(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (20)

  2021年になってもうかなり経ちますが、この前の投稿から今回までの間に、私の住むここアイルランドも、そして日本も、新型コロナウイルスの感染状況がかなり悪化してきました。 特に、アイルランドは、少し前の数日間、感染者の発生率が人口比で世界最多というかなり厳しい状況にもなりました。 今は、少し発生数は減少しているようですが、私や家族もいつ感染してもおかしくない、と思っています。 そんなことで、ブログを書くことには特に支障はなかったのですが、なぜか書く気が起こらなかったというのが、本当のところでした。 で、今回は、日頃、私が格闘しているこの英語という言語の成り立ちを、主に民族の移動という点から見てみます。

 

⑳英語を形作ってきたゲルマンの諸民族

 少し前(第15回)に、フン族の西進に始まり西ローマ帝国の崩壊に繋がるいわゆる”ゲルマン民族の大移動”に関連した諸民族を書いたが、今回は、ほぼ同じ時期に、同じく父祖の地・北欧や北ドイツなどからブリテン島に移動したサクソン人やアングル人などの英語という言語の形成に関係していったゲルマン民族や、その後の約1000年の間に、さらに英語を進化させていった別のゲルマン民族たちの歴史を少し見てみたい。 

 このサクソン人・アングル人などは、フランク人やゴート人などに比べ、西ローマ帝国の崩壊を導いた”大移動”という観点からは、あまり重要視されていないが(こちらも、小規模ながらブリテン島にいたローマ軍を撤退させてはいるが)、それより、英国の建国の基礎を築いた点、さらに、その英国の発展とその後継国家であるアメリカの影響で今や世界語になった言語・英語の骨格をも形作った点で注目される。

  今回は、いつものウィキと、もう一つ、”the Story of English(英語の物語)”という1986年にイギリスで刊行された本も参考にする。 実は、この本と同じ内容のものが、かつてBBCでシリーズものの番組となり、その後すぐ日本でもNHKにより放送されたことがある(番組の日本語タイトルは、”英語についての第9章”みたいな?)。 そのテレビ番組では、当然、古英語や中英語そしてその他の言語や方言の発音をいろいろ例示していたので、その点は、この本よりさらに魅力ある媒介となっていた。 そして、私がまだ20代後半の頃で、英語への関心をより増進させてくれた記念すべき番組でもあった。 その時、ビデオにその9(?)回分すべてを録画したのだが、後年、再生するデッキも無くなり、いつの間にかそのビデオテープも消えてしまっていた。 

 ところが、2・3年前、こちらアイルランドの古本も扱っているチャリティーショップで、その番組の元となった本を偶然見つけたのである。 本があったとは知らなかったし、感激した。 昔、日本語版が発行されていたら、多分買っていたであろうから、日本語版は出ていなかったのではと思う?

 ということで、少し余談になったが、今回は、この本の最初の4分の1程度を再読して参考にしながら、ウィキの内容に加えていくため、通常よりさらに入り組んで読みにくい文章になるので、ご了承を。 

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                 私自身の写真より

 まず下図は、サクソン人などが本格的にブリテン島へ進出する少し前の時代を示している。 4世紀全体を通して、ローマ化されなかった現在のスコットランドやアイルランドにいたピクト人やスコット人が、度々ブリテン島中南部の元々同じケルト系であるがローマ化したブリトン人(the Britons)の領域を急襲していた。 そのため、ローマ軍は、幾度も壊滅のおそれもあったが、その度盛り返し持ちこたえていたようだ。

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383-410年頃のブリテン島(注釈無しは、すべてウィキペディアより)

 そういう状況下で、今度は、大陸からゲルマンの諸民族が、ブリテン島の東岸を中心に進出してくるのである。

 まず最初に、西暦400年代に起こったサクソン人(the Saxons)の移動から始める。 サクソン族が、最初にローマ帝国に明確に記されるのは、356年のことである。 その後、彼らは、ラインラントにいたフランク族のサリー人を追い払い、そこ地に侵入した。 

