(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (18)

⑱ ヨーロッパに侵入したその他のアジア系民族

 一般には、フン族やモンゴル帝国のようにそれほど知られているわけではないが(?)、彼らと同様に、アジア地域からヨーロッパに進出(侵入)した民族は他にもかなりある(一部はその後定着も)。 以下に、その主なものを簡潔に記す。 

 まず、マジャール人(Magyars):マジャール人(ハンガリー人Hungarians人種民族的には同義語、社会的・国籍的には当然異なる。 なお、ハンガリー語では、長音とならずマジャルと言うのが正しいようだ。)は、ウラル系言語(Uralic  languages)を話す民族で、4ー5千年前には、ウラル山脈の東、西シベリアあるいはヴォルガ川中流域に発祥したと言われる。 前2000年頃までには、ウラル語族の中から、後のマジャール人たちを含むウゴル諸語(Ugric languages)を話す集団が形成される。 彼らは、埋葬方法や定住形態から、インド・イラン系のアンドロノボ文化と交流があったと考えられる。 以後、徐々に西に移動し、800年頃に黒海北岸、900年頃に現在の国があるあたりに入植した。

f:id:Ayasamoneu:20201207234901p:plain

現在のウゴル諸語(Ugric)の話者の分布。 これからでも、マジャール人の由来は明白?

 4-5世紀の間に、マジャール人は、ウラル山脈の南ないしヴォルガ川周辺(カスピ海北部)に移動してきた。(※フン族がヨーロッパと戦っていた時期) 8世紀の初めには、マジャール人の一部の集団は、ドン川(ヴォルガ川の上流)に達した。 ヴォルガ下流に留まった集団は、バシキリアと呼ばれ1241年までその地に留まっていた。

 830年頃、隣接するカザフ族(ハザール)の内紛で、その一部がマジャール人と一緒に黒海北部に移住する。 854年、マジャール人は、テュルク系の集団(Pechenegs)に初めて攻撃を受ける。 以降、マジャール人の周囲には、スラブ系がほとんどとなる。

 900年頃に、Arpadというリーダーに導かれた集団が、カルパチア山脈を越え、後のハンガリー国となる地・パンノニア(カルパチア盆地とも言う)に入った。 この頃は、この地域には少数のスラブ系住民しか居なかったようだ。 

 

f:id:Ayasamoneu:20201126054424j:plain

マジャール人の西遷。 ⑤の位置は、ほぼ現在のハンガリー国と同じ

 この後、900年代は、周辺国との確執や西方のヨーロッパ各地への襲撃などを繰り返したり、また逆に、テュルク系などに侵攻されたりもした。 

 だが、そののち、一時オスマン・トルコ帝国の支配下になった時期もあったが、中世以降全体を通して、ハンガリー王国やオーストリア・ハンガリー帝国などとして、長く中欧・東欧の中心的な大国であった。 

 以上が、大まかなこの民族の草創期の歴史であるが、次に、その民族の遺伝的情報を記すと。

 少し前の遺伝的な資料では、10世紀頃のハンガリー人(マジャール人)の骨によると、16.7%の割合で、ヨーロッパとアジアの混血及びアジア系(モンゴロイド)であったという。

 より最近の調査のY染色体(父性)の遺伝子分析では、57%で隣接のスラブ系と同じ系統のものが見られた。 別の分析では、ルーマニアに住むハンガリー系の集団で、アジア系由来の遺伝子が見られた。 また別のものでは、マジャール人とスルブナヤ文化集団(※スキタイの祖先集団?)との関係を示唆した。

 一方、2008年のミトコンドリアDNA(母性)の分析では、現代ハンガリー人は、その西部のスラブ系民族とは遺伝的な差がなかったが、古代のマジャール人とは差があったとする報告がある。 10世紀のマジャール人4人の遺骨の内二人のDNAが、ウラル系であると示された。 また、ある研究では、極初期のコアなマジャール人は、中央アジア・南シベリアの起源だが、西方移動に伴いヨーロッパ起源の民族やコーカサス地方の民族との混血が進んだとしている。

 別のミトコンドリア遺伝子分析では、アジア系由来のものを5%保持しているハンガリア人は、他のヨーロッパ人に比べて特異である、としている。

 性染色体以外のDNAでは、ハンガリー人が、他のヨーロッパ人に比べ、非ヨーロッパ非中東関係のDNAの持ち主の割合が、一番高かった(4.4%、ルーマニア人では2.5%、ブルガリア人2.3%、ギリシャ人0%など)

 現在のハンガリー人は、遺伝的には、ヨーロッパの中で、隣人のブルガリア人と最も近く、エストニア人やフィン人(※どちらもウラル語族系であるが)は、最もかけ離れたグループであったとしている。

