(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (11)

⑪ ケルト民族はどこから来たか。

 この歴史の投稿もだいぶ回を重ねてきた。 今回は、20年以上前にはとても興味を持っていたケルト人について書いてみる。 ただ、最近は、その後の情報を追いかけていなかったので、ウィキなどに新たな情報があるのかどうかが気になっていた。

 この拙い今回の歴史シリーズの第6回では、主に鉄文化の担い手・ヒッタイトについて書いたが、その際、現在のヨーロッパの言語を話す人、そのほとんどすべての直接の祖先とも言えるヤムナ(YamnaあるいはヤムナヤYamnaya)文化集団についても若干記した。 それは、紀元前3000年前後のメソポタミアのシュメール文明とほぼ同時代であった。 その6回では、ヤムナ文化の主にその後の東や南への移動について述べた。 今回は、その文化や集団の西への移動を見てみたい。 

 さて、このケルト人たちが、歴史的に確実な存在として認められるのは前750年頃からであるが、この民族集団が、ヤムナ文化からどういう経緯を経て形成されて至ったのか、あるいは、その間は不明なところが多いのか、まずその辺を見てみたい。

 現在のほとんどのヨーロッパの言語の元・印相祖語の発生に大きく関係すると思われるヤムナ文化の集団(前3300-2600)が、黒海北部の広い範囲に勢力を伸ばした後、次に東欧中欧付近では、縄目文(あみめもん)土器文化(Corded Ware culture、2900-2350年)が拡散した、というのは第6回の時にも少し書いた。  

 その後のヨーロッパの主要な文化の変遷をダイジェストで書くと、まず鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell beaker or Beaker culture 、全欧州では2800-1800年の幅があるが、中欧では2500-2000年頃)というのが起こり、そして次に、ウーニェチツェ文化(Unetice culture 2300-1800年)というのがあり、さらに、墳墓文化(Tumulus culture1600-1200年)、そして、 骨壷場(こつつぼば)文化(Urnfield culture、1300-750年)が来る。 そして、これが、ケルトの文化へと繋がっていくようだ。 欧州の各地域には、もっと多くの文化・民族集団があったようだが、大まかな変遷はこのようだ。 

 それで、ケルト人自身のことを書く前に、これらの祖先の文化集団の由来を記してみたいと思うのだが、今回はいままでとは逆に、新しい時代から歴史をさかのぼってみて、ケルト人とどこまで関連性があるのか見てみたい。(以前、NHKで”さかのぼり日本史”というような番組があったので参考。 なお、これらの名称は、初めて聞く言葉が多いと思われ、しかも、難しいものが多いので、混乱を避けるため何度もその名称を繰り返すことを、ご容赦願う。) 

 さて、ケルト民族は、その初期の遺跡があったオーストリアの遺跡の名をとったハルシュタット(Hallstatt)文化から、いわゆる歴史に出てくるが(紀元前750年頃)、では それより直前の骨壷場文化とは、どのような文化であったのか。

 骨壷場文化(骨壷墓地文化とも言われるが、英語からの訳(Urnfield culture)としては、”場”の方がより適切なように思う)は、前1300年頃より始まり、その集団は、イタロ・ケルト語系言語(ケルト語の祖語と古代イタリアにあった言語の祖語、現在のイタリア語とは直接関係ない)あるいは、ケルト祖語そのものを話していたと考えられている。 なお、この集団からは、スラブ語系の祖語も発生したとも言われる(日本語ウィキより)。

 骨壷場文化の名前の由来は、その前の文化(墳墓文化)までは、死後は、墳丘(クルガン)の中の墓室に埋葬されていたものが、この時代になって、火葬しその灰を壺に入れ地中に埋めるという、現代風で画期的な、それまでと全く違う習慣に変わって行ったからである。 この時期の金属器は青銅器で、鉄器はこの時期には、まだほとんど見られない。 鉄は、次のケルトのハルシュタット文化になってから利用されはじめる。 

 この骨壺場文化は、墳墓文化(Tumulus culture)から徐々に発展してきたが、地域的には、現在の西ハンガリーからフランス、北はオランダ、南はイタリア全土を含む。 

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骨壷場文化の範囲(黄色箇所Urnfield systems)後期青銅器時代(前1100年頃)

 この文化の時代が起こった時期にほぼ同じく(前1200-1170年頃)、ヨーロッパでは、ギリシャの暗黒の時代などに見られるようないくつもの集団の大移動があったと見られ、それは、多くの戦火や混乱があったせいだと推測されている。 

