(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (11)

⑪ ケルト民族はどこから来たか。

 この歴史の投稿もだいぶ回を重ねてきた。 今回は、20年以上前にはとても興味を持っていたケルト人について書いてみる。 ただ、最近は、その後の情報を追いかけていなかったので、ウィキなどに新たな情報があるのかどうかが気になっていた。

 この拙い今回の歴史シリーズの第6回では、主に鉄文化の担い手・ヒッタイトについて書いたが、その際、現在のヨーロッパの言語を話す人、そのほとんどすべての直接の祖先とも言えるヤムナ(YamnaあるいはヤムナヤYamnaya)文化集団についても若干記した。 それは、紀元前3000年前後のメソポタミアのシュメール文明とほぼ同時代であった。 その6回では、ヤムナ文化の主にその後の東や南への移動について述べた。 今回は、その文化や集団の西への移動を見てみたい。 

 さて、このケルト人たちが、歴史的に確実な存在として認められるのは前750年頃からであるが、この民族集団が、ヤムナ文化からどういう経緯を経て形成されて至ったのか、あるいは、その間は不明なところが多いのか、まずその辺を見てみたい。

 現在のほとんどのヨーロッパの言語の元・印相祖語の発生に大きく関係すると思われるヤムナ文化の集団(前3300-2600)が、黒海北部の広い範囲に勢力を伸ばした後、次に東欧中欧付近では、縄目文(あみめもん)土器文化(Corded Ware culture、2900-2350年)が拡散した、というのは第6回の時にも少し書いた。  

 その後のヨーロッパの主要な文化の変遷をダイジェストで書くと、まず鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell beaker or Beaker culture 、全欧州では2800-1800年の幅があるが、中欧では2500-2000年頃)というのが起こり、そして次に、ウーニェチツェ文化(Unetice culture 2300-1800年)というのがあり、さらに、墳墓文化(Tumulus culture1600-1200年)、そして、 骨壷場(こつつぼば)文化(Urnfield culture、1300-750年)が来る。 そして、これが、ケルトの文化へと繋がっていくようだ。 欧州の各地域には、もっと多くの文化・民族集団があったようだが、大まかな変遷はこのようだ。 

 それで、ケルト人自身のことを書く前に、これらの祖先の文化集団の由来を記してみたいと思うのだが、今回はいままでとは逆に、新しい時代から歴史をさかのぼってみて、ケルト人とどこまで関連性があるのか見てみたい。(以前、NHKで”さかのぼり日本史”というような番組があったので参考。 なお、これらの名称は、初めて聞く言葉が多いと思われ、しかも、難しいものが多いので、混乱を避けるため何度もその名称を繰り返すことを、ご容赦願う。) 

 さて、ケルト民族は、その初期の遺跡があったオーストリアの遺跡の名をとったハルシュタット(Hallstatt)文化から、いわゆる歴史に出てくるが(紀元前750年頃)、では それより直前の骨壷場文化とは、どのような文化であったのか。

 骨壷場文化(骨壷墓地文化とも言われるが、英語からの訳(Urnfield culture)としては、”場”の方がより適切なように思う)は、前1300年頃より始まり、その集団は、イタロ・ケルト語系言語(ケルト語の祖語と古代イタリアにあった言語の祖語、現在のイタリア語とは直接関係ない)あるいは、ケルト祖語そのものを話していたと考えられている。 なお、この集団からは、スラブ語系の祖語も発生したとも言われる(日本語ウィキより)。

 骨壷場文化の名前の由来は、その前の文化(墳墓文化)までは、死後は、墳丘(クルガン)の中の墓室に埋葬されていたものが、この時代になって、火葬しその灰を壺に入れ地中に埋めるという、現代風で画期的な、それまでと全く違う習慣に変わって行ったからである。 この時期の金属器は青銅器で、鉄器はこの時期には、まだほとんど見られない。 鉄は、次のケルトのハルシュタット文化になってから利用されはじめる。 

