(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (10)

⑩ 中央アジアに花咲いた魅力的な国・民族

  今回は、月氏、バクトリア、ソグドなど、あのシルクロードなどとも直接関連する、東西の人的及び文化交流や物品交易で隆盛した中央アジアの民族・国々を扱ってみたい。 

 地域的な動きがあるので、うまく時系列で並べられない場合もあるが、まず、月氏(げっしYuezhi)を取り上げたい。 以前、私は、月氏のこの「氏」は、日本の源氏や平氏の氏と同じ意味かと勘違いしていた。 

 前回までに書いたモンゴル高原などに匈奴が繁栄をきわめる少し前、匈奴の東西には、東胡(東側:中国東北部)と、この月氏(西側:モンゴル高原)が勢力を誇示していた。  やがて、匈奴が、勢力を増し東胡を滅ぼした。(この東胡の生き残った集団が、のちに鮮卑を建国したことは、前に書いた。)

 西方では、紀元前2世紀あたりから、月氏は、匈奴によって西に追いやられる(西域の敦煌あたり)。 その後、民族は分裂し、さらに西へ移動する。 それで、前回も出てきたイリ渓谷地方(Ili valley)に移動した集団は、大月氏(だいげっしGreater Yuezhi)と呼ばれ、現在の中国・西海省(チベットの東側)に移動した集団は、小月氏(しょうげっしLesser Yuezhi)と呼ばれている。 しかし、イリ地方に、烏孫(うそんWusun)族が、攻め立て、大月氏はさらに西のソグディアナ地方(現在のウズベキスタン東部など)に移動した。 

 ここで、これらの民族をもう少し紹介してみたい。 月氏は、かなり東方に位置していたが、印欧語を話すイラン系の民族であったようだ。 また、烏孫も同じような民族集団であったと言われる。 つまり、これらの民族は、比較的東方に住んでいた遊牧民であるが、太古のアファナシュヴォ文化集団や、その後のスキタイ人などが、西からその文化の伝搬と共に、ある程度の人口を抱えて東進してきた、その末裔たちであると言えるだろう。

 ちょっと入り組んでいるが、もう少し細かく言うと、紀元前165年頃に、大月氏はイリ地方にいたサカ(Saka)族を破る。 前に少しだけ触れたと思うが、このサカ族も、民族的には印欧語族でスキタイに近い民族(あるいは分岐した集団)で、後で述べるガンダーラ地域にも一時期勢力を伸ばしていた。 しかし、前132年、このイリ地方の大月氏は、匈奴と共謀した烏孫族の勢力に破れ、より西方の地域・ソグディアナ(Sogdiana)や、さらに南のバクトリア(Bactria)と呼ばれた地域に追いやられる(現在のアフガニスタン北部など)。 

 しかし、バクトリア地方では、大月氏の中の部族・クシャーナ(Kushana)族が、そこを治めていたグレコ・バクトリアを滅ぼす。 このグレコ・バクトリアとは、前3世紀にヘレニズム王国(アレクサンドロス3世の後継者が建てた国々)の1つとして、ギリシャ・マケドニア人によって建国された国家である(単に、バクトリアとも言われるが、地名との混同を避けるため、国名は、グレコ・バクトリアと呼ばれる)。 このグレコ・バクトリア国では、当初は、当時のギリシャ語が使用され, ギリシャ文字で王を図柄にした良質な硬貨なども製造されていた。

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グレコ・バクトリアの硬貨(エウクラティデス王、前171-145)

 クシャーナ族は、その後(後1世紀)さらに南下し、グレコ・バクトリア系のインド・グレコ王国が、紀元前180年頃から治めていたヒンズークシ(Hindu-kush)地方に侵入し、それを破って、インド北部にまたがる大国を形成した(クシャーナ帝国Kushan Empireとも)。 クシャーナ帝国では、イラン系言語のバクトリア語(Bactrian Language)が使われた。 この言語は、数世紀後、この地に起こったエフタル(Hefthalite)国でも使われた。 

 元々の月氏も、イラン系民族であったのだが、このバクトリア語は、同じイラン語系だったので、採用しやすかったのだろうか。 また、クシャーナ国は、グレコ・バクトリアと同じようなギリシャ風の硬貨も作った。

