(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (6)

⑥文明国への移動ーヒッタイトの場合(紀元前3300年頃から前1100年頃まで)

 小アジア(今のトルコ)の地には、ヒッタイト(Hittites)の前に、ハッティ人(Hattians)などの民族が古くからいたらしいが、紀元前2000年前までに移動してきたヒッタイトによって、消滅あるいは吸収させられたか、それまでに分散してしまったのか、はっきりしない。(また、名前が似ているので、一部混同があったとも言われている。) ヒッタイトは、前回にも書いたが、前1500年頃に、メソポタミアのバビロン第1王朝を滅ぼした。 このヒッタイトは、あとで詳しく述べるが、現在分かっている範囲で、印欧語を使った最も古い民族あるいは集団の一つであると言われている。 これは、歴史的に非常に重要な点である。 

 そして、このヒッタイトは、もう一つ、歴史上非常に重要な文化を生み出している。 それは、鉄器の生産である。 紀元前1500年頃の古いオリエントやヨーロッパ世界で、唯一このヒッタイトだけが、鉄器の恒常的な生産が可能だったのである。(ただし、世界的には、インド北部にも、これよりやや古い時代から鉄器生産があった。)  

 とにかく、どちらも、人類の文化史上非常に大きな出来事であるので、今から少し詳しく書いていきたい。 ではまず、言語の方から。 しかし、これに際しては、またかなり時代をさかのぼる必要がある。 

 さて、現在の北インドからイランを経て欧州各国に広がる言語(皮肉にもトルコ語は、異なる。アジアのアルタイ語系。この話もいずれ。)、すなわちインド・ヨーロッパ語族(印欧語)の起源については、これまで諸説あったが、ここでは、比較的最近の2007年に提唱されたDavid Anthonyの説を中心に概略を述べてみたい。(アンソニー自身が書いた事以外で、一部、私見として私の考えも書いた。)

 印欧語の最初の言語・印欧祖語が、発生したと思われる場所は、今のロシアやウクライナの黒海及びカスピ海北岸の平原地域(ステップ)であるとされる。 これまで見てきたように、当然、この地方でも、ホモ・サピエンスたちは、少なくみても3万年以上前から定住していたものと思われるし、そして、オリエント地域で1万年前頃に始まったとされる農耕や牧畜も、すぐあと、この地でも徐々に取り入れられていったものと推測される。 ただし、これから述べるこの地域の集団は、主として遊牧民である。

 そして、さらに時代が下って、紀元前5000年頃あるいはそれより前から、この地を含めその周辺あたりでは、今のヨーロッパ文明の直接の祖先たちの集団(つまり印欧祖語のそのまた原初となる言葉を話す集団)や、そうでない別の言語の集団などが、時代に応じて様々な文化集団を形成していった。 それらの多くの民族を含んだこの地域では、ある一つの大きな共有文化があった。 それは、クルガン(Kurgan)と呼ばれる墳丘を持つ墓の造成である。 だから、この文化を総称してクルガン文化と言われることもある。 このクルガンは、日本の古墳、とくに前方後円墳よりも、その前の段階の円墳・方墳などによく似ている(私見)。 そして、このあたりでは、銅及び青銅器が利用され、また、牛や羊の家畜化が、次のヤムナ文化の登場以前に、すでに確立されていた。 さらに、羊毛の布と荷車(おそらく牛が引く)も、この地域の特徴となる文化産物でもあった。 

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クルガン、紀元前4世紀頃、南ウラル地方。 ウィキより

 そして、紀元前3300年頃になると、印欧祖語を話すヤムナ(Yamna)あるいはヤムナヤ(Yamnaya)と呼ばれる文化を持った集団が、この地域に出現する。 出現と書いたが、それまでの近隣の文化と入り混じった中で、この言語が形成させていき、一つの文化集団として成り立っていったものと考えられる。 遊牧民であるこの集団は、それまでの牛や羊のほか、馬も家畜化し(おそらく世界初)、乗馬の技術を得て、それまでの荷車とともに遠隔地への移動を飛躍的に向上させた。

 そうして、このヤムナ文化を担う集団が、徐々に拡散していく過程で(主に南・西へ)、旧来からヨーロッパにいた様々な民族集団は、しだいに衰退・消失していくのである。 いわゆる古いヨーロッパ(Old Europe)の消滅である。 

