(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (13)

※今回は、いよいよケルト。 現在のアイルランドについての記述なども入れたので、この際、書体も少し変えます。 本当の疑問文の場合には?マークをいれたり、ハハなどを冗談や自嘲の際などに使います。

 

⑬ ケルトの世界

※ケルト人(Celts)の文章に入る前に一言。 前回紹介したように、ニューグレンジなどの巨石文化は、このケルト人がアイルランド島などのイギリス諸島に移動してくる時期より、2000年以上も前に出来たものである。 ケルトとは直接の関係は無い。  ただ、現在のアイルランド人を含む多くの世界中の人たちが、巨石文化はケルト人が作りあげたもの、あるいは、何かケルトと関係のあるもののように勘違いしている場合が多い。  

 それと、このCeltという英語の言葉は、だいたい今ではケルトと発音される場合が多いが、一部スポーツチームなどで、セルティック(Celtic)と発音される時もある。 アイルランドでは、この形容詞形の場合でも、ケルティック・タイガー(Celtic Tiger、2000年代のアイルランドの好景気の代名詞)などケルティックと発音されるのが、通常である。

 それでは、ケルトについて、少しその出現の経緯を書いてみたい。 前々回に紹介したように骨壷場文化(Urnfield culture)が、前1200-750年頃の後期鉄器時代に中欧の西方で隆盛していく。 この間、域内の人口は、その農業技術の革新などで急激に増加していった。 そして、鉄器の利用に伴う形で、骨壷場文化は、ケルトのハルシュタット文化(Hallstatt)に変遷していく(前700-500年)のだが、この間にすでにすべてのケルト系言語の祖語であるケルト祖語が形成されていたと見られる。 このケルト祖語は、イベリア半島やイギリス諸島に、前1000-500年の間に広まったとも言われる。

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ケルトの分布図。 濃い黄色は、ハルシュタット文化の中心域(前800年頃) 灰色に見える地域は、ハルシュタット文化の影響が及んだ地域(前500年)。 緑色は、ラテーヌ文化の中心域(450年)で、水色に見える区域は、その影響の及んだ地域を示す(250年)。 文化が重なりあっている地域があり、色が異なるので注意。 また、各部族の名前が書かれている。 

 ラテーヌ文化(La Tene)文化は、後期鉄器時代(前450年ー前1世紀)に中欧の広い範囲(フランスからハンガリー)で花開く。 ただし、これは、ハルシュタット文化から画期的な文化的変化があったわけではないようだが、ギリシャやエトルリアの地中海文明の影響があったと考えられる。 彼らの定住化の促進は、前4世紀頃に起こった。

 ローマ帝国は、今日のフランスに住むケルト人をガリア人(またはゴール人Gauls)と呼んでいた。 ガリア人の占領するところは、北の中欧低地からアルプスそして北イタリアを含んでいた。 のちに、ユリウス・カエサルが、その”ガリア戦記”の中で書いた戦いは、後1世紀頃のケルト人(ガリア人)たちとのものであった。 東部のガリア人は、ラテーヌ文化の西方の中心地域となった。 社会機構は、ローマ帝国のそれに類似したものとなり、紀元前3世紀には硬貨も作られた。

 イベリア半島では、ピレネーからのガリア人の流入に加え、3つの大きなケルト集団の地域があったようだ。 メセタ盆地の東部にいたCeltiberians、南西部のCeltic、そして、北西部のGallaecia とAsturiasなどの集団である。 このうちCeltiberiansは、前6世紀頃から流入が見られ、当初は丘陵上での定住であったが、前3世紀末期頃から、より集団化した生活様式に変化し、前2世紀頃には、この集団が使う文字での硬貨も製造された。 それにより、このCeltiberian 語が、ヒスパニック・ケルト語であると証明された。 彼らは、ローマ帝国の侵入の前までには、スペインの各地に拡散したようである。