 2018年のある調査では、古代のマジャール人とアヴァール人には、東アジアやシベリアとの明確な関連が示されたとある。 これによると、古代マジャール人やアヴァール人は、現在のヤクート人やツングース人と近い関係があったとしている。

f:id:Ayasamoneu:20201207235028p:plain

ハンガリー人(マジャール人)の人口推移。 どこまで正確なのか分からないが、これを見ても、人種・民族の混血や交差は、相当なものだったと推測できる。 なお、これは、全世界にいるマジャール人の総計である。 現在のハンガリー国内の人口は、約1000万人。

※最後に、ハンガリーでは、姓名は、東アジアと同じ順序である。(隣国のルーマニアもそうであるようだが、こちらは、イタリア語などと同じロマンス語系の話者の国、どういう経緯なのか? また、アルバニアなどもそうであると言う。 さらに余談だが、かつて、ナディア・コマネチが体操で旋風を起こした時、彼女の母国ルーマニアでは、日本と同じ姓名の順であるので、本当は、コマネチ・ナディアである、というニュースを聞いて大いに驚いたことがある。)

 次に、そのアヴァール人について。(※第8回で、中国北方にあった柔然Rouranの一集団か、と記載したが、そう確定してものでもない。) アヴァール人(Avars)には、実は、2つの集団があって、現在のダゲスタン人の祖先と言われるアヴァール人は、コーカサス・アヴァールと呼ばれ、パンノニアに侵入したアヴァールは、パンノニア・アヴァールと呼ばれている。 この2つの集団の関連性についてはよくわかっていない。 ここでは、ヨーロッパに入ったパンノニア・アヴァールについて簡潔に記す。

 このパンノニア・アヴァール人は、マジャール人がパンノニアに来る前にいた民族で、560年頃から820年頃まで存在した。 ※パンノニアは、ローマ帝国時代やフン族の時でもそうであるが、広い平野が拡がっているので、どの民族もこの地に移住したがってたのかもしれない。

 先に、遺伝情報を書くと、7世紀から9世紀のパンノニア平原にあった31体の人骨からのミトコンドリアDNAでは、そのほとんどがヨーロッパ系(主として南および東ヨーロッパ系)の傾向を示したが、15%はアジア系であった。

 2018年の62体(※この種の分析調査にしては、この検体数は多い。)のミトコンドリアDNAでは、93%で西ユーラシア、6.5%で東ユーラシア系との関連が見られた。 2019年の調査されたアヴァール人は、すべてダークな髪でダークな目の持ち主であり、そのほとんどが、主に東アジアの起源である、としている。

 2020年の上層階級出身と思われるアヴァール人の分析では、父系母系とも東アジア起源を強く示した。 このことは、アヴァール人が、東アジアから混血がほとんどない状態で、パンノニアまで移住移動してきたのかもしれない。(※フン族を思い起こさせる。)

 歴史資料的には、557年頃、おそらくコーカサスにいたアヴァール人は、ビザンチン帝国のコンスタンティノープルに交易のための大使を送ったのが初めである。

 その後、580年頃までに、アヴァール人は、パンノニア周辺のスラブ人やブルガール人・ゲルマン人などを支配し、やがてそこに国を建てる。 ビザンチン帝国の記録では、彼らをやはり”フン族”と表現していた。

 600年には、現在のオーストリアから黒海沿岸までの広大な遊牧民族の帝国となった。 そして、700年代の後半からのフランク王国そしてブルガール人などとの対立によって、820年頃には滅んでいく。  

f:id:Ayasamoneu:20201208070146p:plain

アヴァール人、スラブ系民族、ブルガール人の勢力範囲と移動の様子。 560-700年頃。

※以上、その歴史を簡単に書いたが、今回、このアヴァール人は、現在の東欧において、フン族とは比べ物にならないほど長い丸200年以上もその地を支配したアジア系国家であったという非常に興味ある事実を知った。 このアヴァール人の侵略があったからこそ、このすぐ後の上述のマジャール人たちによる進出も、あまり問題なく進んだのだろうか? マジャール人の時は、この地域は、スラブ人が少数いただけであったとあるし、また、マジャール人は、初期のアヴァール人に比べよりヨーロッパ化した外見になっていたということも考えられる?

