(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (1)

 唐突の感がありますが、これから、人類進化の過程から日本列島における最初の広域的国家形成のあたりまでの歴史を、好き勝手に私なりに書いてみようと思っています。 このブログは、ほとんど誰からも見られていないようなので、非常に気が楽ですし、一応まあ、常々私が思っていたことや想像していることを、今文章化しておきたいということだけなので、どうぞ悪しからず。 

 なお、以下の本文では、簡略化のため、~だ・~である調で記します。 

 

第1章 新たな食料を求めた結果の進化 

①人類の誕生(約800万年前から30万年前頃まで)  

 今、この世界に生きる我々現代人すべての共通の祖先である現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス、この用語は、多数のホモ属を列挙する際に、その細分化のために使われることが多いのですが、以下では、単にホモ・サピエンスとだけ表記します)は、アフリカ大陸の中東部で(今の国で言えば、タンザニアとかエチオピアなどの国々にまたがる広大な範囲のどこか)、今から約30-20万年前に誕生したと言われている。 誕生と言っても、当然、進化の継続した流れの中での出来事であるが。 そして、そのまた御先祖様は、約8-600万年前頃にチンパンジーから分岐したそうだ。 これは、化石の研究やDNAの分子時計の計測からも、それぐらいだと言われている。 ちなみに、現代人とチンパンジーの遺伝子的な差異は、1.5%程度でしかないらしい。 これは、馬とシマウマの差より少ない。 つまり、人間以外の動物からみれば、我々とチンパンジーは、相当そっくりなのかもしれない!?

 では、その頃分岐した今のチンパンジー類の動物と私達の祖先との差は、どこにあったのか? その人体的(?)いや解剖学的差異で言えば、それは、二足歩行に関わる各部位の構造の差であると言われている。 例えば、足の指や骨盤の形さらに背骨の湾曲具合や頭蓋骨と首の骨をつなぐところ(大後頭孔)の位置関係などなど。 しかし、肝心のどうやって我々の祖先たちは、この二足歩行を獲得していったかについては、未だ確定的な論拠・学説はない。 それまでチンパンジーやゴリラ、あるいはその祖先たちがいた森林の中で、我々の祖先も徐々に二足歩行の習性に変化していき、のちの平原生活でさらにその習性を特化させていった、という説がある。 実際、足型は、まだチンパンジーに似て親指が他の指に離れて向かい合っているのに、骨盤は、結構現生人類に近い化石人類も発見されているのだ。 ただ、それだけでは、なかなか二足歩行へのステップをうまく説明しているようには、私には思えない。 また、その二足歩行も足の形がチンパンジー的であるなら、かなり幼稚な歩き方であったろうし、そうなれば、猛獣たちの餌食になりやすく、にわかには納得しがたい説である。  

 私は、二足歩行への変化は、より画期的に比較的短い時間で起こったものと考えている。 その引き金は、それまでの食料の涸渇である。 上に紹介した説より、もっと急激に環境の変化が起こり、森に住んでいた我々の祖先は、新たな環境に果敢に立ち向かわなければならなくなった結果であると。 地形や気候の変動などにより森林の後退や乾燥化などの環境変化がいっきに起こり、それまで彼らが主に食料としていた葉や木の実が消失していった結果、彼らは、平原化した大地に降り、新たな食料を求めて、その生態や行動を変化していった中の一つが、二足歩行であったと考える。

 この新たな動物・我々の遠い祖先は、それまでの森林にあった葉っぱや木の実から、比較的低い場所にあったり地上に落ちた木の実や根などを採取し虫などを捕食するために長い時間歩かなければならなかったにちがいない。 そして、そのことにより、二足歩行をより発達させていくと同時に、前足つまり手が、様々な動きができるよう変化・進化を遂げていくようになったのである。

 しかし、そもそも類人猿、いや猿の仲間は、どうして他の哺乳類と分化していったのか? 何千万年も前の哺乳類は、サイズこそ違え、ネズミや犬あるいは豚やバクのような鼻が長く前に突き出た動物ばかりであった。 それらは、恐竜たちの活動が弱まる夜・暗闇でも主に嗅覚で虫などの獲物を捉えられるように、そういう器官が発達してできた結果であるらしい。 しかし、恐竜なきあと、日中に活動ができるようになると、視覚で捕食しようとするものが現れる。 それを叶えるのには、正確な焦点が必要で、そのため両目の間のバリアとなっていた鼻の部分を平たくして、両目で一つの物が見れるようにしていったのが(たとえ視野が狭くなっても)、顔の平たい原始の猿類の出現の一つの大きな理由であると言えよう。  

 それで、人類の方に話をもどすと、先に書いた二足歩行の痕跡を示す化石人類の後、約4百万年前ぐらいになると、あのルーシーで有名なアウストラロピテクス類が登場してくる。 この二足歩行の確固たる証拠をしめすほぼ完全なアウストラロピテクス・アファレンシスのメスの骨格標本が、ルーシーと名付けられたのは、その人類学者が、この貴重な化石を発見した時、そのキャンプ周辺のラジオで流れていた曲が、あのビートルズの有名な”ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド”であったためだ。(この話は、昔NHKの番組(BBC制作)で、当の本人たちが言っているのを見た。)  

