(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (14)

⑭ ゲルマン人(Germanic peoplesまたはGermani)の誕生

 ここでは、ゲルマン人の主にその成り立ちに注目するが、ここも日本語に訳されていないものが多い(と思う)ので、英語のままで記載するのも多くなる。 

 まず初めに、Nordic Bronze age(北欧青銅器時代、前1700ー500年)の集団が、のちにゲルマン語群の言語を話す集団(つまりゲルマン人)の大元の祖先であると考えられている。 この集団は、今の南スカンジナビアと北ドイツあたりにいた。 彼らは、Battle Axe culture とPitted Ware cultureの融合により生まれたとされる。 

 では、その先の文化からまず紹介する。 Battle Axe culture(戦斧せんぷ文化とも)とは、以前(※第6回参照)にみたヤムナ文化集団由来の縄目文土器文化(Corded Ware culture)からさらに分岐した集団で、前2800ー2300年頃に南スカンジナビアに出現した。(※ポーランドあたりから西北に移動してきたと言える。) 

 彼らは、数多くこの地に流入し遺伝的な変換を起こした。 彼らは、それまでこの地にいたFunnelbeaker culture(ファネル状ビーカー文化)集団を吸収していった。

※このファネルビーカー文化集団は、既述のEEF(Early European Farmers,早期ヨーロッパ農耕民)から由来する。 ただし、直接、小アジアやギリシャ経由ではなく、それらがイベリア半島やフランスに行った後、逆戻りのように北東に移動してきた集団のようだ。 だから、このファネルビーカー集団も、やはりストーン・ヘンジやニューグレンジを作った集団(イベリア半島からイギリス諸島に方に行った集団)のように、巨石を使った墳墓を作った。(第12回参照)

 さて、Battle Axe culture集団に戻ると、この集団の埋葬方法は、平坦な単葬の墓で墳丘はなかった。 遺体は、南北軸に並べられ、顔は東向きにされた。 男たちは左側に置かれ、女たちは右に安置された。 男女ともに、通常の斧は置かれたが、戦闘用の斧(戦斧)は、男だけにその頭近くに置かれた。これは、戦斧が勇者のステイタスシンボルであったものと考えられる。 他に副葬品としては、弓矢の先などの武器や縄目文土器、動物の骨などがある。 

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前2800-2300年頃の舟型戦斧。 これは、SIingle Grave culture のもの。

 一方、Battle Axe culture文化集団の出現と同じ頃、そのやや南の地域のデンマークや北ドイツあたりでは、同じく縄目文土器文化から分岐したSingle Grave culture(単葬墓文化と訳されているものがあり、そこでは、縄目文土器文化と同義語とされている)集団がいた。 このSingle Grave culture集団の墓は、墳丘があり低い丸い墳丘であるが、初めには木材が周囲を囲っていた。 墓内部は、通常1つか2つの木棺があり、各木棺には遺体が一つ置かれた。 男の棺には、戦斧や琥珀の円盤、石火用器具など、女の棺には、小さなビースでできた琥珀のネックレスが添えられた。 また男女とも、ビーカー土器が副葬された。 この文化では、男女による差がなかったものと見られる。(※この文化集団も、当然、Nordic Bronze age文化の形成に関わったものと思われる。 ここの記事では、そのこと自体は明記されていない。)

 次に、もう一つの主な民族であるPitted Ware culture (穴あき土器?)は、これも前に紹介したSHG(Scandinavia HunterーGatherers、スカンジナビア狩猟採集集団)由来の集団である。(※これまで見てきた集団と繋がり合うのは、大変うれしいものがある。 何か、その歴史が大いに理解できたような気になる? 第12回参照) 

 彼らは、前3500年頃から上記のBattle Axe culture集団よりやや先にこの地に分布し、前2800年頃のBattle Axe culture集団の流入後は、しばらく共存が続いたが、前2300年頃に融合してNordic Bronze age 集団となる。 この時、彼らも、Funnelbeaker culture 集団を追いやったようだ。

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Pitted Ware 穴あき土器

 彼らの墓地は、主に平らな土地での土葬だが、火葬も行われたようだ。 巨石の石室はなかった。 また、彼らの墓には、赤い土が使用された。 年齢や男女の区別なく埋葬され、社会的な階層は未だなかったようだ。

※彼らが、SHGの子孫であれば、彼らは印欧語の言語を持っていなかったと思われる。 Battle Axe cultureとの融合で、Battle Axe cultureの言語を主に採用したということか?

  さて、やっとNordic Bronze age culture(北欧青銅器時代文化という訳がある)集団そのものに入る。(位置関係は、第11回の骨壷場文化の地図参照) 

※この文化の開始は、前1700年とあるが、上記のBattle Axe cultureとPitted Ware cultureの融合が、前2300年であるので、新たな集団としての明確な文化の発進・機能的な社会を形成するのに、約600年かかったということなのか? そして、それは、彼らの話す言語が、それまでの印欧語の中から、現在のゲルマン諸語の基礎となる言語体系ができていく時間だったということなのか?