 この文化集団は、丘の上などに強固な壁に囲まれた集落を形成していた。 青銅製の4輪荷車もあった。 牛、馬、羊、ヤギ、豚、犬、そして、ガチョウなどの家畜がいた。 牛や馬は、肩の高さが、1.2m程度の小さなものであったらしい。(現在でも、ポニーなど小さい馬はよく見るが、このサイズの牛はあまり見ない。) 様々な麦類などの植物も栽培されていた。

  

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 文化名ともなった骨壷。

 下は、その埋葬方法の模式図。

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 では、1300年に始まる骨壷場文化の前にあった墳墓文化(Tumulus culture)とは、どんな文化だったのか。

 墳墓文化(Tumulus culture)は、ウーニェチツェ(Unetice)文化より引き継いだ、前1600年頃からババリア地方などで始り、1200年頃まで存在し、骨壷場文化に繋がったと言われる。 Tumulusというのは、以前紹介し、今回もすでに記しているクルガン(Kurgans)と同じ意味で、墓の墳丘のことである。 この時代は、中期青銅器時代であった。 

 この文化の時、すでにイタロ・ケルト語の祖語が、発生していたという説があるが、それらの言語は別のルートで来たという反論もある。 つまり、この時期あたりで、ケルトとの直接の関連を見るのは、ちょっと難しくなってきたのか。

 

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墳墓文化の埋葬様式の復元

 そういうことで、ケルト民族とは少し離れるかもしれないが、その先の文化についても見てみる。 墳墓文化の前段階は、ウーニェチツェ文化(地名、Unetice culture)と呼ばれるもので、この文化は、今のチョコ共和国あたりを中心に、前2300-1800年辺りまで存在したようだ。

 この文化の特徴は、大量の金属器やその材料(主に青銅)の遺物・遺跡である。

 埋葬方法には、2種類あったようだ。 一つは、ただ平地に埋葬する方法と、もう一つは、これまでのクルガン文化で見られたような墳丘の造成である。 

 平地埋葬の墓穴は、長方形または卵形で、その大きさは、長さ1.0ー1.9m、幅0.6ー1.2m, 深さ0.3ー1.5mの範囲であった。 この埋葬で特徴的なのは、死体は頭を南、足を北にして安置され、顔は東向きにされていたことだ。 墳丘型の墓では、その墳丘の典型的なサイズは、直径25m,高さ5mぐらいであった。

 彼らの住居は、主に木造で屋根は藁葺きのようだった。 住居で一番特徴的なものは、家屋の下に深くて広い穀物貯蔵用の空間があったこと。 この集団は、イギリスのウェセックス文化集団との交易が認められ、そこから青銅製品に必要な錫などの輸入がなされたという。

 この文化集団のDNA調査では、この前期にあった鐘状ビーカー文化、縄目文文化およびその前のヤムナ文化などの各集団との強い近縁関係を示したとある。 

 次に、その鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell Beaker culture)は、前2800年から1800年頃まで存在したと言われる。 この文化が発展した最も初期のエリアは、現在のポルトガルあたりであり(極初期は、前2900年)、そこから海伝いにフランスのブルターニュ地方に到達。 その後、イギリスやアイルランド(前2500-1700年まで)などに伝搬したと思われる。 別のルートでは、内陸の中欧あたりに始まり(前2500年)、そこから拡散していったものと思われる。(しかし、イギリス諸島ほど、長くは続かなかった。) 

 この文化の名称にもなった西洋の鐘に似た土器製の広口瓶(ビーカー)であるが、主にビールなどの飲用に用いられたようだ。 

 埋葬形態は、一人用の平地埋葬が主であったようだ。 遺体は、仰向けに伸ばした状態で埋められたようであるが、時には、曲げられて埋葬されている遺体もある。 また、火葬もいくらかみられたようだ。

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ビーカー文化集団の移動

 

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ビーカー土器、西洋鐘を逆さにしたような形状。 南西ドイツ

 ここで、アイルランドのビーカー文化の特徴に少し触れる。 アイルランドでは、多くのビーカーが見られるが、同時に、お椀状などの形状の違う土器も多数見つかっている。 ここでは、大陸から来た陶工たちが移住し、生産拠点を作り上げ、多くの種類の先進的な土器を製造したようだ。 また他の地域と異なり、ここでは、この土器ビーカーが、埋葬の副葬品としてはあまり見られず、より屋内集会場のような場所で見つかっている。 また、黄金の首飾り様装飾品や石製の手首防具(直訳)なども、その他の地域に比べ高頻度で見られるが、それらも副葬品として用いられていないので、どのように利用したのかあまり判然としていない。 

