(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (17)

⑰ フン族とは?

 第8回で、中国北方の民族を取り上げた時、このフン族(Huns)と匈奴(Xiongnu)との関係を少し書いた。 つまり、4世紀後半にヨーロッパで暴れるこのアジア系の民族は、匈奴から分岐した北匈奴が、さらに西に流れて西洋でフン族と呼ばれる集団に変化したものであると。 

 西暦150年頃には、北匈奴が西域にいたことは知られているが、370年頃までに黒海北岸近くにまで来ていたかどうか、これが大きな謎となっている。 

 多の研究者は、フン族が中央アジアに由来するということでは異存はないが、具体的な位置についてはまとまっていない。

 

 私は、フン族の場合、ヨーロッパを荒らす以前の彼らの起源や人種民族的な特徴に最も興味があるのだが、まずその前にフン族のヨーロッパでの歴史を見ておきたい。 ただ、その歴史はそんなに詳細にあるわけでもなく、すでにこれまでの回で書いてきたことで、ほぼ出尽くしている。 

 つまり、376年に東ゴート族などに侵攻して、その一部を自軍に取り入れたりした後、西ゴートを攻めたてたので、その西ゴートの多くは、ローマ帝国内に逃げてくるなどの事件があった。 ただし、ゴート族の前にゴートより東にいたイラン系のアラン族を襲われていて、彼らもフン族の軍に引き込まれ、ゴートを攻めたようだ。 アラン族襲撃の前から換算すると、おそらく350年頃までにはカスピ海北岸から黒海の間に迫っていたのかもしれない? 

 395年頃からまた活発に東ローマ帝国に侵入し、多くの都市を破壊していった。 襲った地域は、小アジアやシリアなどもあり、ササン朝ペルシャとも戦った。 そして、410年頃まで周辺の地域への襲撃行為が繰り替えられるが、その後少し情報は途絶え、430年頃からあの有名なアッティラ王(Attila)が台頭して、ヨーロッパの民族にとって、フン族の存在はより大きな脅威となる。

 434年、アッティラとブレーダ(Bleda)の兄弟が、フン族を統治するようになる。 翌年、東ローマ帝国と交易の権利と貢物を確約させる取り決めに成功する。 しかし、ローマがこの条約を破ったため戦闘となり、フン族の攻勢が続く中443年まで続く。 ローマはフンの要求をのみ、休戦の条約をフンの二人の王に交わす。 しかし、ブレーダは445年に死に、以後、アッティラの独裁となる。

 アッチッラは、西ローマ帝国とも争っていたが、皇帝ヴァレンティニアン3世の姉のホノリア(Honoria)が、アッティラに指輪を贈り、助けを求めてきた。 そこで、アッティラは、彼女が自分の妻であり、西ローマ帝国の半分も自分のものであると主張し始めた。 同時に、サリー族のフランクとも戦闘に入った。 そうして、この後、前回も書いたガリア地方での有名なカタラウヌムの戦いとなる(451年)。 

 翌年、アッティラは、再度ホノリアとの結婚と半分の領土を主張しイタリアに侵入するが、ヴァレンティニアン皇帝の特使や時の教皇などとの折衝で、アッティラは譲歩し、イタリアから撤退と新しい条約を交わすことになった。 それを見た東ローマ皇帝が、フン族への貢物を拒んだため、アッティラは、今度は東ローマへ侵攻しようとした。 ただ、その前に、彼は絶世の美女と言われるある女性と結婚した。 がしかし、その初夜の明けた朝、アッティラはベッドで血まみれになって死んでおり、花嫁は片隅で泣いていた、と歴史にはあるようだ。(※彼にとっては、何度目かの結婚であったようだ。)

 

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アッティラ時代のフン族晩期(450年頃)の勢力図。 この時の本拠は、パンノニア(今のセルビアあたりを中心)にあった。

 アッティラの死後、息子たちがフン族を率いたが、西でのゲピッドGepidsなどのゲルマン族との戦いや東方でのチュルク系の民族と戦い、徐々に衰退していく。 そして、469年、トラキアでのローマやゴートなどとの戦いでフン族は王を失い、それ以降、ブルガール人(テュルク系)などの集団に徐々に埋没していった。 

 文化面について少し。 このフン族は、遊牧騎馬民族であり、以前は、農耕は全く行っていないという説が主流であったが、実は、穀物などの栽培は行っていたようだ。 彼らの使用した言語は、よくわかっていないが、テュルク系であったという説が強い。

 そして、彼らは、ヨーロッパの中で伝説として長く伝えられていくことになる。 キリスト教の説話の中や、既述のゲルマン・ブルグント族を主題にしたドイツ文学史上の一大叙事詩”ニーベルンゲンの歌”の中にもアッティラと見られる登場人物がいる。 また、あるゲルマンの王は、自分はフン族の末裔である、と肯定的な態度をとる者も現れたと言う。 それだけ、フン族の印象は、ローマ人やゲルマン人には大きかったのかもしれない。