 この骨壺場文化は、墳墓文化(Tumulus culture)から徐々に発展してきたが、地域的には、現在の西ハンガリーからフランス、北はオランダ、南はイタリア全土を含む。 

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骨壷場文化の範囲(黄色箇所Urnfield systems)後期青銅器時代(前1100年頃)

 この文化の時代が起こった時期にほぼ同じく(前1200-1170年頃)、ヨーロッパでは、ギリシャの暗黒の時代などに見られるようないくつもの集団の大移動があったと見られ、それは、多くの戦火や混乱があったせいだと推測されている。 

 この文化集団は、丘の上などに強固な壁に囲まれた集落を形成していた。 青銅製の4輪荷車もあった。 牛、馬、羊、ヤギ、豚、犬、そして、ガチョウなどの家畜がいた。 牛や馬は、肩の高さが、1.2m程度の小さなものであったらしい。(現在でも、ポニーなど小さい馬はよく見るが、このサイズの牛はあまり見ない。) 様々な麦類などの植物も栽培されていた。

  

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 文化名ともなった骨壷。

 下は、その埋葬方法の模式図。

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 では、1300年に始まる骨壷場文化の前にあった墳墓文化(Tumulus culture)とは、どんな文化だったのか。

 墳墓文化(Tumulus culture)は、ウーニェチツェ(Unetice)文化より引き継いだ、前1600年頃からババリア地方などで始り、1200年頃まで存在し、骨壷場文化に繋がったと言われる。 Tumulusというのは、以前紹介し、今回もすでに記しているクルガン(Kurgans)と同じ意味で、墓の墳丘のことである。 この時代は、中期青銅器時代であった。 

 この文化の時、すでにイタロ・ケルト語の祖語が、発生していたという説があるが、それらの言語は別のルートで来たという反論もある。 つまり、この時期あたりで、ケルトとの直接の関連を見るのは、ちょっと難しくなってきたのか。

 

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墳墓文化の埋葬様式の復元

 そういうことで、ケルト民族とは少し離れるかもしれないが、その先の文化についても見てみる。 墳墓文化の前段階は、ウーニェチツェ文化(地名、Unetice culture)と呼ばれるもので、この文化は、今のチョコ共和国あたりを中心に、前2300-1800年辺りまで存在したようだ。

 この文化の特徴は、大量の金属器やその材料(主に青銅)の遺物・遺跡である。

 埋葬方法には、2種類あったようだ。 一つは、ただ平地に埋葬する方法と、もう一つは、これまでのクルガン文化で見られたような墳丘の造成である。 

 平地埋葬の墓穴は、長方形または卵形で、その大きさは、長さ1.0ー1.9m、幅0.6ー1.2m, 深さ0.3ー1.5mの範囲であった。 この埋葬で特徴的なのは、死体は頭を南、足を北にして安置され、顔は東向きにされていたことだ。 墳丘型の墓では、その墳丘の典型的なサイズは、直径25m,高さ5mぐらいであった。

 彼らの住居は、主に木造で屋根は藁葺きのようだった。 住居で一番特徴的なものは、家屋の下に深くて広い穀物貯蔵用の空間があったこと。 この集団は、イギリスのウェセックス文化集団との交易が認められ、そこから青銅製品に必要な錫などの輸入がなされたという。

 この文化集団のDNA調査では、この前期にあった鐘状ビーカー文化、縄目文文化およびその前のヤムナ文化などの各集団との強い近縁関係を示したとある。 

 次に、その鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell Beaker culture)は、前2800年から1800年頃まで存在したと言われる。 この文化が発展した最も初期のエリアは、現在のポルトガルあたりであり(極初期は、前2900年)、そこから海伝いにフランスのブルターニュ地方に到達。 その後、イギリスやアイルランド(前2500-1700年まで)などに伝搬したと思われる。 別のルートでは、内陸の中欧あたりに始まり(前2500年)、そこから拡散していったものと思われる。(しかし、イギリス諸島ほど、長くは続かなかった。) 