 前3100年頃には、この集団の中から、今の西ウクライナやポーランドあたりで、ゲルマン語族の祖語を形成する集団が出てくる。 また、ハンガリーから南ドイツにかけて、2800年頃にケルト語の祖語が、出現してくる。 これらの移動は、ドナウ川沿いに進んでいったと思われる。 同じく、ラテン語系やスラブ・バルト諸国系の言語の祖語も、同じ頃、このハンガリーあたりから、それぞれの方向へ進行・分化していったようだ。 これらの集団の特徴は、他に縄目文土器(Corded Ware)を持つ文化であり、また、この時点でも銅や青銅主体の文化であった。 なお、古代ギリシャ語の祖語集団は、これらより、ややあとに現在のギリシャ周辺にたどり着いたと思われる(私見)。

 また、東に向かったヤムナ文化の集団は、やがてインド・イラン語系の祖語を話す集団となっていった。 こういう集団の移動を誘発した原因は、まず、やはり気候変動だと言われている。 黒海及びカスピ海北岸地方の寒冷化と乾燥化であると思われる。

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ヤムナ文化の拡散。 ウィキより。 前3300年頃(黄色部分)から以後、その他の色の文化に拡散、それは同時に、各地域で各言語が発展していく。

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Corded ware ウィキより。 日本語では、誰が命名したのか、縄目文土器(なわめもんどき、だと思うが) 見てのとおり、日本の縄文土器によく似ており、縄文の方が発生は早いとは言え、同時期(前3000年頃)に、離れた場所で同じような模様の土器があったようだ。 なお、この土器を作った人たちは、のちの印欧語の分化にも関係している。

 それから、アンソニーの説から離れて、もっと最近(2015年以降)のDNA分析の結果では、このヤムナ文化の集団は、外貌は、現在の白人に似ているが、髪の毛や瞳は、ダーク(茶色)が主であったようだ。 また皮膚の色も、明るい(light)色であったようだが、現在の平均的ヨーロッパ人よりはやや色黒のようである。 また、頭は、ヤムナ集団の内、東北部に住む集団は長頭で、南部や南東部の人間は、短頭傾向にあったという。  また、この中のある種の遺伝子をもった集団は、前3000年頃には、ヨーロッパの西端のアイルランドやポルトガルに到達していたらしい。 (まあ、このあたりの遺伝分析情報は、今後、いろいろ詳細が出て、変化する可能性があるが。私見)

 ここで、話はややそれるが、英語で白人を表すコーケイジアン(Caucasian)ややや科学的な言葉のコーカソイド(Caucasoid)とかは、昔の学者が、いわゆる白人特に印欧語を扱う人種・民族の発祥の地は、コーカサス(Caucasus、または、カフカスKavkaz)地方だとすることからきている。 黒海とカスピ海に挟まれた地域で、コーカサス山脈がほぼ中央に走り、今の国で言えば、ジョージアやアルメニアなどがあるあたり。 しかし、上記のように印欧祖語は、このコーカサス地方よりも、やや北方で発生した可能性が高そうである。 しかし、詳細には書かなかったが、上記のヤムナ集団の形成には、この南部のコーカサスや、より東部のシベリア方面からの集団との合流(混血)があった、とも言われている。 

 ここで、ヒッタイトの歴史をもう一度簡略に述べておくと、上記のヤムナ文化地域から、おそらくコーカサス地方経由で前2000年以上前に、小アジアに移動してきたこの印欧祖語に近い言語を話すヒッタイト人集団は、先住の非印欧語族のハッティ人やフルリ人(Hurrians)を駆逐して、彼らの王国を立てた(古王国)。 既述のように、それまでの印欧語集団は、主に遊牧の民であったが、ここ小アジアに来たヒッタイトが、王国を建てたということは、それ以前に、彼らは、この地の定住民になったことを示すのであろう(私見)。 そのこと自体、人類史上、非常に画期的な出来事だったと私は思っている。 記録上では、紀元前1830年頃から、その活動が残されているが、最初の王国(古王国)は、前1590年頃に建国された。 なお、フルリ人は、のちにミタンニ王国の樹立に貢献したと言われる。(ミタンニ王国自体は、印欧語を使用したらしいが、フルリ人自身は、元は非印欧語話者である。) 

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ヒッタイトとエジプト。ウィキより Huttusaが首都。 国境線近くのQadesh は、Kadeshのこと。

