(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (5)

※この記事は、日本時間で8月20日に投稿しましたが、なぜか8月4日と前回と同じ日付になっています。

⑤文明国への移動ーメソポタミアと小アジア近隣の動向(紀元前BCE約3500年~前150年頃まで)

  さて、これからは、いわゆる4大文明の時代に入っていくのだが、そこは、非常に事象としては多岐多様なものがあり複雑すぎるので、いろいろウィキペディアなどを参考に本当に大雑把な流れと、自分の興味のある地域に限定して書いていこうと思う。  

 その興味ある地とは、まず最初に、現在のトルコ周辺。 ここは、小アジアとかアナトリア(中央部)などと言われるが、現在でもそうであるように、この紀元前3千年あたり、いや出アフリカ以来ずうっと様々な人種・民族の通り道であり、たまり場(ルツボ)であったと言える。

 前回、雑談の中で、トルコのことを少し書いたが、私には、この地の人種・民族の変動が、非常に面白く感じられる。 また、太古からの文明の地・メソポタミアや、今のヨーロッパ文明を生み出した集団の発祥の地とも言われるコーカサス地方などに隣接しているのも、興味あるところだ。

 さて、トルコの地での有史が、まだほとんどない古い時代に、隣接するメソポタミアでは、世界最初とも言える高度な文明が開花する。 なので、まず、その経過・出来事を簡単に列挙していくことから始める(ごく有名な王名とそのアルファベットも、必ずしも英語ではない)。 既述のように、それまでも種々の文明が、この地で起こっていたが、ここでは、昔からよく知られているシュメール時代から始めることになる。 

 紀元前3200年頃に、シュメール人(Sumerian)(系統不明)が、メソポタミアでシュメール文明(Sumer, アッカド語でSumeru)を樹立、古代都市ウルク(Uruk)などを建設、第1ウルク王朝から第5まで。 3000年頃には、青銅の合金法を確立したらしい。 

 多くの文明では、青銅器時代は、新石器時代の後、そして、鉄器時代の前に位置付けられるように、青銅器の利用は、人類にとって画期的な転機となった。 青銅は、御存知のように銅と錫(すず)の合金であるが、錫以外の金属の合金も若干あったようだ。 古い所では、すでに紀元前6000年頃の新石器時代の土器窯で、銅を溶かす温度(1085度)まで加熱できたので、青銅器作りが可能になっていったようだ。 (錫の融点は、230度あたりとかなり低い。)

 シュメールに戻ると、前2500年頃には、楔形文字を発明する。 文字の発明も、文明の進化という点では、非常に重要な文化的遺産である。 楔形文字は、当初は、表意文字であったが、のちに、表音文字も開発されたようだ。

 紀元前2300年に、セム系言語(のちのアラビア語・ヘブライ語などの祖語)を使うアッカド人(Akkado)のサルゴン(Sargon)1世が、アッカド帝国が樹立、世界最初の帝国とも言われる。 このアッカドというのは、シュメールやアッシリア・バビロンなどに比べ、知名度は低いかもしれないが(私だけか?)、メソポタミアの歴史においてかなり重要な位置をしめているようである。 また、このアッカド語というのは、この地域でのちも使われた重要な言語であったらしい。 

 2113年、第5ウルク王朝最後の王の将軍であったウル・ハムルが、ウル(Ur) 第3王朝を建国、有名なジッグラト(バベルの塔のモデル?)を建設。(教科書的には、こう書いているが、ウル第1・第2王朝がどんなものなのか、私には、よくわからない?)

 前1830年、ハンムラビ王(アッカド語Hammrabi)に率いられたバビロン(Babylonia)第1王朝(古代バビロニア王国)が誕生。 しかし、それは、紀元前1595年、ヒッタイト(Hittite)によって滅ぼされる。 ほぼ同じ頃、カッシート人(Kassites系統不明)が、今のイラン及びメソポタミア南部を制圧する。 これが、バビロン第3王朝(または、カッシート王国)と呼ばれるのだが、この王朝は、実は、バビロニアでは、最も長く続いた王朝であったらしい。