 この文化の名称にもなった西洋の鐘に似た土器製の広口瓶(ビーカー)であるが、主にビールなどの飲用に用いられたようだ。 

 埋葬形態は、一人用の平地埋葬が主であったようだ。 遺体は、仰向けに伸ばした状態で埋められたようであるが、時には、曲げられて埋葬されている遺体もある。 また、火葬もいくらかみられたようだ。

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ビーカー文化集団の移動

 

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ビーカー土器、西洋鐘を逆さにしたような形状。 南西ドイツ

 ここで、アイルランドのビーカー文化の特徴に少し触れる。 アイルランドでは、多くのビーカーが見られるが、同時に、お椀状などの形状の違う土器も多数見つかっている。 ここでは、大陸から来た陶工たちが移住し、生産拠点を作り上げ、多くの種類の先進的な土器を製造したようだ。 また他の地域と異なり、ここでは、この土器ビーカーが、埋葬の副葬品としてはあまり見られず、より屋内集会場のような場所で見つかっている。 また、黄金の首飾り様装飾品や石製の手首防具(直訳)なども、その他の地域に比べ高頻度で見られるが、それらも副葬品として用いられていないので、どのように利用したのかあまり判然としていない。 

 アイルランドのビーカー文化の最も重要な場所の一つは、ロス島(Ross Island)であり、ここには銅山があって、その銅はイギリスや大陸に輸出されていたようだ。 また、アイルランドでは、この時期(前2400-2000年)には、多くの主に青銅製のナイフなども製造されたが、特に、柄の部分が1m程あり幅広の刃先をもった剣は、当時の戦闘方法を変えるほど優れたものであったようだ。 アイルランドのビーカー文化の始まりは、ニューグレンジなどの大型の石室や羨道を有する墳墓の終わりと呼応している。

 イギリスのビーカーは、初期のものは、ドイツなどで作られたものに似ているが、のちにはアイルランド製のもの似る。 イギリスでは、副葬品に関連したものが多く、この点でアイルランドのと異なる。 また、イギリスで最も有名なビーカー文化の場所の一つは、ストーン・ヘンジ周辺である。 ストーン・ヘンジそのものは、その前の新石器時代に作られたが、その周囲の墳丘や近隣にビーカー文化の遺物がみられる。 イギリスでは、この時期から錫が取れ輸出していた。

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2400-2000年、アイルランド、黄金の首飾り

 この集団のDNA分析では、やや矛盾したデータもあるようだが、基本的には、これより先の印欧文化である縄目文文化やヤムナ文化集団とほぼ近いものであるようだ。 ただし、イベリア半島のビーカー文化集団と中欧の集団では、DNA分析結果が異なったという報告もあるので、今後の研究が待たれる。

 とにかく、それらと関連するのだが、この集団の言語は、印欧語であったことは確かである。 一時、その言語は、イタロ・ケルト語族かとも言われたが、この文化集団は、それより先に存在しているので、その説は現在では否定的である。 それで、今はバスク語しか残っていない、かつてヨーロッパの西端地域(イギリス諸島やイベリア半島など)にあった古い印欧語族の集団ではないか、という興味ある説があるが、このビーカー文化には文字に関する遺跡は全くみつかってないので、今のところ確定的とまでは言えない。

 さて、欧米の研究者の間では、新たな文化・文明が起こる際に、その文化の変化・変遷が急激に一挙に起こったものなのか、あるいは緩やかなものだったのか、という議論がある。 つまり、新しい文化集団が、前の集団の文化を大きく圧倒した結果なのか(大量の人口の流入などによる)、あるいは、その文化物の移動が主で、人口自体の移動はそれほど多いものではなかった、という差異である。

