阪田三吉も初代春団治もフーテンの寅さんも無法松も、皆々ーーー。、

 さて、今日から、私が、最後に言いたいことを、何回かに分けて書こうと思っています。
 
 何を書きたいか、このブログを定期的に見てくれている人には、察しがついているでしょうが、そうです、被差別の歴史と言おうか、実態と言おうか、つまりそういうものをゴチャ混ぜにした、下層階級とか賤民階級とか被差別民とか、そういう人達のことを書いていきたいと思っているのです。
 
 もちろん、大したことを書けませんし、いろんなことで、曲がったり止まったりする文章になると思いますが、どうぞ御了承を。 また、私の文章の稚拙さから、皆さんから、私が、ある特定の人物や集団を見下したり、差別しているように思われたりすることを心配しますが、私の意図は、全くその逆であることを、どうか理解していただきたいと願っています。 
 
 それと、こういう分野での研究も、徐々に進んでいますが、他の多くの分野と同様、研究者によって解釈の違いがあり、全くこれが正しいという定説もありません。 でも、私としては、わりと皆さんに分かりやすく読んでもらうためにも、大雑把な言い方をしたり、私なりの解釈をつけたりすることもあると思いますが、おおまかな事実関係だけは、見失わないようにするつもりでいます。
 
 この記事に関しては、数日前から、どういう風に書きだしていこうかと、少し考えていましたが、ニュースなどで面白い新しい情報が次々入るなどするので、頭の中が、ますます入り込んできます。 でも、一番最新のニュースの市川團十郎の訃報に関連して、歌舞伎役者のことについての一言から始めます。 
 
 以前にも書きましたが、歌舞伎や能、そして、全ての日本の芸能に携わる者は、もとは全て賤民階級の出身です。 彼等は、江戸時代の初期以前は、歌舞伎などの興行を行うには、エタ身分(今の被差別部落民)の親分衆にあたる人達に、その興行の許可をもらうために簡単に言えばショバ代を払わなければなりませんでした。 ちょうど、ちょっと前まで、そういう芸能の興行が、ヤクザに牛耳られていたように。
 
 つまり、そういう芸能人は、エタ身分の管轄にあったと言え、同じ身分かそれ以下という存在であったのです。 もちろん、能などは、もっと早い時代に時の権力に可愛がられていたので、江戸時代初期では、そういうことはもうないでしょうが、彼等も、その草創期、観阿弥・世阿弥の時代では、かなり卑しい身分であったことは間違いありません。
 
 しかし、そういう芸能人も、代を重ねる毎に、その技が洗練され、大衆に支持されるようになると、周りもそうだし、自分でも、身分のかさ上げを目論むようになる。 それで、今の市川團十郎の初代か2代目の時に、時の幕府に、そのようなエタ身分の者からの管理を抜け出たいということを申し出、それが実現できる。 つまり、エタの下ではなくなった。 でも、その後も、歌舞伎役者は、江戸末期まで、一般庶民とは交わらないように、幕府から、その行動や服装などに関し制限を加えられていたものでした。 つまり、下層身分でした。
 
 まあ、それが、今では、どうでしょうか。 日本文化の一番の核の部分のような、高い尊敬と評価を受けていますし、特別の高い身分でもあるかのような。 芸能というのは、ある意味では、古今東西、だいたいそういうものであるのでしょう。 元は卑しくとも、成り上がれるというような。 アメリカの映画産業も、やはりちょっと前まで、抑圧されていたユダヤ人の産業であり、チャップリンやスピルバーグが、ユダヤ系であることは有名ですね。
 
 1990年ごろにあった「朝まで生テレビ」で、部落差別をテーマにした時、冒頭、野坂昭如は、「日本の芸能界なんて、7割は、部落か在日だ。」と言って、周りを慌てさせていました。 そこまでの比率かどうかわかりませんが、かなりそういうところの出身の人たちがいることは確かですし、以前、私のような部落出身者には、あの芸能人がどうだとか、この芸人がどこどこの出身であるとかなどの噂は、よく聞こえていました。 
 
 さあ、ヤクザの世界とその比率は、どちらが高いでしょうか、グループで活躍している人達なら、その中に必ずひとりくらいは、そういう人が混じっているかもしれませんね。 キャロルなんかは、在日系のビッグな存在でしたね。 いま、キャロルを例に出しましたが、とくに最近、在日系は、その出自をあかす、表明する、カミングアウトすることが、かなり普通になりました。 部落の場合、それは、残念ながら、まだだいぶ先のようです。
 
 今日のタイトルの人達も、みな下層階級出身です。 実在した人物で、今も関西の芸能に強い影響を与える阪田三吉と初代桂春団治は部落の出身ですし、フーテンの寅さんと無法松は、架空の人物ですが、そういう身分の設定であると断言できます。
 
 特に、フーテンの寅さんは、テキ屋で、全国を行脚するという役ですが、テキ屋とか屋台の出し物をするような仕事は、以前は、これも賤民階級(この場合、ヒニンと呼ばれた人達が主流)の仕事でした。 さっき言った、歌舞伎などの興行の元締めですが、特に関東地方を治めていたエタの大親分は、浅草 弾左衛門(あさくさ だんざえもん)という人でしたが、この人の配下に、ヒニンの集団がいて、そのヒニンの集団のトップは、車 善七(くるまぜんしち)という人でした。 
 
 この車善七が、そういうテキ屋的な商売を管轄していました。 つまり、江戸時代のテキ屋の親分は、車という名だったのです。 それをヒントに、「フーテンの寅さん」の原作者である山田洋次は、寅さんの名前を作り上げたと考えられるのです。 いや、これは、私の想像ではなく、作家の五木寛之が、そう言っているのです。 あの芸能界に詳しい人が言うのですから、確かでしょう。
 
 山田洋次監督という人は、そういう弱者の目線を重視した監督だと思います。 この前、国から文化勲章をもらってましたが、本人、どういう気持でもらったのか、私は、調べてませんが、想像はつきます。
 
 無法松の一生の無法松も、小倉の生まれで、身分違いの未亡人に憧れるという設定の架空の人物ですが、彼が、太鼓使いの名人であることなどからしても、部落出身であるとしても全くおかしくない存在です。 太鼓づくりも部落の主要な産業の一つでしたから。
 
 このように、我々のちょっと前の大衆の英雄たちも、みな部落関係、賤民階級関係なのです。 こういうことを取っ掛かりに、客観的に周りを見ていくと、そういうところの出身者をすべてひっくるめて差別する意識、冗談ポク言えば、無差別の差別は、何とアホらしいことであるかということを、まずは、わかってもらいたいと思います。
 
 今日はまず、とっつきやすいところの芸能界から入りました。 ではまた。