 メソポタミアは、大きく分けて、北部は、アッシュール(アッシリア)地方、南部はバビロニア地方と呼ばれていた。 この地では、前2000年以上前の古代からアッシリア国が存在したが、当時はあまり強力ではなく、その後、前1000年頃から、北部を中心に強力な新アッシリア王国(Assyria)が登場し、勢力を徐々に広げていき、カッシート王国などを滅ぼし、やがて帝国となる(史上初の真の帝国とも)。 彼らは、アッカド語とアラム語を使っていた。 (このアラム語は、もともとシリアあたりのセム系民族の言葉であったが、この後も、中東で幅広く利用され、今現在でも、レバノンなどに話者が存在する。) 前670年頃、アシュールバニパル(Assurbanipa)王が出て、領土は最大となる。

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アッシリア帝国の拡大。 ウィキより。

 しかし、その直後、ウルク出身で、親アッシリア派の家系の出であるナボポラッサル(Nabopolassar)が、言わば身内のアッシリアを滅ぼし、新バビロニア王国を樹立するのだが、その統治機構などの多くは、アッシリアのものを受け継いだ。 その長男のネブカドネザル(Nebuchadnezzar)2世(なぜ2世なのか、別の王朝からの借用?)によって、ユダ国への侵略が始まり、バビロンの捕囚が起きる。  

 このユダヤ人の悲劇のバビロン捕囚は、印欧語の民族・ペルシャ人(Persian)のアケメネス朝ペルシャによって解放され、捉えられたユダヤ人たちは、約4ヶ月の旅を終え故郷に戻ったとある。 

 こういう征服された民族などは、どれも奴隷などとして征服者の国に連れて来られたのだが(アッシリアなどが典型)、旧約聖書でこの事実が明確に記されていることは、重要である。 なお、現在は、いがみ合っているイランとイスラエルだが、この時代は、イラン(ペルシャ人)が、ユダヤ人を救っていたとも言える。

 ウィキペディアなどを見ていると、こんな古い時代でも、こんなに詳しくいろいろ分かっているのかと、大変驚かされる。 粘土板などの記述と文字解読の技術の進歩のゆえだと思うが、特に、政略結婚などもこの頃頻繁にあったらしく、人類の歴史は、太古からの繰り返しというのが、改めて分かる。 しかし、ここでは、通り一遍のことしか書けないが、それにしても、日本では、まともな記録は、古事記や日本書紀以降(紀元後700年頃)になるのをみると、大変な違いである。 

  さて、古代のトルコにあった国・ヒッタイトが、前1600年頃、古代バビロニアを滅亡させたことを書いた。 また、同じ頃に、フルリ人(Hurrian)が、今でいうトルコとメソポタミアの中間地にミタンニ(Mitaanni)という国を建国。(フルリ人は、もっと以前から勢力を拡大していたとも。) 

 このヒッタイトもミタンニ(こちらは、不確かだが)も共に、のちのヨーロッパ文明を築くインド・ヨーロッパ語族(以下、印欧語族と略)の集団であると言われる。 ヒッタイトについては、あとで詳しく述べるつもりだが、その前に、トルコ地域の歴史を外観しておくと、

 ヒッタイトの滅亡のあとシリア・ヒッタイトという小国家群が、前1250年~850年まで続く。 その中でも、これも印欧語のフリギア語を話し、フェニキア系のアルファベットを用いたフリギア(Phrygia)人が、トルコ中部を中心に一時国を立てたが、黒海の北方から遊牧騎馬民族であるキンメリア(Kimmerians)人によって崩壊、その後、既述のアッシリア帝国が、この地域も占領した(750年頃まで)。 

 続いて、750年から550年ぐらいまで、リディア(リュディアと表記するのもある)とメディア(南部地域)が、このあたりを統治した。 リディア(Lydia、印欧語系)は、地名自体は、トルコ西端の地を指すが、国は、勢力を東に伸ばし、また世界初の硬貨コイン(金銀製)を発行していたと言われる。 また、ここでも北方からキンメリア人の侵入をたびたび受けたともある。 ただ、キンメリア人自身も、その前に、スキタイ(Scythians)から圧迫を受けての移動のようであった。 このスキタイ人についても、またあとで述べる。

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前600年頃のオリエント。ウィキより。 Lydiaをリュディアと記述しているものもあるが、英語読みなら、リディアの方が近いか?