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アウストラロピテクス・アファレンシス(ルーシーのような)復元模型。。ウィキより。

 ただ、このアウストラロピテクスの段階は、まだ本当の意味で人類とは言えないのかもしれない。 このチンパンジーとほとんど同じような体毛を持ち、直立姿勢を保って歩く動物は、脳のサイズでは、まだほとんどチンパンジーなどとそんなに大きな差はなかったからである。 やがて、彼らは、他の猛獣が残した動物の死骸などを含め、食生活の多様化つまり雑食化して生存競争を生きぬいていくことになる。 

 この雑食化すなわち肉食化こそは、彼らの身体の変化という点で、また劇的な役割をもつことになる。 タンパク質など栄養価の高い肉を食するようになり、人類は、栄養やエネルギーが多大に必要な脳の肥大化を可能にしていったのである。 正に、血となり肉となる、である。 それは、手の動きの複雑化によっても、相乗な効果を発揮したにちがいない。 その結果、知能がより発達していった。      

(※昨今では、ヴェジタリアンとか、さらにもっと過激なヴィーガンとかいう人たちがいるが、成人は、ともかく、彼らの子供たちにそういう食生活を勧める人がいるが、私は、栄養面で完全な代替品が出来ない限り、未成年にそういうことを強いるのは、脳や諸器官の発達という点において、非常に危険であると考えている。)

 ともかく、そして、ついにホモ属つまり正真正銘のヒト属の誕生となる。 ここでちょっと書いておくが、かつて教科書などでは、猿人ー原人ー旧人ー新人といった用語を用い人類の進化を表現していたが、この表現は、今は、誤解を生むというより、誤りであるとされているので、現在では、あまり使われていないと思う。 ただ、猿人と原人という言葉だけは、いまでも、結構使用されているので少し説明すると、上に書いたアウストラロピテクスを含めそれ以前の人類が、猿人にあたり、今から書くホモ属の初期の人類が、原人にあたる。 なお、ここで私が使っている”人類”という言葉は、一応、チンパンジーと枝分かれ後のすべての人科の動物と理解されたい。 

 さて、その原人である初期のホモ属だが、なぜ、これらの種は、ホモと呼ばれ、それまでの種は、アウストラロピテクス属なのか? 決定的な要素は、やはり頭の形であろう。 アウストラロピテクス属の頭蓋骨は、チンパンジーのそれとあまり変わらないが、ホモ属になると、かなり後頭部に丸みが出てくる。(しかし、現代人に比べれば、まだかなりの長頭である。) もちろん、中に収容できる脳の容積も増えていった。 それと、やはり出現時期に大きな差がある。 アウストラロピテクス類は、だいたい400万年前頃に出てきているが、ホモ属の一番早いのでも250万年前程度である。

 一番最初の方に登場したホモ属は、ホモ・ハビルスと言われている。 そして、そのあと200-180万年ぐらい前に、ホモ・エレクトスというホモ属が出現して大繁栄する。 おそらく、人類史上最長の繁栄期間を謳歌した種であると言える(100万年間以上)。 このホモ・エレクトスは、火や石器なども使っていた。 また、彼らは、のちのホモ・サピエンスが行った世界拡散(いわゆる”出アフリカ”)を、すでにこの時期に成し遂げていたのである。 そして、その子孫と言うのか、その系統の人類が、アジアなどで多く見つかっている。 昔からよく知られる北京原人やジャワ原人などがそうであり、彼らは、かなり最近まで生存し、我々の直接の祖先ホモ・サピエンスと遭遇していたかもしれないとさえ言われている。 

 このエレクトスの特徴をもう少し詳しく言うと、彼らは、既に述べたように脳の容積が増し(600-1000cc)た結果、知能に優れるようになり、石器などを使った本格的な狩りができるようになる。 食物に火を使った加工ができたので、生肉や木の実を食べるのに必要な長い消化器官は要らなくなり、その分、余計に脳や四肢の発達に栄養をまわせた。 その身体の大型化に比例し、足腰の筋肉も非常に発達する。 それと同時に、体毛は減少し肌が露出して汗腺が発達したので、汗による熱放散で長距離・長時間の走行・運動が可能になった。これは、現代人でも少し練習をすれば、かなりの長距離走が可能になることからも、理解しやすい。 ただし、現在の馬なども汗腺が発達しよく汗をかくが、狼や犬などより持久力はないと言われる。 このあたりの細かいことは、専門家なら区別ができるのかもしれないが? とにかく、エレクトスたちは、集団で知能を使った賢いハンティングも(象などの大型獣)、体力を使った持久戦のハンティングも(鹿のような草食獣)できるようになったのである。 だから、大繁栄したのであろう。

