(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (19)

⑲ オスマン帝国までのテュルク系民族国家の系譜

 この書き込みの第8回及び9回あたりで、テュルク系の民族の移動を少し書いたが、現在のトルコ人の直接の成り立ちそのものは、ほとんど書いていなかったので、ここでもう少しだけ掘り下げてみたい。 といっても、歴史の事実の変遷を細かく取り上げるわけではなく、これまでと同様、図などとともに簡潔に記すだけであるが。

 さて、フン族の由来は匈奴、あるいは、アヴァール人の出自は柔然である、などの説はよく言われ、ここでも少し書いたが、絶対的な確証は今のところないらしい。 しかし、セルジュークやオスマンなど今のトルコ共和国に直結する王国・帝国を建国した民族の起源は、今のモンゴルや中国北方にあった突厥(Gokturks)であるのは、ほぼ間違いのないところらしい。

 ただし、突厥以降に入る前に、まず言わなければならないのは、テュルク系民族は、そのずっと以前に出現しているということであり、その起源は、今の中国東北部あたりと考えられている。 今のシベリアの最北・サハ共和国にもテュルク系の民族がいることを鑑みれば、それも理解しやすい。 

 その後、テュルク族の主流は、徐々に西方に移動し、数多くの民族・集団を生み出していくことになる。 ウイグル人やカルルク人、現在の中央アジアの諸民族(カザフやキルギスなど)なども、このテュルク系である。 その間、中国北方ではモンゴル語系などの集団、そして、西域やその以西の地域では、イラン系の集団などとも入り交じり、多様な民族が分岐・形成されていった。

 ただ今からは、初めに書いたように、そのテュルク系の中でも現在のトルコ共和国に繋がる中心的氏族・家系に焦点を当て、その移動の変遷などを英ウィキを中心に見てみたい。

※その前に、国としての突厥(とっけつ)の英語表記は、The Gokturk Khaganate や The first Turkic Khaganate などがある。 Khaganate という言葉は、可汗Khaganや汗khanなどのテュルクやモンゴル系の最高権力者の治める国という意味で使われる。 King王 のkingdom王国と同じ意味合い。 また、英語では、突厥をFirst Turkic Khaganateと歴史上の最初のテュルク系可汗国と明記もしていることにもなる。

 なお、これらの表記や発音に関しては、なかなか難しいものがあり、日本語ウィキペディアでは、このタイトルとしてのKhanは、ハーン(ハン)を主に使っている。 しかし、モンゴル帝国の始祖・成吉思汗(漢字表記)を日本語ウィキでは、チンギス・カンと書いている。 チンギス・ハン(ハーン)ではなく、ジンギス・カンでもない。 英語では、Genghis Khanと書かれ、ジェンギス・カーンのような発音になっている。 とにかく、外国の地名や人名を日本語に置き換えるのは、とても難しい。

f:id:Ayasamoneu:20201213221641p:plain

576年、突厥の最大勢力図

 突厥族は、イェ二セイ川の中上流域(モンゴルのかなり北西)が起源とされる。(※キルギス人などもそうであるが、原初は、シベリアのかなり北部から来ているように言われる。 これは、テュルク族が、それ以前すでに中国北方やシベリアに広く分散した結果によるもので、ある集団は、ある地で再度大同結集し、勢力を伸ばし、国家形成などという大きな流れになっていったもの、と推測する。)

 突厥は、中国北方を支配していた柔然の下で、鍛鉄奴隷として鉄工の生産に従事した。 その鉄工の技術は、柔然以前の匈奴の時代に得たものらしく、やがて、この鉄器生産技術でこの地方の有力な部族となり、周辺の民族(契丹族、キルギス人、エフタル人など)を征服したり併合したりして、550年頃には西はアラル海に届く広大な国となる。 しかし、突厥は582年頃、東西に分裂する。

f:id:Ayasamoneu:20201214023021p:plain

7世紀初めの東西突厥可汗国

 東突厥(the Eastern Turkic Khaganate)は、中国・唐王朝から侵略をうけ、その支配下(きび政策)に入る(630-680年頃)。 その後、再興して680年頃から744年頃まで存在する。 この再興後の国については、英語では、Second Turkic Khaganate(第二テュルク可汗国)と呼ばれている。 なお、唐朝支配以前を第一テュルク可汗国とも言う。 (※これらの名称は、他にもテュルク系部族があることを考えるとあまり適切でないように思うが?) 第二テュルク可汗国は、後突厥という漢字名(中国名?)もあり、中国でも分離して扱っているのかもしれない。