 さて、このビーカー文化の場合も、その2説が対立する場となった。 当初は、急激に変化したという説が、有力であったが、その後、数十年前からは、緩やかな変遷の方の説が優位になっていったが、しかしまた最近、DNA分析の結果から、このビーカー文化は、その先の文化集団から急激な変化して生じたものである、とする説が再度有力になってきている。

 さて、そうであれば、面白くなってくるのは、このビーカー文化集団は、イギリスやアイルランドの新石器時代の有名な巨大石遺跡であるストーン・ヘンジ(前3000年頃から)やニューグレンジ(前3200年)を作った人たちとは、完全に異なる人たちあるということだ。 このビーカー文化集団は、その少しあとに移動してきて、ストーン・ヘンジなどを作った人たちを駆逐した形になるのだろう。 

 それと、中欧などのヨーロッパ中心部では、ヤムナ文化や縄目文文化を経過して、このビーカー文化が登場したが(縄目文文化とビーカー文化が共存したところもある)、イギリス諸島などでは、新石器時代から直接ビーカー文化(青銅器文化)に移行したように見えることだ。

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ビーカー文化集団の男性(復元)、前2400年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加)

 さて、今回は、もともとケルト民族の由来を追いかけていたのだが、アイルランドでは、紀元前2000年あたりに作られた黄金の装飾品などが、同じ印欧語を持った集団ではあるが、ケルト人たちより千年以上も前に大陸から来た集団が作ったもの、とわかってきた。 そして、彼らの言語が、もしかしたら現在まで帰属不明のバスク語と繋がっているかもしれないという興味ある説もみた。 実は、現在のアイルランド人は、かなりバスク人とDNA上の強い繋がりがあることもわかっている。 

 ということで、長くなってしまったので、アイルランドにおける2大文化遺産であるニューグレンジとケルト文化、これらの文化遺産に関連すると思われる民族や集団を、次回もう少しみてみたい。 

 それと、最後に締めくくりとして私が思ったのは、ヨーロッパでの文化・文明の区分は、主に埋葬方法や墳墓の形状によって成されている、ということである。 はっきりそういう定義をどこかで見たわけではないが、これまでの記述を見ているとそう思える。 あと、土器の形状・文様の差異も関連しているのだろう。 まあ結局、このあたりは、日本の歴史区分の方法とそんなに差がないということでもあり、現在の我々が、過去を知る手がかりとしては、そういうものに頼るということになるのであろう、以上。

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (10)

⑩ 中央アジアに花咲いた魅力的な国・民族

  今回は、月氏、バクトリア、ソグドなど、あのシルクロードなどとも直接関連する、東西の人的及び文化交流や物品交易で隆盛した中央アジアの民族・国々を扱ってみたい。 

 地域的な動きがあるので、うまく時系列で並べられない場合もあるが、まず、月氏(げっしYuezhi)を取り上げたい。 以前、私は、月氏のこの「氏」は、日本の源氏や平氏の氏と同じ意味かと勘違いしていた。 

 前回までに書いたモンゴル高原などに匈奴が繁栄をきわめる少し前、匈奴の東西には、東胡(東側:中国東北部)と、この月氏(西側:モンゴル高原)が勢力を誇示していた。  やがて、匈奴が、勢力を増し東胡を滅ぼした。(この東胡の生き残った集団が、のちに鮮卑を建国したことは、前に書いた。)

 西方では、紀元前2世紀あたりから、月氏は、匈奴によって西に追いやられる(西域の敦煌あたり)。 その後、民族は分裂し、さらに西へ移動する。 それで、前回も出てきたイリ渓谷地方(Ili valley)に移動した集団は、大月氏(だいげっしGreater Yuezhi)と呼ばれ、現在の中国・西海省(チベットの東側)に移動した集団は、小月氏(しょうげっしLesser Yuezhi)と呼ばれている。 しかし、イリ地方に、烏孫(うそんWusun)族が、攻め立て、大月氏はさらに西のソグディアナ地方(現在のウズベキスタン東部など)に移動した。 

