過去に書いたことで、一つ修正します。

 全くのご無沙汰でした。 さて、このブログは、誰も見ていないので、今更、私の過去の考えや意見の修正を書いても、特段意味のないことなのですが、やはり性格としてキチッとしておきたいというのがあるので、ここでちゃんと書いておきます。

 それというのは、ホントにずーと前、ヤフーブログを始めてすぐ最初の方に書いたことなのですが、私は、芸能人などで特に普段は恋愛の歌など甘い雰囲気を漂わせているような人間が、急に政治的あるいは社会的なことに関する言動をするのは、好きではない・間違っている、というようなことを書きました。 そして、まあ、ボブ・ディランや岡林信康のように、いつもそういう問題と対峙しているような芸能人は、別であるけれども、みたいなことも。

 しかし、これを書いたすぐあと(10年程前)、このことは、私の脳裏に長い間引っかかっていましたし、そう思わなくなっていたのですが、改めて修正意見を書くということまで考えなかったというのが実際です。 ただ、この度、ある有名人のネットでの意見などを見て、私の方もキッチリやっておこうと思ったので。 ただ、もう今現在は、長い文章を書く気もないので、ごく短く書いておくことにします。 短いせいで誤解が生まれるかもしれませんが、それはその時にまた対応しようということで。

 とまあ、要は、その前言を翻し、全ての人間(どんな職種や思想の持ち主であろうと、あるいは表向きの活動がどうであろうと)が、何事に対しても個々の意見や発言をするのは、全く自由であり正当である、ということです。 当然ながら他人への誹謗中傷などは、この範囲に入るものではなく、このことはもっぱら政治や社会問題に対する意見や思想ということは、もちろんのことなのですが。 

 あ、それともう一つ、例えば、自分の私生活では、ゴミを散らかしたり、タバコの吸殻をその辺に平気で捨てたりする人間が、公的な場面で環境問題を偉そうに言及するのは、こんなのはダメですよ。 もう一つ例を挙げれば、家でDVをしたり、そこまで行かなくてもかなり亭主関白な人間が、今のジェンダー問題とか女性の権利などについて、公言するなどの、あるテーマに関して、公私の言動・行動に一貫性のないのは、もちろん、この言論の自由に相当しません! 念の為。

 とりあえず、以上書いておきました。 失礼しました。

 

 

 

”マイナス”を持つ人間が、魅力的!(脚本家・山田太一さん講演より)

 まだまだユーチューブを楽しんでます。 約1ヶ月前かな、1970年のテレビ版の”姿三四郎”がついにアップされました。 まだ、第8回(全26回)までなんですが、そのアップされている方は、全編素材をお持ちのようで、この先ほんとに楽しみです。 他に、私の好きな山田太一脚本のドラマでは、”思い出づくり”が全編(14回)分すでにアップ済で、これもうれしい発見でした。

 さて、この山田太一さんが2014年に日本記者クラブで講演されている動画も見ることができ、その内容が、やはりおもしろかったので、ここに貼ろうかと思います。 これは、ドラマなんかでないので、まず削除されることはないと思いますが。 削除と言えば、私が数回前の投稿でアップしたドラマ”兄弟”のダイジェスト版が消えていますね。 これは、ユーチューブからの削除というより、何かユーチューバー側本人の事情によるものだと思います。

 さて、山田さんの講演の内容なんですが、その前に、司会進行の方が、山田さんの作品の代表として、”男たちの旅路”や”ふぞろいの林檎たち” の名を挙げていました。 また、本人が講演の中で、挙げた自身の作品の中では、”3人家族”と”岸辺のアルバム”と”ふぞろいの林檎たち”に関連した話がありました。 もっと作品に直接関連したエピソードを聞きたかったのですが、1時間あまりの講演ではなかなか多くは言えないのでしょう。

 下にその実際の動画をダウンロードしましたので、興味ある方は、じっくり見てください。 

 それで、私なりの講演要旨としては、山田さんは、人々の持っている”マイナス”を描きたい、ということに終始していた、と思います。 彼は、マイナスという言葉を使ってましたが、つまりそれは、”劣等感”や”暗い過去”や、そして、”差別”などを意味しているのでしょう。 その例として、太平洋戦争での多くの惨劇に関連した人々、この講演の3年前に発生した東日本大震災を被った人々、バブル経済で好景気に溺れる人々などを挙げていました。 バブルの話は、儲かりすぎて面白くない例としてですが、戦争や災害の場合は、その中で人々の醜い面がいっぱいあったはずだという思いで、戦争体験者があまりその過去を語りたがらないこと、震災でも、いろいろ美談の裏には、人々の否定的な感情が多くうごめいていただろうとして、そこは、ドキュメンタリーでは表せないので、自身が実際その関係のドラマをこの講演の直前に作ったとありました。

 ついでに、講演の中で言及されたドラマの”マイナス”の面については、”3人家族”では、あの時代、両親が揃ってないと結構社会的に偏見差別を持たれたからであり、”ふぞろいの林檎たち”では、この頃では、就職面接で東大一橋大、早慶大、そして、その他の大学などとに面接の場所が違っていたなどの例をあげておられ、また、”岸辺のアルバム”は、一見その時代の何の不自由もない幸せそうな家族が、実は精神的には崩壊しており、災害ですべてを失い、結果的に、かえって幸福を取り戻す様子を描きたかった、などと述べられていた。 

  最も、人間皆、マイナスを持っているのであるが、ある人間は、それにより気後れしたり、自暴自棄になったり、ある者は、虚勢や見栄を張ったり、あるいは、自分よりもっと弱い他人を虐めたりして、そのマイナス面を隠そうとするのだ、と私は思う。 

 つまり、山田さんにとっては、すべての人間行動は、それらのマイナスをドラマを通して、社会に認知させ、少なくともそのマイナス面を平準化していこうとする活動ではないだろうか!? でも、世の中、マイナス要因は、時代と共に常に新しく繰り出されていく。 それは、人間の活動が多様になっていくのに伴い、仕方がないことかもしれない。 だから、山田さんの題材は、こと尽きないのだと思う。

 結局、今回この動画を見て、脚本家・山田太一さんの信念というものは、私が想像していたものとは、ほぼ、いや全く同じであったので、改めて感激したところです。 この講演の時期からでも、もう7年も経ってますし、自分が還暦過ぎた年齢になってしまいましたけれど、やはりしっかり知ることができて本当に良かったです。 

 ただ、山田さんの講演後に質疑応答の時間があって、4・5人が質問したんですけど、ほとんどドラマとはあまり関係なく、戦後日本の民主主義をどう思うとかの大きな質問とか、他の映画人を批判して山田さんが答えにくかったり、また、あまり山田さんの仕事と関係ない質問が多かったこと等、はなはだ残念でした。 ただ、一番最初の質問者は、時代の推移で、視聴者側に何か変化はあったか?という質問をし、それに、山田さんは、今の視聴者は、あまり”マイナス”なものを見ようとしなくなった、と答えました。 しかり! 

 あ、それから、大事なことを忘れていましたが、山田さんが若い時に読んだ外国の脚本家の本の中で、”ドラマは、王様たちの様子を描くのはなく、隣の肉屋の夫婦がなぜ結婚したのか?というようなものを題材にしなければいけない。”ということが書かれていたことに非常に感銘を受けたと言ってました。 おそらく、山田さんは、西欧において、肉屋というものが、全然差別の対象となる職業などではなく、その反対に、結構立派な仕事として認められているのをご存知の上で、そう言ったのでしょうが、ここ日本で”肉屋(特にちょっと昔の)の話をドラマにするとどうなるのか?、という、その辺のことを暗にほのめかして言っているのかなあー、ともこの私などは邪推してしまいました。 

 でも、かつて私もこのブログで書いたように、そして、今回、この山田さんが言われるように、本当に日本の肉屋の夫婦がどのように結婚に至ったか、というようなドラマをぜひ作っていただきたいものです。 以上。(※おおよその内容を書いたままで、山田さんが語った正確な言葉・文章ではないと思いますが、ご了承を。)

 


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今度は、私自身の出ているユーチューブ動画を貼ってみました。

 相変わらず、ユーチューブを見ています。 この頃は、昔のドラマばかりでなく、いろいろなジャンルも見ています。 特に、日本人が英語を使って世界中の人と話したり、逆に日本にいる外国人が日本語を駆使して、日本の様々な事を話題にしているものなどは、外国に住む私にとっては、たいへん興味あるものとなっています。 そして、驚いたのは、ここ1・2年でそういう様々な動画が急増しているように見えることです。 世界中の人が誰でも手軽に見れるユーチューブで自分を発信していて、頼もしくも感じたり、見る者としては、無限に材料が出てくるのでありがたい限りです。

 でまあ、今日のこの投稿の目的は、私自身が出ているユーチューブの動画もこの際このブログ記事に貼り付けようか、と思ったからなんです。 

 と言っても、私は、これまで自分でユーチューブに動画を発信したことがないのですが、他の人の動画に私が写っているものが今のところ1つあるのです。 このハテナブログでは、動画の貼り付けが非常に簡単なので、ここにもついでに貼っておくのも何かと便利かな、と思ったまでなんです。

 その動画というのは、私が沖縄在住時代に知り合り仲良くなった空手家の空手人生50周年を記念して作られたものです。 彼女の名前は、キャサリン・ルコポラスと言いまして、ギリシャの出身です(ギリシャ語的には、カテリナ・ルコポラスですが)。 彼女は、十代でアメリカに渡り、そこで空手を知り、その後、本格的に沖縄で空手の修行をした人です。 沖縄には10年以上滞在。 その後またギリシャに戻り、今は、ヨーロッパ中を駆け巡って空手道及び古武道(沖縄での呼称、これは主に武器を使った技術・型のことです。)の指導を行っている人です。 女性では、最も早い時期に沖縄空手を海外に紹介した人の一人です。

 で、この50周年記念イベントは、2019年8月末に行われました。 私が、ちょうど61歳になったばかりの時です。 イベントとは、この空手家の彼女の友人たちが持つそれぞれの武道・格闘技、空手の別の流派などの技量を、講師として紹介したり実演あるいは指導したりするといったものです。 もちろん、彼女自身の空手の流派も少し紹介されますが、動画を見ればわかるように、彼女自身は、今はかなり恰幅(かっぷく)がよく、あまり動けないので、彼女自身の実演(武道では演武と言います)は、この動画内にはほとんどありません。 

 それで、具体的には、動画を見ていただければわかると思いますが、各武道・格闘技の講師は、実際のところ約20ー30分を割り当てられましたが、このビデオでは、各自の演武・指導は、2-3分にまとめられています。 

 さて、私の柔道の箇所は、11分40秒頃から始まります。 まあ、思ったよりうまくまとめてもらってますし、画質や効果音もよく、さらに私のところでは姫路城もつけてくれるなど、私としてはほぼ100点満点に近い出来となっています。 ビデオ全体としても、美しいギリシャの音色を聞かせたりして、非常にクオリティーの高いビデオになっていると思います。 そのことも、ここに貼る理由でもあります。 (なお、他の講師のクラスの中でも、私が生徒として習っている様子がチョクチョク見えますので、念の為。 ハハ。)

