改定:ホモ・サピエンスの誕生と世界拡散(最新の情報から)

 約2年前この場で、人類の起源とその進化の様子及び主にユーラシア中心部やヨーロッパのその後の歴史についても、自分なりに少し書きました。 その時は、主にウィキなどで書かれている内容を拾い上げ、比較的その時点での新たなデータも参考にしながら、少し自分の考えも加味して記述してきたつもりでした。

 ところが、この10月末、日本に帰った際に、日本の人類学のリーダーの一人である篠田謙一さん(現、国立科学博物館館長)が、今年2月に出されたばかりの本に運良く出会いました。 それによりますと、この最近の2・3年の間でも人類の起源と進化及びその世界拡散に関する研究成果やデータが数多く提出され、そこから多くの新たな興味ある知見が提唱されているようです。 

 それは、DNA解析のスピードが年々向上し、いままでのY染色体(男系)やミトコンドリア(女系)のDNAだけでなく、2010年頃から始まった人類の全遺伝子(核DNAゲノム)の解析が、より早く行われるようになったことがまず第一要因と言えます。 さらに、試料の採取においても、遺跡に人骨がなくてもその場の地表に人類の営みに係る堆積物があれば、それを利用してDNAの分析ができるというような画期的な手法が確立されてきたからのようです。  

 核DNA(ゲノム)解明ができると、そのDNAび持ち主及びその集団の婚姻関係や移動の経緯などさえも詳しくわかる、というものらしいのです。 ただ、まだ今のところは、サンプル数が限られているので(特に、出アフリカ直後の6万ー5万年前など)、もし、これが、今後各時代各地域で、それらが数点発見されるだけでも、この人類の起源と歴史というテーマは、大きくその解明が進む、と期待されています。

 この篠田さんの本では、2021年までのデータを拾い、かなりきめ細かく世界や日本周辺の歴史について記載しています。 正直、そこまで言えるのかな、という疑問もあり、そこで、私のよく見るYoutubeでも、今は極最近の研究成果を欧米の専門家が自身で動画として発表しているものもあるので、それらとの照合の上、私が2年前に書いたことから確実にその説が代わっているところを中心に、現生人類及び日本人の進化の様子を以下に書いていこうと思います。

 

 

 【ここからは、簡潔な文体にします。】

 まずは、チンパンジーから猿人そして早期のホモ属のが分化・進化については、その後もいろんな発見があり、多くの名称も加わった感じだが、我々の歴史とそれほど直結しないので、今は省略する。 ただし、人類の二足歩行と脳の容積の増大化に関するものについては、今後のDNA解析の進歩でどこまで探れるのか、個人的には大変興味ある。

 以下、歴史の古い順に、箇条書きの形で、最近の知見を書いていく。

※ 約60万年くらい前に、我々の直接の祖先であるホモ・サピエンス(その古い系統)とネアンデルタール人、そして、デニソワ人の分岐が始まった。 

 ここで、デニソワ人と早速出てきたが、これは、2年前の記述時にも私はその名前自体は知っていたが、当時は、まだ実証例が少なく確実なものであるように思わなかったので、特に記載してこなかった。 実は、今年か去年のノーベル賞の医学生理学賞をもらった人は、このデニソワ人の発見などで功績をあげたスウェーデン人の人類学者である。 人類学の専門家が、ノーベル賞をもらうのも非常に久しぶりであり、良いことだと思う。 

 デニソワ人が出てきた代わりに、前回には書いたハイデルベルグ人の方は、その本質・帰属があいまいになった感じで、あまり表面に出てこなくなった。

 このデニソワ人(Denisovans)は、形態的には、ネアンデルタール人とかなり似通っていたが、彼らは、ユーラシア大陸の東部や東南アジアを中心に分布し、ネアンデルタール人は、ユーラシア大陸の西部、ヨーロッパなどに主に分布した。 ただし、この分岐が世界のどこで起こったのかというのは、確定できていない。 その後のホモ・サピエンスの進化変化も、実際にアフリカで起こったのか、あるいは中東などのアジアで起こったのか、いまのところ不明であある。

※ それと関連するが、古いタイプのホモ・サピエンスは、すでに何回も”出アフリカ”を実現しており(アフリカにいたかどうかも不確かだが)、同じように世界に拡散し、彼らも、ネアンデルタール人やデニソワ人と交雑していたものと考えられる。 ただし、もちろん、彼らは、今世界中にいる我々現生人類とは直接の関係はない。

※ 20万年ぐらい前にアフリカにいたホモ・サピエンスが進化・分岐し、東アフリカ地域にいる集団が、約7-6万年前に本当の意味の”出アフリカ”を実現した。 この集団は、Y染色体ではCT、ミトコンドリアではL3というハプログループに属する集団である。 篠田さんは、この集団を東アフリカ狩猟採集民とまで言及しているが、その表現形質(外見・容貌)までは示していない。 Youtubeの動画の中には、この集団を示す時に、今のケニアなどに見られるごく一般的なアフリカ人の写真を挙げていたが、それが正しいかどうかはわからないが、ただ、だいたい今の平均的なアフリカ人のイメージに近い集団であったものと思われる。