 ともかく、この東突厥は、744年頃までに、同じテュルク系のウイグル族やカルルク族などの部族により滅びる。 

 一方、西突厥(the Weastern Turkic Khaganate)も、650年頃から唐の支配下に入り、その後、780年頃には、カルルクとウイグルに従属していき、その中に埋没していく。

 この西突厥の崩壊の後、そのテュルク系の集団は、様々に分散していき、また別の国家を樹立する集団もあらわれるが、その中で、後にセルジーク・トルコやオスマン・トルコ帝国を建国していく集団(氏族・家系?)が現れる。 それは、ほとんどの日本人にはあまり馴染みのない名であるが、オグズ族という。 (※この名前は、私が持っている高校生用の世界史年表には全く出てこない。なお地理的には、西突厥は見てきたように、すでにアラル海周辺にも領域を広めていたので、のちの各テュルク系集団は、それほど西進したということでもない、と言えるのかも。)

 オグズ国(Oguz Yabgu State):オグズ族(Oghuz Turks)によって766年に建国。 オグズは、突厥で元々中心的な役割をしていた部族(十姓)であったわけではないようだ。 このオグズ族の言語、オグズ語は、現代のトルコ語と直結しており、これらの言語・文化を持った集団が、後のセルジュークやオスマン建国の中心的な存在であることは間違いないようだ。

 9世紀初め、オグズ族は他のテュルク系集団と共に、カンガル国を破り、西はアラル海近くまで勢力を広げる。 965年、オグズ国は、キエフ・スラブ系とともにハザール国と戦い、985年には、同じくキエフ軍とともにヴォルガ・ブルガールを破り隆盛した。

 しかし、10世紀後半には、国内のセルジューク一族との対立が激化、11世紀には、セルジューク族は、ペルシャや中東に移動し始める。 オグズ国の最後のリーダー・Shahmalikは、1041年にガズニ朝からホラズム(地方)を奪ったが、その2年後、彼はセルジューク族に捕まり処刑される。 内部分裂で弱まったオグズは、キプチャク族(これもテュルク系)によって滅ぼされる。

 多くのオグズ人は、東ヨーロッパに逃れ、セルジューク族は、南の小アジアに向かった。 その他のオグズは、セルジーク朝やカラ・ハン朝に移動したり、その地でキプチャク汗国に混入した。 このオグズ族の分散は、しかし、今日の様々なテュルク系住民の形成に貢献した。  オグズは、当初は、以前からのシャーマニズムを信仰していたが、のちにイスラムとなった。

f:id:Ayasamoneu:20201218074607p:plain

オグズ国(黄土色)及びカラハン国(薄紫色)の位置。 その他の周辺国もテュルク系が多い。 

 

 オグズ国のあった地域は、その以前の750年頃までは、同じテュルク系であるが、突厥の中心部族とは直接繋がらないKangar Union(カンガル連合国?)があったし、また、その西隣にはハザール国Khazar Khaganateなど(※同じような国名が並ぶ。語源が同じようなものだったためだと思われる。)があり、また、オグズの東隣りの地域では、960年頃、オグズ国より少し遅れて、これもテュルク系国家が誕生する。(さらに突厥系とも言われる?) 

 それは、カラ・ハン朝(Kara-Khanid Khanate)と呼ばれる。(※ただし、カラ・ハン朝の言語とウイグル語などは、近い関係であるのに反し、上記の現代トルコ語などのオグズ語群には属してないので、やはり系統はやや違うのか?)

 カラ・ハン朝は、11世紀半ばに東西に分裂。 このあと、東西カラ・ハン朝は、セルジュークトルコと一時争ったりしたが、後にセルジュークと協力して、契丹族系のカラ・キタイ国と争った。 東西カラ・ハン朝とも13世紀初頭前後に滅亡する。 

 このカラ・ハン朝が重要なのは、この国の時代に、初めて多くのテュルク系住民がイスラム教に改宗したことである(10世紀半ば)。 そして、名前や敬称もイスラム化した。 汗や可汗の称号は残ったが、やがて、これもスルタン(Sultan)に代わっていく。 なお、イスラム化したテュルク系遊牧集団をペルシャ語でトゥルクマーンという。

 なお、この頃のテュルク系の人種的外見は、周辺のイラン系やアラブ系からは、かつてのフン族などと同じような東アジア系の容貌(目が小さい、頭が大きいなど)であるらしく、それは、次のセルジューク朝の時期(全期間かどうかは?)でもそうであったらしい。

 セルジューク・トルコ(Seljuk dynasty): 初代のセルジュークは、オグズ族24氏族の内のクヌク家(qiniq、またはカニク家)の出身で、一族の長(bey)であった。 セルジュークは、985年頃までにはハザール国の軍隊に属していたが、今のアラル海南部低地に移動し、イスラム教に改宗した。 そのころ、この地域は、ペルシャ系のサーマーン朝に帰属していたが、999年までには、カラ・ハン朝に属し、南部はガズナ朝に支配されていた。 セルジューク集団は、サーマーン朝に組みし、カラ・ハン朝との戦いに参加した。

