタに彼のがあれば、ドジャーズが勝ったとわかるのです。 

 でも、このシリーズの第3戦の時は、それがなかったので、負けたと思ってました。 あとでわかりましたが、その最初に確認した時は、まだ試合継続中だったみたいです。で、試合は負けたのかと思いつつ、ユーチューブなどを見ると、佐々木朗希の力投の動画が挙がってたりして、なんか、ドジャーズが勝っているようにも見えたのです。 それで、再度、検索して試合結果をみてみたら、その時は、ドジャーズが勝った、と出ていました。 御存知のように、この試合は、延長18回までいき、6時間39分もかかったんですね、ホンマにビックラでした! だから、大谷のインスタ投稿もまだ出てなかったんですね。 こんなこともあるんや、という感嘆と歓喜の思いでした。 まあ、この試合に負けてたら、相当落ち込むな(選手もファンも)、とも思いましたが。 でも、相手のブルージェイズは、落ち込むことなく、次の4戦、5戦と連勝してしまいました。 結局、ドジャーズは、山本由伸の驚異的な頑張りで、その後2連勝したのは、皆さんよくご存知のとおりです。 

 その第7戦も、ほんとに凄い試合でしたね。 実は、この試合も、私は、夜中ちょっと目を覚めてしまい、試合の途中経過を見てみたら、8回裏でドジャーズが3-4で負けていて、その時は、スネルが投げてました。 ”もうあかんなあ”、と思いながらも、一縷の期待も込めながら、また寝間に戻りました。 そしたら、次起きた時には、大逆転の壮絶な試合展開を知ることになりました。 大谷投手は、連戦の疲れからか、投球はもう一つでしたが、その分、山本が大活躍してゲームを締めましたね、感動の結末でした! MLBの専門家の多くも、歴史上最高のポストシーズンの試合と言ってました。

 さて、MLBも公式試合が全部終わって、私の朝の緊張を伴ったうれしい試合結果の確認作業は、今シーズンは終わってしまいました。 まあ、あと、MVPの発表など、わくわくする情報も幾分かはありますが、それは、たぶん朝見るものではないので、これから、来年のWBC、さらには、サッカーワールドカップまでは、朝の早い時間の過ごし方が、課題となります。

 さて、私の個人的体調について書いておきますと、今年は、当初の6月から延期になって8月にあった地元の8kmミニマラソンなんですが、これは、何とか完走できました。 去年より2分程度遅れての記録ですが。 まあ、それは、年々の加齢のせいもあるでしょうが、ただ、左足の筋肉が去年以来ずっと調子悪いことも一因かなと自分では思っています。 この左足は、膝が、ずっと前から完全でないのは、このブログで書いてきましたが、去年あたりから膝の裏側の上下の筋肉や靭帯が調子悪く、膝が十分曲がらないのが続いています(正座をするには、前もってマッサージや柔軟を十分する必要があります)。 ふくらはぎとか太腿の裏の筋肉や靭帯の違和感なんです。 でも、ときどき、左の尻あたりの筋肉までもおかしな感じになります。 まあ、ほとんどの日は、走ったりスクワットなどはできるので、そんなに深刻なものではないのかもしれません(ただし、体落しなど柔道の打込み動作は、もっと負荷が大きいので、ちょっと難しいのですが)。 日頃の座る姿勢や、ひょっとしたら、私の左足の膝下の表側は、長年、軽い静脈瘤のようになっているのですが、それに関係しているかもしれません。 この辺は、もう少し様子見が必要かな、とも思います。

 さて、健康面では、もう一つニュースがあります。 8月の末に、胃と大腸の内視鏡検査を受けました。 3年前に受けて、その時、ピロリ菌が見つかったので、抗生剤を服用していたら、8・9日目ぐらいで全身に赤い発疹が出るペニシリン・アレルギーになってしまいました(日本と欧米では、服用期間が違う)。 それ以来の内視鏡検査です。 で、今回の検査の結果、結腸は、特に問題なかったけれど、胃に軽い潰瘍が見つかったのです。 それで、今度は、2か月間の制酸剤の服用。 そして、この10月末に、その胃潰瘍チェックのため、今度は胃内視鏡だけの再度の検査。 それによると、潰瘍は治癒されていました。 

 でも、胃がんも胃潰瘍もそして慢性胃炎も、日本人の場合、最近では、ほとんどピロリ菌によるものだと言われています。 3年前の検査では、ピロリ菌の存在と慢性胃炎はありましたが、潰瘍はなかったのです。 ということは、その後、ピロリ菌はいなくなったが、それ以前にすでにピロリ菌により胃の粘膜は相当痛んでいたため、ピロリ菌がいなくなったあとでも、この胃潰瘍が起こったのでしょうか? まあ、その辺の因果を確認するのは、、なかなか難しいことかもしれません?

 さて、最後にもう一つ、ごく最近の話題を。 実は、先週の金曜日、私は新しいパスポートを得ました。 海外在住者にとって、最も大事なものであるパスポートなんですが、今年から、オンラインで申請が可能となりました。 オンラインで行えば、大使館には受領のために1回だけ行けば良いことになり、時間的にも肉体的にも負担はかなり軽減されるからです。 しかし、御存知のように日本政府のやるウェブサイトは、煩雑でフレンドーになってないのが実情です。 コロナウイルスの際の海外からの日本帰国・入国者に対するウェブ上の手続きも大変でした。 今、私は、日本から少しですが年金をもらってますが、毎年、その継続のために在留証明書という文書を日本政府のサイトからオンラインで取得しなければなりません。 そのサイトが、当初、非常に戸惑う感じで難しいものだったのです。 それで、今回のパスポートは、もっと難しいと覚悟して、そのオンライン申請をしたのですが、結果的には、そんな手間なく申請が出来、そして、先方から審査中であるという返事がeメールで来た時にはホットしたものです。 そしてその後、先週、無事に新パスポートを大使館まで取りに行ってきた、という次第です。 

 パスポートは、10年ものなので、次の更新時には、私は、77歳。 果たして、その更新はあるだろうか、と少々不安な気持ちが一瞬よぎったのと、もし、更新があっても、認知症まではいかなくとも、日本政府のこのような煩雑なオンラインシステムに私のその時の思考力が付いていけるだろうか、という思いも出てきましたが、でも、10年もすれば、政府のも含めいろいろなウェブサイトも今よりもっと簡単でしかも安全なものになっているだろう、と思い直していたところです。  さて、どうかな? では、今回は、このへんで!

2024年にあった事(後半)

 2024年は、私にとって、本当に5年か10年あるいは人生で一度あるかないかのような大きな出来事が続きました。 6月頃までに起こったことは、以前書きましたので、それ以後に起こったことをここに加えます。

 まず、錦鯉の水槽関連で、いくつもの電気器具の買い替えが続きました。 春先に水質が悪化してきたので(所謂、緑藻green algaeが発生)、6月頃かな、UVCLarifierと言う紫外線を照射して藻を殺菌駆除する器具がうまく機能していないものと断定。 内部には、大きなカタツムリが何匹かいましたが、これが故障の原因だったかどうかは不明です。 この器具は、約5年ぶり2回目の更新でした。 続いて、フィルターに空気を入れるエアポンプ・モーターが調子悪くなり、これも更新。 こちらは、水槽設置以来約10年で初めての交換。 それでも、電気系統がまだおかしいので、電気配線収納箱も交換。 これも、初めての交換でしたが、細かいケーブルの配線を狭い箱内で連結するのは、老眼の進んだこの私には、結構難しいものがありました。 このように数か所で故障などが起こったので、完全に修理復旧するのに2か月以上かかりました。 私が使っている水槽の水質管理に必要な電気器具の中で、今回問題のなかったのは、フィルターポンプだけです。 それとまあ、エアポンプ・モーター(450ユーロ程)やUVクラリファイヤー(250ユーロ)は、結構高かったのが痛かった。  