 この他にも、中欧にいたケルトは、ローマ帝国内のイタリアやギリシャ、あるいはバルカン半島や小アジア(トルコ)などに急襲の形で侵入したりしたが、後のゲルマン民族のローマ帝国への流入ほどの影響はなかったようだ。 また一部は、その地に留まった。

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前3世紀のケルト民族の分布

  さて、ケルトのイギリス諸島への流入は、いつ起こったのか(英語では、イギリス諸島のケルト人をInsular Celtsと呼ぶ)。 これは、前6世紀頃とされてきたが、近年の調査などではかなり異なる意見もあり、はっきりしない。 一部には、約2000年前に到達した鐘状ビーカー文化集団が、すでにケルトの祖語のような言語を持っていた、とする説さえある。 

※ケルトのイギリス諸島への移動の時期が明確でないので、当然、その経路もはっきりしないものと思う。 しかし、2000年近く前のビーカー文化集団は、主にイベリア半島からイギリスやアイルランドに到着したと見てきた。 なので、このケルト民族の場合も、おそらく同じ経路を中心に移動してきた可能性が高い、と想像する。

 また、ケルトの言語は、アイルランド島などのゴイデル語(Coidelic)とブリテン島などのブリトン語(Brythonic)に早くに分岐するが、その経緯も、イギリス諸島内で分岐したのか、大陸からいくつも違った部族の侵入によってもたらされたものなのか、わかっていない。 

 その後、大陸のケルトは、ローマ化されてゆき、その圏内ケルト人は、俗ラテン語(Vulgar Latin)を多用するようになっていった。 この俗ラテン語が、ローマ帝国の崩壊後、各地でさらに発展・分化し、それぞれの地で各ロマンス語系言語(イタリア語やフランス語など)になっていく。 イギリス諸島の内、ローマ帝国が支配したのは、今のイングランドだけと言ってよい。 ここでは、その後のゲルマン諸族(特にアングロ・サクソン族の大量流入により、ゲルマン語が主流となり、後の英語に発展していったのは、よく知られているところである。

 

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前58年、カエサルの時代のローマ帝国(黄色)と周辺の民族。 ケルト民族は緑色で、ゲルマン民族は紫色。 イベリア半島はすでにローマ領に。

 

 文化面では、ケルトには、各部族の王がいたようであるが、数人による統制も行われていたようだ。 ケルトの社会では、3つの階級が存在した。 戦士・貴族階級、特殊教養集団(宗教者的存在のドルイドDruid、詩人、司法官など)、そして、その他(平民)である。

 アイルランドやスコットランドでは、王位の継承は、Tanistry制によって行われた。(※この言葉は、現在のアイルランド語のTanaiste(最初のaの上に/記号あり)に由来する。発音は、トーニシチャに近い。ただし、現在のアイルランド語では、この単語の第一の意味は、副首相である。また、アイルランドの首相は、Taoiseach ティーショックと呼ばれる。) 

 これは、王位継承に関わる制度で、当時のアイルランドやスコットランドでは、継嗣は、同じ祖父(曽祖父の場合も)を持つ男子の王族から選ばれる制度である。 この制度は、封建時代のヨーロッパの嫡男が継承する制度(Primogeniture)とは全く異なる。

 住居は、既述したが、早期では丘上の砦の形態が多く、後期では、村落や町の形成もみられた。

 奴隷売買は、ケルトでも、古代ローマやギリシャと同様、さかんに行われた。 奴隷制は、基本的には継代化されていったようであるが、解放も可能であったようだ。 アイルランドやウェールズの奴隷を意味するケルト語は、ラテン語のそれから由来しており、それは、ケルト民族とローマ帝国の間で奴隷の取引があったことを示す。