 セルジュークの孫、Tughril(テュグリル?)は、ガズナ朝(同じテュルク系)との諍いを繰り返していたが、1040年にこれを打ち負かし、その西半分の地を支配する。

 1046年までに、セルジューク集団は、現在のイラン北部まで征服地を広げた。 1048-49年には、この集団(the Seljuk Turks)は、ビザンチン帝国の領地であった小アジアの東側国境にまで進出。 1055年には、バクダッドを攻略し、時のカリフ(caliph)から信託を得る。 

 Alp Arslan (Tughrilの甥)は、その後も領土を拡大し、1068年には、ビザンチン帝国の支配地だった小アジア(アナトリア)のほぼ全域を収めた。

 

f:id:Ayasamoneu:20201218074922p:plain

1092年頃のセルジューク帝国

 Alp Arslan の後継者Malik Shah は、さらに帝国の領土を拡張し、東は中華帝国と西はビザンチン帝国とに境界を接するようになり、最盛期を迎え、Malik Shahは、時のカリフからスルタン(sultan)の称号を与えられる(1087年)。(※と、書いてあるが、11世紀の後半頃は、中華の王朝(この時は、北宋)とセルジューク朝の地理的間には、東から西夏・ウイグル・カラハン朝(セルジュークに従属していたかもだが)などがあった、と思う。)

 Malik Shahの死後、帝国は、息子たちや兄弟によって、分割統治される。 その中で、後に唯一残るルム・セルジューク(Rum Seljuk)国も生まれる。 Malik Shahの息子・Ahmad Sanjarは、兄弟との確執の後1118年にリーダーとなるが、1141年にカラ・キタイ(Kara Khitans)との戦いで初めて敗れる。 その後、帝国は衰退し、さらに、同じ帝国内の集団によって崩壊していく。 1157年にSanjarは死に、1200年代早々に帝国は、ホラズム(Khawarazmiasnsなど英語では多くの表記がある?)によって滅亡する。

  セルジューク帝国の関連でもう一つ重要なことは、彼らがこの間エルサレムを含む地域も占領したことにより、西欧諸国がその奪還のために十字軍を起こしたことである「1095-6年、第1回)。

 ルム・セルジューク(Rum Seljuk, Sultanate of Rum) :  既述のように、セルジューク朝の時にすでに、ルム地方(アナトリア中部)を管轄するスルタンの親戚一族がいた。 ルムとは、簡単に言えば、ローマの意味で、この辺りがビザンチン帝国領だったことによる。 やがて、この一族は、1077年には、このあたりの領有を主張し、自らスルタンを名乗る。 そして、十字軍とは、主にこのルム・セルジュークが迎え撃つことになる。

f:id:Ayasamoneu:20201227214526j:plain

ルム・セルジューク、1100-1240年

 ルム・セルジュークの最盛期は、1200年代の初め頃であった。 首都は、Konya. その後、モンゴル帝国がこの地に侵入し、ルム朝は従属した。 さらに、1260年頃には、当時のスルタンの死後、3人の息子たちにより地域は3分割される。 さらにその後、少分割され、1320年代にカラマン朝(これもオグズ族出身)によって滅ぼされる。

 オスマン帝国(Ottoman Empire): 13世紀には、上記のルム・セルジュークは衰退し少分割されていたが、その内の一つで、ビザンチン帝国に接する地域を治めていたのが、テュルク系の部族長・オスマン1世(Osman)であった。 オスマンは、オグズのKayi部族の出身であるという。 英語の国家名Ottomanは、このOsmanから由来。 オスマンに従う者は、テュルク系の他にビザンチン帝国から逃れた者などで、多くはイスラム教徒だったが、そうでない者もいた。 彼らは、その勢力を現在のトルコ西部に流れる川・Sakarya川沿いに拡大していった。 ただし、このオスマンが、その周辺国をどのように制圧していったのかは、資料があまりなくよく分からないという。

 オスマンの死後(1324年)から14世紀末までに、この国は、小アジアとバルカン半島を手中にしていた。 その間には、ビザンチンやブルガール、セルビアなどとの戦いがあった。 1389年のコソボでのセルビアへの勝利は、その後のヨーロッパへの進出の道を開いた。 さらに、1396年のブルガリアとの戦いに勝利したことで、ビザンチン帝国の領土は実質、首都のコンスタンティノープルだけとなった。