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ホモ・エレクトス「女)の復元。 ウィキより。

 さて、アフリカに残ったホモ・エレクトスの系統は、さらに進化を続け、その後、我々の直接の祖先・現生人類が出現し、その一部は、やはりアフリカを出て、世界に拡散するわけであるが、しかし、ここにもうひとりホモ・サピエンスよりも先にアフリカを出て、今のヨーロッパを中心に生存した人類がいる。 ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)である。 ただ、彼らのアフリカでの出現は、ホモ・サピエンスよりも先かほぼ同じであることはわかっていても、どのように出アフリカを成し遂げたかは、今のところあまりはっきりしていない。 

 ともかく、このネアンデルタール人と我々の祖先は、その出会った場所で多くの戦いをしただろうけれども、同時にある程度は、混血が起こっていたようでもある。 そして、その結果、ネアンデルタール人のDNAの痕跡が、今のヨーロッパ人やアジア人には、数%存在するらしいのである。 アフリカ人には、それがないらしく、このこと自体が、また我々の祖先ホモ・サピエンスの出アフリカ説を裏付けるものとなっている。 

 さて、ここまで我々の直接の祖先・ホモ・サピエンスの出現直前までを見てきたが、これは、結果論的な見方であり、極く主要な種類の人類しか列挙していない。 つまり、あみだくじをして、その逆さから答えを早く見つける時にやるあの方法と同じなのである。 実際は、あみだくじそのもののように歴史は動き、チンパンジーから別れた人類は、各段階で多様な変化を起こし、多くの人類集団が生まれては消えしたことは、様々な化石が証明している。 その中には、ゴリラよりも大型化した人類も含まれている。 

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ホモ・エレクトスの分布。 更新世中期(120万年前頃?)。 ウィキより。

 

特に、もう書くほどのことではないのですがーーー

 世の中のコロナ禍も日本や欧州などでは、かなり沈静化してきた感があるのですが、今日のニュースで、我が故郷・姫路の有名な秋祭り”灘のけんか祭り”が、今年は中止になったと聞きました。 

 たしか、10月14・5日の開催であるはず。 そんなに前に、中止の発表をする必要があったのか? おそらく、いろいろな準備の関係で、今決断しなければならなかったのでしょう、非常に残念。

 もちろん、予想の域をでませんが、もう8月あたりまでに、身体の接触などが考えられるスポーツやイベントなどもすべて自粛対象から外れ、完全に普通に行われているような気がするのですがーーー。 祭り、やっぱり準備が大変なのかな? そう言えば、高校時代の友人で、この祭りに命をかけているような男が、こう言っていました。 「わし等は、祭りが終わった次の日から、来年の祭りのことを考えとるんや!」みたいなことを。 まあ多少は、大げさでしょうけど、やはり大変な準備や用意周到な根回し的なことが要るのかもしれません。 ただ、年齢からいっても、今は、地元地区の重鎮になっているその友人には、今回の自粛・中止は、大きなショックであったろうことは、想像にかたくないことです!

 さて、もう特に、この頃は、このブログで書きたいことは、これといってないのですが、以前書いたことで、少し訂正や追加をしたいと思います。

 まず、このコロナウイルスによる東アジアとそれ以外の国々の死亡率に大きな差がある点なんですが、あれからやはり、今の今まで、この傾向は、変わりませんね! 人種差というより、居住地域差という感じ。 アメリカなんかでも、アジア系が特に感染率も死亡率も他の人種より低いということは、見られなかったようですし。(黒人だけは、仕事職種の関係で感染率が高いと言われてますが。) で、私が、今のところ支持する説は、今回のコロナウィルスに似たウィルスが、東アジアでは、これまで過去何百年の間、顕在潜在に発生していて、その地域の住民には、それらに対する抗体を保持しているというものです。 その抗体が、この新型コロナウィルスの持つ近い性質(抗原性)にも、かなり有効に働いたのではないか、という感じの説です。 まあ今、南米などで猛威を奮っており、そして、アフリカなどの状況が、これからどうなるかわからないので、しばらくは、よくわからないかもしれませんが。

 もう一つは、ガラッと変わって、1月の記事で、今年の大河の”麒麟がくる”をちょっと否定的に書きましたが、だんだん良くなってきたと思います。 特に、信長が出てきたからは、俄然、面白い感じが。 当初は、この小柄な役者で、大丈夫かいな?と思いましたが、ナカナカいいですね。 と思いきや、今月から、またこのコロナの影響での放映中断が起こりました。 残念に思っていたら、しかし、先日、この同じ主人公たちを扱った私が中学の時に夢中になった”国盗り物語”が、ちょこっと紹介されましたね。

 これを見ると、やはり、今の麒麟より国盗りの方が、数段興味が湧く内容になってるなーー、と改めて感じました。 京都の女は、京都言葉を使ってるし、どの場面もどういうか良い意味でのネチッコさみたいなものがあって、非常に魅力あるものに見えました。 やっぱり、昔の大河の方が、良いのかな。 でも、まあまあ、麒麟も、年をまたいで放送されるようですし、こちらも内容がさらに面白くなるのを期待します。 それでは。

※約1時間半後です。 コロナの致死率などの地域差ですが、そうなれば、明治以後南米や北米に移住した日本人などは、そういう抗体を持っていたのかどうなのか? あるいは、もっと最近、戦後に移住した人たちは? などなど、いっぱい疑問も湧いてきますが、いずれにせよ、詳しいデータ・報告待ちですね。 ア、移住と言えば、この私自身も日系アイルランド移民とかいう、存在?立場?なんでしょうかね? ポテチン。 では、皆さんお元気で!    

