(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (15)

⑮ ゲルマン諸民族の動き

 今回は、ゲルマン人の中の各部族の由来やその移動の経緯などを書いてみたいが、少し前の匈奴などのアジアの遊牧騎馬民族と同じで、このあたりの時代になると各民族(部族・集団)に関するウィキの情報量も相当多いので(ただし、部族によっては、やはり日本語版にはあまり情報の無いのもある)、今回はそれらを私なりにまとめて書くことになる。

 ではまず、ゲルマン人の集団・部族の中から、フランク人(Franks)を取り上げたい。(※このフランク人に関しては、日本語ウィキが充実している。) 

 フランク人の中の各部族に関して、ローマ帝国の記録があるのは、一番早いので289年である。 それ以前はっきとしないが、遅くとも5世紀には、各部族は、共通の髪型をしていた。 王族は、髪を伸ばし続け、戦士は後頭部を剃ったという。

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3世紀のフランク人の各部族の位置(緑色文字)、サリー族は最西端に。黒字はフランク人以外のゲルマン各部族。オレンジ色はローマ帝国。(すべてフランス語表記)

 ローマ帝国とは、最初の頃は、争いや融和を繰り返していたが、358年に主な部族であるサリー族(Salians)は、ローマ帝国から南方への移住を認められ、国境管理の役を任された。 それ以降、ローマ軍に組み込まれ、徐々に地位を高める。 377年以降、コンスル(執政官)という高い地位にまで登る者も現れた。 この時期には、”フランクの王”と称する者も何人か現れた。 しかし、フランク人の他の部族によるローマ帝国との諍いの中、サリー族の帝国内での栄達もこの時期(4世紀後半)だけに終わった。

 その後、西ローマ帝国の崩壊があり、フランク人によるフランク国が、フランク人の王によって確立するのだが、その王族の記録は、数代分しかなく、その出自にあまり信憑性はない。(※つまり、それ以前の王朝の近親や末裔というわけではない?) 

 すなわち、もっと先に、別の系統と思われる王やそれに準じた地位についた者たちがいたが、その後、クロディオという者の家系から、メロヴィック、その子キルデリク1世、そして、孫のクロヴィス1世が、フランク王国(メロヴィング朝)を立てた(481年)とある。 このサリー部族によって立てられたフランク王国は、5世紀末までには他のフランク部族を統一し領土を広げ、またキリスト教に改宗した。

 フランク人は、所謂ゲルマン民族の大移動に中でも、その移動はかなり小さくライン川を越えた程度であったが、それ自体、この集団・民族が強固であったことを示すという説もある。 

 メロヴィング朝の後、751年にピピン3世が、カロリング朝を起こし、その息子カール1世(大帝)は、西ヨーロッパ全域を制覇し、800年には、ローマ皇帝の地位を時の教皇から得た。 このフランク王国では、ガロ・ローマ人(Gallo-Romans)やゴート族、ブルグント族など多くの民族を抱えていたが、それぞれ自分達の言語や習俗を維持していたという。

 拡大した王国内の西方のガリア地方(フランク人の前はローマ帝国、その前はケルト人がいた土地)では、ラテン語が変化した俗ラテン語が広く話されており、カール1世は、これを是正すべくラテン語の変革を行うが、それは、ラテン語とこの俗ラテン語の明確な分離を促進したが、ガリア地方の人々(ガロ・ローマ人やフランク人たち)は、この俗ラテン語を使い続け(地域化し)、それはロマンス語群と呼ばれる言語の一つ(フランス語)になっていく。 

 一方、フランク王国の東の方では、ゲルマン語系の言語がより保たれ、後の東フランク王国内では、主にこの系統の言語が存在することになった。(後のドイツ語など) また、この東西のフランク王国では、互いに自分の方が正統であるような主張を繰り返していたという、よくある話も見られたようだ。

 少し時代を遡るが、600-700年頃までのフランク王国では、古フランク語(西ゲルマン語群)が話されていた。 この頃、ゲルマン語に第二次子音推移(p音→ph音やf音に、あるいはt音→tsS音やs 音に変化するなど)が起きた。 この子音推移のあと、西ゲルマン語群は複数の言語に分岐した。 

