幻想の「士ー農ー工ー商ーエターヒニン」という蔑視の言葉遊び。

 1991年の夏、まだ公務員だった私は、アメリカ東海岸へ10日ほどの一人旅をしました。 当時、ソ連が崩壊し、世界で唯一の超大国となったこの国の経済の中心地、そして、現代文明のメッカであるニューヨークを見てみたかったからです。
 
 他にも、当時すでに、私は、いずれアイルランドへ行こうと思っていたので、アイルランド系の多いボストンにも行きました。 ボストンでは、アメリカで、やはり差別的な待遇を受けていたアイルランド系移民の子孫で、アイルランド系で初めての大統領となったジョン・F・ケネディの記念館などにも足を伸ばしました。 その他、オノボリサン的にナイヤガラの滝なども見て回りました。
 
 余談ですが、この間、自由の女神を見るために、その島へ行く渡しのボートを乗ろうとした時、ある小柄なアジア人の男性を、これも5~6人のアジア人女性が、キャーキャーと言いながら、その男を追いかけて行く情景を見せつけられました。 周りの観光客には、少々迷惑な感じでしたが、その男性は、最近またNHKのドラマで見るようになった三上 博でした。
 
 で、ニューヨークの自然史博物館だったと思いますが、その博物館では、恐竜などはもちろん、アジアや日本の歴史を紹介するコーナーもありました。 見物客は、私以外ほとんどなく、ゆっくり通路を進んでいくと、日本の江戸時代のところで、1メートル四方ぐらいの昆虫採集の標本展示に使うような箱がありました。 そこには、2-3センチくらいの小さな人形が一列に空間をおいて並べられ、最初のは、人形の横にSamuraiという紙札がはってあり、以下、百姓、工人、商人という意味の英語の紙が貼ってあり、それぞれ、それに似た人形の姿がありました。 そして、最後に、ちょっと離れて、Etaという字のある人形が置かれてました。 ヒニンというのは、ありませんでしたが、それを見た私は、少なからずショックを受けたことは間違いありません。 
 
 同じ頃、私には、東北の都会出身の当時20代後半の女性の友人がいました。 彼女が、兵庫県を観光に来たいということで、私は、私の車で、兵庫県南部をドライブしながら案内していました。 ある時、何か自治体の看板でも見たのか、その彼女は、「このへんには、被差別部落があるんですね?」と突然、聞いてきました。 私は、「ああ、そうです。」と、一瞬動揺した後、こう言いました。 すると、その彼女が、すかさず続けて、「東北では、部落というのがあるのか、よく知らないけれど、まあ、東北地方全体が、部落みたいに他の地域から差別を受けているようなもんだけどねーーー。」みたいな感じの言葉を発してました。 
 
 実は、士・農・工・商・エタ・ヒニンという差別的な言い回しは、江戸時代には使われていなかったということです。 士農工商という言い方は、あったようですげ、それも、そういう職業の区分があるという意味で使っていたらしいのです。 差別感を持って、下の身分のものを毛嫌いする、この士農工商エタヒニンという言葉が出来たのは、皮肉にも、解放令が出て、表面上は四民平等の時代になった明治以降のことのようです。
 
 もちろん、江戸時代も、差別が非常に厳しく、身分統制が厳格に行われていたことは間違いないのですが、そのことは、また後で書きたいと思います。
 
 それで、日本の国家というものが、天皇制を中心に形成されていく過程で、国家に歯向かう者たちや戦いに敗れた者達は、奴隷などの身分に落とされたと、この前書きました。 そのあと、いろんな文化が発展していくなかで、宗教的な教えが、人々の生活を律するようになってきました。 仏教の伝来は、公式的には550年前後と言われてますが、それは教典が公式に伝えられた年代であって、人々の間では、もっと前から伝わっていたと言われています。 その仏教や、儒教、そして、もともと日本にあった神道のどれもが、ケガレやキヨメみたいな観念を持ちだしてきたということがあります。
 
 その第一の禁止項目の一つは、肉食の禁止です。 文献の上では、日本書紀の昔から、庶民の肉食を禁じる令が発せられています。 しかも、何百年に渡って、何回も。 つまり、人々は、その美味しさになかなか止められなかったようです。 
 
 ちょっと、回り道ですが、実は、江戸時代でも、彦根藩は、藩の奨励で、牛肉の味噌漬けなどを作り、将軍家や他の大名に献上していて、将軍も喜んで食べていたようです。 上のほうでは、そういう勝手なことをやっていたのですね。
 
 で、古代・中世に戻りますが、権力者は、肉食のなかでも、とくに農業生産に関わる牛と馬の屠殺と肉食を嫌うようになります。 平安時代、鎌倉時代ごろからは、米の生産拡大ということが、国の財政の基準にもなってきたので、そのへんは厳しくなってきたのでしょう。
 
 そして、この米の生産に関与しない者は、基本的に下層階級、賤民階級となっていくのです。 まあ今の職業名で言えば、天皇・貴族、そして、一部の高級公務員や高級僧侶を除けば、他の仕事は、ほとんど卑しい仕事でした。 医師、獣医師、下級警察、刑務官、工業職人、芸能人、占い師、スポーツ選手(相撲取り)、病人(癩病などの)、異民族の者などなど。
 ただ、おおくの人民は、差別されていない単に米を生産するだけの農民だったと思われますが、彼等の生活がとても大変であったことも、また事実でしょう。
 
 ただ、牛、馬の飼育や労務管理は、農民がするにしても、これが、死んだあとの処理が困るようになる。 古代から、死に関することは、そういう思想的なものの影響もあり、さらに忌み嫌われるようになり、特に家畜の死体の処理は、一般の人が、行えなくなってきました。 そこで、そういう身分の低い者や乞食のような者たちに、この処理を任せるようになる、これが、そういう斃(へい)牛馬の処理をする河原者集団の形成となっていくのです。
 
 こういう人たちは、一般の人たちの土地所有が及ばない、河川の河原や坂道の坂、道端、そして、神社や寺の周囲に住み込むようになったのです。 だから、河原者(かわらもの、かわらのもの)とか、坂非人(さかひにん)とか言われてました。
 
 この牛馬の死体を処理する河原者は、屠者(としゃ)とか餌取(えとり)などとも言われていました。 このエトリということばが、のちにエタという言葉になったと、鎌倉時代(1280年ごろ)の本にあります。 だから、河原者が、穢多という醜い漢字を与えられ、さらに苦しめられることになるのですが、それは、エトリが、エタになまってから当てられた漢字ということになります。 ただ、この当て字は、この鎌倉時代の末期、すでに出来ていたようです。 
 
 しかし、穢多という漢字表現で、全国一般に河原者を示すようになったのは、江戸時代中期以降のようです。 それまで、ことに中部地方以西では、かわた(皮田、皮多、革田、革多などの当て字)とよばれることが多かったようです。 皮革と田んぼの両方をやっていたので、そう呼ばれたのでしょう。
 
 つまり、かつて穢土と当て字された江戸の地で、法的(令やお触れ)にも使われるようになった言葉が、1750年ごろから、全国的に使われるようになったようです。