 さて、ヒッタイトは、その後、やや停滞気味であったが(中王国とも)、1350年頃に、また勢力を盛り返し、新王国を樹立する(ヒッタイト帝国とも)。 この間、ヒッタイトのハッツシリ(Hattusili)3世とエジプトのラムセス(Ramesses)2世との間に、有名な”カデシュの戦い”(Battle of Kadesh)が起こり(1274年)での勝利、その後、”カデシュの平和条約”(Treaty of Kadesh)の締結(1258年)などが続いて起こった。 

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前1258年、カデシュの条約の粘土板。 ウィキより

 このハッツシリ王の娘が、ファラオーに嫁いだなど、これらの事件の詳細は、粘土板上に楔形文字のアッカド語(当時の世界語)で書かれ、同時にそれは、世界史上初の記録に残る平和条約となっている。(エジプト側の記録も、短いながらある。) しかし、その後、あまり時間が経たないうちに、ヒッタイトは、アッシリアによって滅ぼされる(1180年)。 それ以後は、シリア・ヒッタイトという小国家群に分散していき、ヒッタイト語もやがて消失した。 

 実際のところ、このヒッタイト語自体は、印欧語でも、かなり早くから他の語群と分枝し、その後のヨーロッパの主要な言語への直接的影響は、少ないかもしれない。 ただし、現在の印欧語のうち、ギリシャ語を含む西欧に残る言語と東欧スラブ系やインド・イラン系などの印欧語には、初期の段階で言語学上の大きな差があるらしく、このヒッタイト語は、西欧語の方に属しているので、この帝国が滅亡後、その影響が西方にだけ移ったのかもしれない(私見)。 ともかく、印欧語を使う民族としては、ヒッタイトは、ギリシャやローマに先立ち、当時の文明の中心地で強大な勢力を伸ばした最初の主要な民族なのである。

  さて、長くなったが、もう一つの重要な文化・鉄器についてであるが、ヒッタイト以前には、エジプトなどで隕石からの鉄を取り出したものがあったらしい。 しかし、地表の鉄鉱石から炉を通して鉄を大量に生産できたのは、オリエントでは、このヒッタイトだけであった。 世界では、他にインドのガンジス川流域で、これより早く(前1800年頃から)あったと言われている。 ヒッタイトでは、本格的な鉄生産は、前1500年頃に始まったとされる。

 鉄を鉄鉱石(砂鉄)から溶かして鉄の塊を取り出すには、土器などでできた炉の内部温度を鉄の融点である1538度以上にする必要がある。 銅よりもさらに500度高い。 そのためには、青銅作りよりもさらに高温に耐える良質の炉(土器)と大量の酸素が必要になる。 古代の場合、砂鉄を炉に入れて溶解し、鉄を取り出すのであろうが、その場合には、高温にするためフイゴなどで常に強い風を何時間も送り続けなければならず、非常に重労働であった。 ただし、小アジアでは、天然の炉のような自然の風が常に強く吹く、鉄器生産に非常に適した、言わば天然の炉のような場所があったと言う(このあたりは、今年初めに放送されたNHKスペシャル”アイアン・ロード”でも紹介されていた)。 ただ当然、その製法は、ヒッタイト以外には、門外不出であったろうが、それでも非常に高価であったはずで、一部は、当然武器に使用されたのであるが、一方、庶民には手の届くものではなかったようだ。 そのため、ヒッタイト人の日常においては、まだ青銅器の方が、鉄器よりも多く利用されていたと思われる。 ただ、鉄器作りの必要性は、青銅作りに必要な錫が、あまり産出出来なかったため、その代替用金属として登場してきた、とも言われている。 

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鉄の武器。 ハルシュタット・ケルト時代、ウィキより

 しかし、言語と違い、この青銅より強く軽くて、そして後には、安価になった鉄器の生産技術及び鉄製品は、ヒッタイト崩壊後、速やかにギリシャやエジプト、そして、その後、ヨーロッパ各地に拡散していった。 そして、ヒッタイトの鉄の関係で最も特筆すべきことは、かつてヒッタイトの祖先が、ヤムナ文化を用いて黒海北岸から小アジアに来たのと真反対方向に、この鉄生産の技術は、数世紀後に、その黒海北岸あたりに住むスキタイ(Scythians)人などに伝わったことである。 そして、それらの鉄器は、このスキタイからさらに東へ東へと広大な中央アジアへと拡がっていくのであった。 一方、インドの鉄技術は、東南アジアなどへと波及したようだ。 

 以上、本当は、スキタイのことも今回書きたかったのだが、かなりの字数になったので、次回以降に。