 メディア(Media)王国は、もともとイラン西部のメディアの地から勃興したもので、印欧語を話すメディア人による建国である。 イラン高原には、印欧語を話す民族が、少なくとも前2000年には定住していたと言われる。 これは、コーカサス地方で、その語族を話す集団が、すぐ移動したことを示すと思うが、このこともあとで、もう少し述べたい。 

 やがて、メディアは、新バビロニアと共に、アッシリアと戦いこれを滅ばし、今のイランやアフガニスタン、メソポタミアそして東部トルコにまたがる大帝国となる。

 つづいて来るのが、同じ印欧語のペルシャ語を話すペルシャ人が起こした有名なペルシャ(Persia)帝国で、彼らも同じくこの地を占領したのである。 ペルシャは、上記のメディアやリディア・新バビロニアの全てを滅ぼした。 最初の王朝は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝とも)と言われた。 トルコ地方を制圧したペルシャは、ダイレオス(Dareios、ラテン語ではダリウス)1世の時に、対岸ギリシャとペルシャ戦争を起こした。 当時のトルコの西海岸には、ギリシャと都市同盟を結ぶポリスもあり、陣容は複雑であった。 そして、ダレイオス3世の時、有名なアレキサンドロス3世(大王Alexandros)が、ペルシャを破り、瞬時にインド西部までの一大帝国を築く(330年頃)。

 しかし、御存知のように、それは短命に終わり、300年頃、アレクサンドロス3世の後継者(ギリシャ・マケドニア系)が、いろいろ争う中、セレウコス(Seleucus)が台頭し、セレウコス朝(いわゆるヘレニズム王国の一つ)を起こし、この小アジアの地も治めた。 同様に、リュシマコス(Lysimachus)が、トルコの西半分を短期だが治めた(リュシマコス朝)。 さらに、250年には、これもヘレニズム王国の一つで、フィレタイロス(Philetairos))率いるペルガモン国(Pergamon、または、アッタロス(Attalos)朝、元は、最西部の地名)という国が統治した。(羊皮紙の生産で有名、英語のparchmentは、このペルガモンから来ている。) そして、紀元前150年頃から、あのローマ帝国の領土となり、のちに、今のイスタンブールが首都となるなど、非常に重要な土地となっていくのである。

 ここで、少しメソポタミアに戻っておくが、この地も、小アジアと同じようにアレクサンドロス3世の占領を受けたあと、既述のセレウコス朝が治め、その後、さらにパルティア(Parthia、または、アルサケス(Arsaces)朝ペルシャ)によって支配を受ける。 そして、その後は、この強大なローマ帝国とパルティアの2国の中間地的な位置で互いの勢力が入り乱れたりなどもあって、この地の重要性は、相対的に下降していったようだ。

 ついでに、エジプトも、この時期、同じくヘレニズム王国の一つであるプトレマイオス(Ptolemaios)朝が治め、有名なレオパトラ(Cleopatra)7世とローマのカエサルの出会いなどがあり、紀元前30年近くまで存続する。 しかし、この王朝は、それまでの古代エジプトの王朝とは、民族的に全く異なると言える。

 さて、ヒッタイトやスキタイなどの話も書きたかったのだが、長くなってきたので、この次にして、ここでは、この古い時代でも、いろんな面白い逸話が多く残っており(ヘロドトスなどギリシャの偉大な歴史家の貢献が大きいが)、その一つ、私が特に面白いと思った逸話(伝説?)を紹介したい。 ウィキには、詳しく書いてあるが、面倒くさい人もいると思うので、ここで概略を。

 リディアが勃興する初期のことである。 前の王朝の最後の王は、自分の妻が、世界一の美女だと思って、周りに自慢したくてしょうがなかった。 ある時、のちのリディアの王となる青年は、それを信じなかったので、前王は、彼に妻を見るようにしつこくせまった。 青年は、見たくもなかったが、あまりにしつこいので、ついに密かにその妻の寝室で裸体姿を覗き見た。 しかし、妻にそれを見つけられてしまう。 そして、その妻は、こう青年に言った。 「きっと、私の夫の指図なんでしょう! とても腹立たしい。 こうなれば、あなたは、私の夫を殺して、私と共に行動しなさい。 さもなければ、あなたを、覗き見した罪で罰しますよ!」と。 返答に困った青年ではあったが、決心して、前王を殺すことに決め、その後、その妻を自分の妃にして、リディア王となった、メデタシメデタシというものだ。 

 おそらく、オリジナルの逸話は、もっと長く面白い展開があることだろう。 今から、2500年以上前に、こんな話を創作あるいは過大に想像するギリシャ人(完全な実話とはとうてい思えない)も凄いものである。  

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後世の絵画、ウィキペディアより。 見えにくいかもしれないが、左端に覗く男の顔がある。