 あと、もちろん、空手家と言っても皆初心者ですので、2ー30分で柔道のことを説明するのは不可能です。 そのことも、彼女に事前に何回も言っておきましたが、彼女としては、いろいろな武道・格闘技のエッセンスだけでも見せることが意義があると思っていたのでしょう。 

 ここに集まった空手家たちは、もちろん地元ギリシャを初め、ドイツ・オーストリア・アイルランド(私以外の)などから集まっています。 残念ながら、全員男でした、ハハ。 動画内で若い女性が見えるのは、参加者の妻たちです。 日本人は、私ひとりでした。 キャサリンさんの先輩である空手家が、沖縄から来るかもしれない、ということだったんですが、実現しなかったようです。

 それと、この主催した彼女自身が、この集団の中で最年長なんですが(この時、67か8)、講師の中では、この私は2番目に年長で、最年長の中国武術の人(レバノン人)も私より1歳上だけでした。 一見、かなり老けて見えた講師も私より10歳若かったりで、自分がかなり年を重ねたことを改めて知らされました、ハハ。 あ、それと、この講演(?)をきく側の方も、多くが空手の高段者だったりして、年齢は結構高かったのです。

 段の話が出たついでに、まあ余談かもしれませんが、こうして講師として柔道を紹介した私ですが、おそらく私の段位(三段)は、この集団全体でも中以下の位置でしょう。 講師の中では、間違いなく最下位です。 他の講師は、グランド・マスターとかマスターとか、最低でも七・八段を持っていたことでしょう。(日本の武道以外でも段位があるのが多いです、おかしなことに。) しかし、この主催者のキャサリンさんもわかっていますが、そういう肩書きの立派さは、あまり意味がないことを。

 さあ、とにかく、ながなが前置きが長くなったかもしれませんが、今から動画をアップしますが、ちょっとだけその前に、このイベントのスケジュール表がキャサリンさんによって作られているので、概観を知るためにも、その表を先に貼っておきます。

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キャサリン・ルコポラスさん空手鍛錬50周年記念イベント(2019)

  では、ここにその動画をアップいたします。


www.youtube.com

  

ドラマ”兄弟”(木下恵介アワー)に感激!

 今回もまたユーチューブで見た昔のドラマの感想です。 それで、その後も、木下恵介アワーなどを中心にいろいろアップされている動画を見させてもらっていました。

 まず、木下恵介アワーの主なものを年代順にまた並べておきます。(放送回数は、何も書いていないのは26回。 なお、今回は敬称略。)

・おやじ太鼓・1(1968.1開始、脚本:木下恵介・山田太一)全65回(パート1・2併せて)

・3人家族(68.10ー69.4、脚:山田太一)

・兄 弟(69.10ー70.4、脚:山田太一)

・あしたからの恋(70.4-11、脚:楠田芳子(木下恵介の妹))32回

・二人の世界(70.12ー71.5、脚:山田太一)

・太陽の涙(71.12-72.5、脚:木下恵介)

・幸福相談(72.6ー9、脚:成田孝雄)17回

・思い橋(73.4-9、脚:高橋玄洋(ヒット作多)

 このうち、前回の投稿以降に見たものは、制作年順に言うと、”兄弟”、”あしたからの恋”、”太陽の涙”、”幸福相談”、そして、”思い橋”です。 木下恵介アワーで、私が子供の頃に見た記憶があり、多少でも思い出せるのは、”おやじ太鼓”と前回書いた竹脇無我・栗原小巻カップルの”3人家族”と”二人の世界”だけでした。 (白黒時代の”記念樹”を除いて) 

 ですから、今回アップされていた動画のドラマは、すべて完全に初めて見るという感覚でしたので、最初、”面白いのかな?”などという心配も多少ありましたが、いざ見だすと、どれも結構面白く、すべてのドラマを見れる範囲で皆一気に見てしまった、という感じです。 

 ただ、この木下恵介アワーのドラマ群は、山田太一など数人の脚本家によって作られていますが、ストーリーは、だいたい似通っていて、まず年長のカップル(と言っても25歳前後が主で年がいってても30歳(男性)くらいまで)と大学生などの年若いカップルの2組の恋愛の推移を綴っている、そういう内容です。 とまあ、今の時代から言うと、皆とても若いカップルですし、結婚にあせる年代では全然ないんですが?

 年長カップルの配役には、当時の美男美女俳優が充てがわれ、若いカップルの配役は、男性役は、あおい輝彦か小倉一郎で、その相手役は、ほとんど沢田雅美ということになっています。

 さて、どれも楽しく見させてもらいましたが、それでも、一応より感動の少なかったものから順に、その感想を書くことにします。

 まずは、”幸福相談”です。 このドラマは、”年長カップル”には、倍賞千恵子と山口崇でした。 今現在、全17回のうち、13回までしかアップされていないので、最後の展開はわかりませんが、おそらくここでも二人は結ばれることでしょう。 山口崇の家は、台所のユニット製品を製造する自営業ですが、山口の下に大人の弟が4人もいて(そのうち一人は結婚までしてその妻も同居)、母親と一緒に同居している大所帯の家族です(父は死んでいない)。 だから、家の中が男で溢れかえって、画面がちょっと窮屈な印象がありました(放映当時は、そう感じない人も多かったかもですが?)。 山口は、ここの長男で30歳を越えた設定になってました。ここの木下恵介アワーの中で、多分、最年長?

 倍賞千恵子は、会社員ですが、夜は、占い師をやっている変な役柄。 これが、会社では勝ち気でキリッとしている印象を出しているのに、占いで何でも判断するという矛盾した女性像をもたせている、と私には思えました。 やはりその点が、当時でもあまり評価されなかった理由かどうかわかりませんが、とにかく、このドラマは、ここに上げたシリーズの中でも、最短の17回で終了しているというこであり、いわゆる視聴率的にも良くなかったのでしょう。 もう一つだけ、ボヤキを入れれば、この昼間、倍賞が働く会社なんですが、毎回、倍賞のところにはたくさんの私用の電話や面会者が来ていて、上司に叱られないのかなー、と思いました。

 その次は、”太陽の涙”です。 これは、最初の方はアップ動画無しで、10回以降最終回までという動画アップ状況でした。 年長の男性役は、加藤剛、女性は、山本陽子。 若いカップルは、小倉一郎と沢田雅美です。 これは、元々、加藤と山本は見合いするはずであったが、山本が写真を見るのも拒んで破談になった。 でも、その二人が、現実に出会って、それ以降、山本は加藤にぞっこん状態になる。 この捻れた関係を解き、二人をちゃんと会わせるため、周りがヤキモキするといったドラマです。

 毎回、番組冒頭で、木下恵介の信条と思われる当時の日本の実情を批判する朗読が流れる。 それ自体は、良いのだが、ドラマの内容とどれほど関係があるのか、理解に苦しんだ。 もちろん、ドラマ内でも公害問題や戦争の悲惨さを役者のセリフの中で、少し言わせているが、やはり、ドラマの全体的な内容とはかけ離れすぎている感があったように思う。 ”太陽の涙”という大きなタイトル自体の意味も、最後の最後にわかるのだが、どうだろうか? 適したものだったろうか?

 その次は、”思い橋”。 これは、ほぼ全編動画アップされていました。 年長男性は、藤岡弘、女性は上村香子。 若手の方は2組あったが、上村の妹役に松坂慶子がハツラツと演じていた。 上村は、母が営む老舗旅館で働く、非常に淑やかな女性として描かれていた。 なかなかその意志が読みとれない設定にしてあり、最後の方まで恋が成就するかわからない感じであった。 ただし、このドラマの主役は、上村や松坂の義理の母親役でその旅館の女将の淡島千景である。

 それから、”あしたからの恋”(32回のうち、半分の最初の16回までアップ)は、林隆三と磯村みどり、大出俊と尾崎奈々の2組の大人のカップルで、若手は、あおい輝彦と岡崎友紀と思われるが、最後まで見ていないので、この関係は、どうなったのか不明。 林の恋人役の磯村という女優は、私は知らなかったが、和風美人で、このドラマでは、幼馴染の林と良い友達であったが、やがて二人の関係は恋に変わっていくようだ。 ドラマを見るものとしては、その辺の変化が楽しみなのだが、後半部分が動画アップされていないため、その様子はわからない。 アップロードを期待したいものです。

 一方、このドラマのダイジェスト版の中には、尾崎奈々と大出俊の関係だけをクローズアップしたものがあり、それによると、この二人は無事に結ばれるのであるが、前半部分では、医者である大出俊の尾崎に対する口調が、どうも荒く喧嘩っぽいので、怪訝な感じがした。 また、このドラマも、一応主役は、林や尾崎・岡崎の両親である進藤英太郎と山岡久乃である。 山岡は、ここでは、明るい近代的な母親像を演じていて、いい感じでありました。

 さて、最後に一番感動した”兄弟”について書きます。 このドラマでは、若いカップルは、あおい輝彦と沢田雅美のいつもの組み合わせ。 この若いカップルの恋愛事情は、他のドラマよりむしろ面白くないというのが、本音です。 なぜ面白くなかったのかと言うと、沢田の友人も、あおいを好きになってしまい、三角関係のもつれをダラダラ長く続けていたからです。 

 ただ、そこで一つ関心のあったのは、この沢田は、山梨の田舎から来てデパートの大食堂でウェイトレスをやっていましたが、そこに大学生であるあおいが、ある偶然から彼女を好きになる。 でも、沢田は、当初長い間、二人のこの”身分差”のせいで、あおいの求愛を避け続けるというシーンが続きます。 

 このドラマは、1969年に始まりますが、その時代の世相・雰囲気は、そんなもんだったのでしょうか? このドラマだけでは、ありませんが、この木下恵介アワーの他のドラマでも、結婚予定相手の素性を興信所などで調べてもらう、などの表現がいくつかありました。 やはり、現実は、そうだったのでしょうかね? 関東でも多くいた部落出身者の場合などは、どうだったんだろうか、問題外なのか、などと、やはり、この私は、そんなことを想像したりしてしまいましたがーーー。

 ドラマに戻って、ここでのメインの年長のカップルは、津坂匡章(のちの秋野太作)と秋山ゆり(他には、”おくさまは18歳”などに出演)です。 秋山ゆりは、このドラマの撮影時は、若干20か21歳だと思いますが、大人の雰囲気がいっぱいでした。 今回、この二人の恋の経緯が、とても面白く、かつ、二人の働く大企業の様子が、私のかつての職場と同じようなものであったので、より一層親近感をもって見られたということもあります。