UV クラリファイアー

ここに見える黒い箱の上のエアポンプは、古い壊れたやつで、新しい今動いているポンプは、雨除けのためにその黒い箱の内部にあります。 左上方の鉛色の箱が、電気配線盤です。

 さて、夏頃聞こえてきた、私には大変大きなニュースであったアランドロンの死については、別途投稿しましたので、ここでは書きません。

 それから、物故者という点では、9月半ばに妻の父であるリッチーさんも、その94歳の生涯を終えました。 ただの義父という存在だけでなく、私にとっては、最も尊敬する身近なアイルランド人であったと言える人でした。 非常に元気だった人で、93歳でもインドア・ローイングの大会や日々の練習に精を出すなど、凄い体力を示していました。 70代でローイングの練習をし始める前は、頭脳派であり、非常に理知的かつ素晴らしい判断力を有していた方でした。 でも、このリッチーさんも、本当に死の末期になって認知症関連のちょっと残念な症状が出てしまいました。 ということで、改めて人間の最期というものは、難しいものだと思ったものです。

 このリッチーさんの死後すぐ、我が家に災害が襲います。 9月中旬に、天井から突然の水漏れが発生しました。 それも短い時間に2か所の別の場所に起こったのです。 何だと思います? 実は、マウス(ハツカネズミ)のしわざだったのです。 我が家の評価を下げるようなこんなことを書くのは、ちょっと気が引けるのですが、やはり実際大きな事件だったので(後からみて参考にもなるとも思うので)、ここに書くことにします。

 アイルランドには、大きなネズミのラットも小さなマウスも全国的に生息しています。 そして、この小さなマウスは、丸い穴なら直径13mm程度のもの、長方形のような穴なら横幅が3cmくらいあれば、隙間の幅は11mm程度でも自由に行き来できるようです(ユウチューブの動画で確認)。 ですので、アイルランドの多くの家には、このマウスは侵入しているのです。 ただ、ほとんどの場合、大きな実害はないので、多くの家庭ではその存在に気付ついていないことが多いです。 我が家の場合でも、20年以上前の建築後すぐの時でも、このマウスが家内の天井裏や二重ブロック積みの間にある断熱材がある箇所で彼らの動いている音が聞こえていました。 その後、何年か毎に、彼らの存在が確認できていたのですが、2・3年前に、マウスの嫌う音波を発生する電気器具を設置してからは、そういうマウスが動いているような音は聞こえなくなっていました。

 しかし、今回、我が家では、前述のリッチーさんの死の数日後、天井から急に水が漏れ出すという、マウスによる大きな実害が生じたのです。 初めは、何が原因で水漏れが起きたのか、探してもわからず、でも漏水は続いています。 天井裏を再度詳しく見たら、なんとセントラルヒーティングの送水用などに使われる硬質プラスチック製パイプに穴が開いており、そこから水があふれ出していたのです。  

 私は、まず、家にある耐水性のガムテープで穴を塞ごうとしましたが、勢いが少し弱まるだけで漏水は続きます。 それで、近くのDIYショップで、耐水性のシリコンやボンドを購入し塗布して見ましたが、やはりだめでした。 アイルランドでは、配管工を呼んでも、なかなかすぐには来てくれないことが多いのですが、幸い近所に住む若い配管工(プラマー)がすぐに来てくれ修理してくれました。 まあ、修理の工程も2日に渡って行われたりして、その間も結構大変だったんですが、その詳細は省略します。 

 ただ、今回マウスが齧ったパイプの周囲に金網を囲うなど、将来の”災害”に備えての措置も講じましたし、来てくれた配管工もマウスがこの穴を開けたのは、まだ半信半疑でラットの仕業ではないかとも思っていた感じもあり、私は、マウスである証拠をつかむため、その後、マウス捕りの仕掛けを置き、計10匹以上(1匹ずつですが)を捕まえました。 また、赤外線カメラをアマゾンで購入して、そのパイプ付近にマウスが来る様子をビデオに収めることにも成功しました(刺激が強いので、ここで紹介はしませんが)。 と言っても、これは、そのパイプのある天井裏でのマウスの侵入を確認できただけです。 マウスが、屋外から家の中にどうやって侵入してくるのか、その入り口部分を探すのは、非常に困難なのです。 地下にトンネルを掘って、そこから家内に侵入することも考えられるのです。 ですが、こちらアイルランドの家は、皆家を建てる時の基礎工事として、家屋が建つ部分全域に厚さ30cm以上のコンクリート床を敷きます。 そのコンクリート床にコンクリートブロックを積んでいって家の形にしていく、そういうなのが一般的なアイルランドの家なのです。 そういうことで、この頑丈そうなコンクリートの厚い壁に囲まれた家にマウスが侵入しそうな穴があるということを考えるのも非常に困難なのです。 まあ、いずれにせよ、今回の水漏れ事件は、23年間の我が家での生活の中で初めて起こった災難であり、何らかの原因でスーパーマウスのような存在がいて、餌にもならないものを偶然齧っただけなのかもしれません。 こういう事件は、二度と起こらない可能性の方が大変高いと想像します。 ですから、あまり気にする必要はないのかもしれません。 今は、マウスの一番最初の侵入路がわからないので、その侵入を完全に阻止するのは無理ですが、少なくとも音波の忌避器具やマウス捕りなどで屋内に入るマウスの数を最小限にしていくしかないのでしょう。 でも、いつかは、その根本の侵入路を見つけたいという願望もまだ持ってます。

水漏れ箇所

 

一つ目の修理箇所、ここは2つのパイプに被害がありましたが、3-4m離れたところにもう1箇所被害がありました。

 さて、次に、話題をガラッと変えて、同窓会的な出会い系のものを二つ紹介します。 一つ目は、私は、学生の時、大学主催の短期アメリカ英語研修旅行に参加したのですが、その滞在先のネバダ州リノで、ある女性(ベブと呼んでいます)と出会いました。 私たち鳥取大学の学生をいろんな近隣施設に案内するバスの運転手をしていたベバリーです。 その旅行期間は3週間程度で、その間に学生皆で彼女のバスに乗る機会は、2-3回だけだったと覚えていますが、私はそれ以外に個人的に彼女と二人で会い、ボーリングをしたり、夜景を見にいったりしました。 とても楽しい思い出でした。 日本に戻ってからも、私は彼女に手紙をいっぱい書きました。 彼女からも手紙は来ました。 最初の1年間ぐらいは、かなりの頻度で手紙を交換したものです。 そのうち、手紙の頻度は少なくなり、私が就職する頃には、互いの誕生日カードを交換する程度になっていたと思いますが、そのカードの交換は、今日現在でも続いています。

 ところが、この11月になって、彼女の息子が、私のフェイスブックを知り、私に友達申請してきたのです。 息子は、エリックと言い、45年前のアメリカ旅行の時には、彼は7-8歳で可愛い坊やでした。 私たち学生を乗せたべブのバスに、彼も一緒に乗っていたのです。 

 このエリックのフェイスブックの友人申請は、実は、べブと私を同じくフェイスブック・フレンドにする目的があったのです。 そんなわけで、私とべブは、フェイスブック友達になり、そのメッセンジャーを通じて、いつでも互いに交信をすることができるようになりました。 すでにお互い数回ずつ、文章の交換をしています。 今までの手紙やカードに書いて切手を貼り郵便ポストに入れる作業は、自宅でのキーボードの打ち込みだけになりました。 私の英語も、学生時代のそれよりは上達しており、文章を書く時間や負担は、かなり今は少ないものになっています。

 まあ、しかし、物事は何でもそうですが、いつでもできるとか身近にあるとかになると、人間有難みが大いに減じます。 それもあるし、現在、私は66歳、彼女は、もうすぐ1月中旬に73歳になります。 そういう二人の間に、いろいろ書き続ける話題は、そんなにありません。 はっきり言って、彼女の方は、特にそうでしょう。 ですので、まあ、この先どんな風になるかわかりませんが、ひょっとしたら、このフェイスブックで友達にならない方が良かったのではないかと、今は、少しそんな予感がしています。 ただし、今現在まで、メッセンジャーでの連絡は、全く順調に行っていることは、念のために申しておきます。