 アヴァールの言語は、モンゴル語かテュルク語系などが考えられているが、不明である。

  次に、ブルガール人(Bulgars): ブルガール人は、原初は半遊牧のテュルク系民族で、7世紀にはカスピ海北部や黒海沿岸を中心に展開した。 西方への移動の間に、印欧語系やウラル語系、フン族系などの民族と融合していく。 そして、679年には黒海西岸を征服し、さらに南下し国を立て、さらにブルガリア王国まで発展した。 一方、ヴォルガ川地域に留まったブルガール集団は、そこで13世紀まで存続した。 

 現在のブルガリア人は、このブルガール人の名前に由来するが、他の遊牧民族と同様、当初のブルガール人自身の人口は非常に少ないものであったようで、周辺のスラブ系などとの混血によって現在のような集団になった。

 遺伝的には、彼らは、元はテュルク系であったと思われ、中央アジアから徐々に西進して東欧に入ったので、当然その過程での様々な混血が進み、DNAもアジアとヨーロッパの両方の特徴の入り混じったものになっているようだ。

※このブルガール人も、非常に興味ある対象であった。 私は、ブルガール人もこれまでその名前ぐらいしか知らなかったが、フン族などと同じようにアジアから入った民族で欧州にこれだけの歴史を残していたのである。 今回は、短くまとめる形になってしまったが、いつか詳しく書く機会があるかもしれない。 

 次に、アラン人(Alans):この民族については、既にスキタイやフン族・ゲルマン民族大移動の箇所で幾度か簡単に登場してもらったが、彼らは、イラン系で元は中央アジアにいたのが、あのフン族の西進の影響で、彼らも更なる西進を余儀なくされた。

 外見的には、イラン系なので、ヨーロッパ人とは大きな差はなかったものと考えられる。 以前の回で少し書いたが、主たる集団は、さらなる西進のあとイベリア半島などでゲルマンのブルグント族と共に行動し、最後は北アフリカで運命を共にすることになる。 ただ、一部の集団は、父祖の地近くのコーカサスに残り、そのまま現在のオセチア人(Ossetians)に繋がっていく、という。

f:id:Ayasamoneu:20201210143415j:plain

働くオセチア人女性、19世紀

 

 下図は、すでに示した勢力地図と似たようなものだが、650年頃時点の黒海周辺の各民族・国家の分布を示している。

f:id:Ayasamoneu:20201209073618p:plain

650年頃の今回紹介したアヴァール人(Avars)、ブルガール人(Bulgars)、オセチアのアラン人(Alans)、フィン人(Finns)などの民族国家の位置関係がわかる。 なお、マジャール人(Magyars)は、ハザール国(Khazars)の支配下にあったとして、ここでは表記されていないのかもしれない?

 以上、各民族とも、英文ウィキにはもっと詳しい書き込みがあり、それぞれ興味のある民族ばかりであり、特に、私はアヴァール人などはほとんど知らなかったのだが、今回のここでの書き込みは、これぐらいにしておく。 また、これら以外にもヨーロッパに侵入したアジア系民族集団は、もっとたくさんあったと思うが、今回は省略させていただく。

  ただ、最後に、アジアからヨーロッパに入った民族を、もう一つだけ紹介したい。 フィン人(Finns)である。 今あるヨーロッパの国では、、元アジア系の民族として有名な国家は、上記のハンガリーとこのフィンランドであると思う。 ただし、フィン人の場合は、マジャール人やフン族などよりずっと以前に、現在の場所に移動してきた民族である。

f:id:Ayasamoneu:20201209075950p:plain

ウラル語族のうち、フィン・ペルム諸語(Finno-Permic)集団の分布。(ただし、この分類法は、全体に受け入れられているわけではない。)

 上の関係する言語集団の地図でもわかるとおり、この場合も、ハンガリーのマジャール人同様、アジア(ウラル山脈周辺)からの移動民族だと言える。 ただし、フィン人(今のエストニア人なども含む)は、ハンガリー人などに比べ、そうとう古い時代、紀元前1000年以前にはこのバルト海周辺に到達していたようだ。 さらに、この言語集団の中には、北欧の最北部に居住し、最近までラップ人と言われてきたサーミ人(Sami)も含まれている。 

 フィン人の歴史を少し書くと、前8世紀頃には、バルト海周辺から現在のフィンランド南西部海岸に移動したらしい。  

 DNA分析では、ヨーロッパ人の中では、もっとも古いタイプのあるミトコンドリア遺伝子をこのフィン人やエストニア人・サーミ人が最も高い割合で有しているとある。 EEF(ヨーロピアン早期農耕民)の前に広く欧州にいたと思われるEuropean hunter-gatherers(ヨーロッパ狩猟採集民)に、フィン人は、現ヨーロッパ人の中では最も近い遺伝情報を持っている、という。 

 Y染色体では、フィン人は他のバルト海周辺の民族やロシアなどと同じタイプの遺伝子を高頻度で持っており、これは原始はアジア由来だと考えられている。

 フィン人は、ヨーロッパのどの民族より、自国内の国民の遺伝子変異の幅が大きい。(※これは、元はアジア系の民族集団が、長い期間のヨーロッパ居住と周辺民族との混血によって複雑で多様な遺伝的分布になったことを意味するのであろう?)