 津坂は、あおいの兄であり、彼らは、中流のサラリーマン家庭で育つ。 秋山は、大工の娘であるが、大学(短大?)へ行き津坂と同じ会社の秘書課に勤務している。 もちろん、美人である。 秋山と沢田の2女性は、今回は家族とか友人とか全く関係ない。 

 秋山は、社長に近い秘書課の所属で、会社の全若手男性社員から高嶺の花的に注目をあびる美人社員として描かれている。 しかし、父は、大工の棟梁であり、その父の仕事は立派であると思っていても、他人に父の仕事を聞かれれば、”建築関係”と言ってしまうように、どこかにそのへんの劣等意識があるように描かれています。

(※それと、この秋山の話ぶりは、会社では、清楚で毅然とした女子社員として、当時のいわゆる山の手の標準語の楚々とした口調が印象的ですし、また、彼女が家に帰って、大工の父親と結構砕けた口調になって話していくことに、なかなか興味がありました。 今60歳を越えた私が言うのもナンですが、子供の頃の私は、自分だけが、家と外との話し方の区別をつけているみたいな気がして、ある種のやはり劣等感みたいなものがありました。 自分の家で話す言葉使いは、とても上品と言えるようなものではない、と。 しかし、そのうち、人間は誰しもそういうところがあるのだと思い知り、納得したのでありますが、10歳頃の私が、こういうドラマを見て、よく理解できていれば、そのような悩みはそんなに長く続かなかったかも、と面白く感じた次第です。)

 なお、ここにある秘書課というのは、会社・組織が大きくなれば、単に社長秘書が一人いるというのではなく、数人の秘書が課員として存在し、社長や重役のために秘書事務を行う、そんな部署のことです。 もちろん、秘書課長もいます。 

 一方、津坂は、一流大学を出て、この大会社に就職できたわけですが、特にエリートというわけではなく、総務課で単調な仕事を毎日真面目にこなしている青年という設定。 ただ、少し前から秘書課にいる秋山に好意を抱いていたのだが、ある日、会社の昼休みでかなり遠くにある小さな食堂で昼食を取っていたところ、そこに、偶然、秋山が現れたのである。 隣同士に座った二人は、初対面だが楽しい会話をかわすことができた。 

(※この辺は、私もかつて大きな組織で働き、そこには、やはり秘書課という課が存在したし、そして、私も、昼休みは自分の同僚などと一緒に食べることよりは、一人で考え事をしたい思いで、庁舎周辺の小さな食堂へ行くことが多くありました。 もちろん、私の場合は、秘書課に憧れさんがいたわけではありませんが、組織が大きかったので他の部署などには、やはり良いなあーと思う美しい女性は、いくらでもいました。)

 さて、津坂と秋山は、その小さな洋食の食堂でもう1・2回会った後、事件が起きます。 それは、秋山がある日の朝、その昼にあの食堂に行きますと津坂に声をかけてきたのである。 津坂は喜んで、その食堂で彼女を待っていたのだが、ついに、その昼、彼女は来なかった。 その日の午後、それに腹を立てた津坂は、秋山に怒りの電話をかけてしまった。 次の日の朝、後悔した津坂は、秘書課までおしかけ、秋山に会おうとした。 だが、秋山は、社長と打ち合わせ中であり、無視された。 その社長と連れ添って歩く秋山の後ろ姿を見ながら、津坂には、彼女がとても遠い存在になってしまった印象を受ける。

(※この後ろ姿のシーンは、下に貼った短縮版の動画では省略されています、念の為。 このあたりの津坂の失意を見せる情景は、誠に胸がキューンとして興奮しました。)

 その失意の津坂は、その昼も同じ食堂へ行くのだが、もう彼女は、ここには来ないかもしれないと、大いに後悔の念を繰り返す。 だが、ふと後ろをみると、彼女が食堂に入ってきてくれたのである。 ここで津坂は、前日の無礼な電話のことと、今朝の秘書課への非常識な訪問のことを謝った。 秋山は、それを許しながら、自分も前日の昼にこの食堂に来れなかったことをわびた。 そのあと、二人の会話は弾み、そして、初めてのデートの約束までするのである。

(※このあたりが、私にとって最高に面白い箇所でした。 この時の食堂での会話の後半部分は、二人の手の動きだけを映しており、そこに、心の動揺の様子を表していました。 そのシーンでの秋山ゆりの指が、とても美しかったのが印象的でした。 下に短縮版の動画をインポートしましたが、ここでは35分くらいに、そのシーンが始まります。 この動画は短縮版であるので、恐らく消去されないと思うと、うれしい限りです。)


抜粋・秋山ゆり・秋野太作・兄弟短縮版より・木下恵介アワー

 

 まあ、その後は、二人の関係は、徐々に深まったいくのですが、それは、あくまで心情であって、性的関係はやはりこのドラマでも一切表現されません。 この時代でも、婚約をするぐらいのカップルなら、多くが性的な関係を持ったと思われるのですが、この木下恵介アワーでは、そんなカップルは全く出てこない。 同じ山田太一の脚本でも、それから、15年ほど後に書かれた”ぶぞろいの林檎たち”では、そこに出てくる大学生たちの性に関わる表現や葛藤が詳細に描かれるのとは、かなり異なります。 やはり、時代が大きく変わったのか?

 ただ、この津坂と秋山の二人が、精神的には徐々により親密になっていくにもかかわらず、こんどは、新たにそれぞれの悩みが生じてくる。 それは、たとえば、愛といっても、この愛は、長い人生の間、ずっと続いていくものなのか、とか、あるいは、この結婚で、多少幸福になるかもしれないが、私の人生は、もうこれでほぼ決まってしまうのかーーー、などなどの心情を、山田太一は役者に言わせている。 この辺は、私も若い頃、同じようなことをいろいろ考えていたので、ウナッたところです。  

 それと、このドラマでは、津坂の父親が会社での若手社員との対立により挫折し左遷され、そこから自らのこれまでの主義主張に対する反省の念を含めた立ち直りの場面があったり、母親が自身の主婦としての生きがいを問い直す(女性の自立に関わるような)シーンもあり、家族というものの存在を奥深く探っている感じがして、さすが山田太一だ、と思いました。

(※が同時に、このドラマが出て50年経つ今の時代の我々の人生観・家族観は、どこまで進歩したのだろうかという疑念も感じた次第です。)

 それと、もうひとつ、秋山の父には、大工の弟子がいました。 この弟子が、秋山を好きになり、自分とは釣り合わないお嬢さんと知りつつ、その恋愛感情を彼女に伝え、また、津坂に挑戦状を叩きつけるかのように、ずうずうしい面談を申し出ます。 このあたりのいわゆる労働者の立場の言い分も、山田は、この弟子のセリフとして吐き出させているように思えます。 

 津坂と秋山の恋の進展を願う多くの視聴者には、この弟子の言動は、許されるものではないかもしれない。 しかし、社会のいわゆる見えない身分差のようなものに、山田太一は、このドラマを通じ、いろんな形で抗議していたのかもしれません。 

 ま、とにかく、このドラマの最後の5・6回は、短縮版での視聴になりますが(ここに貼ったダイジェスト版と量的にはほぼ同じ)、なんとかこの年長カップルの恋愛が成就するのを見ることができます。 もちろん、完全版をみたいものですが。

 とりあえず、今回見た数々のドラマの動画をアップされた方々に、いっぱい感謝して、今日のところは、このへんで終えることにします。

懐かしのドラマ、竹脇無我や石立鉄男の作品など

 こちらは3月になって日がかなり長くなってきましたが、最近まで、冬の時期というのとコロナの影響もあって、パソコンをいじる時間がさらに増えていました。 それで、ユーチューブをまた見ていたら、新たに興味ある昔のドラマが多く追加でアップされていて、ついつい長時間見続けてしまっています。 

 そこで今回は、自分が物心ついてから大学生時代頃までに大好きだったドラマを中心に(バラエティーなどを除く)書き上げてみることにしました。 全く個人的なもので備忘録そのものなんですが、活字で残す方が後で見やすいので、ここに書いておくことにしました。 非公開の投稿にできれば良いのですが、はてなブログでは、それができないようですね。 まあ、見る人がほとんど0なので、同じかな?

 それで、それらを思い起こしてみて、私の場合、特に3人の脚本家による作品が大好きだったんだと改めて確認しました。 それは、山田太一さん、佐々木 守さん、松木ひろしさんのお三方です。 そして、恐らく、この方々の思想信条が、私のその後の生き方にかなり大きな影響を与えていたようにも感じます。

 また、俳優では、竹脇無我さんと石立鉄男さん、そして、近藤正臣さんが特に好きでした。 どうも、男優の演じる役に自分を投影するので、そういうことになるのでしょうか? もちろん、好きな女優さんも多くいましたが、男優に比べ特に誰かを追いかけてテレビ番組を見たという記憶はないですね。 ちなみに、

・石立 鉄男 (1942年7月ー2007年6月、享年64歳)

・竹脇 無我 (1944年2月ー2011年8月、享年67歳)

・近藤 正臣 (1942年生まれ)

 というぐあいで、皆ほぼ同じ年頃であり(戦中派)、テレビで有名になり始めたのも、だいたい1968-70年ぐらいだったかと思います。

 では、順序が逆になったかもしれませんが、私が各時期に一番気に入ってみていたテレビドラマを列挙してみます。 他にもいっぱい好きな番組はありましたが、特に今でも何かに関連付けて鮮烈に思い出せるものを挙げてみました。 (※は、私の年齢または学年)

 ・てなもんや三度笠(1962年ー1968年)前田のクラッカー  ※4歳

・エイトマン(1963年11月ー64年12月)丸美屋のフリカケ ※5歳 

・オバケのQ太郎(65.8-67.6)オバQ音頭・盆踊り     ※小学1年生

・ウルトラQ(66.1ー)昆虫収集家が怖い巨人に  

・木下恵介アワー・記念樹(66.4ー67.2、脚本:木下恵介・山田太一)

  母のそばで一緒に見た思い出のドラマ、主題歌にも泣けた     ※小学2年生

・マグマ大使(1967.7ー)                  ※小学3年生

・ウルトラマン(1967.7-脚:佐々木守)

・キイハンター(68.4ー73.4)               ※小学4年生

・木下恵介アワー・3人家族(68.10-69.4、山田初の単独脚本、演:竹脇)

・S・Hは恋のイニシアル(69.4-69.7、脚:松木ひろし、演:石立(準))

・柔道一直線(69.6ー71.4、脚:佐々木、演:近藤(準主役))※小学5年生

・姿三四郎(70.1-70.9、演:竹脇)

 この竹脇・姿を見て、私は柔道に強い興味を持ちました(小学5年後半)。 その前に始まった柔道一直線の近藤正臣さん演じる結城慎吾も大好きになりましたが、結城慎吾がこのドラマに登場するのは70年の春・夏頃なので、竹脇・姿より少し後なのです。