 さて、もう一つ、同じような長年音信を不通にしていた知り合いたちと再び連絡が取れるようになりました。 それは、大学の獣医学科のクラスメートたちです。 鳥取大学獣医学科の昭和53年入学の同級生ということです。 53Vクラスと称しています(Vは、獣医学を意味するVeterinary由来)。 私は、フェイスブックの中のグループで、すでに5ー6名の53V仲間と連絡を取れていたのですが、今回、ひょんなことから、53VクラスメートのEメール内のグループに参加することができました。 ここには、38名の元同級生の内、25名程度の人のメールアドレスが示されているようです。 これも、ほんの1か月ほど前のことでした。 すでに、2・3人からメールが届き、私はこのアイルランドでの生活を簡潔にそこに記しました。 グループ全員が見れるものもあるし、個人的にメールを送ってきた同級生もいます。 まあ、こちらは、この先どう展開するのかわかりませんが、とりあえず、もう少し他の元同級生たちからもメールが送られてくれば良いなあと思っています。

 長くなりましたが、最後に、私自身の健康について少し追加しますと、半年前に書いた早起きの件ですが、この原因は、尿意ではなく、どうやら、朝日の明るみに最近白内障で明るさに敏感になった私の目が反応して、目が覚めているのではないか、と思うようになりました。 というのも、尿意であれば、冬場の方が余計に早く起きそうなものですが、実際は、それとは逆に、今頃は7時になってもまだ朝が暗いため、その頃を過ぎないと目覚めないという日が多くなっています。 つまり、より長く寝られているのです。 まあ、良いことなのですが、この早起きの原因の確定には、もう少し見ていく方が良いかもしれません。 

 他の健康面では、今年は体の各部にいろいろ痛みが起こりました。 主なものは、今年の初めから、右肘にテニス肘のような痛みが、今も続いています。 また、左肩も夏頃から急に痛み出し(いわゆる四十肩五十肩というようなものかと)、これも今もそんなに痛くはないのですが、若干の違和感はまだ続いています。 そのため、夏場以降は、右肘と左肩の痛みで、ベンチプレスは、非常に軽いものしかできないでいました。 でも、ほんの1週間ほど前くらいから、左肩の状態はだいぶ改善し、ベンチプレスの重量もかなり戻ってきて、夏以前の90%近くまで回復してきたと思います。 ベンチプレスが出来なかった期間も、腕立伏せは、一応継続していままでどうりやれていました。 それと、左足が、最初膝関節の痛み、それから、ふくらはぎの違和感、それから、太ももの裏側というふうに左足の各所に痛みが移動していくような症状がありました。 幸い、足の痛みは、10月頃には完全に無くなり、それ以降はマシーンでの走りを従来通り続けられています。

 さて、ほかにも細かいことを書けば、いっぱいあるのですが、たとえば、今、息子が彼女を我が家につれてきて、住まわせています。 約2週間ぐらいの滞在予定だそうです。 12月30日の今日現在、彼女は我が家に泊まってます。 こういう息子と彼女の関係なども将来どういうふうになるのか、と気がかりなこともあったりしますが、今回は、この辺で2024年の出来事を締めたいと思います。 では、良いお年を!

私の古代日本史ー邪馬台(やまと)国の誕生を中心にー

 さーて、やっと、皆さんお待ちかねの(誰も待ってヘン!)このテーマに関する原稿を書き始めることにしました。 何年も前から考えていたのですが、これまで出来ませんでした。 やっぱり、物語(小説)風にして長めの大作にしようという、ドダイ無理な邪心があったせいでしょう!

 なので、今からは、私がこれまでこのブログの古代史の部分ですでに書いてきたことをまとめるような感じで、短く簡潔なものでもいいから書いていこうと思います。

 ですので、ショボいものになると思われます。 そんなら、書かんでもええやん!などと言われそうですが、私は、とにかく、この国の黎明期の歴史の一連の流れを、私の言葉で書いておきたい、という強い思いをいつも持っていました。 

 それと、まあ内容的にも、現在の研究者・専門家の主流の意見・説に従っていると思いますし、想像の入る部分も現在の科学的知見から可能性のあるものを選んでいるつもりなので、ほとんど面白みのないものになると思います。

 でもまあ、とにかく、今から書き始めたいと思います。 では、ここからは、です・ます調から、だ・する調に変えますので、ご了承を。

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① 楽浪海中有倭人、分為百余国。(漢書ー地理志)

 時は、西暦1世紀前半頃、我が日本列島(現在の地理的意味で)は、当時すでに東アジアの帝国として君臨する中国の王朝・漢から倭(わ)と呼ばれていた。 今の日本語の”ワ”という音とは全く正確に同じではなかったと思われるが、それに近い発音であったことだろう。 おそらく、当時の日本人いや倭人が、自分たちのことを”ワ”あるいはそれに近い言葉で呼んでいたためと思われる。 一方、この倭という文字は、中華の周辺に位置する他の民族すべてにそうであったように、あまり意味の良くない漢字が充てられている。 倭という漢字の意味は、第一には、小柄な人間という意味だが、実際に、当時の倭人は、後に述べる縄文人の影響もあって、中国特に北部や朝鮮半島の人々より身長は低かったと思われる。

 ただ実は、この中国人が、倭という地名の指す範囲は、いつも今の日本の範囲だけであったとは限らないようだ。 中国の歴史書の初期においては、どう見ても朝鮮半島の南沿岸部分も含んだ九州を中心とした西日本のエリアに対して、倭という名を使っている場合も見られる。

 ともかく、この紀元1世紀頃、倭の中で一番朝鮮半島から近い九州島の北部沿岸を中心に、大量の移民が常時押し寄せていた。 ただし、それは、その頃だけの現象ではない。 

 数千年も前から、今の中国東北部やモンゴル、そしてシベリア地方などで寒冷に適応し、皮下脂肪特に顔面への脂肪の沈着が顕著でより短頭の傾向の強い形質を持った新たなアジア人の集団(新モンゴロイドという学者もいる)が、それらの地域で独自の文化や言語を形成しつつ、つまり各民族に分化し、さらに小国家を形成していく。 やがて、それらの集団の中から一部はさらに南下し朝鮮半島を主な経由地として、この倭の地に移り住むようになっていった。(いわゆる弥生人集団の形成)

 そして、この新たなアジア人の集団は、それまで倭の地の支配的な集団で、旧来からの東南アジア人的特徴をよりよく残した人間たち(いわゆる縄文人)と遭遇することになる。 最も、この縄文人たちも、元はアジア大陸の南や北の多方面から3-2万年以前から移動してきた様々な人類集団で成り立っていったものだ。 これらの集団群をまとめて縄文人と言うが、彼らは、倭の中で一番大きな島(本州)の東部や北部を主な居住地域とし、狩猟採集生活を中心に暮らしていた。

 一方、もっぱら朝鮮半島を主な経由地として玄界灘を超え、倭の北部九州沿岸に着いた新たなアジア人の集団は、紀元前1000年頃までには(弥生時代の開始は、前500年くらいだと現在の主流の説ではなっており、それも従来の説より早まっているが、最新の学会の意見は、発掘成果などから弥生時代の開始をさらに早期にしていこうとする傾向にある。)、稲やその他の植物の栽培技術を北部九州に持ちこみ、それによる人口の増加を背景に、その九州北部から東部や南部にその居住区域を拡充していった。 既述のように、そのあたりは縄文人の人口もそれほど多くなく(いや、これより早い時点で、一部の縄文人たちは、この新たな集団への脅威を感じて、東や南に先に逃げて行った可能性があるのかもしれない?)、彼らの居住域を圧迫・後退させていくのは、それほど難しいものではなかっただろう。 そして、この時点までに、先の縄文人の集団は、東日本を中心とした集団と九州南部を中心とした集団に大きく二分し、遺伝子的にも少し違う別の集団となっていった。 (※このうち、東の方の縄文人は、後のヤマト王権からは、蝦夷(えみし、アイヌ民族系ないしは弥生系と混血したアイヌ系の人々)と呼ばれ、九州南部の方は、隼人(はやと)と呼ばれた。) 

