皮田から、皮多へ、そして、エタへ。

 私が、今、書いているものは、当然、ほとんどが誰か他の学者や作家、ルポライターのような人の作品からの受け売りでしかありません。 ただ、多少、より全体的な流れの視点を考慮し、より分かりやすく書いているつもりであるのと、自分の経験や考え・意見などをおりまぜて、結構、ズバッと言える点が少し違うところかもしれません。
 
 私も、25年くらい前の昔の2・3年間、実験のまね事みたいなことをしていました。 ですから、何か自分で実験結果を出し、それを報告することの難しさを十分知っているつもりです。 こういう本などを出される人には、尊敬と感謝の念が絶えません。 我々は、そういうことを、いつも念頭に置きながら、他の人が、こつこつやっている努力を、簡単な言葉で非難したり無視したりしないでおきたいものです。
 
 さて、2-3週前、東京新宿の工事現場で、約4000年前の縄文時代の人骨が11体見つかった、とNHKのニュースでありました。 そして、その中の女性の1体にあった下顎の前歯数本は、一様に直線上に磨り減っており、これは、当時、獣の皮を歯を使って鞣(なめ)していたからだ、ということも報じていました。 まあ、想像がついていたことですが、実際にニュースで流されると、関心しましたし、こういうことをネタにすることにも感心しました。
 
 私の部落の歴史も、江戸中期ごろにきました。 その続きの前に、皆さんご存知のとおり、日本という国も、そして、世界中の多くの国も、その歴史の経過とともに、徐々にであるが、経済的に豊かになってきており、それから、いわゆる文化的なものを付随的に開花させていったのだと思います。 ただし、その場合、多くの利益配分は、その支配階級が、寡占・独占してきたことは、ご承知のとおりでしょう。 ただ、でも、一般庶民の生活も、そのオコボレかもしれませんが、それなりに向上してきたことも、これまた言えると思います。
 
 江戸時代も中期ごろになると、庶民にも、特に都会の庶民は、歌舞伎や相撲などの遊興にふける文化が定着してきます。 そうなれば、そういう芸能などに携わる人への憧れや尊敬の念が出てきても不思議ではない。 そして、歌舞伎役者などの芸能人側も、自分たちへのそういう雰囲気をバックアップに、自らの地位身分の向上を図ろうとするのは、当然の成り行きとでも言えましょう。 それで、少し前に書いた、市川團十郎などとエタ頭の弾左衛門との確執になるのです。 幕府の裁定の結果、都会の歌舞伎役者などは、それ以後、エタ身分の管轄に下になる必要はなくなり、独立した身分として認められるようになりました。 ただし、地方の芝居小屋の集団などは、その後も以前と同様の身分・立場であったようですが。
 
 とにかく、こういう庶民の職種に対する蔑視観の変化が起こると同時に、このころから、飢饉などによって、幕府や諸藩の財政が非常に悪化します。 それで、幕府は、年貢の比率を高めるなどしたため、百姓は、より貧困になり、水呑百姓などとよばれる小作だけの者が激増するなど、農村は疲弊します。 もちろん、皮田への税金も増えるのですが、それと同時に、皮田の人たちにそれまであった権利(芝居見物や祭りの参加など)を剥奪し、より厳しい管理統制をしていくようになります。
 
 このあたりは、幕府や諸藩の支配者が、人民の不満の行きどころをうまく利用し、より下の立場の人間を苦しめ、百姓の溜飲を下げさせるための政策だったと言えるでしょう。 ただ、このような「下見て暮らせ!」の政策や庶民の側でも、自分たちの不満を上にぶつけるのではなく、下に向かうという、いわば日本人の悪しき心理は、明治の解放令以降も続き、それが今日までの部落差別の温存に繋がったとも言えます。 このことは、またあとで詳しく。
 
 それで、幕府は、だいたい1750年頃から、全国的に、皮田を、皮多(田んぼと関係なく、皮だけを扱う人間という意味を強調)という呼称を使い、更にその後、エタという言葉に置き換えていく。 これで、中世からあった賤民階級の土地定着化とその生業(なりわい)について、厳しく統制した身分制が確立したと言えましょう。
 