 そして、441-2年にかけ、サクソン人が初めてブリテン島に移住した、とゴール系の歴史家が書いている。 大陸にそのまま残り今日の北ドイツにいたサクソン人(やや南下したと思われる)が、最初に記録されたのは、555年にフランク王国の王が死に、その機会をとらえ、彼らサクソン人が王国に反乱を起こした時である。

 大陸のサクソン人は、その後も南下をする者が多く、現在のオランダ、フランス(ゴール地方)そしてイタリアなどに移動した。 オランダでは、今もサクソン語系の言語が残るし(あまり多くないが)、ドイツではサクソン(ザクセン)州などの地域名も残っている。

 さて、今回の主眼のブリテン島への移動であるが、これは、サクソン人を初め、アングル人、ジュート人、そして、フリジア人らが、共に西ローマ帝国の崩壊前後に新天地を求め移動し始めたことが発端である。 ただ、サクソン人の海の向こうへの移動は、フランク王国がサクソン領域へ伸張してきた影響があったためとも言われる。 

 その頃、サクソン人は、ブリテン島の南東海岸沿い(Saxon shore)に砦を築くのであるが、それ以前にも何世紀にも渡り、この地域を急襲していたようだ。(※上の図にもあるように、サクソン人だけ記載があるが(Saxon raids)、彼らサクソン人の行動が、のちにアングル人など他の民族・部族の行動を誘発するようになったのか?)

 ただ、ローマ帝国の崩壊前に、サクソン人は、このブリテン島での農耕・定住を許されていたようでもある。            

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サクソン人、アングル人などの移動の様子400-500年

 伝説によれば、サクソン人などの入植は、実は、この島に先住するケルト系のブリトン人(Britons)からの要請があったとされている。 それは、先の時代にもあったスコットランドやアイルランドのピクト人(Picts)やゲール人(Gaels)などのブリテン島(南部地域)への侵攻を防ぐためだったとも言われる。 

 そして、サクソン人たちは、ブリテン島南部に4つの王国及び地域を建てた。 すなわち、東サクソン人(East Saxons)が建てたエセックス王国(Kingdom of Essex)、 中央部のサクソン人による(Middle Saxons)のミドルセックス地方(province of Middlesex)、南サクソン人(South Saxons)のサセックス王国(Kingdom of Sussex)、そして、西サクソン人(West Saxons)のウェセックス王国(Kingdom of Wessex)である。

  以上、今回は言語の形成や変化の様子もある程度記述したいので、それを考えると、このサクソン人の移動の経過を少し長く書きすぎたが、次は、アングル人(the Angles)について。 彼らは、サクソン人に比べ、かなり以前からローマには知られていた。 1世紀の有名なタキツスのゲルマーニアに”Anglii'とスエビ族の支族として記されている。

 このアングル人は、ブリテン島に進出し、当初は、ノーザンブリア(Northumbria), イースト・アングリア(East Anglia), マーシア(Mercia)の3カ国を樹立した。  

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アングロ・サクソン七王国 600年頃

  次に、ジュート人(the Jutes)。 彼らは、今のデンマークの最北端に居住していた西ゲルマン民族であったが、彼らもサクソン人やアングル人と同様にブリテン島に移動して来た。 今のデンマーク国を形成する半島は、この民族名を冠して、ユトランド半島(Jutland)と呼ばれている。 ブリテン島に移動したジュート人たちは、主に、今のケント地域(Kent)やワイト島(isle of Wight)やハンプシャーなどに定住した。 また、彼らは、今のフィンランド方面にも多く移住した。 

 このジュート人のケント王国を初め、上記のサクソン人によるサセックス、ウェセックス、エセックスの3王国、及びアングル人の3王国の計7王国を総称して、アングロ・サクソン七王国(the Heptarchy)と呼んでいる(5世紀から8世紀頃まで)。 中央サクソンのミドルセックス地方は、アングルのマーシアに吸収されたようだ。

 この内、ウェセックス王国とアングル人の3王国の計4王国が、その後も勢力を保った。 それから、これら3つのゲルマン民族の他に、もう一つ西ゲルマン語族を話す民族が移住している。 それが、フリジア人(the Frisians)で、彼らは現在のオランダ沿岸辺りからブリテン島に渡り、ケント地方やイースト・アングリアなどに入った。