 そして、弥生人(※この弥生という名称は、正直、私は嫌いである。 主に九州・西日本の文化的特徴を示すこの時代の名を、なぜ関東の遺跡のあった地名から名づけるのだろうか?)となった集団の人口は、先住の縄文人を遥かに上回る数となり、しかも、半島などからの流入は、その後も続いた。 ただ、この半島から流入してきた集団群は、長い年月をかけて倭に流入してきたので、彼ら自身の出自は、必ずしも似通った者同士というわけではなかった。 すでに民族的な差異をもった集団群が、北部九州を中心に次から次へと打ち寄せていたのである。 

 というわけで、彼らの話す言葉は、皆多少の違いがあった、特に単語・語彙の面において。 ただしかし、彼らの言語の基本構造は、ほとんど同じであった。 それゆえ、この倭の地で、のちに確立される言語(日本語)の文の構造つまり文法は、人口で多数派を占める彼らの言語から由来することになる。 一方、基礎的な単語・語彙の面においては、既述のように弥生人同士の差異もあり、新たな倭という土地での自然や植生などの違いもあり、先住の縄文人らの使っていたものが多くそのまま採用され存続することになった。(※山(やま)、川(かわ)など)

 ここで、ちょっと思い出すのが、今から20ー30年前より以前は、中国大陸から直接日本列島に流入した人々の文化的貢献(水田稲作の導入など)を重要視する考え方が、まだまだ結構見られたが、DNA解析などが進んだ今では、そのような影響は、極く微小であると考えられる。 このころまでの中国大陸の文化は、朝鮮半島の文化も絡めて、半島経由で伝わったのである。 中国から直接の影響は、鑑真や日本の僧たち、そして、遣唐使などが活躍する時代まで待たなければならない。

 

② 北部九州に小国家群の形成

 さて、そんな文化的発展が徐々に進んでいく中で、紀元前後頃になると、北部九州には、100を超える小国家群が存在した(漢書)、とある。 おそらく、これは、現在で言えば、小規模な市町村ぐらいの大きさの国家であり、人口は、ほとんど少ないものでは数千人程度であっただろう。 これらは、もちろんいわゆる弥生人の国家群である。 

 その後、北部九州の中から、中国・後漢の皇帝に朝貢までできる国家が勃興する。 奴国(なこく)である。 西暦57年、奴国の王は、その見返りに金印を授与される(後漢書)。 

 歴代の中国皇帝は、周辺国との朝貢関係を結ぶ時には、こうやった印章を授与しているが、材質は金や銅など様々で、この奴国へは金印ということで、その朝貢国としての地位が高いことを示すものであるのかもしれない。 なお、肘頭部分は、長年ヘビの形をしているものと言われたが、実は、当初はラクダを彫ろうとしていて、途中で、ヘビに変えたようである。

 このことは、後漢の皇帝(光武帝)は、当初、奴国には、ラクダがいるような土地柄であったと勘違いし、のちに南方の地であることを確認して、肘頭の形をヘビに変えたとも考えられる。 このことは非常に重要で、歴代の中国王朝は、長い間(おそらく、のちの倭の五王時代頃(500年頃まで)、倭の位置をかなり南方にあったと認識していたようであった。 もっと新しい時代でさえ、中国人の描く日本は、かなり南方に位置している事実もある。

 そして、紀元前後の頃の北部九州の国家群(都市国家的なものであろうか?)の状況は、恐らく、あの『三国志魏書東夷伝倭人条』(いわゆる魏志倭人伝)に書かれている内容と大きな差はない、と想像できる。 というのも、陳寿によって魏志倭人伝が書かれたのは西暦280年前後とみなされるが、当時の中国の王朝が知りえた日本(倭)の情報の多くの部分は、かなり古いものに基づいたものであると推察されるからである(王朝が実際に倭国からの朝貢に応じた事項などを除いて)。 倭人の生活や文化を記載した部分は、日本の位置をかなり南方にあるという前提での記載であり、書かれている風習などは、より原始的であったり、あるいは、かなり田舎の風習だけを取り上げている感じがする。 

 この魏志倭人伝が中心的に描写している邪馬台国などの倭国の中心的国家は、すでに中国や朝鮮半島へ朝貢などをしていることを考えると、そういう使節が先進地の文化を盛んに取り入れ、少なくとも、それらの国家の中枢部には文化的な施設や国家としての制度があったろうと思われる。

 それで前述した金印であるが、奴国がこれを貰ったということは、その奴国王が近隣を制圧していた証拠になると思われるが、これが西暦57年頃である。 しかし、魏志倭人伝による北部九州の各国の記述では、奴国よりも伊都国(いとこく)の方が、より重要な都市国家であるような印象を与える。 また、伊都国がのちの政権国家である邪馬台国と密接につながっている印象を受ける。 ただし、魏志倭人伝の記述では、伊都国の人口は数千人程度で、東の隣国の奴国よりかなり小さい。 しかし、伊都国の邪馬台国との関係やいろんな役所があるなどの興味ある記載は、奴国や西隣の末盧国(まつらこく)の簡素な記述とは対照的であり、西暦100年を越えるあたりから、伊都国の邪馬台国との同盟関係や北部九州での支配的位置が向上しているように見られる。

 北部九州には、この伊都国のある王の埋葬場所と考えられる墳墓も推定されており、また、伊都国には、後のヤマト王権で珍重される銅鏡もこの地で大型化している。

 さて、埋蔵物の調査、すなわち青銅器や鉄器の分布などの科学的知見において、西暦200年頃には、現在の中国地方や近畿地方の勢力の方が、北部九州より優勢になってくる、ということが判明している。 つまり、西暦100年あたりまでは、西日本地域の覇権という意味で、北部九州が持っていた優位性は、少なくとも200年頃までには、吉備地方や出雲などの山陰、そして、大和を中心とした畿内勢力に、完全に置き換わったと言えるのである。

(※しかし、近年の発掘成果により、畿内・近畿では、紀元前後の遺跡(池上曽根遺跡など)からも大型の建造物が確認されるなど、この地域における文化的発達はかなり早いものであった、と証明されている。 ただ、100年前後までは、それでも北部九州の方が、全体的に政治的な優勢を保っていたのだろう。)

 そして、その中間期とも言える西暦160年頃に、倭国内で大きな内乱が起こる。 『倭の乱』あるいは『大乱』である。 これは、ある意味、それまで倭国内では北部九州の勢力が優勢だったものが、この時期までには、倭国全体(東海地方を含む西日本全域で、弥生系の治める地域)の各地の勢力が勃興してきたものと考えられる。 そうであっても、それらの諸地域の小国家群は、当然、まだこの時期には、北部九州由来の先進文化に依存していたであろうし、そして、元の北部九州にしても、連綿と続いた朝鮮半島経由の元王族などのリーダー的存在や物資の流入を受け続けて発展していったと考えられる。

 そういうことで、玄界灘沿岸の北部九州から広がった弥生人の集落そして小国家地域は、西日本全域とりわけ瀬戸内沿岸で発達することになり、特に、その主な拠点としては、九州の瀬戸内沿岸地方、吉備、出雲、讃岐、播磨、東海そして畿内などが挙げられる(纏向遺跡で見つかった石器分布などから)。

 