 アイルランドのビーカー文化の最も重要な場所の一つは、ロス島(Ross Island)であり、ここには銅山があって、その銅はイギリスや大陸に輸出されていたようだ。 また、アイルランドでは、この時期(前2400-2000年)には、多くの主に青銅製のナイフなども製造されたが、特に、柄の部分が1m程あり幅広の刃先をもった剣は、当時の戦闘方法を変えるほど優れたものであったようだ。 アイルランドのビーカー文化の始まりは、ニューグレンジなどの大型の石室や羨道を有する墳墓の終わりと呼応している。

 イギリスのビーカーは、初期のものは、ドイツなどで作られたものに似ているが、のちにはアイルランド製のもの似る。 イギリスでは、副葬品に関連したものが多く、この点でアイルランドのと異なる。 また、イギリスで最も有名なビーカー文化の場所の一つは、ストーン・ヘンジ周辺である。 ストーン・ヘンジそのものは、その前の新石器時代に作られたが、その周囲の墳丘や近隣にビーカー文化の遺物がみられる。 イギリスでは、この時期から錫が取れ輸出していた。

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2400-2000年、アイルランド、黄金の首飾り

 この集団のDNA分析では、やや矛盾したデータもあるようだが、基本的には、これより先の印欧文化である縄目文文化やヤムナ文化集団とほぼ近いものであるようだ。 ただし、イベリア半島のビーカー文化集団と中欧の集団では、DNA分析結果が異なったという報告もあるので、今後の研究が待たれる。

 とにかく、それらと関連するのだが、この集団の言語は、印欧語であったことは確かである。 一時、その言語は、イタロ・ケルト語族かとも言われたが、この文化集団は、それより先に存在しているので、その説は現在では否定的である。 それで、今はバスク語しか残っていない、かつてヨーロッパの西端地域(イギリス諸島やイベリア半島など)にあった古い印欧語族の集団ではないか、という興味ある説があるが、このビーカー文化には文字に関する遺跡は全くみつかってないので、今のところ確定的とまでは言えない。

 さて、欧米の研究者の間では、新たな文化・文明が起こる際に、その文化の変化・変遷が急激に一挙に起こったものなのか、あるいは緩やかなものだったのか、という議論がある。 つまり、新しい文化集団が、前の集団の文化を大きく圧倒した結果なのか(大量の人口の流入などによる)、あるいは、その文化物の移動が主で、人口自体の移動はそれほど多いものではなかった、という差異である。

 さて、このビーカー文化の場合も、その2説が対立する場となった。 当初は、急激に変化したという説が、有力であったが、その後、数十年前からは、緩やかな変遷の方の説が優位になっていったが、しかしまた最近、DNA分析の結果から、このビーカー文化は、その先の文化集団から急激な変化して生じたものである、とする説が再度有力になってきている。

 さて、そうであれば、面白くなってくるのは、このビーカー文化集団は、イギリスやアイルランドの新石器時代の有名な巨大石遺跡であるストーン・ヘンジ(前3000年頃から)やニューグレンジ(前3200年)を作った人たちとは、完全に異なる人たちあるということだ。 このビーカー文化集団は、その少しあとに移動してきて、ストーン・ヘンジなどを作った人たちを駆逐した形になるのだろう。 

 それと、中欧などのヨーロッパ中心部では、ヤムナ文化や縄目文文化を経過して、このビーカー文化が登場したが(縄目文文化とビーカー文化が共存したところもある)、イギリス諸島などでは、新石器時代から直接ビーカー文化(青銅器文化)に移行したように見えることだ。

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ビーカー文化集団の男性(復元)、前2400年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加)

 さて、今回は、もともとケルト民族の由来を追いかけていたのだが、アイルランドでは、紀元前2000年あたりに作られた黄金の装飾品などが、同じ印欧語を持った集団ではあるが、ケルト人たちより千年以上も前に大陸から来た集団が作ったもの、とわかってきた。 そして、彼らの言語が、もしかしたら現在まで帰属不明のバスク語と繋がっているかもしれないという興味ある説もみた。 実は、現在のアイルランド人は、かなりバスク人とDNA上の強い繋がりがあることもわかっている。 

 ということで、長くなってしまったので、アイルランドにおける2大文化遺産であるニューグレンジとケルト文化、これらの文化遺産に関連すると思われる民族や集団を、次回もう少しみてみたい。 

 それと、最後に締めくくりとして私が思ったのは、ヨーロッパでの文化・文明の区分は、主に埋葬方法や墳墓の形状によって成されている、ということである。 はっきりそういう定義をどこかで見たわけではないが、これまでの記述を見ているとそう思える。 あと、土器の形状・文様の差異も関連しているのだろう。 まあ結局、このあたりは、日本の歴史区分の方法とそんなに差がないということでもあり、現在の我々が、過去を知る手がかりとしては、そういうものに頼るということになるのであろう、以上。