 主なものとして、子音推移の影響を受けなかったものは、この古フランク語や今のオランダ語など低地ドイツ語(北部)の系統であり、影響を受けたのは、のちに現在の標準ドイツ語になる高地ドイツ語(南部)などの系統である。 当然、現在のオランダ語には多くの語彙が、この古フランク語由来のものがあるが、フランス語においても、かなりの単語が借用されているようだ。(東西南北を意味する言葉など)

 ここで、もう一度、極く簡単に現代のフランス地域(ガリア地方)の言語の形成経緯を書いてみる。 (※私にとって、フランス語は、発音上、他のロマンス語よりかなり変化が大いと思っているので、その整理も兼ね。)

 まず、紀元前にはケルト人のケルト語があった。 ここに、紀元前後、ローマ帝国の兵士などが派遣されラテン語が入ってくる。 その後(3世紀後半?)、このフランク人が来て、その西ゲルマン語群の言葉が中心になる。 しかし、キリスト教の信仰とともにラテン語の影響はより強くなるが(700年以降?)、同時に地域化方言化し、俗ラテン語という口語の言葉が、この地の主要な言語に置き換わっていく。 

 その後、この俗ラテン語は、この地ではガロ・ロマンス語と呼ばれ、その中の一つが、古フランス語であった。 この古フランス語が、14世紀にはオイル語と呼ばれ(フランス南部地方のイベリア・ロマンス語系のオック語との対比)、そこから、このオイル語のパリ周辺の方言が、中世フランス語になっていく(17世紀初頭まで)。 そして、統一化規則化を経て現代フランス語となった、という感じである。 

※他のロマンス語(イタリア語やスペイン語など)に比べ、フランス語には日本人には難しい母音が多くあると感じているが、それは、このようなケルト語やゲルマン語(フランク語やその後のノルマン人による北欧語なども)から多くの単語の流入があったからではないか、と推察する。  

 次に、ブルグント人(Burgundians)について簡潔に書く。 ブルグント人も、原初はスカンジナビアにいたと思われるが、歴史上にあらわれるのは、今のホーランドあたりにいた時である。  それから3世紀末には、ライン川の右岸(つまり東側)にいたようである。(であれば、フランク人と隣接している?) 278年には、ヴァンダル族とともに、ローマ帝国に打ち負かされたとある。 彼らは、ライン川の東方に移動してきたアレマニ人(Alemanni、別名スエビ人Suevi)と共に、ローマと戦ったともある。

 一方、369年、ローマ皇帝は、アレマニ人との戦いにため、ブルグント人に助けを求めたとある。(※このあたりは、フランク人同様、帝国との付いたり離れたりの関係があった模様。) 次に、ブルグントの名前が出てくるのは、この約40年後。 406年にローマが、西ゴート人(Visigoths)との戦いに退却してからである。 多くの他のゲルマン部族が、先にこのブルグント人がいた土地に大挙押し寄せてきた。 主なものは、アラン人(Alans、※アラン人は、正確にはゲルマンでない)やヴァンダル人(Vandals)そしてスエビ人(SuebiまたはSuevi)である。

 それで、ブルグント人は、更に西方に移り、帝国内で定住したものもあれば、一部は東に戻り、フン族の軍に合流した者もあるようだ。 411年、ブルグントの王(Gundahar)は、ライン川左岸(ローマ帝国内)でアラン人の王と共に国を立てた。 休戦の後、帝国は、王にその土地所有を認めた(現在のWormsヴォルムス辺り)。 にもかかわらず、この王は、帝国に抵抗したりして、437年帝国が呼び寄せたフン族に打ちのめされ戦闘で死ぬ。

 このフン族との戦いで死んだGundahar王、そして、ヴォルムスの王国の滅亡は、後に叙事詩”ニーベルンゲンの歌”(Nibelungenlied)の題材になった。(※このニーベルンゲンの歌は、ドイツ語圏の人間なら誰もが知る一大英雄叙事詩である。 価値としては、日本で言うなら、日本書紀かあるいは源氏物語に相当するのか? 私も学生の時、ドイツ文学の授業で少し勉強したが、題名以外はほぼ忘れていた。 このブルグント人との関係とは驚いた。 この英雄叙事詩についても、もう一度またじっくり見てみたい。)