③ 倭国大乱の内情と投馬国と邪馬台国の位置

魏志倭人伝記載各国の位置及び弥生期の高地性集落の多い地域

 さて、ここでもう一度、この160年頃に起き、10年程のかなり長い期間続いたと思われる倭国内の大きな騒乱(魏志倭人伝では、『倭国乱る』とある)は、その結果、倭国に大きな変化をもたらすのであるが、その内実を見ていくには、この乱では、どの国とどの国が戦い、どこと同盟を結んでいたのかということが非常い重要となると考えるが、その先に、倭国内の主な国々の位置関係を確認しておくことが大事なことになる。 

 魏志倭人伝では、北部九州にあった不弥国(ふみこく、ふやこく)から、水行20日で投馬国(とまこく)に到着とある。 まず、私は、魏志倭人伝に書かれている南行きというは、すべて東行きに修正して考えるべきだと思っている。 これは、先に述べたように、当時の中国では、倭国は、九州を起点にそこから南に長く伸びている島国だと想定している節があるからである。 人々の衣服や食生活の描写は、まさにそうである。

 それで、この投馬国の位置は、非常に重要なので、東行きの水行の場合のこれまでの主な候補地をあげると、まず吉備地方の西端にある広島県瀬戸内側の鞆の浦、日本海側の兵庫県の但馬、そして、島根県の出雲である。 どれも、音声的に似た地が候補になっているが、これだけでは判別不能である。(※ちなみに、他の倭国内の国々の名称も、音声的に今現在の地名にその名残りがあるものが多い。) 

 しかし、様々な遺跡の発掘調査、日本書紀などの記述などを考慮すると出雲の可能性が非常に強い。 また、魏志倭人伝は、この投馬国から邪馬台国の行程は、水行10日プラス陸行1カ月としている。 この記述を考えると、瀬戸内沿岸地方にあった吉備地方から大和地方にある邪馬台国に移動するには、陸行はほとんど無いか、あっても1-2日程度の行程しかかからないので(当時の河内平野は今よりもっと狭かったので、海岸から大和川沿いを抜けて奈良盆地まではもっと近かった。)、陸行があるということ自体、そして、それが1ケ月も要するというのは、出雲から大和までを山陰山陽を経由した陸行であると考えるのが妥当である。 

 もっとも、それは、邪馬台国を畿内の大和地方にするという前提であるが、これは当然、この話の中心的話題でもあるが、物証(纏向遺跡や箸墓など)や伝承などによっても、そうでなければならない、と私は考える。

 さて、もう一度戻って、160年あたりに起こった倭国の乱とは、北部九州の諸国家と投馬国である出雲や山陽の優勢な小国家である吉備、そして、邪馬台国などがどのような関係をもって起こった騒乱なのだろうか?

 これは、現在のところ想像の域をでないが、最も有効な考えの一つは、その後の歴史から見るしかない。 

 魏志倭人伝の記述では、この内乱の前は、男王(1代か数代か?)が70年ほど統治していたとあるが、これは、そのまま読めば、邪馬台国の前身的国家のように考えられるが、魏志倭人伝より後に書かれた『後漢書』の中に、西暦107年に倭の王が、後漢に朝貢したとある。 年代的に同じ頃にあるこの二つの文章をどう読むか? これは、その国が、後の邪馬台国に繋がる国か、それとも、北部九州にあった国か議論の分かれるところである。 また、卑弥呼の邪馬台国と比定される纏向遺跡ではなく、その近辺でかつて繁栄した唐古鍵遺跡だという説もある。 

 ここでは、金印の時代からそれほど時間が経ってないということや魏志倭人伝ではなく後に書かれた『後漢書』に書かれている朝貢(生口の譲渡)であるから、この内乱の前の国は、九州の国であったと考えたい。 この時期は、広域な地域を治めるだけの力は、邪馬台国側にはまだなかった。 

 その後、この動乱の後、西暦180年頃、邪馬台国の卑弥呼が共立されたとある。 この時点では、邪馬台国は30近くの国家を従え(あるいは同盟し)、その後の卑弥呼の治世の間に強大な一大国家になっていったと考えられる。 邪馬台国は、大和であり畿内にあるとすれば、騒乱自体が誰と誰の間で、また、どこで起こったかなどは不確かでも、それに勝利した勢力は、その東端を笠置山地で隔てられ、当時の倭国全体の中でも最も広大で開けた土地の一つである奈良盆地にその本拠を置くことになったのである。

(※あるいは、東海地方に対立する狗奴国(くなこく)の存在が、その東進をある程度阻んだかもしれない。 その後、邪馬台国は、伊勢神宮の建立など伊勢を管轄におくので、東海地方にもその頃には支配が及んでいたものと考えられる。)

④ 邪馬台(ヤマト)国の誕生とその後の系譜

 これから、その後の邪馬台国そしてヤマト王権さらに大和朝廷へ権力が移行していく過程を、もう一度整理を兼ねて書いていく。

 まず、160年頃起こった『倭の大乱』とは、北部九州の伊都国系と出雲系および吉備系を含む勢力が、それら以外の九州や瀬戸内沿岸あるいは近畿や東海の諸勢力との戦いであった、と考える。 

(※私は、これまで、のちに邪馬台国には出雲や吉備の伝統・習慣が残り、特に出雲は国譲りの相手国としても描かれているので、吉備は、この大乱・騒乱の同盟国、出雲は敵対国と考えてきた。 しかし、今はもっと素直に、これらの地域の出雲や吉備の文化や伝承が残るのは、これらのどの地域も同盟・縁戚関係のある地域ではなかったか、と考える。 だからこそ、邪馬台国の前方後円墳の始まりは、吉備のそれより古い弥生墳墓に影響を受け、逆に、後に大和で大型前方後円墳は発達すると、吉備でも同じような大きな前方後円墳が造営され、また、出雲の国譲りの話も、出雲からの首長者たちの大和への移動を示しており、その名残惜しさを表現しているのだと思うのである。 そうでなければ、それ以降も出雲は出雲大社などで発展していくということは起こらなかったであろうし、北部九州の伊都国周辺は、父祖の土地として対朝鮮半島国家からの受け入れ窓口としての機能を継続していかなかったであろうと考える。)

 その内乱が終結した時(約180年頃)、当時の呪術を行う巫女としてはかなり年長の20歳前後であった卑弥呼(日巫女、日御子、姫巫女?)が、その勝利勢力の首長群から女王として推挙(共立)された。 また、邪馬台国は、倭国の主導的首都的機能をもった。 そして、この女王卑弥呼は、かなり長生きし(90歳ぐらい?)、西暦248年頃に死ぬまでの60ー70年間、宗教的権威として君臨した。 卑弥呼は、王座にある間、朝鮮半島経由で中国の魏に朝貢した。 卑弥呼の死に当たっては、直径150mほどの円墳が造営された。(※これは、箸墓の前方部とほぼ同じ大きさ。)

 卑弥呼の後、一時、邪馬台国では、男子が王となったが、うまくいかず、その後、巫女としては、平均的な年齢である13歳の壱与(いよ)または台与(とよ)が、女王となった。 壱与も266年、大陸の普に朝貢したとある。

 以上が、主に魏志倭人伝から読み取れる大まかな時系列である。 そして、この頃の日本(倭)の歴史をある程度客観的に示す資料は、これしかない。 ほかは、考古学的資料の分析成果を待つほかない。 であるので、ここからは、いままで書いてきたことの重複する箇所もあるかもしれないが、追加的な説明も含めて、私が日本古代史で一番大事だと思うこの時代の歴史をもう少し記していきたい。