 フィン人には、地中海やアフリカ由来の遺伝子は、ほとんど存在しないが、シベリアのものは、10%のフィン人にある。 

  多くのフィン人の男性は、Y染色体のある特有な遺伝子N-M231を有している。 一つの仮説として、約2万年前に起こった東アジア起源であるこのN-M231遺伝子を持つ集団は、最終氷期のあと、北ユーラシアで再度人口が増加し、それに伴い北上した。 そして、反時計周りに今の中国やモンゴルからバルト海やフィンランドに移動したものだ、とする。 また、この遺伝子は、アメリカ大陸に渡ったネイティヴ・アメリカンなどには全く欠如している。 そのことは、この遺伝子の出現は、約1万1000年前にシベリアとアラスカがベーリング海で分離した後に生じた変異であることが示唆される、と。

 また、この遺伝子は、北東中国やその周辺、南シベリアのバイカル湖周囲にあった新石器時代(遼河文明あるいは紅山文化)の人骨から多く見られた。 それで、ウラル語族及びテュルク・ヤクート族の集団は、今から8ー6000年前にこの地に出現したものと言えるのかもしれない。(※このあたりは、非常に興味ある考察である。)

 もうひとつ、フィン人の由来についての有名な仮説(Refugia):1990年代にWiik氏が提唱したRefugiaという説。 この説によると、フィン語などを話す集団は、氷河期が終わると同時に拡がっていった。 彼らは、中央及び北ヨーロッパに拡散した。 一方、バスク語の集団は、西部ヨーロッパに拡がった。 その後、農耕が南東より広まるにつれ、印欧語が狩猟採集民の間に広まった。 この過程で、フィン語やバスク語の集団は、土地を耕すことを習得するなど印欧化していった。 Wiikによれば、こうやってケルト語やゲルマン語、スラブ語、バルト語などが形成されたとし、だが、フィン人の祖先は、その位置的孤立からその言語を変化させなかった、というものである。 この説には、賛同者もあったが、多くの批判も存在した。 しかし、最近の科学で、この説は見直されている部分もある。

 このフィン人と親戚関係にあるサーミ人についても少しだけ書いておきたい。 サーミ人(Sami people)は、スカンジナビア半島の最北部に住む少数民族で現在約10万人が残るのみである。 彼らは、ラップとかラップランド人とか言われれきたが、この用語は差別的であるとして今では使われていない。  

f:id:Ayasamoneu:20201210071152j:plain

1900年頃のノルウェーのサーミの家族。 現在のサーミ人は、各国からトナカイの遊牧の権利を与えられている。

  サーミ人は、既述のようにフィン人とは同じウラル語族の言葉をもったアジア由来の集団であり、彼らを含む集団は、ヴォルガ川の中上流域に起源を持つ。 その後、前1600ー1500年頃に現在のフィンランドの南部の湖水地方に至り、サーミ語を話す集団が形成された、という。

 その後、サーミ人といわゆるスカンジナビア人は、基本的にはあまり長い期間の接触はなかったようだ。 サーミ人が、ウラル方面からフィンランドあたりに来る前に、スカンジナビア人は、スカンジナビアの南部にすでにいたし、その後、サーミ人はスカンジナビアの北部やコラ半島(スカンジナビア半島の最北東部、現在ロシア領)に居住域を進めていったからである。 

 しかし、その後、スウェーデンやノルウェーなどの近代国家によるサーミ人の抑圧・差別政策が開始される。 これらについては、英文のウィキなどには、詳しく出ているので参照していただきたい。

 さて、ここでも、遺伝分析の情報はあるが、サーミの長い移動期間を反映してかヨーロッパの古い遺伝子とシベリア由来のものがあるようだが、初めの部分に書かれている内容は、私には少し理解しがたいので、省略する。 

 それ以外の遺伝情報として、中石器時代のWestern Hunter-Gatherers(西部狩猟採集民)の要素が15%、EEF(ヨーロッパ早期農耕民)にものが10%、そして、ヤムナ文化集団のものが50%であった、という報告もある。

※おそらく、基本的にはフィン人の場合と同じような遺伝的特徴を持っているものと考えられるが、現在の地に移ってから(遊牧形態であるが)長い年月を経ており、しかも、フィン人に比べ外部との接触はより少なかったと推測できるので、遺伝子の固定化はより進んだものと想像できる。

  以上、それぞれの民族の内容は、非常に簡潔になった。 次回は、もう一度、中央アジアに戻って、あるテュルク系の民族がオスマン・トルコ帝国を建設するまでを見てみたい。