※日本語のウィキには、遺伝分析の結果があまり書かれていない、と以前に書いたが、この奴隷関係の記述についても、日本語ウィキでは何の言及もない(全体的に文章量も少ない)。 あるいは、日本語ウィキは、英文のものからの単なる訳ではなく、独自の見解に基づいて書かれているのかもしれないが? 逆に、この英語のウィキを書いている担当者には興味ある課題なのかもしれない。 また、私自身も英文ウィキを全訳しているわけではなく、自分が特に興味を持つ箇所を抜粋しているのだが。

 また、イギリス諸島のケルト地域では、錫、鉛、鉄、金、銀などが産出し、ケルトの鍛冶工は、それによって武器や宝飾をつくり、ローマなどとの交易を行った。

 ケルト人は、ほとんど筆記を残さなかった。 前期中世では、Ogham(オーム)という特殊な記号文字が使われたが、これは、もっぱら墓石などに限られていた。 アイルランドでは、口承伝達が主な手段で、バード(Bards)と言われる吟遊詩人たちがそれを行った。 

※つまり、ここに書かれているようなケルト人に関する情報は、のちの世まで、この口承伝達によって語り継がれたものをその後のキリスト教時代の人間が記録したものと、ローマ帝国やギリシャの政治家や歴史家の記述によって得られているのであろう。

 ケルトの宗教については、ここではあまり多く記さないが、多神教でありドルイドと呼ばれる宗教者が、儀礼や生贄などを執り行った。 

 Head hunting:優秀な人材の引き抜きではない、ハハ! ケルト人の間では、戦闘などで勝利した戦利品として、相手の生首をとり飾る儀式があった。 ケルトにとって、頭には霊あるいは魂が宿り、それは感情や命の根幹でもあり、神聖で死後の世界の力の象徴のようなものであった。 つまり、生首を飾ることによって、その相手の力を自分のものにするなどといった意味あいがあったのであろう。

 なお、遺伝的分析では、ずっと以前のビーカー文化集団と同じく、ステップ集団(黒海北岸ん)の遺伝的関与が強くうかがわれるとしている。 また、下の地図にあるように、父系の遺伝を示すY染色体の分析では、RーM269という下部グループ(ハプログループ)の分布が、現在のケルト語残存地域やイベリア半島などで高い分布を示している。 スペインでは、特に、Celtiberiansの流入は、この北部ヨーロピアンの血脈をこの地に残すことになった。 

※なお、カエサルの書いたものには、”ケルト人は、背が高く筋肉質、色白で髪は金髪である。 さらに、彼らは、その髪を石灰水などでよく洗い、より淡い色にしている。”などとある。

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ケルトに非常に特徴的なY染色体(父系)のR-M269ハプログループの分布状況。

 ※以上、ほぼ英文のウィキにより見てきたが、一つ気になるのは、その前の文化の骨壷場文化集団やさらにその先の文化集団の場合も、その埋葬形態などから、それぞれ文化を規定していたのだが、ケルトに関しては、そのあたりの記述がなく、どうなったのか、いまひとつよくわからない。 その部分では、骨壷場文化との差異があまり顕著でなかったのか、あるいは、様々な形に分散したためなのだろうか?

 それと、最初にも書いたが、ケルトと巨石文化は、直接関係がないし、また、ケルト文化からキリスト教文化に代わったアイルランドでは、当然、ケルトの主要な文化は衰退していった。 ただし、ケルトの唐草模様のようなデザインや意匠は、ケルト十字と言われるアイルランドの特殊な墓石に書き込まれたり、様々な後の装飾品などにも取り入れられた。 他に、今日でもケルト文化の影響のあるものとしては、ハロウィーンや聖ブリジット(元はケルトの女神)の伝説などは、今でも多くのアイルランド人が知るところである。

 私が若い頃、BBC制作の”the Celts"という番組がNHKで放送され、非常に興味を持ってみたものだが、その内容は、もうほとんど覚えていない。 ただ、この番組のメインテーマとして使われたエンヤEnyaの音楽は、ケルト民族の音楽はこんなもんだ、と決定づけてしまうようなインパクトがあった。 まあこれも、もちろんケルトとは直接なんの関係もないのだが、あの頃の私も、ケルト関係の本を読みながら、このエンヤの音楽が頭に響いていたものである。