 まず、倭国大乱の後、中心地となった邪馬台国(これは、当然、ヤマト国と読まれなくてはならない)は、その乱で勝利した連合国の文化をある程度引き継ぐことになる。 それが、一つは伊都国の銅鏡であり、出雲の銅鐸・銅剣、吉備の墓制であったと考えられる。 そして、卑弥呼の治世下で、壺のような形の墓、すなわち、前方後円墳が邪馬台国で最も権威ある墓制として確立される。 私は、前方後円墳は卑弥呼の死後や治世末期ではなく、その治世中に確立されたと思う。 そうでなければ、後に記す箸墓の前に小さな前方後円墳が存在するという事実は理解しにくいし、大体、権力者が在職中に新たな制度がすでに確立していくものだと考えるからである。

(※現在、卑弥呼の墓と見込まれるのは、箸墓が最有力候補であるが、その造営年代は、250年頃に収れんされてきている。 それを考えると、これは、卑弥呼の墓であった可能性が非常に高いが、それならば、少なくとも270年頃まで生きた壱与の墓は、どこにあるのかが焦点になる。 あるいは、この偉大な二人の女帝は、一人だったのか? そうなれば、239年から数回と266年に行った中国朝貢の記録は、どう説明するのか? 普通に考えれば、二人の偉大な女帝がいたというのが、まず妥当だろう。 この辺は、壱与の古墳の確定が、それを解決していくことになると思うし、それらの女帝の記憶が、後の天照大神の神話や神功皇后の話に絡んでくるのだと思う。)

 それと、卑弥呼の呪術は、中国側からは鬼道と呼ばれたが、これは、当時すでに中国で隆盛した原始の仙神思想や道教の流れをくむものであり、それは、徐々にのちの神道として発展していく。 そして、この日の出や日の入りの東西軸を尊重する新しい宗教から、こののち、大和の地から真東の邪馬台国の覇権が届く範囲で最も東の海岸、すなわち伊勢湾に神道の太陽信仰に基づいた大きな宗教拠点が築かれる(伊勢神宮)。

 その後、壱与の次には、男子の王が君臨するようになり、それが継代確立し、大王と称される。 そして、その初代で強大だった大王が、のちの奈良時代に第10代天皇として記され崇神天皇と呼ばれた人物である。 この大王の治世は、西暦300年頃になる。 266年に壱与が朝貢をしたというのがあるので、この間は、30-40年ぐらいしかない。 そして、壱与と崇神の間に1・2代の大王がいたとすれば、この卑弥呼ー壱与ー崇神の系列は、完全に繋がったものと考えるのが、至極当然であると思う。 

 この崇神大王とその後数代の大王の治世は、今の山の辺の道沿いにそれらの王の大きな前方後円墳も比定され、しかも、日本書紀などの干支年代などとほぼ一致した年代観が得られているので、確定の歴史と言ってよい。 

 さらに、記紀で、崇神大王の叔母あるいは大叔母とされる倭トトヒモモソ姫は、その神秘性や霊力などから、卑弥呼か壱与だと考えられるが、『日本書紀』でこの姫の巨大な墓(箸墓)の造営が細かく記述しているのは、魏志倭人伝の卑弥呼の墓造営記事を彷彿させる。

(※当然、強力だった壱与政権のあと、やはり弱小の男王が幾人かいたことが推測され、それが、いわゆる神話の世界の初代神武天皇から9代あたりまでの伝説になって残ったと考えられる。)

 そういうことで、この初代崇神大王の直系の系譜は、邪馬台国すなわち奈良盆地南東部の三輪山付近でその権威を行使したが、これも数代で絶え、西暦390年頃(好太王の碑の銘文)には、直系ではなく傍系あるいは姻戚関係にある大王たち(応神・仁徳天皇系)にその権威を譲り、拠点も河内平野に移動した。

(※しかし、中国の史書は、応神仁徳や雄略までのいわゆる倭の五王の時代とその前の卑弥呼の時代とは連続性があるように書いているので、この2系統間に大きな断絶はなかったと考えられる。)

 さらに、500年前後には、崇神系あるいは応神系と続いた大王も弱体化が進み、首都機能も奈良盆地や河内平野で点々とし、九州ほか国内での内乱も起こった結果、北陸方面から新しい勢力が南下し、覇権を治めることになった。 これが、のちに継体天皇と呼ばれる大王そしてその集団である。 この全く系統の異なる継体大王は、この時もうすでに300年間近く継続したそれまでの卑弥呼王朝・崇神王朝そして応神・仁徳・雄略王朝の権威そして制度・文化をうまく利用し、自らの血統もそれらの系統との関連性があると謳い、自己の権威を正当化し高めた。

 そして、その子孫の敏達や欽明天皇などの時代に、体制をより整えながら、仏教を国家宗教に取り込むなどして、統治体制の強化に成功していく。 そして、この後、厩戸王子(聖徳太子)や蘇我氏の治世を経て(※寺院や王都の配置は、仏教や中国文化の影響で南北軸が重要になる。)、700年頃には、日本書紀・古事記などを刊行し、自らの政権の正統性を正史という形で公式に誇示し、律令体制を併せて完備することによって制度的にも国の統治を完全なものに仕上げていった。 

 ここに、初めて、公に、倭は日本となり、大王は天皇となった。  

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ーーー以上。         

 とまあ、何とまとまりのない、だらだら感いっぱいの文章になってしまいました。 なかなか理路整然と分かりやすく時系列で、しかも的確な注釈を随時加えていくのは、大変難しいです。 

 本文中にも少し書きましたが、日本の記紀は当然のこととして、中国の歴史書(正史)であっても、その記述の正確さには大いに疑問が残ります。 ただ、魏志倭人伝で言えば、外国からの朝貢や使者の来た年代は、その中でも一番信用がおける箇所だと考えます。 だから、それらの年代とこれまでの科学的発掘成果を絡めて、歴史はいろいろ議論されるべきものだ、と私は考えます。 それと、中国の正史の中で、魏志倭人伝の『三国志』より古い時代に書かれたものは、『史記』と『漢書』だけで、他の『後漢書』『晋書』『隋書』などは、より新しい時代に書かれています。 そういうことを踏まえて、それらの史書に書かれている日本(倭)の事柄を見ていく必要もあるでしょう。 

 とにかく、まあ今後も、いろいろ編集をする可能性もあると思いますが、とりあえず、ここでアップしときます。 

それと、本文中では、各集団や国のリーダーのことを王や大王と書いていますが、それらは、別の言い方で言えば、首長であり豪族であると言えます、念のため。

アラン・ドロンが、亡くなった。

 この日が、やはり遂に来ました。 およそ1950年代から70年代にかけて生まれた日本の男たちの多く(そして、女性は、ほぼ全員と言いたいところですが、結構、アラン・ドロン嫌いの女性は、かつても何割か存在していました。)、特に、一時でも二枚目意識を持ったことのある日本人男性にとっては、その存在がずいぶん気になったこのフランス人俳優が、二枚目俳優としては異例にして長くその美貌を保ちながら、しかし、ついに今朝未明(ヨーロッパ時間)亡くなったようです。 88歳でした。 

 これまで、日本の有名人の訃報には、いくつか触れてきましたが、外国人に関しては、多分、最初で最後になると思います。 それほど、私が大いに影響を受けた存在でした。 しかしまあ、彼のことを、ここでいろいろ書く必要は無いと思います。 すでに、フランスメディアを中心に日本や他の国でも多く報道されているようです。 NHKのウェブ版も結構早く、死去の速報を流していました。

 この訃報に関して、あるフランスの記事(英文)の中で、あるフランス人俳優が、”自分は、アラン・ドロンの若い頃の写真をずっーと見ていて飽きない。”と、いうようなことを言っていたと紹介していました、 フランス人の男、しかも俳優ですら、そう思うのですから、この日本人の私が憧れても、当たり前なのかな!?