 この文化は、前1700ー1100年を前期、前1100ー550年を後期と2分されている。

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北欧青銅器文化の領域。前1200年頃。

  彼らの文化では、まず岩石へ絵を彫る文化が挙げられる。 これは、当時の海岸沿いの岩に彫られたもので、日常生活の様子・武器・各種動物・太陽などが書かれているが、特に多いのは、船と人間の姿である。 海岸沿いの丘陵地に家が立地されたが、大きな村や町を形成することなく、農民の家屋がまとまった程度であった。 家屋の形は、長い家で中に2つの通路があり、のちにそれは3つになった。

 この文化集団での埋葬形態は、墳丘及び墓地埋葬があり、それにはオーク材製の棺や骨壷を使う埋葬があった。 また、彫刻岩や青銅器武器の副葬も行われた。

 農業では、小麦や大麦などを栽培、家畜は、牛・羊・豚などを飼育。 魚や貝も食料であり、鹿やエルクなどの野生動物も狩猟した。 牛は、農耕用に利用され、犬も家畜化されていた。 馬は、あまり見られす、おそらくステイタス・シンボル的な高価なものだったようだ。

 この文化集団は、ケルト系の祖先として出てきた墳墓文化(Tumulus culture、第11回参照)とギリシャのミケーネ文化との交流があった。 彼らは、これらの集団に”琥珀ロード”を通じて、北欧特産の琥珀を輸出し金属を輸入していた。 銅や錫、金は、大量に輸入され、そのうち、銅はサルジニア島やイベリア半島から得ていた。 この交易網は、前12世紀に突然途絶えてしまった。(※ギリシャの暗黒時代と関係があるのか?)

 北欧青銅器時代文化の芸術は、ギリシャ・ミケーネ文化と非常に似通っている。 これは、旅行者や戦士の交流など密接な交流を思わせ、他のどのヨーロッパの文化も北欧青銅器文化ほどミケーネ文化に類似していない。 また、この集団の文化は、カスピ海北東部に広く展開したAndronovo cultureなどにも類似していると言われる。

※このAndrobovo culture(アンドロノヴォ文化)集団は、あのスキタイなどのイラン系印欧語の祖先だと言われているスルブナヤ文化(Srubnaya culture) の東隣にあって、非常に密接な関係にあったとされる。(第7回参照) つまり、すべてヤムナ文化より発祥しているが、それがゲルマン語系であろうと、スラブ系であろうと、またイラン系であろうと、この段階では、文化面全体では、まだかなり似通っているということなのか? 

 さて、ヨーロッパの中では、スカンジナビアは、青銅器の交易は遅く始まったが、遺跡には数多くの青銅や金の遺品が保存されている。 これらは、まず中欧からの輸入ものが主であったが、やがて独自の高い水準の金属製品を製造した。 また、木工製品も作った。 そして、前15-14世紀には、ヨーロッパのどの地域よりもスカンジナビアは、青銅の生産と墓などの副葬品の多さを示している。 その金属製品の数と密度から、当時のスカンジナビアは、ヨーロッパで最も豊かな文化を持っていた、と言える。

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北欧青銅器文化の石への彫り物。 船と太陽を描写

※なお、この北欧青銅器文化集団のDNA情報も記載されているが、もうこのあたりは、ヤムナ文化集団以降のほぼ同じ遺伝情報を発信しているので、特にここでは記さない。

 それから、この北欧青銅器文化(Nordic Bronze age culture)の最後期近く(前650年頃)になって、それまでわりと温暖であったスカンジナビアの気候が、より寒冷多雨になっていたとされる。 

 それで、この集団の次に来るのは、Pre-Roman Iron age culture とJastorf cultureである。 

 まず、Pre-Roman Iron age(先ローマ(帝国)鉄器時代という訳があるが確かではない)は、この地の前5-前1世紀にかけて存在した。 この文化は、まずケルトのハルシュタット文化との接触に絡んで出現したが、ケルトのハルシュタット文化は、その後、ラテーヌ文化に発展していくが、Pre-Roman Iron age文化は、ラテーヌ文化とは違ったものを築いたようだ。 上記にあったように、青銅器時代の最後に、ミケーネなどの地中海文化との交流がなくなり、この地独の文化は大きく変化した。 青銅の材料は輸入したが、鉄器の材料は自前で調達でき、その量も増え、ケルト人から伝授された製造・加工技術も向上した。

 埋葬方法は、青銅器時代からの継続して火葬とその後の骨壷の埋葬形態は続けられた。(※ケルト・ハルシュタット文化の前段階である骨壷場文化の形式であるが、ということは、ケルト人もこの形態を続けたということか? ケルトの章では、この関連は見つけられなかったのだが。) 

