(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (12)

⑫ ニューグレンジやストーン・ヘンジを作ったのは、どんな人たちか。

 前回を展開を受けて、ケルトの前に、ストーン・ヘンジなどの巨石文化を作りあげたのはどんな集団なのか、それは、現在ではかなり解明されているようなので、そちらを先にみてみたい。 

 イギリスやアイルランド(その他のヨーロッパ大陸にもあるが)にある巨石建造物は、この地方では、新石器時代に作られたようだ。 それぞれ一番有名なのは、おそらくアイルランドでは東部地方にあるニューグレンジ(Newgrange、前3200年頃)であり、イギリスでは南部のストーン・ヘンジ(Stonehenge、土塁などは3100年頃、巨石の設置は2600年頃)であろう。 

 そして前回には、前2500年頃には、このイギリス諸島に鐘状ビーカー文化をもった印欧語を話す集団が、ヨーロッパ(主にイベリア半島やブルターニュ地方)より大挙流入し新たな文化を花咲かせた、ということを見た。 つまり、このビーカー文化集団の到来は、巨石文化の時代より約500年後ということになる。 では、その巨石文化の時代には、どのような民族・集団がいたのだろうか。 

 ではまず、イギリス諸島を含めたヨーロッパ全体のより古い時代を、ウィキぺディア等の記述を通して見ていきたい。 

 なお、これから書くところは、このシリーズの一番最初の頃に書いた、ホモ・サピエンスが7万年ほど前にアフリカを出て世界中に拡散し、それぞれの地で人種や民族を形作っていく、まさにその時期の直後にあたる。 ヨーロッパでは、まだネアンデルタール人も生存している地域があったり、その混血が行われたりもした時期でもあり、ここでまた歴史が繋がっていくのである。

 さて、そのヨーロッパの中石器及び新石器時代には、Western Hunter-Gatherers (WHG)という集団がいた。 日本語ウィキには、この固有名詞自体がなく(見つけられなかった)、当然その訳名もないので、ここではWHGと英語での略称を主に使う。 日本語訳をするとすれば、”西方狩猟採集民”とでもなるのか。 

 このWHGは、西欧や東欧にいた中石器時代の狩猟採集民(Mesolithic  Hunter-Gatherers)から由来しており、その集団・MHGの中石器時代の居住地域は、西はイギリス諸島、東は現在のウクライナまで及んでいたようだ。

 最終氷期が終わった時期(つまりメソポタミアなどの先進地で農耕が始まる頃)のヨーロッパに居住する集団は、このWHGとEastern Hunter-Gatherers(EHG、東方狩猟採集民) そして Scandinavian Hunter-Gatherers(SHG、スカンジナビア狩猟採集民)に区分される。(※ここの西方や東方は、ヨーロッパの中での西側や東側ということを示す。) 当時のこのWHGとEHGの居住境界線は、ドナウ川下流域である。 SHGは、この両集団の混血のようであり、スカンジナビアを中心に存在した。 

 WHGは、一時期、ヨーロッパのかなり広範囲に浸透したが、新石器時代の初期には、彼らも、Early European Farmers(EEF、早期ヨーロッパ農耕民)にその地位を奪われていった。 中期新石器時代の一時、WHGの主に男性の集団が、この地域に再興したが、後期新石器時代及び初期青銅器時代には、Western Steppe Headers(WSH、西方草原遊牧民) が、黒海北岸ステップから大量に移入してきた。 (※ここでの西方とは、広大に拡がる草原(ステップ)地域の西側部分を示す。) このWSHは、すなわちこれまで何回か紹介してきたヤムナ文化集団及びその近縁集団のことである。 現在の国で、WHGの遺伝子を最も強く残すのは、バルト海沿岸諸国(特に東方)である。

 WHGのあとにヨーロッパを制したのは、EEFと略される早期ヨーロッパ農耕民である、と書いた。 このEEFの祖先は、WHGから4万5千年前に分岐し、コーケイジアン狩猟採集民(CHG)からは2万5千年前に分岐したと言われる。 彼らは、約9千年前に小アジア(アナトリア)からバルカン半島に移動し、その地でWHGを圧倒したようだ。 バルカン半島のEEFは、一部は、ドナウ川沿いに今のドイツあたりに進み、別の集団は、地中海西方にも達し農耕文化を拡めた。 中期新石器時代には、WHGの男たちが、これらの地域に再度入り込み、彼らの父系の遺伝子をこの地域に残した(既述)。

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WHGから、CHGとEEF(この図ではEF)の分岐

 後期新石器時代(または銅器時代)や青銅器時代になって、 EHG(Eastern hunter-gatherer)の子孫(一部CHGも含まれる)と思われるWSH(Western Steppe Herders、西方草原遊牧民)が、EEFの居住地域を席巻し、その後のヨーロッパ人の遺伝子分布に大きく影響した。 しかし、それは主に父系であって、母系のミトコンドリアDNAでは、このEEFの遺伝子は幾分か残っている。 つまり、主にEHG/WSHの父系遺伝子とEEFの母系遺伝子の混合によって、この民族変化が起こったものと考えられる。