 ただ、最近の若い日本の人は、西洋人よりも同じアジア人の有名人を好きになったり評価したりすることが多い感じで、我々の若い頃とは全然違うようで、このドロンの訃報も、すでに日本でも大きなニュースにはなっているようですが、若い世代には、それほどの事件でもないのかもしれません。 また、もし、この死が10年ほど早く起こっていたなら、体力がより充実し感情の起伏もより大きかったであろうこの私も、もっとショックを受けていたかもです。

 まあ、いずれにせよ、私の映画関連の思い出の中で、大きな部分を占めたアラン・ドロンの死によって、私の映画に関する思いもこれからまた、少しずつ変わっていくものと思います。 それは、これまでの夢あるいは憧れの世界の混じった空間(もちろん、ドロンは、だいぶ前から映画製作はしてなかったということはあっても)から、単なる現代的な乾いた印象しか残らない存在が、ほとんどの世界になると予測できます。 

 さて、これまで、日本人の俳優さんの中で、特に私が好きでありその役柄に感情移入できた男優陣の石立鉄男さん、竹脇無我さん、林隆三さんはすでに他界してしまった。 あと、そのような存在で存命なのは、今年82歳ぐらいになる近藤正臣さんだけになりました。 元気でいてもらいたいものです。 ただ、それと、親近感とか感情移入とかでなく、最も偉大な俳優ということであれば、私は、三船敏郎さんの名をまず第一に挙げたいです。 そして、その三船さんとドロンは、友人同士でしたね。 

 追加で、今回のアラン・ドロンのその後のメディアの訃報を見ていると、彼が、晩年、フランスの右翼政党に賛同していたことや、従前からかなり保守的な考えを持つ人物として語られています。 まあ、ある程度は、予想でき得る内容でしたが、一変、そういう右翼サイドとは敵対するフランスの現大統領マクロンは、アラン・ドロンを”単なるスターではない、モニュメントだ!”と最大級の賛辞を贈り、その死を悼んでいました。

2024年が、ほぼ半分終わりました。

 この2024年のこれまでに、結構、私的に大きな出来事が重ねて起ったので、備忘録的にまたまた書いておきます。

 その前に、最近の自分の心境として、ひとつ感じていることを先に書いておきますと。 それは、去年夏65歳になってから、そういう区切りの歳でもあるので、自分の体力の幾分かの減退なども絡めて、自分の人生の終末期的な考えが、いろいろ脳裏に駆け巡っていました。 誰もが、65あるいは60歳ぐらいになると、そういう思いをしていくだろうとは思いますが、逆に、現代の人々の中には、65歳ぐらいでは全く超人のように元気な人がたくさんいることも確かです。

 私は、運動をしているので、総合的な体力は、同年齢の日本人の平均より上回っていると思っていますが(でも、それが本当に健康であるかどうかというのは、また別でしょうが。)、私は運動の結果を毎日記録もしているので、自分の体力が経年で少しずつ減退しているのもよくわかっています。例えば、ベンチプレスの重量や回数、あるいは、体のしなやかさ・柔軟性などが特に低下を感じます。 単に走ったりすることは、元からあまりきつくやってなかったせいなのか、ほとんど変わりませんが、膝の屈曲力なんかは低下しています。 まあ、あまり運動などしない人の方が、かえって、そういう意味の加齢による体力の低下を認識していない可能性が高いのではないでしょうか?

 まあ、私の場合、そういう体力の低下を認識していて、老後の自分の人生などを思いめぐらしていたんですが、結論的に言いますと、『65歳になったくらいで、オタオタするな! 老いの憂いを感じるのは、80歳ぐらいになってからで、エエやろ!』という考えに今はなっているということなんです。 と言っても、新たな病気などが発生すれば、そういう考えも吹っ飛んでいくかもですが、とりあえず、まずは70歳までは、老いに関する様々な思考をやめようと取り組んでいます。 それで、今回のタイトルも”2024年もーー”ではなく、”2024年がーー”にしました。

 それでは、これから、最初に書いたように去年の暮から今年のこの半年の間に、私の周辺に起こったいろいろな事件を列記していきます。

①年末年始の日本一時帰国:2024年が始まる前後に、私は日本にいました、 実家の長姉が亡くなった後の整理というか兄弟姉妹間の懸案を処理するのが、第一の目的でして、そして、それはうまく収まりました。 で、この1週間程度の短めの滞在の間に、主なところで、島根県安来市にある足立美術館、松江城、兵庫県朝来市にある竹田城城址、そして、京都の桂離宮などを見に行くことができました。 どこも、非常に楽しめまして、いい思い出になりました。 足立美術館は、私が大学生の頃にはもう出来ていましたが、当時は、”成金おっさんの趣味の美術館”程度にしか思っておらず、日本庭園も今あるように確立されたものでなかったでしょうし、第一、私自身が日本庭園には、当時は興味がなかったしーーー。 松江城は、これも学生時代に行ったかもしれないのですが、国宝にもなったことでもあり、ぜひじっくり見たかったのです。 竹田城は、兵庫県職員として働いていた時は、その横の国道を何度も行き来しましたが、当時は、城址自体もそんなに有名ではなく、行こうという積極的な思いもなかったですね。 桂離宮は、日本庭園に興味が出てきてからぜひ行きたいところでしたが、ここは、予約して抽選に受からなければ行けません。 今回、1月5日の滞在最終日に何とか抽選に受かって見ることができました。 確か、今年最初の開園日だったと思います。

 ほかに、島根県からの帰路に、年末の閑散とした母校の鳥取大学や下宿先のあった場所に立ち寄ったり、懐かしの鳥取砂丘にも足を延ばしました。 恐らく、このあたりへは、もう行くことがないと思うので(特に大学周辺は)、少々感慨深く見て回りました。          

②友人達との別れ:次に、これは、かなり残念なことなのでしょうが、今の私は、日本には友人がいなくなってしまったというものです。 いや、潜在的には、まだ1-2人いるのでしょうが、現実的には、彼らと会うことがほとんどもうない、ということになりそうです。 その理由は、第一に、皆年取って、出不精、つまり、あまり活動的に他人に会おうとしなくなったことが大きいのかな、と思います。 それと、eメールなどの交換も相手がしなくなってきたら、こっちから改めて連絡しようという気持ちが弱くなっていることもあるでしょう。 だいたい、この年になったら、そんなに相手に話したい事柄がないし、昔の友人でも今はかなりそれぞれの趣味や価値観が違っているので、会っても面白くないというのもあるかもしれません。

 まあ、これらは、私の推測なので、彼らがどういう感じで、私との連絡に積極的でなくなったかは、正直わかりません。 ただ、このうちの一人とは、はっきりと口論のようなもので絶縁したのもあります。

③年金受給:これは、去年一昨年と、日本にいた時に年金事務所に行ったり、兵庫県庁で関係資料を集めたりした後、去年の後半に、姫路年金事務所へ年金請求書と添付資料をアイルランドから郵送しました。 郵送ということもあり、事務所から手紙での確認や電話での最終確認などももらいました。 こういう時、なぜ日本の官公庁は、eメールでの通信を推進しないのか、理解に苦しみます。 デジタル庁は、何をしているんかいな! とまあ、でも、結局、今年に入って、無事、最初の年金が、私のアイルランドの銀行口座に振り込まれました。 ホッとしましたけど、ナンか先ほどの老いの話ではないですが、自分も年金を貰うようになったかーー、という一抹の人生の終末観を感じたことも確かです。 

 さて、年金の話で、私の場合、日本では公務員と民間会社で合計ちょうど10年程度しか働いていなかったので、年金額はしれていると思っていました。 現在、国民年金だけの加入で20年間働いた人の年金額は、月額で6万円程度だと思うのですが(恐らく一番低い水準かな)、訪れた年金事務所で、参考までに予想される私の支給額を聞いてみたところ、その3分の1以下程度でした。 まあ、そんなもんやろなと思っていましたし、1年分で日本への飛行機代ぐらいにはなるなーと思っていたのですが、実際の私の受給額は、年金事務所で聞いた額のきっちり2倍になってます。 というのも、年金の支払いは、私の場合、国民年金分は日本年金機構(年金事務所)が支払いをし、公務員などとして働いた厚生年金分は、共済組合から支給されているのです。 それぞれほぼ同額です。 つまり、先に年金事務所で聞いた私の予想年金受給額は、年金事務所(年金機構)からの支払い分しか示していなかったのです。 