・おくさまは18歳(70.9ー71.9、脚:佐々木、演:石立)この時は、ハンサ

ムで演技力もある石立鉄男さんのファンになりました。        ※小学6年生

・お荷物小荷物(70.10-71.2、脚:佐々木)出演の林隆三さんも好きでした。

・木下恵介アワー・二人の世界(70.12-71.5、脚:山田、演:竹脇)

・木下恵介人間の歌シリーズ・冬の雲(71.1ー半年、演:近藤(準)) 

・おれは男だ!(71.2-72.2)

・気になる嫁さん(71.10ー72.9、脚:松木、演:石立)   ※中学1年生 

・飛び出せ!青春(72.2ー73.2) 

・国盗り物語(73年大河、演:近藤、林隆三)

・雑居時代(73.10ー74.3、脚:松木、演:石立) 石立・大原麗子さんの恋の駆け引きに見とれました。 ただ、この頃から、石立の容貌は、かなり二枚目半になってきた感じがしました。                     ※中学3年生

・男たちの旅路(76.2 第1部ー82まで、脚:山田) 大人になって、より価値

を増していった作品(主演:鶴田浩二さん)。

・気まぐれ天使(76.10ー77.10、脚:松木、演:石立)   ※高校3年生

・気まぐれ本格派(77.10ー78.9、脚:松木、演:石立) 中条静夫さんが、

劇中で犬猫病院の獣医師を演じていました。 獣医学科に入学を目指して浪人中だった

私は、まじめに勉強していましたが、この番組だけは見たような?   ※浪人                                

・ぶぞろいの林檎たち(83第1部、脚:山田)           ※大学6年生

 

  ざっと、ざっとですが、こんな感じですかね!? 子供の頃のものは、漫画やヒーローものを入れてみました。 ”てなもんや”は、恐らく最初から見たわけではないと思いますが、”エイトマン”は、かなり初めの方から見た印象があるので、私は5歳頃からテレビを見はじめていたのかもしれません。 子供番組は、これ以外にも、”巨人の星”(当時は巨人ファンでした)とか”男一匹ガキ大将”、タイガーマスク”のような漫画や怪獣ヒーローものもよく見ましたが、”ウルトラセブン”あたりぐらいまででしょうか(最終回は68年9月、10歳)。 

 小学高学年になると、”キイハンター”などのやや大人びたドラマに興味が移って行った感じです。 まああと、ドラマではないのですが、関西のコメディー番組やドリフの”8時だよ全員集合”などお笑い系は、その後もよく見ていたかもしれません。

 それで、3脚本家の他の作品を少し紹介しておきますと、山田太一は、”岸辺のアルバム”、”思い出づくり”など数多くあり、松本ひろしは、”だいこんの花”、”玉ねぎむいたら”、”俺はご先祖さま”など、そして、佐々木守は、”コメットさん”、”ウルトラセブン”等のウルトラシリーズ、山口百恵の赤いシリーズなどがあります。

 

 さてさて、この数週間、ユーチューブで見てきたのは、上に書いた作品のいくつかですが(竹脇・石立作品が中心)、少し面白いことに気づきました。 私は、もう長い外国住まいですが、日本のニュースは毎日見ているし、現在のドラマも結構見ています。 でも、私自身が日頃使う日本語は、30年前のものとほとんど変わらないものだと思っています。 それで、今の日本のテレビで流れてくる日本語に比べ、私の使っている言葉が違っている時、これは、それが私の関西弁のセイなのか、いや単に、今の人があまり使わなくなっただけなのか、よくわからないことがありました。

 でも今回、たとえば、竹脇無我の”二人の世界”や石立鉄男の”気まぐれ本格派”などを見ていて、私がよく使う”ぼちぼち”とか”やかましい”とか、”~~するトコ(するところ、ではなく)”や”~~しトク(しておく、ではなく)”などという言葉・表現が、その中で使われているのを知り、やっぱり今は少し使われなくなっているだけなのか、ということが確認できてスッキリしている次第です。

 で、もう一つ、石立の”気になる嫁さん”で、アイルランドの地図が貼ってあるのを見つけました。 文彦(石立)と力丸(山本紀彦)兄弟の部屋の中に貼ってあります。 彼らの部屋のドアの内側には、スティーブ・マックイーンのポスターがあり、その直角の位置に、アイルランド全図が貼ってあります。 私も以前持っていたものですし、まあ、アイルランドに住む者としては、うれしい発見でした。(昔は、全く気づいてなかったと思うが?)

 それと、松木ひろし脚本・石立鉄男主演のユニオン映画制作は、合計7本あるんですが、ここに書いた4本以外は、”おひかえあそばせ”(気になる嫁さんの前年)と”パパと呼ばないで”、”水もれ甲介”(それぞれ雑居時代の前後)の3本です。

 この中で、一番最終回の締めくくりが面白かったのは、やはり”雑居時代”なんですが、その次と言えば、”気になる嫁さん”になるかもしれません。 何か、あの完結してない感じ、つまり、文彦が前の家のガラスドアを壊す過去との決別のシーンがあったけれど、メグ(榊原るみ)がいつか帰ってくるような期待感もあり、ナカナカ感慨がありました。

 そんなこんなで、他にも今回いろいろ気がついたことを紹介したいのですが、長くなるのでこのへんで。 最後に、この数週間で見てきた作品は、どれも一度は見ていても、詳しいストーリーは、ほとんど忘れているので、全て新たに見る感覚で本当に楽しむ見ることができたのですが、その中でも、特に私が良いと思ったのは、木下恵介アワーで山田太一が初めて単独で脚本を担当した”3人家族”です。 この”3人家族”が、ほぼ全編アップロードされ、それを見た感動によって、今こうやって書いていると言ってもいいくらいです。

 私は、当時、ここに出てくる竹脇無我の背広姿が子供ながら格好良いと思ったようで、その頃、小学校の先生に将来なりたいものを聞かれた時に、”平凡なサラリーマン!”と言ったのを覚えています。 しかし、今回、このドラマを再度見て、竹脇演じるサラリーマンが、一流商社のエリート会社員であったのには驚きました。 でも、実家は、雨漏りがするほどの古屋で、親子3人が慎ましく生きている。(このあたりは、山田太一そして木下恵介の信条でしょう。)

 それと、栗原小巻演じる彼女との出会い、そして、その恋の進展ぐあいが、なんとも清々しいものでありました。 そして、矢島さんのナレーションは、現在のドラマには無いとても長いものですが、適確に二人の心理を説明してくれていて、まことに感じがいい。   

 そして、ナント言っても、主題歌! 大昔に聞いて知っていましたし、その後も何回か聞いたことがあったでしょうが、ほとんど忘れてました。 今回改めてドラマを見て、こんな良い歌だったのかという思いで、今は犬たちとの散歩の時に口ずさんでいます、ハハ。


竹脇無我さん・栗原小巻★二人だけ②めぐり逢い~三人家族より~★あおい輝彦、瀬間千恵

 歌詞をここにすべて書きますと、ーーーあ、タイトルは、「二人だけ」です。

① あの頃は何気なく会った あの人が なぜか心に残る 淡い恋心 

  この広い空の下 僕のさがす 幸せは あなただけあなただけ

② 名前さえ知らないで好きに なった人 いつも遠くの方から 私を見てる 

  燃えている夕焼けが 二人だけの 明日を 呼んでいる呼んでいる

③ 二人だけ二人だけ そんな 夢をみる だけど今だって僕は 幸せなんだ

  あの人の澄んだ目が いつも僕に 微笑みを 投げかける投げかける ーーー

 

 この歌詞は、1番は男性、2番は女性、3番はまた男性の気持ちを表現しており、ここにアップしたダイジェスト版の動画では、2番の歌詞をクラッシックの歌手である瀬間千恵さんという方が、初めの方で歌っていて(※一行目最後の歌詞部分”私を見てる”が、”私を見ている”に聞こえますが?)、後半には、あおい輝彦さんが、1番2番と3番の後半部分も歌っています。 他の動画では、ほとんどあおいさんのみの歌唱になっているのが多いので、この動画を選びました。 あおいさんのも良いけど、瀬間さんの歌声、とても素敵ですね!

   以上は、”3人家族”についてですが、このドラマは、極簡潔に言うと、真面目なエリート社員が仕事と恋愛の両立をいかに成し遂げるか、という内容であります。 逆に、続編とも言えるドラマ”二人の世界”は、同じエリート社員が会社に対する閉塞感のようなものを感じた末の退職、そして、その後の人生の大きな転換を描いています。 この私も同じような思い・経験があったので、こちらの方も食入って見てしまいました。 なお、このドラマのあおい輝彦が歌う主題歌”二人の世界”も、とても良いですね。 この歌は、大学生時代によくカラオケで歌ってました。

 では、今回はこのへんで。

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (20)

  2021年になってもうかなり経ちますが、この前の投稿から今回までの間に、私の住むここアイルランドも、そして日本も、新型コロナウイルスの感染状況がかなり悪化してきました。 特に、アイルランドは、少し前の数日間、感染者の発生率が人口比で世界最多というかなり厳しい状況にもなりました。 今は、少し発生数は減少しているようですが、私や家族もいつ感染してもおかしくない、と思っています。 そんなことで、ブログを書くことには特に支障はなかったのですが、なぜか書く気が起こらなかったというのが、本当のところでした。 で、今回は、日頃、私が格闘しているこの英語という言語の成り立ちを、主に民族の移動という点から見てみます。

 

⑳英語を形作ってきたゲルマンの諸民族

 少し前(第15回)に、フン族の西進に始まり西ローマ帝国の崩壊に繋がるいわゆる”ゲルマン民族の大移動”に関連した諸民族を書いたが、今回は、ほぼ同じ時期に、同じく父祖の地・北欧や北ドイツなどからブリテン島に移動したサクソン人やアングル人などの英語という言語の形成に関係していったゲルマン民族や、その後の約1000年の間に、さらに英語を進化させていった別のゲルマン民族たちの歴史を少し見てみたい。 

 このサクソン人・アングル人などは、フランク人やゴート人などに比べ、西ローマ帝国の崩壊を導いた”大移動”という観点からは、あまり重要視されていないが(こちらも、小規模ながらブリテン島にいたローマ軍を撤退させてはいるが)、それより、英国の建国の基礎を築いた点、さらに、その英国の発展とその後継国家であるアメリカの影響で今や世界語になった言語・英語の骨格をも形作った点で注目される。

  今回は、いつものウィキと、もう一つ、”the Story of English(英語の物語)”という1986年にイギリスで刊行された本も参考にする。 実は、この本と同じ内容のものが、かつてBBCでシリーズものの番組となり、その後すぐ日本でもNHKにより放送されたことがある(番組の日本語タイトルは、”英語についての第9章”みたいな?)。 そのテレビ番組では、当然、古英語や中英語そしてその他の言語や方言の発音をいろいろ例示していたので、その点は、この本よりさらに魅力ある媒介となっていた。 そして、私がまだ20代後半の頃で、英語への関心をより増進させてくれた記念すべき番組でもあった。 その時、ビデオにその9(?)回分すべてを録画したのだが、後年、再生するデッキも無くなり、いつの間にかそのビデオテープも消えてしまっていた。 

 ところが、2・3年前、こちらアイルランドの古本も扱っているチャリティーショップで、その番組の元となった本を偶然見つけたのである。 本があったとは知らなかったし、感激した。 昔、日本語版が発行されていたら、多分買っていたであろうから、日本語版は出ていなかったのではと思う?