 

新型コロナウィルスによる死者、なぜ欧米やイランで多いのか?

 いま世界は、この新型コロナウィルスによって、大いなる危機にひんしています、あらゆる面で。 私の住むここアイルランドでも、日に日に政府の対応が厳しくなってきています。 ホンの2・3週間前までは、2001年頃にアイルランドやイギリスで深刻な問題になった口蹄疫の方が大変だった、と言っていたのですがーーー。 アイルランドでは、24日現在、約1000人の感染者と6人の死者がでています。 

 この感染症に関するいろいろなことが言われていますが、ここでは、私は、”なぜ、日本人や東アジア人の死亡者数は、欧米やイランと比べて少ないのか?”、その可能性を思いつくまま、今、書き記しておこうと思います。

①まず、暴露したウィルス量が、異なる。 つまり、よく言われるキスやハグの習慣やマスクをしないなどのことによって、小さな唾気などウィルスを多量に含む飛沫やエアロゾルの伝搬が起きやすかった? これは、当初、発生を軽視あるいは無視していた中国・武漢でも、このような濃厚接触が感染者の間で起こり、死者が多数出たのかも?

②ウィルス自体の遺伝的変異。 このウィルスは、いろいろ変異をしやすいものであるらしく、ヨーロッパなどでは、強毒性のものが流行しているのかも?

③他の病気のワクチン接種などにより、幾分か抵抗力のある免疫を保持している可能性。 ワクチン接種の内容は、似ているものも多いが、やはり各国あるいは時代で、それぞれ異なる。 それで、他のウィルスによるワクチン接種が、今回のコロナウィルスにも何らかの抵抗性を持ち合わせているのかも(例えば、日本人などは)?

④最後に、人間の遺伝的差異(つまり人種)による感染力の差。 イラン人は、人種的にはヨーロッパ人とほぼ同じであると私は思っています。 少なくとも、東アジア人よりヨーロッパ人の方に近いでしょう。 ですので、この欧州系を中心と人種集団は、このウィルスの感受性が高いのでは?と想像したりするのです。 ある種の病気では、特定の人種や国民が、なりやすいということはよく知られています。 今回のウィルスが、猛威を奮っているイタリアやスペインで、人種的に元々ヨーローッパ人でないアジアやアフリカからの移住者や長期滞在者の感染者数や死者数が、どのようなものか知りたいところです。 

 以上が、いまのところ、私が想像する今回のコロナウィルスによる死者数の差が、欧米などと東アジアで大きい理由を考えてみました。(感染者数は、各国それぞれの対応が異なるのと、実際どこまで調べられるか、という問題があり、あまり参考にならないと思っています。 最も、この死者数さえ 誤魔化す国があるとしたら、それは、大変大きな問題になるというのは、当然ですが!) 

 

※上の文章を書いて、約1時間半後です。 こちらは、今、3月24日午前9時30分頃です。

その理由、もう一つ抜けていました。

⑤医療の技術や設備、または医療体制が異なる。 ただ、これは、日本や韓国、武漢以外の中国のそれらが、北イタリアやフランス・ドイツなどのそれらに比べ、特に優れたものとは考えにくいのですがーーー? 感染者に対する方針などの医療政策も含め。 でも、まあ、1%でも考えられることは、列挙しておきます。

 

興味あるNHKのテレビ番組、土曜ドラマと「鶴瓶の家族に乾杯」

 先週末から今週月曜にかけ、私にとって、かなり興味あるNHKの番組が2つありましたので、紹介したいと思います。 

 一つは、土曜ドラマという枠で、「心の傷を癒すということ」というタイトルのものです。 全4回あって、先週の土曜は、その第1回目でした。 主たる内容は、1995年に起きた阪神淡路大震災で精神的に打撃を受けた人たちに献身的に寄り添い、その人達の心を救っていく精神科医の話だそうです(多分)。

 ただ、その精神科医は、在日韓国人であり、自身がその事実を知った子供の時のショックの様子や、厳格で高圧的な父親の存在、そして、医学の中でも精神科を選ぶことの葛藤などが、第1回では描かれていました。

 まだ1回目なので、今後の展開は、よくわかりませんが、次回で、すぐあの地震が起こり、精神科医としての活躍や苦悩が描かれていくことでしょうが、私としては、在日そのものの意識やそれに由来する葛藤は、人生を通してあるはずである、と思うので、そのあたりの心理状況も、引き続きドラマの中で表現されたらいいな、と願うものですが、たぶんもう無いかなあ? 