 ここで、これらの民族をもう少し紹介してみたい。 月氏は、かなり東方に位置していたが、印欧語を話すイラン系の民族であったようだ。 また、烏孫も同じような民族集団であったと言われる。 つまり、これらの民族は、比較的東方に住んでいた遊牧民であるが、太古のアファナシュヴォ文化集団や、その後のスキタイ人などが、西からその文化の伝搬と共に、ある程度の人口を抱えて東進してきた、その末裔たちであると言えるだろう。

 ちょっと入り組んでいるが、もう少し細かく言うと、紀元前165年頃に、大月氏はイリ地方にいたサカ(Saka)族を破る。 前に少しだけ触れたと思うが、このサカ族も、民族的には印欧語族でスキタイに近い民族(あるいは分岐した集団)で、後で述べるガンダーラ地域にも一時期勢力を伸ばしていた。 しかし、前132年、このイリ地方の大月氏は、匈奴と共謀した烏孫族の勢力に破れ、より西方の地域・ソグディアナ(Sogdiana)や、さらに南のバクトリア(Bactria)と呼ばれた地域に追いやられる(現在のアフガニスタン北部など)。 

 しかし、バクトリア地方では、大月氏の中の部族・クシャーナ(Kushana)族が、そこを治めていたグレコ・バクトリアを滅ぼす。 このグレコ・バクトリアとは、前3世紀にヘレニズム王国(アレクサンドロス3世の後継者が建てた国々)の1つとして、ギリシャ・マケドニア人によって建国された国家である(単に、バクトリアとも言われるが、地名との混同を避けるため、国名は、グレコ・バクトリアと呼ばれる)。 このグレコ・バクトリア国では、当初は、当時のギリシャ語が使用され, ギリシャ文字で王を図柄にした良質な硬貨なども製造されていた。

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グレコ・バクトリアの硬貨(エウクラティデス王、前171-145)

 クシャーナ族は、その後(後1世紀)さらに南下し、グレコ・バクトリア系のインド・グレコ王国が、紀元前180年頃から治めていたヒンズークシ(Hindu-kush)地方に侵入し、それを破って、インド北部にまたがる大国を形成した(クシャーナ帝国Kushan Empireとも)。 クシャーナ帝国では、イラン系言語のバクトリア語(Bactrian Language)が使われた。 この言語は、数世紀後、この地に起こったエフタル(Hefthalite)国でも使われた。 

 元々の月氏も、イラン系民族であったのだが、このバクトリア語は、同じイラン語系だったので、採用しやすかったのだろうか。 また、クシャーナ国は、グレコ・バクトリアと同じようなギリシャ風の硬貨も作った。

 だが、最も特筆すべきことは、このクシャーナ朝では、大乗仏教が、ヘレニズムと融合して、ギリシャ風の仏教文化を花咲かせたことだ。 いわゆるガンダーラ文化あるいはグレコ仏教文化である。 さらに重要なのは、仏教のシルクロードと通して、遠く中国や朝鮮半島、そして日本にも、その文化が伝わっていったことである。 

 時代はやや遡(さかのぼ)るが、仏教は、インド北東部で起こったのち、徐々にインド各地に伝わっていった。 紀元前320年頃に起こりインド全域を支配したマウリア王朝(Maurya)は、このガンダーラ地方も治め、ブッダの死後約100年後には、有名なアショカ王(Ashoka)が出て、仏教の普及に一層努め、周辺の民族などとの交流も進めたのである。 そして、上記のように180年頃には、インド・グレコ国が、この地を治めるのであるが、基層の仏教の上に、ギリシャ文化が覆っていく過程ができていた。

 つまり、既述のクシャーナ帝国によるグレコ仏教文化の発展の下地は、その前に、かなり出来上がっていたのである。 当然、バクトリア地方も、ギリシャ本国同様、芸術作品としてバクトリア化したギリシャ風塑像がすでに作成されていた。 そして、このガンダーラ(Gandhara)の地(現在は、パキスタン北部)で、ギリシャの神々の塑像を模したブッダの立体像が制作されるようになり、やがてそれは、後の中国や日本などの仏像になっていく画期的な文化現象が起こったのである。 