 しかし、このコンスタンティノープルは、堅固な要塞都市であった。 また、1402年には、オスマン帝国は、東からのチムール帝国との戦いに破れたり、内戦などのためバルカン半島を失った。

 しかし、ムラド2世(Murad)の治世時(1430-1450年代)に、ハンガリーやポーランドなどに対し、ヴァルナの戦いなどで勝利しバルカンの土地を奪い返した。 そして、ムラド2世の息子・メフメト2世・征服王(Mehmed the Conqueror)は、1453年5月29日、コンスタンティノープルを陥落させた。

 

f:id:Ayasamoneu:20201218075438p:plain

オスマン帝国、1566年時の勢力範囲

  オスマン帝国の歴史は、膨大に長く、とても紹介しきれないし、民族の変遷というここのテーマでは、それほど重要でないので、端折るが、その後もオスマン帝国は勢力を伸ばし、16世紀末頃にその最盛を迎える。 ただ、その後もこの地域に大きな影響力をもち続け、20世紀初頭まで存続したのは、誰もが知っているところである。

 それで、私のより興味のある民族的・人種的な変化について少し見てみたいが、今回見てきたテュルク系の国家・集団を扱ったウィキには、遺伝的な分析調査の記述は、非常に少ないか、ほとんど無かった(見つけられなかった)。 しかし、上記に書いた、セルジューク朝までのテュルク人たちは、まだ東アジア系の容貌を残していたという証拠になるかもしれない写真は数枚あった。 

f:id:Ayasamoneu:20201228055222j:plain

1307年頃に描かれた当時のスルタンBarkiyaruq(1092-1104)の戴冠の様子

f:id:Ayasamoneu:20201228055326j:plain

スルタンArmad Sanjar(1118-1153、最後のスルタン)の戴冠の様子(上と同時代同画家による)



f:id:Ayasamoneu:20201228055650j:plain

”セルジューク朝の女性”とだけ説明がある。

 さて、上の3枚の写真を見て、どうだろうか? 女性の塑像は、まさにアジア系であると言えると思うが、残念ながら年代などタイトル以上のことは何もわからない。 2枚のスルタンの肖像画はどうだろうか。 100年以上後に描かれているらしく、画家自身がテュルク系(イラン系か?)かどうかも分からない。 それらの要因を考慮すると、実物よりもっと西洋化あるいはイラン化した容貌に描いたとも想像できる。 スルタンの目元などは、かなりそのいう要素が入っているようにも見える? しかし、取り巻く人間の中には、よりアジア系の容貌を示すものも認められる。 これらの絵からは、少なくとも現在のトルコ人のように完全に周囲の民族と違わない西洋化(あるいはイラン化・アラブ化)した容貌ではない、ということは言えるのかもしれない。

 

 次に、オスマン時代のスルタンの肖像などを探してみたが、ウィキ上にあるのは、初代のオスマン1世からして、すでにかなりイランや西洋風の顔立ちであった。 少し探してみたが、アジア系を思わせるオスマンのスルタン画像は、ウィキでは見つけられなかった。 やはり、オスマンの時代まで下ると、もうすでにイラン化・欧州化の外見に完全に変化したのであろうか?  次の写真を見てほしい。

f:id:Ayasamoneu:20201228035436j:plain

メフメト2世(征服王)時代のヨーロッパ(オスマン治世下のバルカン半島だけだと推測されるが)に出た青銅製メダル(1481年)

 これは、おそらく忠実にメフメト2世を描いたものと思える。 しかも同時代のものと思われる。 先の二人のセルジーク朝のスルタンから約300年後のスルタンである。 

 最後に、オスマン朝の肖像は、初代から皆アジア風ではなかったと既に書いたが、そのうちの1枚を貼っておく。 これは、まさしくその初代・オスマン1世の肖像である。 どうみても、アジア系の面影は無い。 これら歴代のスルタンの肖像画は、恐らくトプカピ宮殿にあるものだろう。 私も、ちょうど20年前にイスタンブールに観光に行った時に見た。 なので、宮殿の資料を調べれば、この肖像画の描かれた経緯が分かるのかもしれないが、ここではやっていない。

 だが、繰り返しになるが、恐らくこの時点(オスマン1世)では、もう周辺の民族との遺伝的融合が、そうとう深まっていた、と言えるのだろう。

 このあたりについては、また何か新しい情報でもあれば、記してみたい。 

(※以上で一旦この回を公開したが、その後、トプカピ宮殿などのページを見てみると、メフメト2世・征服王以後は、実際の各スルタンのその治世時に肖像を描かせたようである。 メフメト2世以前の肖像は、残った本人に関する記述や想像で描いたようである。)

f:id:Ayasamoneu:20201228192013p:plain

オスマン1世の肖像