 このように5ー6世紀に、今のデンマークや北ドイツ・オランダあたりからブリテン島に移動してきて、新しい国家や言語を形成していったのは、主にこの4民族であった。 当然、この4民族が流入してきた当初は、彼らは、それぞれ自分たちの言葉を話していたものと考えられるが、互いの意思の疎通はほとんど問題なかった、と言われている。 ※そこまで言語が似通っていたなら、これはもう、彼らは互いに部族とか支族とか程度の差でしかなかったのかもしれない。 

 それから、この4民族が支配した地域では、互いに交流が進み、話す言葉は、より共通なものになっていったのは容易に推測がつく。 その初期の共通言語は、古英語(Old English)またはアングロ・サクソン語(Anglo-Saxon )と呼ばれている。 といっても、全く統一された言語ではなく、サクソン人やアングル人などのそれぞれの元の言語が中心となって、新しい土地でもそれを強く反映した方言として発展形成されていったのであろうと推測される。。 

 この古英語には、それまでこの地を支配していたブリトン人のケルト系言語の影響も多少文法的なもの(進行形などの表現)にいくらかあったようだが、語彙では、英語に残った単語は、”avon"(川、river)など非常に限られている。

 一方、これまでブリトン人の土地を支配していたローマ帝国のラテン語は、当時の西ヨーロッパのlingua franca(世界語}であり、古英語にも多くの単語を残しているようだ。 それは、これらのゲルマン民族がキリスト教に改宗した7世紀以降は、聖書などを通しさらに影響が強くなっていった。(discipline, shrine, preost(priest)など)。 また、ラテン語同様、ギリシャ語(apostle, pope など)やヘブライ語(sabbathなど)も同じ理由で導入された。

 さて、上記のゲルマン4部族の内、フリジア人の使うフリジア語(Frisian language)は、いまでもかなりの話者がオランダに居住している。 もちろん、彼らの言語も、その後の1500年もの年月で変化はしていても、英語に比べれば少ないものがあるのではないか? ここで、彼らの言語を少し紹介してみたい。 

英語: The boy stroked the girl around the chin and kissed her on the cheeks.

西フリジア語(West Frisian): De jonge  streake it famke om it kin en tute har op e hangen.

ドイツ語:Der junge striechelte das Madchen ums Kinn und kusste es(sie) auf die Wange.

(※すべて現代語。 ”少年は、少女の顎をなで、そして、彼女の両頬にキスをした。” ほどの意味。 なお、英語以外の言葉には、ウムラウトなどの特殊記号がいろいろあるのだが、ここでは表記できていない。)

 フリジア語でも、現在いろんな方言があり、ウィキではその多くを紹介しているが、ここでは中心的な方言である西フリジア語を取り上げてみたが、どうだろうか? あとで詳しく書くが、英語は、その後その語彙をかなりラテン語・フランス語などから借用しているので、単語の変化はかなりあるが、それでも、基本単語と思われる英語のthe、stroke、chin、 and、herなどの言葉は、みな同一語源であるように見える。

 農業関係の単語は、当時最も大事な言葉の一つであったはずだが、その関連の単語でも、フリジア語(カッコ内)と比べると、cow(ko), lamb(lam), goose(goes), boat(boat), dung(dong、肥え), rain(rein)など非常によく似ている。 また、a cup of coffeeもフリジア語では”in kopke kofje"である。

 そして、何より 文の基本構造自体が、非常によく似ている。 このように現在の言葉でも、これだけ類似しているのであれば、アングロ・サクソン七王国時代の各民族・部族の言葉は、相当似通ったものであったに違いない、と改めて言えるだろう。

 

 古英語そのものに戻るが、土地を追われたケルト系のブリトン人にとっては、当初、この征服者たちを、皆サクソン人だと見ていたようだが、しだいに彼らをアングル化した名称で呼ぶようになる。 この地の人々は、Angelcynn(Angleーkin) と呼ばれ、この地域は、Englisc と呼ばれるようになった。 さらに、西暦1000年までには、この地域はAngles の土地、すなわちEnglalandとして知られるようになる。