 ラテーヌ文化の影響は埋葬形式にはあったようで、今のドイツ西北から入り、後にはスカンジナビア全土に拡がり、武器やハサミ・ナイフ・針・ヤカンなどが一緒に埋葬された。 青銅器もまだ使われていたが、この時期の一番特徴的な産物は、銀製のカップと青銅の部品の入った木製の4輪荷車である。

 そして、北欧青銅器時代末期に起こった気候変動は、スカンジナビアの植物相や動物相に影響し、人口も減少が続き、この文化のうち南側にあった文化を特にJastorf culture(ジャストルフ文化)というが、それが更に南に移っていく。 この集団は、ゲルマン祖語を話したと思われるが、それがいつ発生したかは、わかっていない。

 Jastorf cultureは、前6世紀ー前1世紀に存在。 Pre-Roman Iron ageの中の南部地域の名称であり、ハルシュタット文化の影響を受けた北欧青銅器文化から生じた。 当初は、今のドイツ最北部あたりに限定されていたが、のちに南方へも拡大。 副葬品などは、あまり多く出ていない。

※この箇所の英語版のウィキを見ていて、Jastorf cultureと、ハルシュタットやラテーヌのケルト文化とは、密接な関係がみられるが、その量や質についての詳しい内容は、近年のいろんな発掘や研究の結果が異なっているせいなのか、研究者間でかなり意見のバラつきがあるように見える。 

※ついでに言うと、ヤストルフ文化として日本語ウィキもあるのだが、英語版のものとかなり内容が異なる。 量も多いし珍しく内容がより多岐にわたり、住居・生活様式などが詳しく書かれている。 間違いなく、今ある英語版からの翻訳でない。 ただ、参考文献が一つで、しかも古い(1997年)ものだが、そこからの直接の翻訳なのかもしれない。 そうであれば、まとめやすく断定的な文章を書きやすいのだが。 

 

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先ローマ鉄器時代の民族分布(前2世紀ー後1世紀) 赤紫色とその周辺はJastorf culture及びその関係、濃緑色は北欧グループ、橙色はケルト系(ラテーヌ文化)、ポーランド辺りの薄緑色はPrzeworsk culture(プシェヴォルスク文化、ゲルマン系ヴァンダル人とスラブ系との関係が示唆)、その北の紫色は西バルト文化など。 

  次に、文化集団を焦点にしたウィキから少し離れて、言語関係の記載からゲルマン語族の経緯をみてみたい。

 紀元前2500年頃に縄目文文化集団によって、スカンジナビアの地に印欧語がもたらされ、前2000年以降、北欧青銅器時代を通じで発展していった。 先ゲルマン祖語(Pre-Proto Germanic languages)が、Pre-Roman Iron age文化の間に、ゲルマン祖語(Proto Germanic languages)になったと考えられる。 この先ゲルマン祖語が、ゲルマン祖語に変化したのは、印欧語でない別系統の言語との交流があったからだ、とする説がある。(Funnelbeaker cultureなどがその候補に出されている。)

 ゲルマン祖語は、おそらく前500年以降に話されたと考えられる。 そして、Proto-Norse(ノルド祖語)は、後2世紀に始まったと思われる。 ゲルマン祖語の拡散は、前5-1世紀のPre-Roman Iron ageにあったと思われるゲルマン祖語の拡散によって、ケルト人のラテーヌ文化と遭遇する。 そこで、ケルト語族から、多くの語彙を借用した。

 その拡散は、後1世紀には、南方ではドナウ川やライン川上流に及び、有史の時代に入る。(ローマ帝国との出会い) ほぼ同時期に、東方へ向かったゲルマン人は、スラブ系の民族との接触が起こり、スラブ祖語(Pro-Slavic)にゲルマンの語彙が入り込む。

 後3世紀までに、後期ゲルマン祖語の話者は、ライン川からドニエプル川までの広大な範囲(1200km)に拡散し、その時期は、後期ゲルマン祖語の分裂とその後の歴史上のゲルマン民族の大移動(Germanic migrations)の発端となる。

 最古い古ゲルマン語で書かれたものの記録は、4世紀後半に書かれたゴート語の聖書(Gothic Bible)である。 また、ノルド祖語(Proto-Norse)では、4世紀に書かれたルーン文字(Runic alphabets)を使った動詞などを含む完全な文章が残されている。

※ルーン文字は、2世紀頃スカンジナビアで発明。

 

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後1世紀のゲルマン語族分布。青色はNorth Germanic (300年までにPro-Norseノルド祖語に)、赤色はNorth Sea Germanic(古英語や古フリージア語など),、橙色はWeser-Rhine Germanic(オランダ語などの祖), 黄色はElbe Germanic(高地ドイツ語の祖),緑色はEast Germanic(300年までにGothicゴート語に)。

 

 ゲルマン人の出現及びゲルマン祖語の発生、その全体的なものの経緯については、これぐらいにしておく。 

 次回は、ゲルマン人の中でも、私が特に興味を持ついくつかの集団について個別にその歴史を見てみたい。 そして、出来れば、あのフン族の侵入に始まるゲルマン民族の大移動までみてみたいものである。