 年金の申請は、一括して年金事務所を通して行うのに、支払い(私から見れば受給)の方は、年金事務所(日本年金機構)と共催組合で分かれているのです。 そんなこと年金機構のホームページにもどこにも書いてなかったと思います。 また、年金証書という重要そうな書類も、私の場合、年金機構からと共済組合からの2つのものが届いています。 その辺のところも、年金事務所では何も言ってくれなかったです。 

 それと、実は、私にとってうれしい驚きがあり、今年の2回目の受給日(銀行振込日)前後に通常の2か月分の年金とそれにプラス2年分ぐらいの金額が、一挙に振り込まれていたのです。 当初、私は、何かのミスだと思い、心配したのですが、実はこのボーナスとも言うべきまとまった一時金は、’特別支給という追加の年金支給だったのです。 と書いても、わからない人が多いと思うし、私も完全に忘れていたのですが、実は、この時別支給というのは、私が公務員として働いていた頃に、年金受給の開始年齢が引き上げられつつあり、その経過措置に該当する年齢の者は、その不利益分を特別支給という名の一種の救済措置が取られたのです。 その特別支給のボーナスが、今回、まとめて私の口座に振り込まれていたというわけです。 こういうことも、年金事務所の人から全く聞いてませんでした。 まあ、彼らも忙しいので、詳細まで手が回らないのかもしれません。 とにかく、今回は、予期せぬボーナスなので、彼らに何の文句もありませんけど、ハハ! 

④自動車免許更新:さて、私の持つこちらアイルランドの自動車運転免許証も4月に更新の時期がきました。 以前、アイルランドでは、70歳までは10年毎の更新だと聞いていたので、今回は5年分ほどの期間の免許になるのかなと思っていましたが、実際には、新しい免許の有効期間は、私が75歳になる前日までありました。 つまり、免許更新の年齢制限は75歳からになっていたのです。 で、わかりますように、今回の私の免許有効期間は、9年と半年あり、ほとんど10年分とかわりありません。 おまけに、この免許更新に関する手続きは、いたって簡単で、私は強度近視なのですが、目の検査をするわけでもなく、あっけにとられるほど素早く終わってしまいました。 まあ、次の75歳の時の更新時には、いろいろ医療関係の書類がいるのかもしれませんが? とにかく、免許の更新に関しては、アイルランド万歳!と言いたいところです。 ただ、アイルランドでも高齢化は進んでおり、その高齢者の運転、大丈夫かいな?とも思います。

⑤血液検査と心電図:次に、私の親兄弟は、胃がんになった者が多かったので、私もピロリ菌の有無を2年前に調べてみました。(ロシアのウクライナ侵略戦争開始の前日) その時に、抗生剤で駆除も行いました。 ただ、いろいろあって、この後、私の胃の中にピロリ菌が完全にいなくなったかどうかは、確認していなかったので、日本から戻って2週間以内の1月中旬に、私は、こちらの地域の一次病院(GP)でピロリ菌の有無も含めた血液と糞便検査を受けました。

 その結果、ピロリ菌は陰性であることがわかりました。 ただ、昔高かったコレステロールなどの血中脂質がまたかなり高くなっていました。 日本にいるとうしても過食になりがちですが、いっぱい歩いてもいましたし、体重も冬場のものとしては、それほど重たくない体重だったので、この結果には驚きでした。 それから、まだ冬場でしたが、体重減少に務めて、例年の夏場の体重に戻そうと、いままで多かった炭水化物(糖分)の摂取を減らしました。 それで、体重が4・5キロ減った5月時の血液検査では、LDLコレステロールは、若干の低下が見られた程度でしたが、1月のでは、これもとても高かったトリグリセライドが、今度は基準の下限値よりも低くなっていたので、ある程度安心しています。

 それと、そのGPの看護師が私の血圧を測ると、いつも高めにでるので(これは、緊張ではなく、彼女らと英語で話すことで気分が高揚するせいだと思いますが)、彼女から24時間血圧計の設置と電極の多く用いた心電図も測定されました。 そこで、見つかったのは、私の心臓は、右脚ブロック(RBBB)である、ということでした。 特に治療の必要のない心臓の電気伝導系の異常なのですが、こういう電極端子を多く用いて得られる心電図では、多くの細かな電気伝導系の異常を発見でき、私の若い頃のものからは格段に進化しているのに驚きました。

⑥断酒:さて、もう長く書いてますが、実は、私は、もう日頃はアルコールを飲んでいません。 これは、ただ、禁酒といった切実なる理由からでも、上に書いた検査結果を受けてからのものでも、ありません。 主な理由は、ここ数年以来、私が夕方に250CCぐらいの小さな瓶のビールを飲んでも、かなりフラーと酔いが回ったような雰囲気になってしまうことが多くあり、自分の体がアルコールに対してかなり感受性が高く(平たく言えば、酒に弱く)なってきていると思い、去年秋ごろから、毎日飲んできた晩酌の小瓶のビールを止めにしたのです。 一番の問題は、その断酒の禁断症状に耐えられるかどうか、と思いました。 大学3年の21歳頃から酒を飲み始めて、最近は少量になったとは言え、65歳まで飲み続けていました。 しかし、驚いたことに、まったく、ビール願望は、出てきませんでした。 実は、この断酒は、私の妻も同時に行ったのですが、彼女も何の苦も無く断酒を続けられています。 ただ、私たちは、旅行などにいけば、そのホテルや周辺のレストランなどでは、アルコールを楽しんではいます。 ということで、年間ほとんど飲まない生活になっており、私としては、今後の自身の健康にかなり良い影響が出ると思っているのですが、いかんせん、人間体は一つしかなく、実験のように比較対象のしようがないので、その断酒の効果は、わからない可能性の方が大でしょうがー、どうでますか?

⑦息子の大学卒業:最後に、我が息子は、大学4年を終えて卒業することになります。卒業式そのものは、8月後半らしいですが。 実は、彼は、数週間前に卒業試験を受けたのですが、ある1科目がどうもあやしくパスしないかもと本人心配してました。 アイルランドでは、1科目が不可になると、次の1年間は前年に履修した全ての科目の授業を受けなおすことになるようです。 落第は、とても大変なんです! でも、幸いに、先週末無事その科目も合格だったことがわかり、めでたく卒業ということになりそうです。 親としても、かなり気をもんでいました。 これから働きに出るにしても大学院にいくにしても、とりあえず社会人。 まあ、どういう進路をとるのか知りませんが(というか、本人もまだ確実にはきめていない)、ひとまず親としての役割は、完全に終わったと言えると思います。 ちなみに、娘は、5年制の工学部に行ってて、今3年を終えたばかり、あと2年あります。

 それと、最後に私のことも、もう一つ。 実は、先々週からまた柔道を教えています。 今回も個人レッスンです。 私より大きい者なので、乱取りなどは大変ですが、いつまで続くかわからないので、今日はこれぐらいにしておきます。 ではまた。

 あ、忘れてましたが、これも大事な加齢による変化でしょうが、最近のここ数か月、朝の目覚めが早くなってしまっています。 大体、6時前後にいつも目覚めるようになりました。 アイルランドの春先からは、日の出時間が早くなるので、その夜の白みと伴に起きてます。 これは、正に、日本の典型的な年寄りなってしまったという感じ、ですね。 ただ、就寝は11時頃で(夜も弱くなってますが)、7時間程度の睡眠時間は取れており、夜中に目覚めるということもあまりありません。 だから、今のところ、早い目覚め自体は問題ないのですが、冬場になって外が暗くて寒くなると、きついものになりそうです。 その頃は、日の出に合わせて、私の目覚めも遅くなればいいのですがーーー、、。