(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (16)

⑯ ゴート族

  さて、ゴート族(Goths、形容詞はゴシックGothic)は、ヴァンダル人やGepids(ゲピッド?)と同じく東ゲルマン語群を話す民族だった。 しかし、いわゆるゲルマニアの域外に早い段階で出たので、古代ローマ人からは、スキタイか他の部族かと思われていた。 

 このゴート(Goths)という名の由来は、不明だが、ゲルマン祖語のgeuta-という語幹から出たものらしく、それは”to pour注ぐ"を意味する。 それで、水域に住む民族だったのでは、などの説があるがよくわかっていない。

 最初に、古代ローマ人に記されたのは、3世紀である。 しかし、それ以前についても、いくつかの証拠から、彼らが、ヴィスツラ川(ポーランド中央部を下降し、バルト海に注ぐ大河)近辺の起源で、さらにはスカンジナビア(Gotlandなど)に繋がるものと思われる。 ただし、ゴートの言葉とスカンジナビアの言語の差異が大きいことから、これを否定する研究者もいる。 

 ある研究者によれば、ゴートは、Berig(ベリグ?)という王の下、スカンジナビアから海を越えて、ポーランド北部に到着したとある。 そこでは、他のゲルマン諸族(Rugiiなど)とともにWielbark文化を形成したようだ。 このWielbark文化は、1世紀頃出現し、それまでのOksybie文化と置き換わったようだ。 それは、土葬の方法、墓室に武器がないこと、ストーンサークルの存在などの点において、全く異なった文化となった。 これは、その先の時代の北欧青銅器時代文化やルサティアン文化(Lusatian vulture)にも見られた習慣であった。 (※ Lusatian cultureは、ポーランドあたりを中心にした文化で、北欧青銅器時代文化に類似し、またケルトの影響もあると言われる。)

 その後、ゴート族は、Rugii部族の土地を奪ったとされ、それは、考古学的にも、このWielbark文化がヴィスツラ川の左岸(西側)沿いに南下したものと一致する。 そこには、ストーンサークルと土葬埋葬の高頻度に認められた。 紀元後になって、ローマの歴史家たちが、ゴートとヴァンダルの戦いなどを記している。

 2世紀の中頃以降、Wielbark文化集団は、南東へ移動し黒海周辺に至る。 その過程では、Przeworsk culture(ヴァンダル人との関連がある)集団を排除したり、一部取り入れたりしたと考えられる。 この移動は、恐らく人口増加により、他のゲルマン民族も含めた全体的な動きの一つであったが、その結果、他の部族は、ローマ帝国領内に押しやられ、マルコマン戦争(Marcommanic war)の引き金となった。 200年までには、Wielbark ゴートは、ローマから傭兵として雇われたようだ。

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ゴートに関係する文化集団の移動と拡大.。緑色Gotaland, ピンク色Gotland島、赤色Wielbark 文化、橙色Chemyakhov文化、青色ローマ帝国領。

 ゴートは、スキタイ国の西側に入り、Spaliという集団を打ちのめした。 Spaliとは、スラブ語で巨人という意味であり、この集団は、スラブではないらしい。 3世紀の初めには、スキタイ国西部は、スラブ系文化集団とサルマタイ(イラン系)に占領されたとある。 3世紀の中頃までに、Wielbark文化は、スキタイ国でChemyakhov cultureを育み、この際立った単一の文化は、西はドナウ川から東はドン川まで拡がった。 この文化の中心となったのは、ゴートやHeruliと言われるゲルマン系集団であるが、イラン系やダキア系、ローマ人、そして恐らくスラブ系も含んでいた。

 黒海北岸草原では、ゴートは、遊牧民のサルマタイからいろいろな習慣を習った。 乗馬や弓矢、鷹狩りなど、また農業や漁業も取り入れた。 240年頃からローマ軍に雇われ、ローマとペルシャの戦いに参加した。 しかし、同時にゴートは、ローマ帝国内で暴動を起こしており、250年には、ローマ王を殺害するなど、大きな損害を与えた。

 253年には、ゴートは、黒海沿岸地域の海戦も始めた。

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黒海沿岸での戦い

 10年後には、ゴート族とHeruli族は、ビザンチウム(今のイスタンブール)などの都市を蹂躙した。 その後、ローマ軍に敗れたが、そこからギリシャに侵入した。  しかし、ギリシャの軍に押し返され撤退した。 しかし、その後も他のゲルマン民族とともに、ギリシャや小アジアに攻撃をかけたが、275年の攻撃、そしてその翌年の敗戦を最後に小アジア地方に関与しなくなった。