 その後、経過は不明だが、443年、Gundaharの息子と思われる者が王になり、今のリヨン近辺のフランス南東部に建国を許される。 西ローマ帝国崩壊(476年)後、この周辺を抑えたフランク人と当初仲良くやっていたブルグント王国であったが、534年、そのフランクの王・クロヴィスによって滅ぼされる。

 ブルグント語は、東ゲルマン語群であったと思われるが、あまり資料はない。 6世紀末までに消失した。 彼らの宗教は、先には、ゲルマンの多神教であったが、のちにアリウス派キリスト教に改宗したとある。 ガロ・ローマ人の詩人が、彼らの身体的特徴として、長髪で素晴らしい体格である、と書いている。 なお、このブルグントという名は、今もフランスのブルゴーニュ地方という名(当然フランス語式スペルなので、多少変わってくる)で残っている。

 

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460年頃(西ローマ帝国崩壊直前)の西ヨーロッパの勢力図。 赤は西ローマ帝国(イタリアとフランスあたりのみ)、黄色がフランク王国、濃青がブルグント王国、水色がアルマン王国など。

 次は、スエビ人(Suebi またはSuevi)を極く簡潔に。 これももとは、バルト海に面した地域にいたが、移動し最終的にはイベリア半島まで行き着く。 単一のグループではなさそうだが、ゲルマン語を話す集団であるのは確かなようだ。(日本語ウィキでは、ケルトであったかなどの懐疑的な表現がある。)

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スエビ人の移動経路

 彼らは、同じようにイベリア半島に移動してきた西ゴート人に征服される。

  このスエビで思うのは、他とは少し語感の違うこの名であるが、この名は、ゲルマン祖語(あるいはもっと前の印欧語か)に共通の意味があるらしく”one's own-'などのような意味あいらしい。 つまり、”自分たちの(土地や民)”などと表現したのか。 ちなみに、スウェーデンの”swe”(スウェーデン語ではsve)も同じ語源らしい。 また、ドイツ南部には、スワビア地方(Swabia)というのがあるが、これもスエビ人から由来している。

 次は、アレマン人(Alemanni)。 彼らは、既述のように元はスエビと同族だが、そのまま今のドイツ南部に留まった部族である。 このアレマンやスエビなどは、ゲルマン民族大移動に関する日本の教科書などでは、あまり馴染みのない民族だが(私だけか?)、このアレマンの民族名は、後にフランス人がドイツ人をこの名前で呼ぶということを考えても、欧州では重要な存在なのかもしれない。

 彼らは、200年頃には、ライン川上流にいたが、次第に南下していった。 しかし、その距離は、他のゲルマン人に比べ大きくはない。 彼らも、496年、フランク王国のクロヴィスによって征服され、以後その傘下の国となる。

 

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アレマン人の移動、3-6世紀

 

 ロンバルト人(Lombards) 。 この民族も、のちにイタリアに定着することになり、ロンバルディア平野などの地名を残した。  ロンバルト人も、北欧・北ドイツあたりにいたが、5世紀末までにドナウ川北岸にまで移動、そこでGepidsなどの別のゲルマン部族と戦闘しそれに勝利(550年頃)、さらに南下し、西ローマ帝国崩壊後のイタリアを支配した。 この時、北イタリアは、東ローマ帝国と東ゴート族との戦争後で疲弊しており、ロンバルト人のこの地への入場はスムースなものだったようだ。 彼らは、ここに王国を建てる。(570年頃)

 しかし、774年にフランク王国のシャルルマーニュによって征服され、その傘下にくだる。 しかし、南イタリアでは、11世紀頃までロンバルトの貴族たちが支配していたようだ。 

 他のゲルマン部族の言語との識別は難しいものがあるが、エルベ川流域のゲルマン語であるロンバルト語の語彙は、イタリア語の中にかなり入り込んでいるらしい。 また、ロンバルト人の骨格は、同時期のスカンジナビア人のものとそっくりであるようだ。