 今現在のヨーロッパでは、地中海地方の人々が、このEEF遺伝子を高頻度にもち、バルト海周辺で最もその割合が低かった。 WSHは、EHGが主でCHGがある程度混血した民族であったが、この場合も、主としてEHGの男性とCHGの女性との混合で成り立ったようだ。

※以上、同じような書き込みを繰り返したようになってしまったのは、ウィキペディアでは、出てくる言葉のリンクにたどって、次々と新たな文章に接することができるが、同じ民族の記述でもリンク先で多少異なるので、それらをまとめるのも若干煩わしいこともあり、そのまま記載したからである。 

 ともかく、要約すれば、青銅器時代までのヨーロッパには、まず、西方狩猟採集民(WHG)とと東方狩猟採集民(EHG)、及びその2つの混血と思われるスカンジナビア狩猟採集民(SHG)の3種の民族あるいは人種がいた。 このうち、WHGからは、コーケジアン狩猟採集民(CHG)が枝分かれして、さらに、EEF(早期ヨーロッパ農耕民)という農耕民が形成されていった。 一方、EHGからは、多少のCHGとの混血もあるが、そこからWSH(西方草原遊牧民)が形成されていった。 

※このWSHが、いままで何回か述べてきた印欧語の祖語を有するヤムナ(あるいはヤムナヤ)文化集団になるのであるが、結局、上の各民族の由来からまとめるとすれば、このヤムナ文化集団は、EHG(東方狩猟採集民)を主体にして、WHG(西方狩猟採集民)の血も幾分入り込んだ人種あるいは民族ということになるのか。

 ここで、上に書いた民族集団のDNA分析から得られた外見上の特徴をまとめて列挙する。

WHG:肌は暗く(dark)、眼は青かった(blue)とされている。 しかし、彼らの祖先と思われるバルト海地方の中石器時代の狩猟採集民は、肌は明るい(light)とされている。 

SHG:彼らの肌色は、EHGより肌は暗いが、WHGよりは明るいとされる。 眼は、青から薄茶色(light brown)であったようだ。

EHG: 彼らは、明るい(light)の肌色で、茶色(brown)の瞳を持っていたと言われる。

CHG: (彼らの外貌に関する記載は、見つけられなかった。)

EEF: 彼らは、狩猟採集民より背が低く、彼らが侵入したため、当時のヨーロッパ人の身長は低くなったとされる。 新石器時代の後の段階では、ヨーロッパ人の身長は、幾分高くなったと言う。 おそらく、狩猟採集民との混血のせいか。 さらに、後期新石器時代から青銅器時代にかけて、東方の草原遊牧民の流入で、身長は、さらに伸びた。 現在の南のヨーロッパ人が、身長が低いのも、このEEFの遺伝子頻度が高いことに由来し(地中海のサルジニア島で最高頻度)、北部ヨーロッパ人の高身長は、草原遊牧民の割合が高いことと関係していると言えるかもしれない。

WSH: がっしりと背が高い。 新石器時代の中欧にいた集団よりかなり背が高い。 圧倒的に暗い眼(brown)で、暗い髪の毛。 肌の色は、かなり明るく(light)、しかし、今日の平均的ヨーロッパ人より濃い(darker)。 遊牧の生活と言われるが、乳糖耐性であるという証拠はほとんどない(※牛乳が飲めなかった)。 現在の北ヨーロッパ人が、南の人たちより背が高いのは、このWSHの遺伝頻度が高いことによる、と思われる。

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前5000年頃のスペインにいたWHG(西方狩猟採集民)の想像復元図。 眼と肌の色に注目。(顔全体のイメージは、研究者によって異なるので注意。) Euronews、2014より 

※以上の外見的表現型の記述を見て、私が思ったのは、少なくともこの時期のヨーロッパ人においては、眼(虹彩)と皮膚の色をコントロールする遺伝子は、別々であるということ。 また、現在の印欧語を拡めたヤムナ文化集団、すなわちWSHは、それほど色白ではなかったように書かれていること。 その祖先のEHGは、それより白かったようだが。 それでは、ヤムナ文化集団が、たとえば北欧などより高緯度地域に行って、新たにより白くなったということなのか、この辺は、もう少しDNA分析が進まないとわからないのかも。

※これは、今から40・50年前に見た文章だが、今のヨーロッパ人種の中で一番色素の薄い亜人種(今ではこういう表現はあまりしないが)は、スカンジナビアに住む人々ではなく、東欧・ロシア系の集団である、と言われていた。 そうであれば、この地域は、ヤムナ文化の発生地との距離が非常に近くであり、その頃から現在までのこの地域に住む集団の遺伝的変化がどういう経過をたどったのかということも、大変興味がでてくる。 