 

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アッティラの肖像として有名だが、千年以上後世のものであり、この形相は、当時のヨーロッパ人がイメージする悪魔的で恐ろしい人間の顔の代表ということなのであろう。 しかし、アッティラは、純然たる東アジア系の容貌の持ち主であったとされる。

 

  さて、ここから、いよいよフン族の起源や人種的特徴について少し書いて行きたい。 まず、当時のローマ人やゲルマン人が、フン族の外見についてどう見ていたかをウィキを中心に見てみる。 

 ウィキでは、まず、ローマ人から見れば、フン族の外見は奇妙だという点で一致している。 よく使われる表現は、怪物(モンスター)である。 ある歴史家は、フンは、短躯で日焼けしていて、頭は丸く形が無い(※形が悪い)。 また、小さな目と扁平な鼻をしている、と。 そして、王アッティラについては、背が低く胸が大きく、頭も大きい。 さらに、目が小さく、ヒゲは薄く白髪が混じっている。 また、彼は、鼻も低く焼けた肌をしているなど、アッティラの出自を強く証明しているような記述になっている。

※以上は、ウィキ英文版にあった当時のローマ人などの”証言”であるが、別の私が最近読んだ本に、あるローマ人歴史家がゴート族から聞いた内容(ウィキのものと重なっている可能性も大であるが)があり、それを以下に記すと、

 ーーー彼らは、小柄でガッチリとした体格で、頑丈な手足をもち首は太い、怪物のように醜くて不格好なので、二本足の獣と思いこむかもしれない。ーーー

 この本の箇所では、他にもフン族の生活や戦闘方法なども書いてあり、生活様式では、その遊牧の形態を非常に否定的に見ているが、ただ馬の操作が巧みなので戦闘的な面での優秀さは認めているような表現であった。

 さて、ウィキに戻ると、現在の研究者の間では、上記のような表現は、典型的な東アジア人に対する当時の”西洋人”の偏見に基づく否定的表現であるとしている。 また、フン族は、アジア系ではあるが、今のヤクート族やツングース族のような容貌ではないとする。(※これまた、別の意味の偏見?) さらに、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であるとしたり、フン族は、ほとんどヨーロッパ系であり、アジア系の痕跡はほとんどない、とする意見まである。

 また、フン族のリーダーなどの上層部は、アジア系の外見が多かったが、全体的にはヨーロッパに移動してくる過程でよりヨーロッパ人化した、とする研究者があったり、451年の戦いがあった頃では、アッティラに率いられた多くの兵隊たちの外見は、ヨーロッパ起源を思わせるものであった、などとしている(アッティラ自身を除いて)。

  次に、DNA分析結果では、フン族は、アジアとヨーロッパの混血であり、彼らは、匈奴の子孫で西に移動していく中でスキタイと近い関係のサカ族(Sakaイラン系)との混血によって形成された、とする研究者もいる。 また、5世紀のパンノニア(バルカン半島の中央部)のフン族の墓から採取された3体の分析では、彼らの父系の遺伝子は、現在ヨーロッパ人にはほとんどないが、現在のルーマニアに住むハンガリー系の集団SzekelysのDNAに高頻度で見られるものであるとしている。 この研究者も、彼らは、茶色い目で黒か茶の髪の毛をもつ、アジアとヨーロッパの混血であるとしている。

  これらの科学的結果は、ただし、アジア的な要素があるにしても、それが、匈奴との関係にどこまで関わるのか、そこは全く示されていない。

 

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ガリア地方を襲うフン族。 これも後世の絵画であるが、ここに見られる略奪者の容貌は、現在の東アジア人とほぼ同じように見える。

※第8回で匈奴(Xiongnu)のことを書いた時は、その匈奴のウィキ英語版にあるDNA分析結果の文章は、フン族と匈奴の関係性をかなり肯定的に書いていたが、このフン族のページのウィキでは、それほどその繋がりに肯定的ではない。 いろいろなリンクを使うことで、同じ一つの対象物でも、多くの違った表現をみることができるのが、ウィキペディアの良いところだが、こういう風に多少ニュアンスの異なる結果に出くわすことも結構ある。(筆者がそれぞれ違うというのが、大きな理由?)

※さて、このフン族の帰属や外見に関することで、私自身の今思うところを書いてみたい。 フン族が、匈奴からの集団であるかないかは、さておき、非常にアジア的な外見を有していたのは、間違いなざそうだ。 それで、370年頃までに黒海北岸あたりにいたアラン人をまず襲撃していること。 そして、アッティラ王が死ぬのが453年頃。 この期間だけでも80年を数える。 アッティラ自身は、400年頃の出生であるので、50歳前後で死んだことになる。 

 当時は、現在よりも世代間の間隔は、もっと短いだろうが、一応世代を20年間隔としても、80年で4世代が経過する。 仮に、多くの兵士や庶民が、出あったイラン系のアラン族やゲルマン系のゴート族の女性と結婚し、その子たちも、さらに現地の印欧語系の女性と子孫を持つようになると、その子孫たちの外貌の変化は、十分大きなものになると推測できる。 例えば、現在の欧米人と日本人の混血でも、日本人の血がクウォーターであれば、その容貌は、ほとんど欧米人的である、孫の代ですらそうなる。

 アッティラ自身がアジア的外貌を持っていたとするなら、アッティラの父やその父も元のフン族の女性を正室に選んだのだろう。 アッティラの父は、400年頃にアッティラをもうけているので、少なくともその前30年以上は印欧語族の女性を見てきたはずだが、自国のフン族女性を選んだのは、美的感覚なのか、それとも、先祖代々の家訓のようなものがあったせいなのだろうか? 

