河原者から皮田へ

 今日は、時間が少しできました。
 
 前回の部落関係の本の中で、追加したいものがあります。 それは、猿回し芸の村崎太郎の本です。 また、その奥さん(この言葉もひっかかります。 いまの日本語には代用できるいい言葉がなく、一般的に他人の女性の配偶者をどう呼べばいいのか、難儀してます。 
 
 下世話な例ですが、かつてトルコ風呂という名をやめてほしいという一トルコ人青年の主張があり、当初、難しいと思われていましたが、実際は、一瞬で実現してしまいました。 だから、妻を表現する言葉も、夫の従属物であるかのようなものから、もっと民主的、男女同権の言葉をつくっていかないのか、いつも、不思議に思っています。 特に、女性の側から、こういう意見があまり聞こえてこないようなのですが、私の認識不足でしょうか? もっとも、英語のWifeワイフなども、そんなにりっぱな語源ではないようですがーー。} 
 
 ちょっと、但し書きが長くなってしまいましたが、その村崎太郎の配偶者さんも(たしか、テレビディレクターだったと)一緒に書いている本もあるようなので、ロマンスが好きな女性には、よりとっつきやすい本だと思います。
 
 さて、部落の歴史ですが、鎌倉、室町の初期あたりまでは、前回書いた、いろんな職種の賤民階級がいて、その呼び名も全国各地でまちまちだったり、時代によって変わってくるので、あまり細かく詮索するのも意味のないことだ、と私は思います。
 
 しかし、そのころに厳しく差別されていて、今の人間の感覚からは、理解できにくいものを2・3あげますと、まず、皇居や貴族の館、寺院などの清掃に駆り出された人々は、キヨメと呼ばれてましたが、実は、ケガレを持った河原者たちがそういう仕事についていたのです。 不思議ですね。 今の感覚では本当にわかりにくいです。 あと、庭師とか土木工事のような仕事では、土いじりは、この当時は、やってはいけない時期とか時間があったらしいのですが、河原者なら、そういうタブーを打ち破っても構わないとかという理由で、こういう職種にも進出してきたようです。
 
 あと、藍染などの青い染料の染物屋も差別されていたそうです。 何でも、材料に動物性のものがあるとかないとかで。 それから、竹です。 この竹というのは、いろいろ、差別感覚と因縁があるらしいのですが、どういった深層心理があるのか、私は、よく知りません。 でも、この竹を触る職人たちが、皮を触る職人たちと同様、明治まで厳しい差別を受けていたというのは、厳然とした事実のようです。 そんなことを思うと、かぐや姫の竹取物語なども、卑しい身分から天皇を超越するような高みに揚がるようなストーリーであり、何か意味深なものを感じます。 もっとも、竹取物語の成立時期と差別感覚の実在の時期が重なるかどうか、私は知りませんが。
 
 あと、余談的に面白いのは、皆さんも、江戸時代中後期、杉田玄白などの蘭学者が、人体の解剖を日本で初めて実施したというのをご存知でしょう。 解体新書という本をだしましたね。 でも、この人体解剖を、実際にしたのは、エタ身分の男です。 つまり執刀者は、被差別民だったのです。 日本で初めての解剖医だったのです。 玄白などは、横から口をだしていただけのようです。 私が、中学生の時、この初めての解剖に至る経緯を書いた教科書の読み物には、このような人の存在は、全く言及されてませんでしたし、今も、ほとんどの本で、そんなことを付記しているものはないでしょう。
 
 さて、戦国時代ぐらいになると、いわゆる集団が大きくなり、河原などだけでは生活が立ちいかなく成り、そういう賤民階級のものは、村々に入ってきます、あるいは、権力者によって移住させられます。 このとき、日本の経済全体も徐々に大きくなっており、さまざまな物品がより大量に必要になってくるというのが、まず大きな要因だと思いますが。
 
 例えば、鎧や弓などの武具、草履などの履物、そして、太鼓など皮革や竹を材料にした物品の需要が急激に増します。 なので、河原者たちが、こういう材料としてはケガレているけれど製品になったものは、支配階級が是非ともほしい産物の生産に、駆り出されるようになったのです。
 
 ですから、このような被差別民の集団(村とまで言えない小さなものが多い)が、牛・馬を農耕に使っている農村の片隅に居住するようになったのです。 こういう現象が、全国的に拡散していくと同時に、やがて、織田信長や豊臣秀吉の全国制覇となります。 で、特に、秀吉は、例の刀狩りや太閤検地を始めますね。 この太閤検地は、部落の確定化という意味では、かなり大きな意味を持っていたようです。
 
 秀吉は、そこで、各地の農村をくまなく測量チェックし、年貢の取り立てをスムーズにしてきたということです。 その時に、この河原者の住む地区を皮田(かわた)と呼び、そこの住民にも年貢など税金にあたるものを取り立てるようになったのです。 これで、全国、特に中部地方以西では、この部落の住居地とその税金の採りたて方法が確立していったと言われています。
 
 このあとは、徳川期に入りますが、最初の100年間ぐらいは、あまり大きな身分制のシステムに変化はなかったようです。 皮田の管轄は、実際は、各藩で行っていましたが、それぞれの藩で支配方法や賤民身分の名称は、若干変わっていくようですが、全体としての変化はそれほどでもないと。
 
 ただ、以前にも書きましたが、東日本、特に関東の河原者集団は、エタと呼ばれるのを嫌い、自らは、長吏(ちょうり)と称し、そのトップにエタ頭と呼ばれる大親分が君臨するようになりました。 これが、浅草弾左衛門(または矢野弾左衛門)という人です。 まあ、このダンザエモンのことをヒーローのように書いている本もありますが、私から言わせれば、賤民階級の中に、さらに階級をつけるひどいもんだと思うのですが、でもまあ、現代ある多くの組織のように、このダンザエモンは、末端の部落で問題があったとき、その紛争解決や仲裁に入ったようなので、エタ身分の者には、頼もしい存在であったかもしれません。 彼等は、税金も弾左衛門経由だったようです。
 
 一方、関西を中心とした地域では、弾左衛門のような中央集権的な制度はできす(狭い地域限定のは、あったようですが)、基本的には、大きな皮田は、独立した村になり、中小以下の皮田は、百姓村の付属村のような存在になります。 この仕組は、本郷(本村)に対しての枝郷(えだごう)、枝村(えだむら)などと呼ばれ、枝郷支配と言われています。
 
 ここで、しかし、枝郷となった皮田は、税金(年貢やその他の金銭)を、この本村経由で払わねばならず、しかも、この本村が、それらをより搾取した形、つまり、チョロまかして自分の懐に入れていたという実態が多くあったので、皮田の人々は、苦しめられたということです。
 
 こんな感じで、江戸初期までは、だいたい推移していたようですが、このあと、1700年ごろ以降、江戸が経済的にも上方と並び、文化的にもそれを上回るほどの華やかさを出し、さらに幕府の権力が決定的になっていくに従い、その幕府の皮田に対する態度も変わっていったようです。