 だが、最も特筆すべきことは、このクシャーナ朝では、大乗仏教が、ヘレニズムと融合して、ギリシャ風の仏教文化を花咲かせたことだ。 いわゆるガンダーラ文化あるいはグレコ仏教文化である。 さらに重要なのは、仏教のシルクロードと通して、遠く中国や朝鮮半島、そして日本にも、その文化が伝わっていったことである。 

 時代はやや遡(さかのぼ)るが、仏教は、インド北東部で起こったのち、徐々にインド各地に伝わっていった。 紀元前320年頃に起こりインド全域を支配したマウリア王朝(Maurya)は、このガンダーラ地方も治め、ブッダの死後約100年後には、有名なアショカ王(Ashoka)が出て、仏教の普及に一層努め、周辺の民族などとの交流も進めたのである。 そして、上記のように180年頃には、インド・グレコ国が、この地を治めるのであるが、基層の仏教の上に、ギリシャ文化が覆っていく過程ができていた。

 つまり、既述のクシャーナ帝国によるグレコ仏教文化の発展の下地は、その前に、かなり出来上がっていたのである。 当然、バクトリア地方も、ギリシャ本国同様、芸術作品としてバクトリア化したギリシャ風塑像がすでに作成されていた。 そして、このガンダーラ(Gandhara)の地(現在は、パキスタン北部)で、ギリシャの神々の塑像を模したブッダの立体像が制作されるようになり、やがてそれは、後の中国や日本などの仏像になっていく画期的な文化現象が起こったのである。 

 このグレコ仏教文化は、このクシャーナ帝国のカニシカ大王(Kanishka the great 128-151)などによって厚く保護され(この時代には、大乗仏教(Mahayana Buddhism)が中心となる)、近隣各地に伝播するなど、大いなる隆盛を見た。 グレコ仏教文化は、クシャーナ朝が、この地から撤退後も(230年頃)、その文化的影響は残り、5世紀頃までこのガンダーラの地で存続し続けたという。

 

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紀元前2-1世紀のグレコ・バクトリアの塑像

 

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紀元後1-2世紀のガンダーラの菩薩像、 

  振り返って、もとはモンゴル高原辺りにいた月氏が、他民族の圧迫等により西に移動し、ソグディアナに至り(大月氏として)、さらに、その南部のバクトリアを占拠し、クシャーナ朝となり、その後さらに、カイバー(カイバル)峠(Khyber pass、中央アジアとインド圏北部を結ぶほとんど唯一の入り口)を通過し、ガンダーラなどの地域を占拠、そしてクシャーナ帝国を築く。 なんとも、凄い歴史だ。 

 そこには、人種や言語的には、月氏の東イラン系、そしてその移動の過程には、テュルク系、モンゴル系、烏孫やサカなど中央アジアの諸民族(イラン系が多い)、漢民族、ギリシャ系そして北部インド系などの人たちがいたはずだ。 生活様式では、遊牧と定住農耕そしてその中間的な生活環境もあったろう。 そして、宗教では、イラン系のゾロアスター教、モンゴル・中央アジアのシャーマニズム、古代のギリシャ宗教、キリスト教、そして、仏教やヒンズー教など。 これらの多様な人間と文化の複雑な融合が、真にこの時この地で起こったのである。 さぞかし、エキゾチックな雰囲気を漂わせていた地域であったろうと想像する。 

 もちろん、私は、この地がいわゆるユートピアのような所だったなどとは全く考えないが、少なくとも、当時の世界の中で、これだけの異なる民族が、融合あるいは共存、もしくは、混沌とした一体化などなど(実際を見ていないので、どのような形容詞を使って良いのかわからないが)、何かそういうロマンのある地域・文化を形成していたように思えてならない。

 ただ、人種の関係では、アレクサンドロス3世以降にバクトリアやガンダーラに来たギリシャやマケドニア人は、圧倒的に男性であったとも思う。 もし、この時代の人々のDNA分析ができれば、男系を示すY染色体と女系を示すミトコンドリア染色体の遺伝情報には、かなりの差異があるのではとも想像する。

 

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月氏(Yuezhi)→大月氏→クシャーナ族の移動の軌跡。 年代は、本文中のものと多少異なる。 敗戦や移動などの定義の違いによるものか。 

 

 

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カイバー峠、現在は、アフガニスタンとパキスタンの国境。 これを、パキスタン側に入るとガンダーラがある。

 