 ということで、少し余談になったが、今回は、この本の最初の4分の1程度を再読して参考にしながら、ウィキの内容に加えていくため、通常よりさらに入り組んで読みにくい文章になるので、ご了承を。 

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                 私自身の写真より

 まず下図は、サクソン人などが本格的にブリテン島へ進出する少し前の時代を示している。 4世紀全体を通して、ローマ化されなかった現在のスコットランドやアイルランドにいたピクト人やスコット人が、度々ブリテン島中南部の元々同じケルト系であるがローマ化したブリトン人(the Britons)の領域を急襲していた。 そのため、ローマ軍は、幾度も壊滅のおそれもあったが、その度盛り返し持ちこたえていたようだ。

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383-410年頃のブリテン島(注釈無しは、すべてウィキペディアより)

 そういう状況下で、今度は、大陸からゲルマンの諸民族が、ブリテン島の東岸を中心に進出してくるのである。

 まず最初に、西暦400年代に起こったサクソン人(the Saxons)の移動から始める。 サクソン族が、最初にローマ帝国に明確に記されるのは、356年のことである。 その後、彼らは、ラインラントにいたフランク族のサリー人を追い払い、そこ地に侵入した。 

 そして、441-2年にかけ、サクソン人が初めてブリテン島に移住した、とゴール系の歴史家が書いている。 大陸にそのまま残り今日の北ドイツにいたサクソン人(やや南下したと思われる)が、最初に記録されたのは、555年にフランク王国の王が死に、その機会をとらえ、彼らサクソン人が王国に反乱を起こした時である。

 大陸のサクソン人は、その後も南下をする者が多く、現在のオランダ、フランス(ゴール地方)そしてイタリアなどに移動した。 オランダでは、今もサクソン語系の言語が残るし(あまり多くないが)、ドイツではサクソン(ザクセン)州などの地域名も残っている。

 さて、今回の主眼のブリテン島への移動であるが、これは、サクソン人を初め、アングル人、ジュート人、そして、フリジア人らが、共に西ローマ帝国の崩壊前後に新天地を求め移動し始めたことが発端である。 ただ、サクソン人の海の向こうへの移動は、フランク王国がサクソン領域へ伸張してきた影響があったためとも言われる。 

 その頃、サクソン人は、ブリテン島の南東海岸沿い(Saxon shore)に砦を築くのであるが、それ以前にも何世紀にも渡り、この地域を急襲していたようだ。(※上の図にもあるように、サクソン人だけ記載があるが(Saxon raids)、彼らサクソン人の行動が、のちにアングル人など他の民族・部族の行動を誘発するようになったのか?)

 ただ、ローマ帝国の崩壊前に、サクソン人は、このブリテン島での農耕・定住を許されていたようでもある。            

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サクソン人、アングル人などの移動の様子400-500年

 伝説によれば、サクソン人などの入植は、実は、この島に先住するケルト系のブリトン人(Britons)からの要請があったとされている。 それは、先の時代にもあったスコットランドやアイルランドのピクト人(Picts)やゲール人(Gaels)などのブリテン島(南部地域)への侵攻を防ぐためだったとも言われる。 

 そして、サクソン人たちは、ブリテン島南部に4つの王国及び地域を建てた。 すなわち、東サクソン人(East Saxons)が建てたエセックス王国(Kingdom of Essex)、 中央部のサクソン人による(Middle Saxons)のミドルセックス地方(province of Middlesex)、南サクソン人(South Saxons)のサセックス王国(Kingdom of Sussex)、そして、西サクソン人(West Saxons)のウェセックス王国(Kingdom of Wessex)である。

  以上、今回は言語の形成や変化の様子もある程度記述したいので、それを考えると、このサクソン人の移動の経過を少し長く書きすぎたが、次は、アングル人(the Angles)について。 彼らは、サクソン人に比べ、かなり以前からローマには知られていた。 1世紀の有名なタキツスのゲルマーニアに”Anglii'とスエビ族の支族として記されている。

 このアングル人は、ブリテン島に進出し、当初は、ノーザンブリア(Northumbria), イースト・アングリア(East Anglia), マーシア(Mercia)の3カ国を樹立した。  

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アングロ・サクソン七王国 600年頃

  次に、ジュート人(the Jutes)。 彼らは、今のデンマークの最北端に居住していた西ゲルマン民族であったが、彼らもサクソン人やアングル人と同様にブリテン島に移動して来た。 今のデンマーク国を形成する半島は、この民族名を冠して、ユトランド半島(Jutland)と呼ばれている。 ブリテン島に移動したジュート人たちは、主に、今のケント地域(Kent)やワイト島(isle of Wight)やハンプシャーなどに定住した。 また、彼らは、今のフィンランド方面にも多く移住した。 

 このジュート人のケント王国を初め、上記のサクソン人によるサセックス、ウェセックス、エセックスの3王国、及びアングル人の3王国の計7王国を総称して、アングロ・サクソン七王国(the Heptarchy)と呼んでいる(5世紀から8世紀頃まで)。 中央サクソンのミドルセックス地方は、アングルのマーシアに吸収されたようだ。

 この内、ウェセックス王国とアングル人の3王国の計4王国が、その後も勢力を保った。 それから、これら3つのゲルマン民族の他に、もう一つ西ゲルマン語族を話す民族が移住している。 それが、フリジア人(the Frisians)で、彼らは現在のオランダ沿岸辺りからブリテン島に渡り、ケント地方やイースト・アングリアなどに入った。

 このように5ー6世紀に、今のデンマークや北ドイツ・オランダあたりからブリテン島に移動してきて、新しい国家や言語を形成していったのは、主にこの4民族であった。 当然、この4民族が流入してきた当初は、彼らは、それぞれ自分たちの言葉を話していたものと考えられるが、互いの意思の疎通はほとんど問題なかった、と言われている。 ※そこまで言語が似通っていたなら、これはもう、彼らは互いに部族とか支族とか程度の差でしかなかったのかもしれない。 

 それから、この4民族が支配した地域では、互いに交流が進み、話す言葉は、より共通なものになっていったのは容易に推測がつく。 その初期の共通言語は、古英語(Old English)またはアングロ・サクソン語(Anglo-Saxon )と呼ばれている。 といっても、全く統一された言語ではなく、サクソン人やアングル人などのそれぞれの元の言語が中心となって、新しい土地でもそれを強く反映した方言として発展形成されていったのであろうと推測される。。 

 この古英語には、それまでこの地を支配していたブリトン人のケルト系言語の影響も多少文法的なもの(進行形などの表現)にいくらかあったようだが、語彙では、英語に残った単語は、”avon"(川、river)など非常に限られている。

 一方、これまでブリトン人の土地を支配していたローマ帝国のラテン語は、当時の西ヨーロッパのlingua franca(世界語}であり、古英語にも多くの単語を残しているようだ。 それは、これらのゲルマン民族がキリスト教に改宗した7世紀以降は、聖書などを通しさらに影響が強くなっていった。(discipline, shrine, preost(priest)など)。 また、ラテン語同様、ギリシャ語(apostle, pope など)やヘブライ語(sabbathなど)も同じ理由で導入された。

 さて、上記のゲルマン4部族の内、フリジア人の使うフリジア語(Frisian language)は、いまでもかなりの話者がオランダに居住している。 もちろん、彼らの言語も、その後の1500年もの年月で変化はしていても、英語に比べれば少ないものがあるのではないか? ここで、彼らの言語を少し紹介してみたい。 

英語: The boy stroked the girl around the chin and kissed her on the cheeks.

西フリジア語(West Frisian): De jonge  streake it famke om it kin en tute har op e hangen.

ドイツ語:Der junge striechelte das Madchen ums Kinn und kusste es(sie) auf die Wange.

(※すべて現代語。 ”少年は、少女の顎をなで、そして、彼女の両頬にキスをした。” ほどの意味。 なお、英語以外の言葉には、ウムラウトなどの特殊記号がいろいろあるのだが、ここでは表記できていない。)

 フリジア語でも、現在いろんな方言があり、ウィキではその多くを紹介しているが、ここでは中心的な方言である西フリジア語を取り上げてみたが、どうだろうか? あとで詳しく書くが、英語は、その後その語彙をかなりラテン語・フランス語などから借用しているので、単語の変化はかなりあるが、それでも、基本単語と思われる英語のthe、stroke、chin、 and、herなどの言葉は、みな同一語源であるように見える。

 農業関係の単語は、当時最も大事な言葉の一つであったはずだが、その関連の単語でも、フリジア語(カッコ内)と比べると、cow(ko), lamb(lam), goose(goes), boat(boat), dung(dong、肥え), rain(rein)など非常によく似ている。 また、a cup of coffeeもフリジア語では”in kopke kofje"である。

 そして、何より 文の基本構造自体が、非常によく似ている。 このように現在の言葉でも、これだけ類似しているのであれば、アングロ・サクソン七王国時代の各民族・部族の言葉は、相当似通ったものであったに違いない、と改めて言えるだろう。

 

 古英語そのものに戻るが、土地を追われたケルト系のブリトン人にとっては、当初、この征服者たちを、皆サクソン人だと見ていたようだが、しだいに彼らをアングル化した名称で呼ぶようになる。 この地の人々は、Angelcynn(Angleーkin) と呼ばれ、この地域は、Englisc と呼ばれるようになった。 さらに、西暦1000年までには、この地域はAngles の土地、すなわちEnglalandとして知られるようになる。

 さて、今現在の英語・近代英語(Modern English)の最も基本的な100の単語は、すべてアングロ・サクソン由来である、と言われる。 これも、農業や基本生活物資関連の言葉が多くなるが、列挙すると、the, is, you, here, there, sheep, shepherd, dog, swine, ox, plough, earth, wood, field, work など数え切れない。 また、今も単語としては残っていても、意味が異なっている場合もある。 例えば、Merry Christmasの”merry"は、古英語では”agreeable(快い、同意できる)”というほどの意味であった。 

 その後、七王国の中でも、特にウェセックス(Wessex)、そして、後にはマーシア(Mercia)も、英語の発展形成の上で主要な地位を占めていくが、800年頃のイングランドでは、下に示すように主に4つの方言区域に分割されていた。 この内、MercianとWest Saxon (※言語としては、Wessexではなくこの言葉を使うようである。 西サクソン語とでも?)の境界は、テムズ川である。 