 この主人公は、実在の人らしく、ドラマの年齢と同年齢であるとすれば、私より2歳若いようです。 ほぼ同世代です。 実は、私も、この主人公のような在日の友人がいます。 高校時代、彼の実家に遊びに呼んでもらった時、彼のお父さんが現れた時の彼の礼儀正しい態度とその言葉使いには、びっくりしたものです。 私といたもう一人の友人も、そのことを後で言っていました。 当時から彼の家は、かなり裕福で、その豪邸とも言える家では、中身の家具などもすごく立派でした。 そして、その彼(家族全体のものかも?)の当時の音楽レコードのコレクションが、とても素晴らしいものであったことを、特に印象深く覚えています。

 でも、在日ということを匂わせる飾りや置物などは、全然なかったように記憶しています。 彼の両親やもっと早い段階で、帰化していたのかもしれませんし、その辺りの在日との関わり合いは、私には、全く見つけられませんでした。(特に、それらを探していたわけでもありませんが。)

 彼が、在日であるかどうかは、直接、彼自身からそのことを聞いたわけでもないですが、噂やいろんな状況から、そうであると思っていたわけです。 まあ、そのへんは、今回のドラマの主人公とは、ちょっと違いますが。 

 それから、5・6年後かな、私は、別の在日の友人の家に行ったこともあります。 こちらは、ごく普通の庶民の家で、家の中の言葉使いも私達と同じ、”お母ちゃん、友だち連れてきたでー。”という感じでした。 でも、逆に、この家の中では、朝鮮半島を思わせる飾りなどが、いっぱいあったように覚えています。  

 結局、当たり前ですが、在日と言っても、いろんな家族があり、母国(?)や日本に対する感情・思い入れも、それぞれなんでしょう!?

 今回、このドラマを見て、40年以上も前に訪れた友人の家のことが、すぐ脳裏に浮かび、ここに書きたい衝動が起こりました。 

 なお、このドラマでは、達者な俳優たちが、うまく神戸弁もあやつり、臨場感を増幅させているという面も、非常に好感が持たれます。

 

 さて、もうひとつの番組というのは、”鶴瓶の家族に乾杯”です。 この番組は、私は、毎回見ているわけではありませんが(やっぱり訪れる土地というより、誰がゲストか、で選びますよね?)、この前の月曜日にこちらで放送されていたのは、奈良県の中部にある三宅町という町でした。 ”みやけ”という地名は、古代天皇家の私有地・屯倉と関係あるんやろか、などと思いつつ番組を見ていると、ゲストの加藤雅也(沖 雅也以来の同名の俳優なので、少しは気になる存在です、ハハ)が、ここは、グローブの産地として有名らしいので訪れてみたかった、みたいな発言をしたので、私としては、俄然、興味津津でこの番組を見つめることになったのです。

 別に、ここで、地元の人が、嫌がるかもしれない言葉を、あえて発しはしませんが、この鶴瓶の番組で、かねてから、私は、自分のふるさとのような地区を紹介してもらいたいものだと思っていただけに、今回、このような番組があって、本当にうれしい思いでした。

 もちろん、番組では、三宅町全体が紹介され、グローブ作りの地区(三宅町上但馬かみたじま、以前は運動靴なども作っていた)は、その一部でしかないでしょうが、3・4軒のグローブ生産者、フォアグラ(?)を売っている老舗の肉屋さん(ここは、肉牛飼育も行っている、今どき珍しい肉屋)、ユニークな靴下の生産者などが紹介されていました。

 また他にも、オモロイおばさんたちや才能のある人が出てきて、私には、たいへん面白い番組になっていました。 その地元のおばあさんたちの古い言葉使いも、興味あるものでした。

 この”鶴瓶”の番組では、恐らく、かつても何回か我がムラと同じようなところを散策はしているでしょうが、こういう特別な地場産業が出てこない限り、私には、そのことが確認できないので、今回は、まさに貴重な回となりました。 

 ただ、もちろん、今回のこの地区が、100%そういうムラであると言えるわけではありません。 しかし、このブログでも以前紹介しましたが、ここからそんなに遠くない桜井市にある私の大好きな卑弥呼の墓と噂される箸墓、この箸墓のすぐそばのムラも、かつてはグローブの生産地でした。 

 そう、奈良県は、グローブ(グラブ)の一大産地だったようですね。 そして、その原材料の皮革は、たぶん大阪の問屋などを経由して、わが故郷の姫路や龍野あたりから運ばれてきたものでしょう、少なくとも以前は。

 まあ、いまこのグローブにしても、その前段の革作りにしても、かつての生産量や就業人口からは、大きく減っているはずです。 でも、いまでもそういう産業に従事している人たちは、技術を高め、独自のアイデアで、世界の生産地との競争に負けず、生き残っている凄い人たちなのです!

 この鶴瓶の番組も、最近は、小規模だけれど、そういう職人的な技術のある人や家を訪問することが多くなっているような気がします。 そうであれば、今後も、こういうムラが紹介されることは、多くなるのかなあーと期待しています。

 今回、上にあげた2つの番組のような番組作りを今後もNHKが続けていってくれることを願っております。

 

※ ちょっと社会性のある(鶴瓶のは、表面的にはないが、実はある)テレビ番組のことを書きましたが、ここで、テレビ番組ついでに、最近の朝ドラと大河ドラマについて、私の意見を少し書きます。 

 まず、いまの”スカーレット”。 正月前までの喜美子と八郎の会話・カラミの部分は、これまでのドラマでよくあるパターンと違い、次のセリフが予想もできないような面白いものになっていました。 また、信楽弁をはじめ、結構このドラマでは、こってりの関西弁が多用され、それも好感を持っていましたが、新年明けてからの回は、夫婦の陶芸シーンばかりで、ドラマがあまりにもセセコマしくなり広がりに欠けていて、面白みがありません。 これから、再浮上(私の中で)あるかな?