 さて、今現在の英語・近代英語(Modern English)の最も基本的な100の単語は、すべてアングロ・サクソン由来である、と言われる。 これも、農業や基本生活物資関連の言葉が多くなるが、列挙すると、the, is, you, here, there, sheep, shepherd, dog, swine, ox, plough, earth, wood, field, work など数え切れない。 また、今も単語としては残っていても、意味が異なっている場合もある。 例えば、Merry Christmasの”merry"は、古英語では”agreeable(快い、同意できる)”というほどの意味であった。 

 その後、七王国の中でも、特にウェセックス(Wessex)、そして、後にはマーシア(Mercia)も、英語の発展形成の上で主要な地位を占めていくが、800年頃のイングランドでは、下に示すように主に4つの方言区域に分割されていた。 この内、MercianとWest Saxon (※言語としては、Wessexではなくこの言葉を使うようである。 西サクソン語とでも?)の境界は、テムズ川である。 

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800年頃の古英語の方言分布

 さて、この時代のすぐあと、英国及び英語の形成に大きく影響を与える、別のゲルマン民族が、また同じく北欧から襲(や)ってくるのである。 ヴァイキング(the Vikings)である。 これについては、アングロ・サクソン年代記(AngloーSaxon Chronicle)という、ウェセックスのアルフレッド大王時代から古英語で書かれた非常に重要なアングロ・サクソンの歴史書に、その経緯が詳しく記されている。

 9世紀頃、今のノルウェイやスウェーデンの南部、デンマーク辺りにいたヴァイキングは、ブリテン島やアイルランド、さらにロシアなどのヨーロッパ各地、そして、遥か北アメリカ大陸へも進出していったのである。 一説では、彼らの移動の主目的は、ヴァイキング社会は一夫多妻制なので、男たちはより多くの女を求め、周辺の国々に侵攻していった、ということのようだ。

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9世紀、ヴァイキングによる婦女略奪(19世紀の絵画)

 ウェセックス王Beorhtric(786-802)の時代、北の男たち(Norsemen)を乗せた3隻の船が、ドーセットの港に上陸した。 土地の役人が、彼らを宗教者と間違えて村に迎え入れたが、北の男たちは、その役人と村人たちを殺してしまった。 そして、ヴァイキングたちの一番最初の計画的侵攻は、793年1月6日に起こった有名なノーサンブリア(Northumbria)の海岸にあったリンディスファーン(Lindisfarne)島の修道院への急襲であった。

 さらに、865年以降、今のデンマークあたりに住むヴァイキング・デーン人(the Danes)が、侵攻に加担し、やがて彼らは東アングリアを中心にその占拠する地域を拡大し、のちにノーザンブリアのヨーク地方も制圧した。 これらの占領地が、後にデーンロー(Danelaw)と呼ばれる地域である。

 アングロ・サクソンの諸王国は、この侵攻にほとんど抵抗できなかったが、唯一ウェセックスのアルフレッド大王(Alfred the Great)は、878年、ヴァイキングのリーダーGuthrumの軍隊にエディングトンの戦いで勝利し、その後協定を結んで旧アングロ・サクソン諸王国とデーン・ヴァイキング国家の棲み分けのための境界線を確定した。(the Danelaw)

 しかし、その後も、両者の小競り合いは続いたが、アルフレッドの後継者たちは、徐々にデーンロー地域を縮小させ、やがてヨーク地方も奪い返した(919年頃)。 そして、アングロ・サクソン人とデーン人との混血混住も進む中、ウェセックス王国とマーシア王国の血を引く後継者たちは、10世紀中頃までに全イングランドを統一した。(ただし、イングランド最北西の地・カンブリアCumbria 地方は、11世紀末まで含まれなかった。) 

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878年、デーンロー区域(赤色)とアングロ・サクソン諸王国(茶色系) 

 さて、旧アングロ・サクソン領域では、ウェセックスの力が強かったので、その方言・West Saxon(西サクソン語) が、域内の主要な言語となった。

 デーン人を初めとするこのヴァイキングたちは、同じケルマン民族でも北ゲルマン語族に属する古ノルド語(Old Norse)を話す民族だった。 この古ノルド語は、それまでのアングロ・サクソンやジュートそしてフリジアの4部族の話した言語・西ゲルマン語族に比べ、幾分かの違いがあったはずだ。 