 このころから、北前船などの全国的な大きな物流は発達してきましたが、農村や内陸部では、まだまだ物品の行き来は、そうたやすいものではありませんでした。 ですので、全国どこでも、農村の周辺部には、死んだ牛馬を扱う人間が必要でした。 それは、人口少ない地方では、村という大きなものでなく、数軒の集まりといったものが大半のようでした。 
 
 死んだ家畜は、その時点で、皮田身分の者の所有になりましたが、その毛や角、蹄、内蔵など、価値のあるものばかりでしたし、とりわけ、価値があったのは、その皮と皮に付随する成分のニカワ(ニベとも)などでした。 だから、百姓たちは、ケガレの思想から、当然これを取り扱えないのはわかっていましたが、かなり苦々しい思いで、その死んだ牛馬を手放したと、想像します。
 
 ただ、この剥いだ皮をりっぱな革にするのは、大変な労力と技術と土地や施設が必要でした。 これが、皮鞣(なめ)しです。 縄文人のような強い歯は、この時代の日本人にはありません。 それで、江戸期には、九州や東北などの各藩でも、皮鞣しを実施したいために、先進(?)的な関西地方の鞣し職人(細工)が、動員(移住)させられました。 中には、その移住した土地で、かなり高い地位についた者もいたそうです。
 
 そして、この鞣しの技術で、特に優秀なのが、我が故郷の兵庫県の瀬戸内側の地方です。 鞣しには、天気の良い日がつづくことと大量の水が必要でしたので、この地方で盛んになったのでしょうが、伝説には、太古の昔の渡来人が持ち寄った技術であるというムラもあります。
 
 私の生まれたムラでは、私のリッチだった祖父も皮革関係の工場(こうば)を持っていましたが、隣のムラでは、より大々的に皮革工場(こうじょう)と言える大きなものがありました。 しかし、私の母の出身の姫路市内のTムラは、全国でもその名が通っている有名な白鞣し革の生産地でありました。 このため、江戸後期に、姫路藩は、これらの革製品を藩の専売制にしました。 行政が関わると言っても、その職人たちの身分が変わるわけでもありません。 ただ、藩は、藩財政の足しに、革製品の出入りを管理し、そのマージンを取ったということです。
 
 でも、やはり、こういうムラでは、それなりに近隣の一般の村の百姓が真似できないくらいの金持ちも出てきたようです。 これは、大阪の渡辺ムラというところにあった皮や革を扱う大問屋町にも、そういう大金持ちがあらわれたのと同じことです。
 
 で、私は、比較的最近まで、自分のムラや母の出身のムラのようなところが、典型的な部落だと思っていました。 しかし、そのようなムラは、むしろ少数派で、全国に散らばるその他の圧倒的な数の部落は、もっと小さく、もっと貧しかったということのようです。 私が、もし、私の出身地の名を正確に言えば、姫路市内の人間なら、それは部落とわかるでしょう。 地区の中に入れば、今は、機械干しが多いようですが、私が子供の頃は、河原や休耕田で、皮を干す様子がいたるところにありましたし、その臭いも強烈でした。 今は、この臭いは、汚水処理場の設置や、また、皮革産業そのものの衰退により(こっちの方が主でしょう)、かなり改善さfれていますが。
 
 しかし、多くの小さな部落では、家内工業のようなひっそりとした作業で、革や竹細工の仕事をしていたのでしょう。 周囲からは、その存在を確認するのは、かなり難しいものがあったと思われます。 もっとも、1970年代からの同和対策事業で家並みが改善される前は、そういう地区の家々は、周りより一段ミズボラシイものであったことは間違いないとも思いますがーーー。 
 
 まあ、どっちのタイプの部落に生まれた方がより幸せか、などは、この私にはわかりませんが、要は、周りからの偏見がある限り、大した差もないということです。 
 
 そういう江戸期の、一般の百姓と隔絶された部落の存在は、お互いが別の空間に生きているかのような生活そして感覚があったろうと思われます。 家畜の死やその皮の移動時だけ、互いの接触があるような。 厳しく土地に縛られ、自由のない生活(百姓も皮多も)でしたので、多くの双方の人間たちの生涯で、あまり接点はなかったことでしょう。 
 
 まあ、しかし、小さな、また時には、大きな差別事件は、無数に、この時代でもあったことでしょうが、これが、明治の解放令のあと、逆に、より心理的に酷くなるということは、次回にします。