※それと、WSHは、背が高く体格も良いということだが、同時に、牛乳は飲めなかったようだ。 牛や羊などの家畜も飼育していた農耕民のEEFは、当然飲めたはずだが(特に記載はない)、体格は小さかったようだ。 このあたりは、現在の常識から言えば、何とも説明に困る。 WSHは、ヤムナ文化やそれ以降の集団に移行するなかで、いつ頃、牛乳が飲めるようになったのだろうか(乳糖分解酵素を獲得したのか)。

 

 さて、ヨーロッパ全体の人種・民族集団のヤムナ文化までの変容の概要を見てきた。 次に、イギリス諸島の状況を見てみる。 

 中石器時代(前9000-4300年頃)から入ると、この時代のブリテン島では、現在のフィン人やサミ人、エストニア人などに高頻度に発現する遺伝子タイプを持つ集団がいた。  この時のブリテン島の集団は、他の西欧地域と同じ集団であったと言われる。 彼らの遺伝的特徴としては、眼は明るい色(pale coloured)、乳糖の分解酵素無し(牛乳が飲めない)。 髪の毛は暗くて(dark)、カーリーかウェイヴィー(波状毛)。 皮膚は褐色(very dark)か黒(black)だった。 (※WHGを示すものと思われる。)

 しかし、新石器時代にいた集団では、その遺伝子の75%は、小アジアからイベリア半島や中欧ヨーロッパ経由した農耕民(EEFと同じだと思われる)であるとされ、あとは、WHG(西方狩猟採集民)のものとされる。 ただし、ウェールズでは、WHGの遺伝子は全く見られず、イングランド南東とスコットランドには、WHGの頻度が高く、イングランド南西と中央部は、その中間的な値を示したとある。

※こういう風に、青銅器時代以前の集団の様子について、ウィキでは、とくにまとめた記述ではなく、各研究者の報告や文献を列挙している場合がほとんどである。

 また、このあたりの記載は、イギリスやスペインの先史時代のウィキを見ても、あまり記載がなく、EEF(Early European Farmers)のページなどで提示されていたものだ。 さらに、もう少し、そういう報告を挙げてみる。

 まず、Olaideらの2019年に出された報告によると、イベリア半島の初期の新石器時代では、EEFの集団がほとんど優勢であったが、中期新石器時代になるとWHGの流入があり、彼らの混入割合は、初期に比べ増加した、特に半島の北部と中央部で。 青銅器時代になると、WSHが大挙流入し、その遺伝子マップを大きく変えた。(父系で100%、全体でも40%)

 Braceらの報告(2019)では、新石器時代(前4000年頃)のイギリス諸島では、EEFの大量の流入があった。 80%のEEFと20%のWHG構成であり、イベリア半島の新石器時代の集団と密接な関係があると思われる。 この農耕民は、バルカン半島などから地中海沿岸を経由してきたものと思われる。 イギリス諸島では、この農耕民の侵入があまりに大きく遺伝情報をほぼ完全に置換した。  そして、この後もWHGの再流入は起こらなかった。

※以上の報告などをうけて、極く簡潔にまとめると、新石器時代(前2500年より以前)のイギリス諸島では、それまでの集団(WHG)に、EEFという農耕文化を持った集団が、それまでの遺伝子分布を大きく変えるほどの人口流入を果たした。 その農耕民たちの起源は、遠く小アジアやギリシャ近辺にあり、そこから地中海沿岸経由でイベリア半島(スペイン・ポルトガル)に到達し、さらにこのイギリス諸島にたどり着いたもの、と考えられる。

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EEF(農耕集団)の拡散図。 この図では、EEF由来の2つの土器タイプ集団の拡散を示している(数字は紀元前)。 この後、イベリア半島からイギリス諸島に移動した集団がいた。

 

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EEFの居住形態の想像図。 Stravaganza by Leopoldo Costa 2017より

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イギリスにいたEEF早期ヨーロッパ農耕民女性(復元)、前3600年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加) 

 さて、締めくくりとして、繰り返しになるが、ストーン・ヘンジやニューグレンジなどの巨石遺跡は、はるか小アジア(あるいはギリシャ・バルカン半島)に由来し地中海を経て直前にはイベリア半島にいたEEFと言われる農耕集団が、イギリス諸島に渡ってきてから作ったものである、と言える。

※そうであれば、定住農耕民族にとっては、季節や日照時間、太陽の位置などを正確に知ることは、おそらく狩猟民族より、さらに重要であったにちがいない。 そのあたりの要素は、これらの巨石遺跡の制作・造成に大きく関与しているものと考えられる。 

 次回こそ、ケルト民族自体を取り上げたいと思っている。