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800年頃の古英語の方言分布

 さて、この時代のすぐあと、英国及び英語の形成に大きく影響を与える、別のゲルマン民族が、また同じく北欧から襲(や)ってくるのである。 ヴァイキング(the Vikings)である。 これについては、アングロ・サクソン年代記(AngloーSaxon Chronicle)という、ウェセックスのアルフレッド大王時代から古英語で書かれた非常に重要なアングロ・サクソンの歴史書に、その経緯が詳しく記されている。

 9世紀頃、今のノルウェイやスウェーデンの南部、デンマーク辺りにいたヴァイキングは、ブリテン島やアイルランド、さらにロシアなどのヨーロッパ各地、そして、遥か北アメリカ大陸へも進出していったのである。 一説では、彼らの移動の主目的は、ヴァイキング社会は一夫多妻制なので、男たちはより多くの女を求め、周辺の国々に侵攻していった、ということのようだ。

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9世紀、ヴァイキングによる婦女略奪(19世紀の絵画)

 ウェセックス王Beorhtric(786-802)の時代、北の男たち(Norsemen)を乗せた3隻の船が、ドーセットの港に上陸した。 土地の役人が、彼らを宗教者と間違えて村に迎え入れたが、北の男たちは、その役人と村人たちを殺してしまった。 そして、ヴァイキングたちの一番最初の計画的侵攻は、793年1月6日に起こった有名なノーサンブリア(Northumbria)の海岸にあったリンディスファーン(Lindisfarne)島の修道院への急襲であった。

 さらに、865年以降、今のデンマークあたりに住むヴァイキング・デーン人(the Danes)が、侵攻に加担し、やがて彼らは東アングリアを中心にその占拠する地域を拡大し、のちにノーザンブリアのヨーク地方も制圧した。 これらの占領地が、後にデーンロー(Danelaw)と呼ばれる地域である。

 アングロ・サクソンの諸王国は、この侵攻にほとんど抵抗できなかったが、唯一ウェセックスのアルフレッド大王(Alfred the Great)は、878年、ヴァイキングのリーダーGuthrumの軍隊にエディングトンの戦いで勝利し、その後協定を結んで旧アングロ・サクソン諸王国とデーン・ヴァイキング国家の棲み分けのための境界線を確定した。(the Danelaw)

 しかし、その後も、両者の小競り合いは続いたが、アルフレッドの後継者たちは、徐々にデーンロー地域を縮小させ、やがてヨーク地方も奪い返した(919年頃)。 そして、アングロ・サクソン人とデーン人との混血混住も進む中、ウェセックス王国とマーシア王国の血を引く後継者たちは、10世紀中頃までに全イングランドを統一した。(ただし、イングランド最北西の地・カンブリアCumbria 地方は、11世紀末まで含まれなかった。) 

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878年、デーンロー区域(赤色)とアングロ・サクソン諸王国(茶色系) 

 さて、旧アングロ・サクソン領域では、ウェセックスの力が強かったので、その方言・West Saxon(西サクソン語) が、域内の主要な言語となった。

 デーン人を初めとするこのヴァイキングたちは、同じケルマン民族でも北ゲルマン語族に属する古ノルド語(Old Norse)を話す民族だった。 この古ノルド語は、それまでのアングロ・サクソンやジュートそしてフリジアの4部族の話した言語・西ゲルマン語族に比べ、幾分かの違いがあったはずだ。 

 この間の民族の移動をもう少し説明すると、5世紀あたりでは、今のデンマークを中心に北ドイツ、オランダなどにいたのは、既述の西ゲルマン語を話すジュート人やアングロ・サクソン人であったが、8世紀頃では(正確な時期など詳細は不明だが)、デンマークに住む民族は、その北のスウェーデン南部やZealandあたりから南下してきた、それまでヴァイキングと呼ばれていた集団である。 その後、この地のヴァイキングはデーン人(the Danes)と呼ばれるようになった。 なお、ブリテン島などに移住せずにデンマークに残ったジュート人などは、のちに、このデーン人の集団に埋没していったと考えられる。

 さて、この古ノルド語を話す民族の流入によって、英語はどう変化したのだろうか? 一説には、この古ノルド語は、英語の進化という点で最も大きな影響を与えたとも言われる。 まず、この古ノルド語は、基本的には古英語の文構造に大きな差はなく、両者はあまり苦労せず意思の疎通ができたようである。 ある種の文末の表現などが違っていただけのようだ。 

 また、単語も似たような形のものが多かったようだが、かなりの単語が古ノルド語から古英語の語彙に流入してきた。 たとえば、デーン人は多くの地名などを残した他、戦いや法律用語などに関連したwindow, knife, plough, leather, raft, husband,  bylawなどの多くの単語や、木曜日などの曜日の名称を英語に残していった。 既述のように、古英語と古ノルド語には、文法的には幾分かの差異があったようだが、集団の交流が増す中、それを解消するように英語の文法はより簡略化していくようになった。

 例えば、この時代のアングロ・サクソン人と古ノルド語のデーン人の文を比較してみると、現在英語で、I'll sell you the horse that pulls my cart. (私の荷車を引っ張っているあの馬をあなたに売ろう。)という文を、アングロサクソン人は、”Ic selle the that hors the draegeth minne waegn. ”と言い、  一方、デーン人は、” Ek mun selja ther hrossit er dregr vagn mine. ” と言っただろう。 この内容の文なら、互いに大意はつかめたであろうが、問題は、アングロ・サクソンの古英語では、”hors"の場合、単複同形だったので、デーン人には何頭の馬を売りたいのか、分からないということがあった。 こういう問題が、簡略化で解決していく。 

 なお、アングロ・サクソン人は、最初はほとんど文字による伝達がなかっと言われるが、後には、このヴァイキングたちと同じようにルーン文字を使っていた。 しかし、これはブリテン島では、10世紀頃にラテン・アルファベットに置き換わっていった。

 余談だが、このヴァイキングたちは、ロシア方面へも進出し、現地のスラブ人たちと混じり合ったようなのだが、言語においてはこの地域ではほとんどその痕跡を残していないようだ。 両者の言語の違いが多き過ぎたことと、ヴァイキング人口の相対的な数の少なさによるものと言われる。

 英語に戻って、古英語(Old English、OE)は、時代によりさらに3期に分けられている。 450-650年頃までは、前史古英語(Prehistoric OE)とよばれ、アングロ・サクソン語及びその4方言の時代であるが、文献的証拠はほとんど無い。

 それから、650-900年頃までは、早期古英語(Early OE)と呼ばれ、そして、それ以後1150年頃のノルマン人の征服時期までを後期古英語(Late OE)と呼んでいる。 その後は、早期中英語(Early Middle English)に移行していく。 このデーン人やヴァイキングが来襲し定着していく時代は、早期古英語の終わりとほぼ一致する。

 ここで、改めて古英語の一般的な特徴を書いていくと、まず文法では、格は5つあった。 名詞は男・女および中性名詞の3形態。(※近代英語では無くなった。ドイツ語は同じく3形態。) そして、単数・複数の区別も当然あった。 ※参考:例えば、格が多いということは、それがしっかりしていれば、文の中の各単語の位置はあまり重要ではない、ということになる。

 たとえば、近代英語では、”to"や”from"などの前置詞が置かれるが、古英語では、"the king" を "se cyning" と言い、"to the king"を "thaem cyninge" と言っていたように、格の形の違いで意味が理解できた。 また、複数形の変化も、古英語では、例えば one "stan"(stone) , two "stanas"(stones) のようであった。 

 他にも例を挙げると、地名ではBirmingham などの”ham” 、Brightonの”ton”、 Oxstedの”sted”などの語尾がつく地名は、アングロ・サクソン由来であり、Derby の”by”や Swainswickの” wick”が付く地名は、デーン人やヴァイキング由来である。 さらに、既述したが、単語は似ている部分も多いので正確にノルド語由来と言うのは難しいものもあるが、get, hit, leg, low, root, skin, same, want, wrong などの少なくとも900語は、北欧由来である。 また、skyなど”skー”で始まる単語も古ノルド語系である。 

 ここで最後に、聖書にある古英語をいくつか書いてみる。(かっこ内は、現代英語)

Ume daeghwamlican hlaf sele us todaeg      (Give us our daily bread today.)

And forgief us ure gyltas, swa swa we forgiefap urm gyltendum   (And forgive us our             debts, as we forgive our debtors.) ※ここでも、古英語に多くある特殊な記号(文字上の・など)は、書けていない。

 どうであろうか? ウィキには、発音の仕方もあったが、ここでは表記不可能なので載せてないが、これらの単語以上に発音では、現在英語との差が大きいようだ。 

 

  さて、それからまた100年ほど経過し、次に英語(この時はまだ古英語)の発展に大きな影響を与えた集団も、その大元は、同じゲルマン民族でありヴァイキングでもあった。 しかし、彼らに付けられた新しい名前は、ノルマン人(the Normans)というものであった.。 

 北欧のヴァイキングは、ヨーロッパ各地に侵略していったと先に述べたが、その一つの地域が、現在のフランス北西部にあるノルマンディー半島である。 この地に定住したデーン人を中心としたヴァイキングは、元々この土地にいたフランク王国のフランク人やガロ・ローマ人たちと混ざりあった結果、9世紀の前半には、ノルマン人としてのアイデンティティーを確立したという。 ちなみに、ノルマンという語は、北の男という意味の言葉(Norsemen など)から派生しており、さらに、そこから地名のノルマンディー(Normandy)も生まれたようだ。

 言語面で言えば、このノルマン人は、最初土地のガロ・ロマンス語を借用していたが、彼らの古ノルマン語方言(Old Norman dialect)は、ノルマン語(Norman)またはノルマン・フランス語(Norman French)と呼ばれる言語となっていった。

 このノルマン人のノルマンディー半島は、やがてノルマンディー公爵の土地領土として継代されていく(ノルマンディー公国)。 そして、彼らは、別のヴァイキング集団が作った対岸の国・イングランドにもその勢力を伸ばし、1000年頃以降、姻戚関係などによりノルマンディー側は、イギリスへの本格的な侵攻を図った。 11世紀半ばには、イングランド王位を奪い、多くのノルマン人貴族などが流入し、その宮廷からアングロ・サクソン人を追い払った(ウイリアム征服王、Willium the Conqueror)。 

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ノルマン人が征服した地域(赤色)1130年頃

 実は、このノルマン人の来襲の数十年前に、デンマークにいたクヌート大王(Cnut the Great)というデーン人の王が、先にイングランド全域及び北欧も支配するという動きがあった。 

 さて、ドーバー海峡の両岸の国々を治めたノルマン人であるが、やがて、彼らにとって、イングランドの方がより重要な土地になった。 そのイングランドで彼らの使う言葉は、アングロ・ノルマン語(Anglo-Norman)または、アングロノルマン・フランス語(Anglo-Norman French)呼ばれる新たな言語であった。 