 アッティラは、最後の妻との初夜の晩に死んだが、その妻は絶世の美女であったという。 この”美女”という概念は、どこから来たものなのだろうか? ヨーロッパを襲った有史上(文章に残されている)の最初のアジア民族は、フン族であろう。 それは、ローマの歴史家による記述だ。 であれば、このアッティラの妻が”美女”であるのも、ローマから見た視点であり、ヨーロッパ的な美女になるはずだ。(ゲルマンからの伝聞にしても、ほぼ同じ。) だとすれば、アッティラは、すでに伝統的なフン族の女性から生まれた後継の息子(外見の記録がない)がいたので、それ以降の新たな妻(側室)たちは、どんな民族の出身でも良かったのかもしれないし、アッティラ自身、この最後の妻を美しいと思ったのであろう?

 さて、フン族の王侯や上層部は、フン族同士の婚姻を推奨していても、一般の男性(兵士など)は、移動していく途中の地域で、それぞれ印欧語系など他民族の女性と結ばれていくケースの方が多かったのは容易に推測できる。  ただ、もしそれが許されるなら、それ以前の西域から黒海北岸近くまで移動してきた200年あまりの間に、イラン系などの紅毛碧眼の民族は多くいたので、一般人はかなり混血が進んでしまった可能性もある。(DNA結果などが、それを示唆しているのかもしれないが?)

 しかし、フン族の兵士の人口が、もともとそんなに多くなかったため、戦争に負けフン族の集団としての塊が崩壊したあとすぐに、周辺の大きな民族の中に埋没して、外見的には、その周辺とほとんど同じになり、遺伝的にも文化的にもその影響をほとんど残すことが出来なかったのかもしれない?

 しかし、現在のトルコ人(テュルク系)やハンガリー人(マジャール人)やフィンランド人(フィン人)なども、その外見は、もとのアジア系とはかけ離れてしまったが、彼らは、言語などの文化的な要素を強く残してきた。 であるとすれば、フン族の場合、もう一つの問題は、単一の集団としてある地点(バルカン半島が中心)に留まった期間が短すぎて、文化的な要素を残す時間がなかったのかもしれない?

 もう一つ考えられるのは、これらのアジア系民族の集団が、ヨーロッパに侵入する際に、そのやり方が残虐なものであったのか、または友好的とまでは言わなくても比較的大きな軋轢がなくて入ってきたのか、の違いもあるのかもしれない? (トルコ人の場合、その西方への移動に際し、小アジアの東部地方までは、ほとんど同じイスラム教徒の民族が多かったので、そのへんの軋轢がどのようなものだったか、わかりにくい面もあるが?)

 私が、これまで大雑把に思っていたことでは、このフン族と後のモンゴル帝国のヨーロッパでの行動は、非常に残虐であったという話をどこかで聞いたような印象がある。 モンゴルも、東ヨーロッパに来たと思うが、その一部の集団でも、その後どこかに存続・定住してきた者たちがいただろうか? そういう侵攻時の残虐性も、その集団のその後を運命づけたかもしれない? 

 とはいうものの、現在は、一般にスラブ系と言われるバルカン半島からロシアまでの民族は、その丸顔の特徴からして、薄いものであってもかなり全般的にアジアの要素が入り込んでいるという証拠があるのかもしれない。 このフン族のあと約100年後には、アヴァール人というこれも元アジア系の民族が侵攻してきた。 彼らも、フン族同様、周囲の民族に割と短期間で壊滅させられたが、スラブ系の中に混入していったものと思われる。

 まあ、以上のようなことは、雑多に書き並べただけで、全く見当外れなことなのかもしれない。 とにかく、今後よりDNAのサンプル数などが増え、科学的な証拠が多くでて、こういう人種的な分散の課題が解明されていくのを期待する。 

 最後に、今のトルコ共和国で、かつて発行された切手を紹介したい。(私が読んだ本にあり、ネット上にも出ていたもの。) これは、アッティラ王だが、ここでも、今の彼ら同様、西洋化した顔をもった肖像になっている。 しかし、こういうことからみても、トルコ人が、フン族を誇りに思っていることは、間違いないようだ!

 

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トルコ共和国の切手にあるアッティラ。 ネット上の画像より。