 この間の民族の移動をもう少し説明すると、5世紀あたりでは、今のデンマークを中心に北ドイツ、オランダなどにいたのは、既述の西ゲルマン語を話すジュート人やアングロ・サクソン人であったが、8世紀頃では(正確な時期など詳細は不明だが)、デンマークに住む民族は、その北のスウェーデン南部やZealandあたりから南下してきた、それまでヴァイキングと呼ばれていた集団である。 その後、この地のヴァイキングはデーン人(the Danes)と呼ばれるようになった。 なお、ブリテン島などに移住せずにデンマークに残ったジュート人などは、のちに、このデーン人の集団に埋没していったと考えられる。

 さて、この古ノルド語を話す民族の流入によって、英語はどう変化したのだろうか? 一説には、この古ノルド語は、英語の進化という点で最も大きな影響を与えたとも言われる。 まず、この古ノルド語は、基本的には古英語の文構造に大きな差はなく、両者はあまり苦労せず意思の疎通ができたようである。 ある種の文末の表現などが違っていただけのようだ。 

 また、単語も似たような形のものが多かったようだが、かなりの単語が古ノルド語から古英語の語彙に流入してきた。 たとえば、デーン人は多くの地名などを残した他、戦いや法律用語などに関連したwindow, knife, plough, leather, raft, husband,  bylawなどの多くの単語や、木曜日などの曜日の名称を英語に残していった。 既述のように、古英語と古ノルド語には、文法的には幾分かの差異があったようだが、集団の交流が増す中、それを解消するように英語の文法はより簡略化していくようになった。

 例えば、この時代のアングロ・サクソン人と古ノルド語のデーン人の文を比較してみると、現在英語で、I'll sell you the horse that pulls my cart. (私の荷車を引っ張っているあの馬をあなたに売ろう。)という文を、アングロサクソン人は、”Ic selle the that hors the draegeth minne waegn. ”と言い、  一方、デーン人は、” Ek mun selja ther hrossit er dregr vagn mine. ” と言っただろう。 この内容の文なら、互いに大意はつかめたであろうが、問題は、アングロ・サクソンの古英語では、”hors"の場合、単複同形だったので、デーン人には何頭の馬を売りたいのか、分からないということがあった。 こういう問題が、簡略化で解決していく。 

 なお、アングロ・サクソン人は、最初はほとんど文字による伝達がなかっと言われるが、後には、このヴァイキングたちと同じようにルーン文字を使っていた。 しかし、これはブリテン島では、10世紀頃にラテン・アルファベットに置き換わっていった。

 余談だが、このヴァイキングたちは、ロシア方面へも進出し、現地のスラブ人たちと混じり合ったようなのだが、言語においてはこの地域ではほとんどその痕跡を残していないようだ。 両者の言語の違いが多き過ぎたことと、ヴァイキング人口の相対的な数の少なさによるものと言われる。

 英語に戻って、古英語(Old English、OE)は、時代によりさらに3期に分けられている。 450-650年頃までは、前史古英語(Prehistoric OE)とよばれ、アングロ・サクソン語及びその4方言の時代であるが、文献的証拠はほとんど無い。

 それから、650-900年頃までは、早期古英語(Early OE)と呼ばれ、そして、それ以後1150年頃のノルマン人の征服時期までを後期古英語(Late OE)と呼んでいる。 その後は、早期中英語(Early Middle English)に移行していく。 このデーン人やヴァイキングが来襲し定着していく時代は、早期古英語の終わりとほぼ一致する。

 ここで、改めて古英語の一般的な特徴を書いていくと、まず文法では、格は5つあった。 名詞は男・女および中性名詞の3形態。(※近代英語では無くなった。ドイツ語は同じく3形態。) そして、単数・複数の区別も当然あった。 ※参考:例えば、格が多いということは、それがしっかりしていれば、文の中の各単語の位置はあまり重要ではない、ということになる。