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900年頃にできた聖杯Chalice 上方の帯の中にある黄金色のデザインなどが、ケルト的であると言われる。

 唯一、主要な文化の遺産としては、言語がある。 もちろん、現在のアイルランド語も、ケルト人のいた時代のものとは、かなりの変化があるだろう。  しかし、ともかくアイルランド島では、およそ1600年あたりまで、東部のほんの一部のエリアを除きほとんど全国でアイルランド語(Irish またはGaelic、ゲール語自体ではGaeilge)が話されていた。 その後、英語が、東部より拡散浸透し、1850年頃には全国ほぼ英語化されてしまった、(イングランドの政治的侵略自体は、そのずっと前の12世紀頃から始まっている。)

 いまでは、西部地方にいくつか分散してゲール語を話す地域(ゲールタハトGaeltacht)が、残るのみである。 ただし、この地域の人々も全員(全人口からみれば1.7%, 2011年)、英語のできるバイリンガルである。 

 政府の手厚い保護政策のもとで、専門のテレビチャンネルを設けるなど話者人口の増加あるいは維持を図っているが、なかなか難しいようでもある。 道路標識は、常に英語・アイルランド語の両表記であったり、政府から各家庭に届く連絡通知などは、全てバイリンガルで書かれているなども行われているが。 

 また憲法上も、アイルランド語が国の第一言語になっているのだが、実際は、国会などでも皆英語を使うし(時々、アイルランド語で質問する議員もいる、その時は、首相もアイルランド語で返答している)、この国の人々の生活や経済・文化もすべて英語によって動いている。

※文化的にその言語が認知あるいは愛用されるには、最低、その言語で映画や歌がヒットしなければいけない、と私は常々思っている。 アイルランド語には、私の知る範囲、それはない。

 そして、私が、アイルランド語について強く疑問に思うのは、この言語が、小学校から高校生までのすべての生徒に必修となっており、大学受験の必須科目になっていることである。 かつての文化の再興を願う気持ちは、よくわかる。 しかし、たとえば英語ができるだけでアイルランドに移住して来ても、その親たちは、自分の子供たちの学校のアイルランド語の宿題などに苦労することになる。(ごく特例で、履修しなくてもいい場合もある。) 

 ご存知のとおり、アイルランドは、大いなる移民の国であった。 もちろん、移民を出す方の国としてである。 かつては、英語圏以外に、中南米などにも出かけた。 いまでも、アメリカ・オーストラリアなどに職探しに行く人は多い。 しかし、極く最近は、出ていく数より、東欧からなどから、より多くの移民が、この国に入ってくる。 

 だが、アイルランドで警察などの公務員になるには、アイルランド語が出来なければいけない。 どの程度の語学力がいるのか知らないが、これは、アイルランド語が出来ないだけの理由で、そのような移民などの人々を排斥しているように、私には思える。 自国の歴史を鑑み、もう少し移民に寛容になっても良いのでは、と思ってしまうのだがーーー。 長くなるので、現在の課題については、これぐらいにしておく。

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アイルランド語の使用率(2011)学校以外で日常的に使う人の割合。 北アイルランドは除外。

 さて、次回は、ゲルマン民族を取り扱いたい。 以前、私は、ケルトとゲルマンは、違うのか同じなのかよくわからないでいたし、ギリシャやローマ人が混同して使っていたのではないかなど、いろいろ想像したり誤った認識を持っていたりした。

 英語のウィキをちらっと先に見たが、さすがにアングロ・サクソンの末裔である英語話者が書いているだけあって、その記述は膨大である。 まあ、それらを参考に、ゲルマン民族の概要を知りたいものである。