 なお、余談だが、西遊記で有名な中国・唐の層、玄奘(げんじょう)が、この地を訪れたのは、650年頃のことである。 ガンダーラ地方は、その後も、各民族が入れ替わる場となったが、まだこの頃も、かつての面影を残していたようである。

 また、クシャーナ帝国は、西のローマ帝国とも貿易などで良好な関係を持ちつづけており、ここに、シルクロードの重要な中継地の1つでもあった。

  ここで、小月氏のその後について少し。 彼らは、現在の西域あたりに移動し、その後、中国北方の民族の一つ・羌(きょう)族と交わっていったという。 そして、漢王朝がその崩壊へとつながる180年頃の羌族の反乱などに参加したとも言われている。 

 さて、先にソグディアナ地方が出たので、この地域の名を冠したソグド人(Sogdians)についても、少し書いておく。  

 彼らも、イラン系の民族であるが、古くは、同じ民族系統のアケメネス朝ペルシャの支配下にあった時以前から知られており、その後のアレクサンドロス3世がこの地を押さえた後は、ギリシャ・マケドニアの兵士たちとソグドの女性との結婚を推奨したなどとある。 彼らの宗教は、7世紀後半から8世紀前半頃にイスラム教に改宗するまでは、古来イラン系のゾロアスター教が中心であったが、それまでにも仏教やキリスト教・ヒンズー教などとの接触もかなりあったようだ。 彼らの言語・ソグド語は、イラン系の中でも、かなり普及した重要な言語であった。 また、彼らも、交易に積極的で、5-7世紀にはシルクロード交易商人として、中国・唐と西側との交流を推進してきた民族の1つである。 

 しかし、この交流には、やはり奴隷売買などの人的搾取という否定的な面も含まれている。 その概要は、ほとんどはソグドの女性が、中国・唐の男性に売られるものであったが、唐の女性がソグドの男性に売られるものも少数ながらあったという。 この商売は、おもに西域のトゥルファン(Turpan)地域で行われたようだ。 このソグディアナの中心部から2千キロ以上離れ、唐の首都・長安からは、その倍以上離れているトゥルファンでは、唐やソグディアンの商人のためのそういう宿があったという。 ある記録では、唐商人が、40束の絹で11歳のソグド人少女を買ったというのがある。 先程の三蔵法師の玄奘が、旅した時も、こういう光景は、当然見ていたであろう。

 こういう混血の子供たちが、その後、中国やソグディアナでどういう生活をしていったかなどは、それはまた興味あるところであり、ウィキなどのどこかにその記載もあるだろうが、今は、そのことについては深入りしないでおく。 

 奴隷の売買は、これまでも見てきたようにメソポタミアや黒海北岸の諸民族などでも盛んに行われ、ギリシャ・ローマでは、その規模(人口に対する奴隷の数など)も中国王朝のものより、ずっと大きかったようだ。 そういうある意味、過酷な搾取もあったが、下図にあるようなこの時代・この地域の文化交流は、ある意味、今でも世界人類に示すべき模範であるような気がする。

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東洋風と西洋風の仏僧像(紅毛碧眼の方が、師匠らしい。) 9世紀の西域・トゥルファンのもの。 この絵は、ソグド人そのものではないが、このような交流が、このソグディアナの地でもあったようだ

  なお、ここで単なる私の直感的なものを書くが、これまで、いくつか紹介したイラン系の言語を話す遊牧民族は、歴史書の証言や絵画に残された物、そして現在のDNA分析などによると、今現在イランに住むペルシャ系住民より、より色素が薄い人種・民族ではなかったか、と感じている。 つまり、このかつての中央アジアにいたイラン系民族の方が、紅毛碧眼の割合が、どうも高そうであるように思える。 見てきたように、元々彼らは、今のロシア南部やウクライナ地方で発現した人種・民族である。 その後、かなり東方に移動したが、今回のクシャーナ朝あるいは、7・8世紀のソグド人の段階でもまだ結構紅毛碧眼の表現型を保った人が多かった印象を受ける。 現在のイラン人は、この後イスラム化し、その関係の多くの他民族(セム系、アフリカ系、さらにインド系、そして、この東アジア系など)との新たな交わりが多くあり、全体的には、肌や目の色などが少し濃くなっていったのではないか、と推測している。

 さて、次回は、また西の方に戻って、ケルト民族について書いてみたい。