 たとえば、近代英語では、”to"や”from"などの前置詞が置かれるが、古英語では、"the king" を "se cyning" と言い、"to the king"を "thaem cyninge" と言っていたように、格の形の違いで意味が理解できた。 また、複数形の変化も、古英語では、例えば one "stan"(stone) , two "stanas"(stones) のようであった。 

 他にも例を挙げると、地名ではBirmingham などの”ham” 、Brightonの”ton”、 Oxstedの”sted”などの語尾がつく地名は、アングロ・サクソン由来であり、Derby の”by”や Swainswickの” wick”が付く地名は、デーン人やヴァイキング由来である。 さらに、既述したが、単語は似ている部分も多いので正確にノルド語由来と言うのは難しいものもあるが、get, hit, leg, low, root, skin, same, want, wrong などの少なくとも900語は、北欧由来である。 また、skyなど”skー”で始まる単語も古ノルド語系である。 

 ここで最後に、聖書にある古英語をいくつか書いてみる。(かっこ内は、現代英語)

Ume daeghwamlican hlaf sele us todaeg      (Give us our daily bread today.)

And forgief us ure gyltas, swa swa we forgiefap urm gyltendum   (And forgive us our             debts, as we forgive our debtors.) ※ここでも、古英語に多くある特殊な記号(文字上の・など)は、書けていない。

 どうであろうか? ウィキには、発音の仕方もあったが、ここでは表記不可能なので載せてないが、これらの単語以上に発音では、現在英語との差が大きいようだ。 

 

  さて、それからまた100年ほど経過し、次に英語(この時はまだ古英語)の発展に大きな影響を与えた集団も、その大元は、同じゲルマン民族でありヴァイキングでもあった。 しかし、彼らに付けられた新しい名前は、ノルマン人(the Normans)というものであった.。 

 北欧のヴァイキングは、ヨーロッパ各地に侵略していったと先に述べたが、その一つの地域が、現在のフランス北西部にあるノルマンディー半島である。 この地に定住したデーン人を中心としたヴァイキングは、元々この土地にいたフランク王国のフランク人やガロ・ローマ人たちと混ざりあった結果、9世紀の前半には、ノルマン人としてのアイデンティティーを確立したという。 ちなみに、ノルマンという語は、北の男という意味の言葉(Norsemen など)から派生しており、さらに、そこから地名のノルマンディー(Normandy)も生まれたようだ。

 言語面で言えば、このノルマン人は、最初土地のガロ・ロマンス語を借用していたが、彼らの古ノルマン語方言(Old Norman dialect)は、ノルマン語(Norman)またはノルマン・フランス語(Norman French)と呼ばれる言語となっていった。

 このノルマン人のノルマンディー半島は、やがてノルマンディー公爵の土地領土として継代されていく(ノルマンディー公国)。 そして、彼らは、別のヴァイキング集団が作った対岸の国・イングランドにもその勢力を伸ばし、1000年頃以降、姻戚関係などによりノルマンディー側は、イギリスへの本格的な侵攻を図った。 11世紀半ばには、イングランド王位を奪い、多くのノルマン人貴族などが流入し、その宮廷からアングロ・サクソン人を追い払った(ウイリアム征服王、Willium the Conqueror)。 

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ノルマン人が征服した地域(赤色)1130年頃

 実は、このノルマン人の来襲の数十年前に、デンマークにいたクヌート大王(Cnut the Great)というデーン人の王が、先にイングランド全域及び北欧も支配するという動きがあった。 

 さて、ドーバー海峡の両岸の国々を治めたノルマン人であるが、やがて、彼らにとって、イングランドの方がより重要な土地になった。 そのイングランドで彼らの使う言葉は、アングロ・ノルマン語(Anglo-Norman)または、アングロノルマン・フランス語(Anglo-Norman French)呼ばれる新たな言語であった。 