 さて、満を持しての大河”麒麟がくる”ですが、ストーリーは、ともかく、美濃や堺、京都の言葉が一つも出てこない! さらに、昔ふうの言葉も、”わし”と”いくさ”ぐらいで、すべて”治療”などの現代語で会話が成り立っていた。 こんな平板で、ロマンのない、わかりやす過ぎる言葉の連続では、作品にのめりこめません。 ”国盗り物語”以来の光秀に、期待をしていたのですがーーー。

 

※ ちょっと、時間が経ってしまいましたが、またまた追加します。(2月14日) 最初に書いたドラマ「心の傷を癒すということ」ですけど、第3回で、父親が在日として苦悩したことが少し描かれていましたね。 ドラマ全体としても、やはり良かったと思います。 最後の方は、本人の死への向かい方みたいなところが中心に描かれていたと思います。 そして、それは、病気であれ老化であれ、もう還暦を過ぎてしまった私には、ある意味、深刻な問いかけをしているもの、でもありました。 

姫路藩は、お城だけでなく、強力な水軍も保持していた!

 ちょっとタイミングが、遅くなってしまいましたが。約1ヶ月前に放送されたNHKの「ブラタモリ」は、私にとって非常に面白く記録しておきたい内容でしたので、ここに書くことにしました。

 私は、この番組は、普段、奈良県や京都市など日本史の極初期の関係のもの以外は、あまり見ないのですが、今回、偶然にテレビをつけていたら、「姫路城」がテーマだったので、じっくりと見てしまい、次の再放送の時に(こちらのJSTVでは、すぐ再放送があるのです)、きちっと録画しました。

  で、今回の姫路城の紹介内容なんですが、その主なテーマは、「この姫路の地に、なぜ、こんなにデカイ城があるのか?」だったと思いますが(まあ、もうひとつ、コメディ的な感じで、なぜ姫路城が、江戸城として映画やドラマのロケでよく使われるのか?、というのもありました)、番組では、その答えより先に、まず姫路城自体の説明、つまり、その威容と美、そして、難攻不落の城(防御態勢の巧みさ)などを紹介していたと思います。

 で、次に、メインのテーマの”なぜ、姫路にこんな立派なお城がある?”みたいなことへの説明がなされた、と思います。 まあ、今は、東京(あるいは関東平野)一極集中ですから、京都や大阪さえ一地方という観がありますが、なぜ姫路のような地方都市で、そんなのが?と思う人は、多いのかもしれません!?

 とにかく、その主たる答えは、姫路やその周辺に住む者であれば、ほぼ全員がわかっています。 それは、大坂城にいる豊臣秀頼の抑えと中国地方や九州の外様大名への圧力です。 姫路城を建てた池田輝政は、徳川家康の娘婿として、かなりの信頼と権力を与えられたようです。 その結果のこの壮大堅固な城、ということでしょう。 (参考:番組では、説明はなかったですが、池田氏のあとに姫路城に入った本多氏は、徳川家康の孫娘そして豊臣秀頼の元嫁の”千姫”を、この城に迎えています。)

 で次に、これは、私も全く知らなかったことですが、非常に興味があったのは、この池田氏の姫路藩、城で山陽道や山陰道に繋がる陸路を抑えているばかりでなく、海上でも西からの軍勢に対処できるよう戦闘態勢を整えていた、というのです。

 姫路城から数キロ南に飾磨(しかま)という海に面した地域がありますが、ここに姫路藩は、強力な軍船を停留配置していた、というのです。 番組では、その場所を詳しく紹介していました。 録画をゆっくり見たので、私は、その場所を自分の記憶にある場所と照合できました。 現在の飾磨港の突端からすれば、かなり北になります。 番組では、こういう事実が、明確になったのはごく最近だと言っていましたので、長年、姫路から離れている私が知らなくても、当然かもしれません。 まあ、今後、この関係の本は、姫路の本屋にはいっぱい出てくるでしょうから、それもまた帰省したときの楽しみになりますが。

 そう、この水軍のことが、今回の私の一番の興味があったことなのですが、番組では、他にも、2・3興味あることを紹介していました。

 その一つは、戦国以後の城の形では、大天守にいくつかの小天守が連結する形を連立式城郭と呼んでいますが、それは、城としては最強の形で、その代表が姫路城であり、最初に建てられた江戸城もそうであった、ということらしいです。 つまり、姫路城は、”西の江戸城”であったと。 (ここで、姫路城が、江戸城として映画で紹介されるのは、案外、的外れでもなかった、と笑いながら。) 現存12城の中で、この連立式なのは、姫路城と松山城だけだと思います。