   今回のゲルマン部族の最後は、ヴァンダル人(Vandals)。 英語のvandalism という単語は、破壊行為や乱暴を意味し、結構新聞などでも目にするが、この言葉は、このヴァンダル人由来である。 このことから、ゲルマン民族に対する時の支配者(ローマ人)の印象は、このような否定的な意味合いを持っていたものが多い。 まあ、当然と言えるかもしれないが。

 彼らは、当初わかっている時点では、今のポーランド南部にいたが、ガリア地方を経由して、イベリア半島にまで移動した。  

 ヴァンダル人が、ローマ帝国に知られるようになったのは2世紀で、ヴァンダルのいくつかの部族が、ローマとのマクロマニの戦い(168-180年)でローマに多大な損害を与え、イタリアに侵入した時である。 彼らは、その戦争中、さらに南下し(南東)、ドナウ川近くのダキア(当時はローマの同盟国)の地域まで侵攻した。

 270年頃には、ヴァンダル人は、ドナウ川の東岸でローマと共存していたが、278年の戦いでは、ローマに破れ、多くがイギリスに連れていかれたとある。 その後、ゲルマン人同士の争いがいろいろあったが、ヴァンダル人は、4世紀の末頃まで、ドナウ川右岸にいた。 401年に、彼らはローマ領内で反乱を起こしたが、それはドナウ川中流域で彼らが勢力を持っていた証拠である。 406年に、ヴァンダル人はさらに西に向かい、ライン川までは抵抗なく進んだが、そこでフランク人に進行を阻まれる。 2万人もの死者を出したが、ヴァンダル人は、アラン人の協力もあって、フランク人に勝利しガリア地方に侵入する。

 409年、ヴァンダル人は、ピレネーを越えイベリア半島に入る。 そこで、西ローマ帝国から土地を得る。 しかし、イベリア半島には、先にスエビ人がいた。 そして、同じく先住の西ゴート族は、417年ヴァンダル人そして418年にアラン人を襲った。 この時、アラン人の王が殺され、以降、ヴァンダルの王が、アランの王を兼ねた。

 その後、ヴァンダルは、ローマとスエビや西ゴートの連合軍隊と戦いを続けながら、425年までには、北アフリカのカルタゴあたりまで勢力を伸ばし、西地中海もその活動に利用した。 429年には、完全にイベリア半島から離れた。 

 この時の王は、ゲンセリック(Genseric)という王であるが、実は、彼はローマの奴隷の女から生まれたとして、本来は王位継承の権利はなかったが、多くの歴史家は、このゲンセリック王(ヴァンダルとアランの王)が、ゲルマン民族の大移動(それによる西ローマ帝国の崩壊)の時期における 最も優秀な王であった、としている。

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ヴァンダル人の移動

 429年、ゲンセリックに率いられたヴァンダル・アラン集団は、アフリカに入った。 この時の人数は、総勢8万人ぐらいで、うち兵士の数は1万5千から2万人と言われる。 彼らは、東進の途中でアフリカの軍隊や西ローマ帝国から派遣された軍隊などと戦ったのち、439年にはカルタゴを支配し、そこをヴァンダル王国の首都とした。 その後もシチリア島やサルジニア島も占領した。 

 ゲンセリックは、477年に88歳で死去。 その後、国力は衰え、534年にビザンチン帝国(東ローマ帝国)によって、ヴァンダル王国は滅亡。 残ったヴァンダル人の多くは、今のアルジェリアにいたベルベル人の中に混入したり、東西ゴート王国に入る者がいた。 ヴァンダルの女たちの中には、ビザンチン帝国の兵士と結ばれ、北アフリカに定住した者もいた。

 6世紀のビザンチン帝国の歴史家は、ヴァンダル人は、lightな髪の毛で背が高かったと評した。 また、彼らは、白い体でfairな髪を持ち、背が高くハンサムだったともある。

  以上、この他にも、ゲルマン民族には、私たちがよく聞くここに書いた部族以外にも沢山の部族・集団があることを今回知ったのだが、ここには書いていない。(大きな集団ではなかったと思うが。) 

 ただし、次回は、もう一つ残っていた重要な部族で、いわゆる”ゲルマン民族の大移動”とその後のローマ帝国の混乱を引き起こした中心的部族・ゴート族について見てみたい。 そして、そのゴートの移動の原因となったアジア系のフン族の動きについても知りたい。