 しかし、そのアングロ・ノルマン語という名前であるが、この言語は、古フランス語の方言の一つから派生した古ノルマン語(Old Norman French)に由来しており、基本はほとんどフランス語であった。 この新しい言語は、古英語に対して、文法的にはあまり大きな影響を与えていないが、膨大な単語を注入し、英語の語彙を豊かにした。 既述のように、征服ノルマン人は、王侯や貴族、上流階級の人間が主体であったので、言葉の上でも、宮廷言葉や政治・法律などの関係用語がまず流入した。

フランス語 >ノルマン語 >英語   フランス語 >ノルマン語 > 英語

chateau           caste              castle    chasser       cachi       catch

 chaptel      cate     cattle    jardin     gardin       garden

 chenil      kenil      kennel   poche             pouquette      pocket

 このアングロ・ノルマン語は、しかし、初期では、一般庶民の言語生活を変えるほど大きなものではなかった。 それは、この上流階級だけで流入人口が少なかったことや、イングランドでの混血が進んだこと、そして、ノルマンディー半島が、13世紀初めに、彼らの領土でなくなるという事態が起こったことでフランス語との決別の意識が生まれたなど、それらの要因で英語への影響が当初は限定的であった、と考えられる。 

 しかし、これらの新しいフランス語やラテン語由来の単語は、時代が進むにつれ社会や文化の高度化も進み、その需要が一層増し、同時に一般庶民の教育水準や識字化の向上も相まって、徐々に英語の語彙として確実な地位を得ていく。 attorney, nobility, felony などなど。 そして、これまでの単語と合わさって、英語では、一つの概念に2つ以上の語彙が生まれるのである。 例えば、royal- regal - sovereign や  time-age-epoch など。  

 最後に、下図は、やや古いが、現在英語の語彙の由来を示している。 もちろん、どの分野の単語を多く採用するかで、傾向は若干異なるが、原語のゲルマン語とラテン語、フランス語の割合が、ほぼ同じくらいの比率になっているのは、驚きだ。 

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オックフォード辞典の8万語よりその語源を調査、1973年

 以上、見てきたように、古英語に始まる英語の変化(進化)は、いくつかの異なる集団であったが、どれも皆同じゲルマン民族によって形成されていった。 ただし、語彙的には、彼らゲルマンの諸言語の基礎語に加え、ラテン語、フランス語などから多くの単語が借用されてきたのも事実である。

 今回は、英語の変化の凡例も含めたので、かなり長い文章になってしまった。 しかし、私自身、デーン人とヴァイキングそしてノルマン人という各存在の定義が、あまり判然としていなかったところがあり、この度、それがはっきり確認できた。

 なお、英語は、これ以後、中英語(Middle English)、そして、近代英語(Modern English)へと変化していく。 そこでは、印刷術の利用に絡む各方言と綴り(スペル)の関係、ラテン語などの継続的な流入、そして、母音の発音が大きく変化する大母音推移(Great vowel shift)などにより、英語には、形態的にさらなるダイナミックな変化が起きる。 

 非常に大事なので極く簡潔に書いておくが、英語の綴りと発音は、非常に一貫性がない。 というのは、この各地の方言の発音とそのスペルをゴチャ混ぜにしたからであり、また、私が長年疑問に思っていた(それまで、英語の主語は、IcとかIk、Ichとか書かれ、イクとかイッヒとかと発音されていたのが、今のI(アイ)という極めて異なる発音になったのだが、それが具体的にいつ頃だったのか?)という疑問は、ウィキに大母音推移という現象で詳しく説明されており、大いに参考になった。

※ちなみに、最初に紹介した本”英語の物語”では、この大母音推移は、巻頭の詞の中でその単語が一言書かれているだけで、本文のどこにも説明など一切無い。 巻頭の詞は、普通、本が発行される直前に書かれるので、その時期の最新情報が盛り込まれることが多い。 ということは、この大母音推移は、1980年代後半になって、やっとその現象が解明され始めたのかもしれない?

 ということで、現在までの英語自体の変化を正しく書くには、この大母音推移などをしっかり書くべきところなのだが、今回は、字数が大変多くなったことと、このゲルマン民族の移動という観点からであったので、それ以後の時代の変化については割愛した。

 なお、次回は、どの地域をテーマにするか、今検討中なのであるが、ナカナカ思いつかない。 そろそろ東アジアに行くべきか?

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (19)

⑲ オスマン帝国までのテュルク系民族国家の系譜

 この書き込みの第8回及び9回あたりで、テュルク系の民族の移動を少し書いたが、現在のトルコ人の直接の成り立ちそのものは、ほとんど書いていなかったので、ここでもう少しだけ掘り下げてみたい。 といっても、歴史の事実の変遷を細かく取り上げるわけではなく、これまでと同様、図などとともに簡潔に記すだけであるが。

 さて、フン族の由来は匈奴、あるいは、アヴァール人の出自は柔然である、などの説はよく言われ、ここでも少し書いたが、絶対的な確証は今のところないらしい。 しかし、セルジュークやオスマンなど今のトルコ共和国に直結する王国・帝国を建国した民族の起源は、今のモンゴルや中国北方にあった突厥(Gokturks)であるのは、ほぼ間違いのないところらしい。

 ただし、突厥以降に入る前に、まず言わなければならないのは、テュルク系民族は、そのずっと以前に出現しているということであり、その起源は、今の中国東北部あたりと考えられている。 今のシベリアの最北・サハ共和国にもテュルク系の民族がいることを鑑みれば、それも理解しやすい。 

 その後、テュルク族の主流は、徐々に西方に移動し、数多くの民族・集団を生み出していくことになる。 ウイグル人やカルルク人、現在の中央アジアの諸民族(カザフやキルギスなど)なども、このテュルク系である。 その間、中国北方ではモンゴル語系などの集団、そして、西域やその以西の地域では、イラン系の集団などとも入り交じり、多様な民族が分岐・形成されていった。

 ただ今からは、初めに書いたように、そのテュルク系の中でも現在のトルコ共和国に繋がる中心的氏族・家系に焦点を当て、その移動の変遷などを英ウィキを中心に見てみたい。

※その前に、国としての突厥(とっけつ)の英語表記は、The Gokturk Khaganate や The first Turkic Khaganate などがある。 Khaganate という言葉は、可汗Khaganや汗khanなどのテュルクやモンゴル系の最高権力者の治める国という意味で使われる。 King王 のkingdom王国と同じ意味合い。 また、英語では、突厥をFirst Turkic Khaganateと歴史上の最初のテュルク系可汗国と明記もしていることにもなる。

 なお、これらの表記や発音に関しては、なかなか難しいものがあり、日本語ウィキペディアでは、このタイトルとしてのKhanは、ハーン(ハン)を主に使っている。 しかし、モンゴル帝国の始祖・成吉思汗(漢字表記)を日本語ウィキでは、チンギス・カンと書いている。 チンギス・ハン(ハーン)ではなく、ジンギス・カンでもない。 英語では、Genghis Khanと書かれ、ジェンギス・カーンのような発音になっている。 とにかく、外国の地名や人名を日本語に置き換えるのは、とても難しい。

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576年、突厥の最大勢力図

 突厥族は、イェ二セイ川の中上流域(モンゴルのかなり北西)が起源とされる。(※キルギス人などもそうであるが、原初は、シベリアのかなり北部から来ているように言われる。 これは、テュルク族が、それ以前すでに中国北方やシベリアに広く分散した結果によるもので、ある集団は、ある地で再度大同結集し、勢力を伸ばし、国家形成などという大きな流れになっていったもの、と推測する。)

 突厥は、中国北方を支配していた柔然の下で、鍛鉄奴隷として鉄工の生産に従事した。 その鉄工の技術は、柔然以前の匈奴の時代に得たものらしく、やがて、この鉄器生産技術でこの地方の有力な部族となり、周辺の民族(契丹族、キルギス人、エフタル人など)を征服したり併合したりして、550年頃には西はアラル海に届く広大な国となる。 しかし、突厥は582年頃、東西に分裂する。

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7世紀初めの東西突厥可汗国

 東突厥(the Eastern Turkic Khaganate)は、中国・唐王朝から侵略をうけ、その支配下(きび政策)に入る(630-680年頃)。 その後、再興して680年頃から744年頃まで存在する。 この再興後の国については、英語では、Second Turkic Khaganate(第二テュルク可汗国)と呼ばれている。 なお、唐朝支配以前を第一テュルク可汗国とも言う。 (※これらの名称は、他にもテュルク系部族があることを考えるとあまり適切でないように思うが?) 第二テュルク可汗国は、後突厥という漢字名(中国名?)もあり、中国でも分離して扱っているのかもしれない。

 ともかく、この東突厥は、744年頃までに、同じテュルク系のウイグル族やカルルク族などの部族により滅びる。 

 一方、西突厥(the Weastern Turkic Khaganate)も、650年頃から唐の支配下に入り、その後、780年頃には、カルルクとウイグルに従属していき、その中に埋没していく。

 この西突厥の崩壊の後、そのテュルク系の集団は、様々に分散していき、また別の国家を樹立する集団もあらわれるが、その中で、後にセルジーク・トルコやオスマン・トルコ帝国を建国していく集団(氏族・家系?)が現れる。 それは、ほとんどの日本人にはあまり馴染みのない名であるが、オグズ族という。 (※この名前は、私が持っている高校生用の世界史年表には全く出てこない。なお地理的には、西突厥は見てきたように、すでにアラル海周辺にも領域を広めていたので、のちの各テュルク系集団は、それほど西進したということでもない、と言えるのかも。)

 オグズ国(Oguz Yabgu State):オグズ族(Oghuz Turks)によって766年に建国。 オグズは、突厥で元々中心的な役割をしていた部族(十姓)であったわけではないようだ。 このオグズ族の言語、オグズ語は、現代のトルコ語と直結しており、これらの言語・文化を持った集団が、後のセルジュークやオスマン建国の中心的な存在であることは間違いないようだ。

 9世紀初め、オグズ族は他のテュルク系集団と共に、カンガル国を破り、西はアラル海近くまで勢力を広げる。 965年、オグズ国は、キエフ・スラブ系とともにハザール国と戦い、985年には、同じくキエフ軍とともにヴォルガ・ブルガールを破り隆盛した。

 しかし、10世紀後半には、国内のセルジューク一族との対立が激化、11世紀には、セルジューク族は、ペルシャや中東に移動し始める。 オグズ国の最後のリーダー・Shahmalikは、1041年にガズニ朝からホラズム(地方)を奪ったが、その2年後、彼はセルジューク族に捕まり処刑される。 内部分裂で弱まったオグズは、キプチャク族(これもテュルク系)によって滅ぼされる。

 多くのオグズ人は、東ヨーロッパに逃れ、セルジューク族は、南の小アジアに向かった。 その他のオグズは、セルジーク朝やカラ・ハン朝に移動したり、その地でキプチャク汗国に混入した。 このオグズ族の分散は、しかし、今日の様々なテュルク系住民の形成に貢献した。  オグズは、当初は、以前からのシャーマニズムを信仰していたが、のちにイスラムとなった。

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オグズ国(黄土色)及びカラハン国(薄紫色)の位置。 その他の周辺国もテュルク系が多い。 

 

 オグズ国のあった地域は、その以前の750年頃までは、同じテュルク系であるが、突厥の中心部族とは直接繋がらないKangar Union(カンガル連合国?)があったし、また、その西隣にはハザール国Khazar Khaganateなど(※同じような国名が並ぶ。語源が同じようなものだったためだと思われる。)があり、また、オグズの東隣りの地域では、960年頃、オグズ国より少し遅れて、これもテュルク系国家が誕生する。(さらに突厥系とも言われる?) 