 しかし、そのアングロ・ノルマン語という名前であるが、この言語は、古フランス語の方言の一つから派生した古ノルマン語(Old Norman French)に由来しており、基本はほとんどフランス語であった。 この新しい言語は、古英語に対して、文法的にはあまり大きな影響を与えていないが、膨大な単語を注入し、英語の語彙を豊かにした。 既述のように、征服ノルマン人は、王侯や貴族、上流階級の人間が主体であったので、言葉の上でも、宮廷言葉や政治・法律などの関係用語がまず流入した。

フランス語 >ノルマン語 >英語   フランス語 >ノルマン語 > 英語

chateau           caste              castle    chasser       cachi       catch

 chaptel      cate     cattle    jardin     gardin       garden

 chenil      kenil      kennel   poche             pouquette      pocket

 このアングロ・ノルマン語は、しかし、初期では、一般庶民の言語生活を変えるほど大きなものではなかった。 それは、この上流階級だけで流入人口が少なかったことや、イングランドでの混血が進んだこと、そして、ノルマンディー半島が、13世紀初めに、彼らの領土でなくなるという事態が起こったことでフランス語との決別の意識が生まれたなど、それらの要因で英語への影響が当初は限定的であった、と考えられる。 

 しかし、これらの新しいフランス語やラテン語由来の単語は、時代が進むにつれ社会や文化の高度化も進み、その需要が一層増し、同時に一般庶民の教育水準や識字化の向上も相まって、徐々に英語の語彙として確実な地位を得ていく。 attorney, nobility, felony などなど。 そして、これまでの単語と合わさって、英語では、一つの概念に2つ以上の語彙が生まれるのである。 例えば、royal- regal - sovereign や  time-age-epoch など。  

 最後に、下図は、やや古いが、現在英語の語彙の由来を示している。 もちろん、どの分野の単語を多く採用するかで、傾向は若干異なるが、原語のゲルマン語とラテン語、フランス語の割合が、ほぼ同じくらいの比率になっているのは、驚きだ。 

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オックフォード辞典の8万語よりその語源を調査、1973年

 以上、見てきたように、古英語に始まる英語の変化(進化)は、いくつかの異なる集団であったが、どれも皆同じゲルマン民族によって形成されていった。 ただし、語彙的には、彼らゲルマンの諸言語の基礎語に加え、ラテン語、フランス語などから多くの単語が借用されてきたのも事実である。

 今回は、英語の変化の凡例も含めたので、かなり長い文章になってしまった。 しかし、私自身、デーン人とヴァイキングそしてノルマン人という各存在の定義が、あまり判然としていなかったところがあり、この度、それがはっきり確認できた。

 なお、英語は、これ以後、中英語(Middle English)、そして、近代英語(Modern English)へと変化していく。 そこでは、印刷術の利用に絡む各方言と綴り(スペル)の関係、ラテン語などの継続的な流入、そして、母音の発音が大きく変化する大母音推移(Great vowel shift)などにより、英語には、形態的にさらなるダイナミックな変化が起きる。 

 非常に大事なので極く簡潔に書いておくが、英語の綴りと発音は、非常に一貫性がない。 というのは、この各地の方言の発音とそのスペルをゴチャ混ぜにしたからであり、また、私が長年疑問に思っていた(それまで、英語の主語は、IcとかIk、Ichとか書かれ、イクとかイッヒとかと発音されていたのが、今のI(アイ)という極めて異なる発音になったのだが、それが具体的にいつ頃だったのか?)という疑問は、ウィキに大母音推移という現象で詳しく説明されており、大いに参考になった。

※ちなみに、最初に紹介した本”英語の物語”では、この大母音推移は、巻頭の詞の中でその単語が一言書かれているだけで、本文のどこにも説明など一切無い。 巻頭の詞は、普通、本が発行される直前に書かれるので、その時期の最新情報が盛り込まれることが多い。 ということは、この大母音推移は、1980年代後半になって、やっとその現象が解明され始めたのかもしれない?

 ということで、現在までの英語自体の変化を正しく書くには、この大母音推移などをしっかり書くべきところなのだが、今回は、字数が大変多くなったことと、このゲルマン民族の移動という観点からであったので、それ以後の時代の変化については割愛した。

 なお、次回は、どの地域をテーマにするか、今検討中なのであるが、ナカナカ思いつかない。 そろそろ東アジアに行くべきか?