 さて、ここで、2年前の前回、私は、この出アフリカをした集団は、今のコイ・サン族に近い集団であったと書いた。 しかし、これは、修正しなければならない。 このコイ・サン族の系統は、新しい型のホモ・サピエンスがアフリカの中で長く生存していく中で、比較的早い段階で他の集団と分岐したようだ。 そこから、更に分化が進み、その中の一部が、東アフリカ方面に進行・居住していく。 さらに、その中から”出アフリカ”を実現する極一部の人類集団が生まれた、というのが現在の説になるようだ。

※  "Out of Africa"をした人類集団は、世界を拡散していくが、主にアジアやオーストラリアでデニソワ人と西ユーラシアでネアンデルタール人と遭遇し交雑もする。 ただし、現在の我々アジア人にもネアンデルタール人の遺伝子は1-2%組み込まれているので、この3者の交雑は、かなり広範に行われていたようだ。 シベリア中央・南部のアルタイ山脈にある遺跡から、デニソワ人とネアンデルタール人のハーフの女性のDNAも発見されている。 また、最も多くこのデニソワ人の遺伝子を共有しているのは、オーストラリアの古代人で5%以上あると言われている。(他の地域では2%以下)

 これは、全く私自身の考えだが、出アフリカをした人類は、このような”兄弟”人類と出会い交雑していくなかで、より大きな鼻の獲得などの容貌の変化が生じたのではないだろうか? そういう点で、このネアンデルタール人やデニソワ人との”混血”の濃淡は、初期の世界各地の人類集団に特徴的な容貌を与えていき、その後、各地域の環境によりさらに変化し、最終的にいわゆる現在の”人種”的な特徴を獲得した、と考える。

 もちろん、このDNAの詳細なる解析により、専門家は、どの遺伝子がどのような外見・風貌を形作っていくかなどもよく知っているはずで、そのうち、その多くのものが、一般にも知られていくものと思われる。 

 ただ、もちろん、再度言っておくが、現生の世界のどの民族・集団も、非常に少人数の出アフリカをしたアフリカの新型ホモ・サピエンスの子孫であり(広く世界に拡散した時でも、全世界の人口の合計は数万人以下と言われる)、DNAの比較ではほとんど100%同じなのである。 ここで言っているのは、もっと分子レベルでの比較なのである。 

 さらに付け加えておくと、ネアンデルタール人にしてもデニソワ人にしても、ホモ・サピエンスと交雑(あくまでも科学用語)し、継代して子孫が持てるということは、これは現在の科学分類上では、彼らは、我々と全く同一の種であると言えるのである。 

 また、このデニソワ人やネアンデルタール人のDNAの混入は、我々のその後の生存にかなりの影響も与えた。 今の新型コロナウイルス感染の世界における地域間の重症度・致死率の差も、その一つであると言われていrる。

 以下の東アジアや日本に関連したものは、ほとんど篠田さんの本に依った。

※ 東アジアへの古代人の進出は、南方からの集団が先であったこと、が確定したようだ。 この集団は、大陸や朝鮮半島と陸続きであった日本へも到達したが(4万年ほど前)、その後、別の集団に置き換えられた。 

 前回も、私は、東アジアへの一番乗りは、おそらく南方系の集団だったと推測したが、北方系の早期の進出も否定しがたく、はっきりと明言できないでいた。 今回は、それが確定した感じだが、しかし、その後は、北ルートからの集団も多く入り、特に中国北部からシベリアにかけての地域の集団の多様な変異は、これら北方と南方の集団の交雑により起こり、その後も続いていったものと考えられる。 

※ いわゆる後に縄文人と言われる系統の集団が、その後に、東南アジアや中国南部などの南方より日本列島に入ったが(3-2万年前)、これは単一というより、いくつかの集団によるもので、それゆえ、日本の西部と東部では、これら縄文人系のハプロタイプは異なっている。 この系統の集団は、その後、日本列島に孤立するような形になり、アジア大陸部の他の集団と遺伝的な差異が生じることになった。 しかし、若干ながら、縄文人の遺伝的影響は、朝鮮半島などでも見受けられるようだ。 

※ 今の中国東北部で約5千年前に西遼河地域の農耕民が起こり、これが約2千年かけて南下し、日本列島に到達した(約3千年前)。 これが、弥生人と呼ばれる集団である。 この西遼河の農耕集団は、朝鮮半島や日本列島の方角に南下し、それらの地域に言語をもたらしたが、その他のどの地域へも進出しなかった。 

 日本語成立に関して言えば、私は、日本語の”山”・”川などの基礎語は、先にきた南方系の縄文人集団の言葉が生き残った上で、この北方系の言語が、文法などの基礎構造を与えていったものだ、と考えている。

 しかし、この西遼河集団の農耕は、キビなどの雑穀が主で稲作を有しておらず、日本の弥生時代は稲作との関連で論じられるので、この西遼河集団と長江付近にいた稲作農耕民とが、どのように合流し日本列島に展開してきたのか、そのあたりの今後の研究が期待される、と篠田さんは言う。

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 以上が、今回の”改定”の主な点である。 最初に書いたように、最近のDNA解析の進歩は、著しいものがあるので、これらの”説”も2・3年おきに書き換えなくてはならないかもしれない。 (終) 

 

 本文は、以上のとおりですが、余談として、今の時事ネタを併記しておくと、あとで読む時により懐かしさが増すので、一応書いておきます。

『ワールドカップ、サッカー日本代表、頑張れ! あさってのスペイン戦、勝て!』