 それは、カラ・ハン朝(Kara-Khanid Khanate)と呼ばれる。(※ただし、カラ・ハン朝の言語とウイグル語などは、近い関係であるのに反し、上記の現代トルコ語などのオグズ語群には属してないので、やはり系統はやや違うのか?)

 カラ・ハン朝は、11世紀半ばに東西に分裂。 このあと、東西カラ・ハン朝は、セルジュークトルコと一時争ったりしたが、後にセルジュークと協力して、契丹族系のカラ・キタイ国と争った。 東西カラ・ハン朝とも13世紀初頭前後に滅亡する。 

 このカラ・ハン朝が重要なのは、この国の時代に、初めて多くのテュルク系住民がイスラム教に改宗したことである(10世紀半ば)。 そして、名前や敬称もイスラム化した。 汗や可汗の称号は残ったが、やがて、これもスルタン(Sultan)に代わっていく。 なお、イスラム化したテュルク系遊牧集団をペルシャ語でトゥルクマーンという。

 なお、この頃のテュルク系の人種的外見は、周辺のイラン系やアラブ系からは、かつてのフン族などと同じような東アジア系の容貌(目が小さい、頭が大きいなど)であるらしく、それは、次のセルジューク朝の時期(全期間かどうかは?)でもそうであったらしい。

 セルジューク・トルコ(Seljuk dynasty): 初代のセルジュークは、オグズ族24氏族の内のクヌク家(qiniq、またはカニク家)の出身で、一族の長(bey)であった。 セルジュークは、985年頃までにはハザール国の軍隊に属していたが、今のアラル海南部低地に移動し、イスラム教に改宗した。 そのころ、この地域は、ペルシャ系のサーマーン朝に帰属していたが、999年までには、カラ・ハン朝に属し、南部はガズナ朝に支配されていた。 セルジューク集団は、サーマーン朝に組みし、カラ・ハン朝との戦いに参加した。

 セルジュークの孫、Tughril(テュグリル?)は、ガズナ朝(同じテュルク系)との諍いを繰り返していたが、1040年にこれを打ち負かし、その西半分の地を支配する。

 1046年までに、セルジューク集団は、現在のイラン北部まで征服地を広げた。 1048-49年には、この集団(the Seljuk Turks)は、ビザンチン帝国の領地であった小アジアの東側国境にまで進出。 1055年には、バクダッドを攻略し、時のカリフ(caliph)から信託を得る。 

 Alp Arslan (Tughrilの甥)は、その後も領土を拡大し、1068年には、ビザンチン帝国の支配地だった小アジア(アナトリア)のほぼ全域を収めた。

 

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1092年頃のセルジューク帝国

 Alp Arslan の後継者Malik Shah は、さらに帝国の領土を拡張し、東は中華帝国と西はビザンチン帝国とに境界を接するようになり、最盛期を迎え、Malik Shahは、時のカリフからスルタン(sultan)の称号を与えられる(1087年)。(※と、書いてあるが、11世紀の後半頃は、中華の王朝(この時は、北宋)とセルジューク朝の地理的間には、東から西夏・ウイグル・カラハン朝(セルジュークに従属していたかもだが)などがあった、と思う。)

 Malik Shahの死後、帝国は、息子たちや兄弟によって、分割統治される。 その中で、後に唯一残るルム・セルジューク(Rum Seljuk)国も生まれる。 Malik Shahの息子・Ahmad Sanjarは、兄弟との確執の後1118年にリーダーとなるが、1141年にカラ・キタイ(Kara Khitans)との戦いで初めて敗れる。 その後、帝国は衰退し、さらに、同じ帝国内の集団によって崩壊していく。 1157年にSanjarは死に、1200年代早々に帝国は、ホラズム(Khawarazmiasnsなど英語では多くの表記がある?)によって滅亡する。

  セルジューク帝国の関連でもう一つ重要なことは、彼らがこの間エルサレムを含む地域も占領したことにより、西欧諸国がその奪還のために十字軍を起こしたことである「1095-6年、第1回)。

 ルム・セルジューク(Rum Seljuk, Sultanate of Rum) :  既述のように、セルジューク朝の時にすでに、ルム地方(アナトリア中部)を管轄するスルタンの親戚一族がいた。 ルムとは、簡単に言えば、ローマの意味で、この辺りがビザンチン帝国領だったことによる。 やがて、この一族は、1077年には、このあたりの領有を主張し、自らスルタンを名乗る。 そして、十字軍とは、主にこのルム・セルジュークが迎え撃つことになる。

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ルム・セルジューク、1100-1240年

 ルム・セルジュークの最盛期は、1200年代の初め頃であった。 首都は、Konya. その後、モンゴル帝国がこの地に侵入し、ルム朝は従属した。 さらに、1260年頃には、当時のスルタンの死後、3人の息子たちにより地域は3分割される。 さらにその後、少分割され、1320年代にカラマン朝(これもオグズ族出身)によって滅ぼされる。

 オスマン帝国(Ottoman Empire): 13世紀には、上記のルム・セルジュークは衰退し少分割されていたが、その内の一つで、ビザンチン帝国に接する地域を治めていたのが、テュルク系の部族長・オスマン1世(Osman)であった。 オスマンは、オグズのKayi部族の出身であるという。 英語の国家名Ottomanは、このOsmanから由来。 オスマンに従う者は、テュルク系の他にビザンチン帝国から逃れた者などで、多くはイスラム教徒だったが、そうでない者もいた。 彼らは、その勢力を現在のトルコ西部に流れる川・Sakarya川沿いに拡大していった。 ただし、このオスマンが、その周辺国をどのように制圧していったのかは、資料があまりなくよく分からないという。

 オスマンの死後(1324年)から14世紀末までに、この国は、小アジアとバルカン半島を手中にしていた。 その間には、ビザンチンやブルガール、セルビアなどとの戦いがあった。 1389年のコソボでのセルビアへの勝利は、その後のヨーロッパへの進出の道を開いた。 さらに、1396年のブルガリアとの戦いに勝利したことで、ビザンチン帝国の領土は実質、首都のコンスタンティノープルだけとなった。

 しかし、このコンスタンティノープルは、堅固な要塞都市であった。 また、1402年には、オスマン帝国は、東からのチムール帝国との戦いに破れたり、内戦などのためバルカン半島を失った。

 しかし、ムラド2世(Murad)の治世時(1430-1450年代)に、ハンガリーやポーランドなどに対し、ヴァルナの戦いなどで勝利しバルカンの土地を奪い返した。 そして、ムラド2世の息子・メフメト2世・征服王(Mehmed the Conqueror)は、1453年5月29日、コンスタンティノープルを陥落させた。

 

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オスマン帝国、1566年時の勢力範囲

  オスマン帝国の歴史は、膨大に長く、とても紹介しきれないし、民族の変遷というここのテーマでは、それほど重要でないので、端折るが、その後もオスマン帝国は勢力を伸ばし、16世紀末頃にその最盛を迎える。 ただ、その後もこの地域に大きな影響力をもち続け、20世紀初頭まで存続したのは、誰もが知っているところである。

 それで、私のより興味のある民族的・人種的な変化について少し見てみたいが、今回見てきたテュルク系の国家・集団を扱ったウィキには、遺伝的な分析調査の記述は、非常に少ないか、ほとんど無かった(見つけられなかった)。 しかし、上記に書いた、セルジューク朝までのテュルク人たちは、まだ東アジア系の容貌を残していたという証拠になるかもしれない写真は数枚あった。 

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1307年頃に描かれた当時のスルタンBarkiyaruq(1092-1104)の戴冠の様子

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スルタンArmad Sanjar(1118-1153、最後のスルタン)の戴冠の様子(上と同時代同画家による)



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”セルジューク朝の女性”とだけ説明がある。

 さて、上の3枚の写真を見て、どうだろうか? 女性の塑像は、まさにアジア系であると言えると思うが、残念ながら年代などタイトル以上のことは何もわからない。 2枚のスルタンの肖像画はどうだろうか。 100年以上後に描かれているらしく、画家自身がテュルク系(イラン系か?)かどうかも分からない。 それらの要因を考慮すると、実物よりもっと西洋化あるいはイラン化した容貌に描いたとも想像できる。 スルタンの目元などは、かなりそのいう要素が入っているようにも見える? しかし、取り巻く人間の中には、よりアジア系の容貌を示すものも認められる。 これらの絵からは、少なくとも現在のトルコ人のように完全に周囲の民族と違わない西洋化(あるいはイラン化・アラブ化)した容貌ではない、ということは言えるのかもしれない。

 

 次に、オスマン時代のスルタンの肖像などを探してみたが、ウィキ上にあるのは、初代のオスマン1世からして、すでにかなりイランや西洋風の顔立ちであった。 少し探してみたが、アジア系を思わせるオスマンのスルタン画像は、ウィキでは見つけられなかった。 やはり、オスマンの時代まで下ると、もうすでにイラン化・欧州化の外見に完全に変化したのであろうか?  次の写真を見てほしい。

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メフメト2世(征服王)時代のヨーロッパ(オスマン治世下のバルカン半島だけだと推測されるが)に出た青銅製メダル(1481年)

 これは、おそらく忠実にメフメト2世を描いたものと思える。 しかも同時代のものと思われる。 先の二人のセルジーク朝のスルタンから約300年後のスルタンである。 

 最後に、オスマン朝の肖像は、初代から皆アジア風ではなかったと既に書いたが、そのうちの1枚を貼っておく。 これは、まさしくその初代・オスマン1世の肖像である。 どうみても、アジア系の面影は無い。 これら歴代のスルタンの肖像画は、恐らくトプカピ宮殿にあるものだろう。 私も、ちょうど20年前にイスタンブールに観光に行った時に見た。 なので、宮殿の資料を調べれば、この肖像画の描かれた経緯が分かるのかもしれないが、ここではやっていない。

 だが、繰り返しになるが、恐らくこの時点(オスマン1世)では、もう周辺の民族との遺伝的融合が、そうとう深まっていた、と言えるのだろう。

 このあたりについては、また何か新しい情報でもあれば、記してみたい。 

(※以上で一旦この回を公開したが、その後、トプカピ宮殿などのページを見てみると、メフメト2世・征服王以後は、実際の各スルタンのその治世時に肖像を描かせたようである。 メフメト2世以前の肖像は、残った本人に関する記述や想像で描いたようである。)

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オスマン1世の肖像