 で、もうひとつ、最後に、姫路城と江戸城の縄張り構造、つまり、姫路と江戸の町づくりについて、言及していました。 それには、姫路城の周囲には、内堀・中堀・外堀と3重の堀があったのですが(一番外側は、今のJR姫路駅までの壮大な構造です)、この形は、同心円ではなく螺旋型(番組では、蚊取り線香型とも)になっています。 このらせん状の堀も、敵からの防御という点で有利であり、かつ無限に広げることができる、というのが番組の説明でした。

 だから、この姫路城の堀づくりを参考にした江戸城とその町は、そののちも、自在に大きく町を拡大することができた、とこの番組では言ってました。 

 お城自体は、江戸城の方が、姫路城より早く完成したようですが(天下普請のせいなのか?)、縄張り(町づくり)や堀の造成は、姫路の方が、もっと早く取りかかっていたのかもしれません? そのへんは、番組では、詳しく言ってませんでしたけど、とにかく、江戸の町の原型は、姫路の町であった、と!

 まあー、ホンマにそうなんかなー、と思うくらい、今回のブラタモリの姫路城編は、私にとって興味のある内容になってました。 

 ということで、姫路の方で、この番組を見逃したという人は、多分、NHKアーカイブなどで見ることができると思いますので、どうぞそちらへ。 ユーチューブにでたり、DVD化もされるのかな? ではいつか、また? (追加:番組冒頭で、可愛いワンちゃんも出てきますよ!)

出生数激減のニュースを聞いて

 25日でしたか、NHKの7時と9時の両方のニュースで、今年の出生数が、初めて90万人を割り、86万人だった、と大きく取り扱っていました。 そして、その数値は、その予測値(恐らく、政府の)より、2・3年早いペースで減少してしまったということも。

 このニュースは、いままでヤフーブログでも関連することをいろいろ書いてきた私にとって、大変大きな問題だと思えたので、このはてなブログでも、初めて長文の記事を書くことにしました。 この数字を見る限り、日本の未来は、非常に暗くて、手遅れなような気がしていますが、とりあえず思ったことを書いていきます。

 この出生数の減少、つまり、将来の生産人口の減少は、経済の衰退はもとより、究極、その国の滅亡を引き起こす最も大きな要因であることは、どなたも知るところでしょう。税収の枯渇であったり、年金制度の破綻で始まり、さらに地域やコミュニティーが、崩壊し、ついに国の存亡へと! 

 最近、NHKでよく報道されている地震やその他の災害で、特に首都圏に被害があれば、それは、日本全体に深刻な打撃を与えるであろう、というシナリオがあります。 確かに、今、そのような大きな災害が、首都圏に起これば、日本は壊滅かもしれません。 でも、似たような大災害は、過去にもありました。 関東大震災や太平洋戦争の惨禍です。 でも、それらは、日本の経済の進展とともに、数年の内に回復がなされました、少なくとも表面上は。 つまり、国力・経済が、右肩上がりの状態であれば、これらの災害による被害は、実は、相対的には、大したものでないはずです。

 でも、人口減少は、全く次元の違うレベルの問題であり、その過程では、過去では問題にならなかったこのような災害でも、これからの日本に深刻なダメージを与えるということなのでしょう。

 で、そもそも、その出生数の減少の理由については、結構いろいろな意見がありましたけれど、私は、どれも深くその本質を見抜いて来なかった、だから、その対策も、効果のあるものになりえなかったと思っております。 よく言われた理由は、特に、バブル期以降の若者には、デフレの影響で、実質賃金などが上がらず、子供を持つなどの経済的余裕がなかったというもの。 もうひとつ、よく言われるのは、保育所などの数が十分でなく、働く女性には、子供を預けるところがないので、子供の数が増やせないなど。 他にも、夫の家事の手助けがない、自分や夫(またはパートナー)の職場の妊娠や産休、育休への不寛容な態度や制度などが、よく言われてきました。

 でも、私は、それらのもっと根源にある、この日本国に存在してきたある意識を変えなければ、すべてのことは前に立ち行かないと考えてきました。 それは、一言で言えば、女性への差別です。 戦後も、日本の男中心社会は、女性を真の意味で、男性と同等に扱ってこなかった。 もちろん、男が主になって決めてきたけれど、少なくともここ30年ぐらい前からは、女性も自ら主張して変革を推し進めることができたのに、女性たち自身も積極的に自らの解放をしてこなかった、ことも言えると思います。

 戦後の一時期、日本の女性は、新しい憲法の下、選挙権や家族制度の法的縛りへの解放など多くの権利と自由を獲得しました。 ただ、そのあとも、日本の経済は進展し、科学や生活の便利さなどは、向上してきましたが、こと女性の権利や社会での立場の意識改革は、あまり向上してこなかった。 このことが、私は、女性が、結婚の忌避や子供を持たなくなった一番の理由だと考えています。