 3世紀の後期までに、ゴート族は、ドニエステル川を境に2つのグループに分裂した、ThervingiとGreuthungi である。 その3世紀後半、Gepids(他のゲルマン)は、ブルグント族を破り、Ostrogotha王率いるゴート族と戦った。 3世紀の最後の10年に、Capri族は、ダキア地方からローマ帝国内に逃げてきた。 おそらく、ゴート族による侵入だと思われる。

 ローマ帝国との共存

 332年、ローマのコンスタンチン皇帝は、ドナウ川北岸地域の防御をサルマタイ人に依頼し国境を強化して、ゴートの侵入を阻止した。 10万人のゴート人が、この戦いで死に、Thervingiの王Ariaricの息子Aoricが捕らえられた。 334年、皇帝コンスタンチンは、サルマタイ人奴隷の反乱があったので、ドナウ川北岸からサルマタイを除いた。 そして、その翌年もゴート族を負かした。 ローマ帝国にドナウ川から排除されたゴートは、しかし、サルマタイの撤退した地域に侵入し、この時のゴートの王・Geberic(Aoricから代わっている、息子ではない?)は、その後ヴァンダル人との戦いをして、彼らをローマ領内へ押しやった。

 4世紀の間に、Thervingi もGreuthungiも、かなりローマ化していった。 これは、ゴート族とローマとの交易によるもののと、おもにビザンチウムでのローマ軍への編入という面による。 4万人ものゴート兵が、コンスタンチン帝のいるコンスタンティノープル(330年にビザンチウムから改名)を守るために派遣された。 このころは、ローマ人の軍はもうあまり強力ではなく、ローマ軍はほとんどゲルマン民族で成り立っていた。 ゲルマンの兵士がいなければ、ローマ帝国はもっと早く滅亡していただろう。

 Gebericの次の王、Ermanacは、周辺の民族を打ち負かし、スキタイとゲルマンの領土全てを一人の力で獲得した。 それ故、彼は、アレクサンドロス大王に比較された。 その領域は、草原地域全域に拡がり、北はバルト海、南は黒海、東はウラル山脈にまでいたった。 その征服には、Greuthungiは、もちろん、スラブやフィン人、アラン人、フン族、サルマタイ人そして恐らくバルト人などの諸民族も含んでいた。

 Chernyakhov文化の影響は、その考古学的範囲よりもさらに北に拡がっていたと考えられ、ゴートを中心としたその文化が、森林ステップ地帯(草原地帯の北に長く横たわるエリア)にもあったと思われる。 ただし、歴史家の中には、Ermanacの業績は、過大に評価されすぎているという意見もある。

 360年、Aoricの息子Athanaricが、Thervingiのリーダーになり、東ローマ皇帝のVelansに対抗するプロコピウスを支持した。 それで、皇帝Velansは、Athanaricを攻め、これを打ち負かしたが、決定的に破ったわけではなかった。 その後の和平協定ではうまく行かず、ゴート内のAthanaricのライバルでありキリスト教アリウス派に改宗したFritigernが、Velansの味方になったので、Athanaric と Frirtigern の内部衝突となった。 結果は、Athanaricの勝利に終わり、彼は、領土内にいたキリスト教徒の迫害を行った。

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Athanaric と Valens の船上会談。 19世紀の絵。

 フン族の来襲

 375年、ゴートの東にいたイラン系のアラン人に、フン族が急襲した。 そして、スキタイ(この場合は地域名)地方にあったゴート王国にも侵攻してきた。 Ermanaric王の自決もあり、Greuthingiは、徐々にフン族の影響下になった。 さらに、フンは、Thervingiへも攻撃を始め、王Athanaricは、山間部への逃亡を余儀なくされた。 フン族は、このゴートとの戦いを優位に進めたが、既述のFritigernが東ローマ皇帝Velansの許しを得て、ドナゥ川の南岸への定住を始める。 そこで、ゴート族は、武器を捨てるよう指示されていたが、多くの兵士は武器を手放さなかった。

 ゴート戦争(Gothic war、376年-382年)

 帝国内の腐敗した役人のせいで、流入してきたゴート族は、すぐに飢饉に陥った。 ある者は、腐った犬肉を得るため、ローマの奴隷商人に子供を売らなければならなかった、という。 この裏切りに怒ったFritigernは、反乱を起こした。 それは、ゴートの避難民や奴隷のみならず、ローマの労働者や農夫を含んだ大掛かりなものであった。 このゴート族と東ローマ帝国の戦いが、ゴート戦争であり数年に及んだ。 そして、Greuthingi集団もローマの許可なくドナウ川を越え戦闘に参加した。 ゴートは、378年のアドリアノープルの戦いで勝利し、皇帝Valensは殺された。