 経済の高度成長期以降も、日本の女性は、”主婦”であることに専念させられた。 ただ、まだその時期は、他国に対する日本の優位性もあって、日本の経済そのものが大きく肥大していったので、各家庭の経済事情の好転に隠れる形で、主婦であることのマイナス要因は、とくに顕在化しなかった。

 しかし、家にいる主婦”奥さん”の立場は、社会的には、正直なところ二流の市民でしかない、というのが、広く世間の雰囲気であったのは、確かでしょう。 本当は、立派に子供を育て、家の面倒を見て、さらに良妻であることは、大変なのに! この時期に、女性たちは、もっと自己主張して、主婦であることが立派な社会貢献であり、仕事であることを声高にすべきだった。(もちろん、ここには、嫁・姑関係とか、夫の実家に実質的に属してしまうことになる、といった様々な苦難も含みます。)

 その後、経済が停滞し、それからの主婦は、外ででも働かなければならなくなった。 夫の家計の手助けに。 その手助けと家事の両立は、そうとう困難であるのに、今度も、男社会は、それをあまり評価しなかった。

 また、学生時代からやる気ある女性は、社会に出て、男と対等以上に働こうとした。 でも、そこでも、男社会の慣習の中、多くの壁が女性たちには待ち受け、男性よりはるかに昇進の機会の少ない中を頑張らざるを得なくなった。 より少ない給料で。

 こういう精神性は、簡単に言えば、「主人」や「奥さん・奥様」に代表される言葉の持つ意味とほぼ同じである、と私は常々考えています。 こういう言葉を廃止しない限り、日本の女性の立場は、変わってこないと思います。 

 こういう社会・時代が、ずっと続いて行く中、女性たちは、徐々に結婚や子供を持つことを拒否してきたのです。 前述のように、戦後すぐの解放で、彼女たちは、その権利は少なくとも持つことができたので。 これが、彼女たちの唯一の意思表示だったのだと思います。 根本的に、女性の権利を主張することは、この国では、なかなか難しいというのがあったから。 それは、男たちにも言えることで、この日本という国では、いまだかつて、民衆の手でその自由や民主主義を全国規模で勝ち取ったという市民革命は、生まれなかった!

 ついでに言うなら、戦後の男社会を変革しようとしてこなかった男たちは、そういう女性の大変な立場がわかっていたので、彼ら自身の娘たちが、そういう環境(家庭に収まったり、社会に出てもまれる等)に入りたがらないことについては、積極的に反対はしてこなかった。 

 さて、こういう状況で、この危機的な日本の人口問題に、解決策はあるのか? 

 まあ、ここが一番大事なところではありますが、私ごときには、まともな妙案があるわけではありません。 でもまあ、やはり自分なりに考えるところを、稚拙ですが、2・3書いてみます。

 で、その日本の女性差別・蔑視の社会意識・精神構造を改革するには、まず、書いてきたような差別語をなくすことである。 女性が男に従属しているような意味をもっている言葉すべてを。 ”主人”・”奥様”、”家内”などなど。

 その次に、制度面でも、これを大胆に変革する。 政治家や大企業の幹部の中で、女性の占める割合を少なくとも30%以上にするとか、女性の給料を全く男と同じにする(内容が同じであれば)など。 そして、産休・育休などの取得も強制性のあるものにするなどなどーーー。 逆に、女性(及び女性配偶者)に優遇されているような税制面も、これも並行して暫時廃止していく。 つまり、大人の男女を全く同じ条件にしていくということです。

 そして、でも、今、喫緊には、これが一番重要だと思われますが、国の移民政策を大胆に変革し、若い外国労働者(単純労働であっても)が、日本で定住しやすくする。 多少の治安の乱れや当初の周囲との軋轢は、しょうがない。 国が、滅びるよりましでしょう! 

 また、そのことに付随して、日本語という言語も、公共的には、もっと簡易な言葉に変えていく。(災害対応や駅で”電車がまいります”、といったような言葉や表現を、もっと平易で簡明なものにしていく、などなど。)

 ま、こんな感じです。 思いは、深刻ですが、日本の皆さんは、このニュース、どう感じたのでしょうか??? ま、私なりに書いてみました。 ”思いは言葉に”  はてなブログさん、ありがとう。

紅葉ーーー、ちょっと早いのですが、快晴のうちに。

 びっくりしました! はてなブログから、”一ヶ月も記事を書いてないから、書きなさい!”という督促みたいなe-メイルをもらいました。 まあ、放っておいても、当分は何も起きないのでしょうけど、これも何かの縁なので、短文を一つーーー。

 

 こちらは、先週の土曜日あたりから快晴続きです。 ということは、気温も下がり、朝は、0度近く、日中でも10度に行くかどうかです。 でも、そのため、庭の桜の紅葉は、進みました。 幸い今年は、風の強い日が少なく、例年より葉っぱが、多く残っている感じです。 ただ、紅葉は、あと数日先が、たぶん一番いいんでしょうけど、明日から天気が悪くなるということで、今朝撮った写真を貼ったしだいです。 

 こちらは、もう冬時間に突入してしまいました。 明日からの悪天と短い日、鬱陶しい日々が続きます、生き延びられるかーーーーー???

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