 アドリアノープルで勝利したゴートであったが、ローマ帝国は、小アジアやシリアにいたゴート族を虐殺した。 379年、テオドシウス1世の元、ローマは、新たに軍勢を立て直し、Fritigernやその取り巻きを攻撃した。 同じ頃、Athanaricが帰還し、テオドシウス皇帝に歓待を受けたので、Athanaricも帝国を褒め上げた。 それゆえ、Athanaricは翌年死ぬが、帝国により盛大な葬儀が営まれた。 382年、テオドシウス帝は、Thervingiのグループとの和平協定を結ぶことを決め、以後、ゴートは、テラス地方(現在のブルガリアやトルコの北部地域)でローマの同盟国になり、兵隊を供出することになった。

 フン族の来襲の後、ゴート族の中で、2つの主要なグループができる。 Visigoths とOstrogothsである。 Visiは、良いとか高貴を意味するらしく、彼ら西ゴート族は、ローマ帝国領内に住み、Thervingiの系統であるとするBalti dynasty(バルティ王朝)が率い、一方、Osrtogothsとは、日の出のゴートあるいは東のゴートを意味し、フン族に従属したGreuthingiの系統でAmali dynasty(アマリ王朝)に率いられていた。

 ローマ帝国の歴史家は、当時の地理的関係から、Visigothsを西ゴート、Ostrogothsを東ゴートと訳した。 ゴートと関係の深かったGepidsなどの他の民族も、フン族の支配下にあった。 ゴートの小さな集団は、クリミア半島に生き延び、中世まで存続した。

※教科書などでは、フン族の侵入以前から東西ゴートがあったように書かれているが、これによると、その時点では、東西も分離はまだ始まっていないように聞こえる?

 なお、このostro-とvisi-は、現在のドイツ語でも、東はost、西はwest(ドイツ語のwはvの発音)であるので、非常によく似ていると言える。

 西ゴート族:

 西ゴート族(Visigoths)は、382年以降テオドシウス帝からバルカン半島での定住を許可され、最初のリーダーAlaricの元、ローマでの地位を固めた。 しかし、その後もローマとは、離反融合を繰り返していたようだ。 ゴートは、394年ローマの内戦でテオドシウス側に援軍したが、大きな被害を受けた。 395年、テオドシウスの死後、バルカンのゴートは、ギリシャに侵攻した。

 401年以降、Alaricは、イタリアに攻め込んだ。 西ローマ皇帝のホノリウスは、ゴートに対して虐待を加えたので、Alaricは、ローマを攻め、北アフリカへの移住の許可を願い出た。 Alaricの後継者Athualfは、Alaricのローマ占拠の際に囚われていたホノリウス皇帝の妹(か姉sisterとだけある)Galla Placidiaを妻とした。 Athualfは、西ゴート族を南ガリアに定住させようとしたが、ローマの許可が得られず、415年イベリア半島に向かった。 しかし、直後バルセロナで暗殺された。 その後の後継者により、西ゴート族は、イベリア半島に渡り、そこで451年、テオドリック1世(Theodoric)王の下、ローマ帝国とともにフン族のアッティラ王と戦った。

 ※これは、フランス北部・カタラウヌムの戦いで、歴史上重要な戦いである。 はっきりとした勝敗はついてないらしいが、両軍とも大きな損害を被った。 この時、テオドリックは戦死し、アッティラもこの後すぐ死に、70年以上に渡ってヨーロッパを震撼させてきたフン族は、以後急激に衰退していった。 

 このカタラウヌムの戦い以降、西ゴート族は、イベリア半島で王国を確立した。 ただし、ここでも、ゴート人は、ヒスパニック・ローマ人の中で少数派であった(6百万人の内、2百万人程度)。 507年、フランク王国のクロヴィスによって、ガリア地方のほとんどから撤退させられた。 しかし、東ゴートの援軍などにより、一部の南ガリア地域は維持できた。 この後、西ゴートは、イベリア半島のさらに深部に至るようになり、そこで、スエビ人やアラン人などへの攻撃をかけ滅ぼす。 この西ゴート王国は、以後、8世紀前半まで存続した。

 東ゴート族:

フン族の侵入の後、多くのゴートは、その従属化になったが、他方一部は、ローマ軍に参加した。 しかし、399年、ゴート族は、ローマ軍内で反乱をおこした。 これは、西方でのAlaricの活躍に呼応しての行動であった。 しかし、結果として、ゴートは破れ多くが殺された。 後に、小アジアへの定住が許可された。

 東ゴートは、既述の451年の戦いでフン族と共に、ローマ帝国と戦った。(※つまり東西ゴートは敵同士になった。) その直後、フン族の王アッティラは死亡し、東ゴートはValamir王の下、フン族の支配から逃れる。 その後継者Theodemirは、フン族を完全に粉砕した(468年)。 469年には、ローマ軍と他のゲルマン族の同盟軍を破り、ドナウ川上流地域パンノニアを収めた。 

 493年までに、Theodemirの息子Theodoricは、イタリアに侵入し、そこで東ゴート王国を立てた。 ここでは、ゴートは少数派であったが、ゴートとローマ人の結婚は許されなかった。 また、ローマ人は、武器の所持も許されなかったが、一般に待遇は公平なものであった、と。

 このTheodoric the Greatは、6世紀の始めの一時期、西ゴート王国を含めた全ゴート族のリーダーとなった。 西ゴート王国のAlaric2世が、既述のフランク王国との507年の戦争で死んだためである。 しかし、この東ゴート王国も6世紀中頃には、ビザンチン帝国や他のゲルマン、ロンバルト族などによって滅ぼされた。

 クリミア・ゴート族:

 クリミアや黒海沿岸に残ったゴート集団は、その地で、5-6世紀頃、ヨーロッパを荒らした後、東に戻ろうとするフン族を排除しなければならなかった。 また、西ゴートのテオドリックのフン族との戦い(カタラウヌムの戦い?)に参加せよとの要請には応じなかった。 

 彼らは、東方正教教会に属し、ビザンチン帝国内で地位を築く。 その後、東方の国などとの確執が続くが、15世紀後半には、オスマン・トルコの支配下になる。 ただ、このクリミア・ゴート語の話者が、18世紀まで少数ながら存続したと言う。

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523年、東のテオドリック大王の時代、ゴート族の最大勢力範囲

  さて、英文にはいつも書いてあるゴート人の外見についてだが、彼らは、背が高くスポーティで、lightスキン、ブロンド・ブルーアイを持つと多数表現されている。 こういう外見は、時には、ローマ人の嘲笑の的となった。(※日本人にもある僻み根性のようなものか?) あるローマの歴史家は、彼らは、ヴァンダル人やGepidsとよく似ており、同じ起源であるとした。 彼らは、白い肌・淡い毛色そして背が高くハンサムである、とも。

 他、文化的なことは省略するが、ゴートの経済について一言。 西ゴート人は、主に農業で生活していた。(東ゴートは、そうではなかったようだ。) 小麦・大麦・ライ麦を栽培し、豚・鶏・ヤギを飼っていた。 馬とロバは、労働に使われ干し草を食べさせた。 羊は、羊毛のため飼われその衣服も作られた。 彼らは、土器や鉄工の技術に優れていた。 ローマとの平和協定後は、ローマからワインやオリーブ油などを輸入した。 

 また、西ゴートでは、税金やその概念もなかった。 5世紀始めのあるキリスト教徒は、ガリア地方のローマの貧者に比べ、西ゴートの貧者に対する対応がずっと優れていることを記している。(ゴート王国内に住む貧しいローマ人は、ローマへの帰還を拒んだ、という逸話がある。)

 

 ※詳細には書けてないが、ざっと見ただけでも、ローマ帝国とゲルマン族そしてフン族などの関係も非常に複雑であったようだ。 互いの国の存続あるいは自己の地位の保身のため、権謀術数と言うか様々な工作・探り合いなどが行われて、それによる様々な具体的な行動(政略結婚や大量虐殺などなど)があったようだ。 いずれの時代も人間のすることは、あまり大差無いということなのか?

 あ、それと、一番最初にゴートの英語の形容詞は、Gothicであると書いたが、この言葉を聞くと、のちのヨーロッパの高い塔を基調とした荘厳な建築様式を思い浮かべる人もいると思うが、実は、このゴート族から由来しているらしい。 この建築が北欧で始まった時、当時のイタリア人が(まだその分野の先進国であったのかもしれないが)、否定的な意味を込めて、この建築物をゴートのようだ、と表現したからであると。

※以上、ゴート族の歴史の後半部分は、ほとんど端折ってしまったが、それでもかなり長くなってしまったので、フン族の歴史は、次回に回すことにする。