 このグレコ仏教文化は、このクシャーナ帝国のカニシカ大王(Kanishka the great 128-151)などによって厚く保護され(この時代には、大乗仏教(Mahayana Buddhism)が中心となる)、近隣各地に伝播するなど、大いなる隆盛を見た。 グレコ仏教文化は、クシャーナ朝が、この地から撤退後も(230年頃)、その文化的影響は残り、5世紀頃までこのガンダーラの地で存続し続けたという。

 

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紀元前2-1世紀のグレコ・バクトリアの塑像

 

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紀元後1-2世紀のガンダーラの菩薩像、 

  振り返って、もとはモンゴル高原辺りにいた月氏が、他民族の圧迫等により西に移動し、ソグディアナに至り(大月氏として)、さらに、その南部のバクトリアを占拠し、クシャーナ朝となり、その後さらに、カイバー(カイバル)峠(Khyber pass、中央アジアとインド圏北部を結ぶほとんど唯一の入り口)を通過し、ガンダーラなどの地域を占拠、そしてクシャーナ帝国を築く。 なんとも、凄い歴史だ。 

 そこには、人種や言語的には、月氏の東イラン系、そしてその移動の過程には、テュルク系、モンゴル系、烏孫やサカなど中央アジアの諸民族(イラン系が多い)、漢民族、ギリシャ系そして北部インド系などの人たちがいたはずだ。 生活様式では、遊牧と定住農耕そしてその中間的な生活環境もあったろう。 そして、宗教では、イラン系のゾロアスター教、モンゴル・中央アジアのシャーマニズム、古代のギリシャ宗教、キリスト教、そして、仏教やヒンズー教など。 これらの多様な人間と文化の複雑な融合が、真にこの時この地で起こったのである。 さぞかし、エキゾチックな雰囲気を漂わせていた地域であったろうと想像する。 

 もちろん、私は、この地がいわゆるユートピアのような所だったなどとは全く考えないが、少なくとも、当時の世界の中で、これだけの異なる民族が、融合あるいは共存、もしくは、混沌とした一体化などなど(実際を見ていないので、どのような形容詞を使って良いのかわからないが)、何かそういうロマンのある地域・文化を形成していたように思えてならない。

 ただ、人種の関係では、アレクサンドロス3世以降にバクトリアやガンダーラに来たギリシャやマケドニア人は、圧倒的に男性であったとも思う。 もし、この時代の人々のDNA分析ができれば、男系を示すY染色体と女系を示すミトコンドリア染色体の遺伝情報には、かなりの差異があるのではとも想像する。

 

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月氏(Yuezhi)→大月氏→クシャーナ族の移動の軌跡。 年代は、本文中のものと多少異なる。 敗戦や移動などの定義の違いによるものか。 

 

 

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カイバー峠、現在は、アフガニスタンとパキスタンの国境。 これを、パキスタン側に入るとガンダーラがある。

 

 なお、余談だが、西遊記で有名な中国・唐の層、玄奘(げんじょう)が、この地を訪れたのは、650年頃のことである。 ガンダーラ地方は、その後も、各民族が入れ替わる場となったが、まだこの頃も、かつての面影を残していたようである。

 また、クシャーナ帝国は、西のローマ帝国とも貿易などで良好な関係を持ちつづけており、ここに、シルクロードの重要な中継地の1つでもあった。

  ここで、小月氏のその後について少し。 彼らは、現在の西域あたりに移動し、その後、中国北方の民族の一つ・羌(きょう)族と交わっていったという。 そして、漢王朝がその崩壊へとつながる180年頃の羌族の反乱などに参加したとも言われている。 

 さて、先にソグディアナ地方が出たので、この地域の名を冠したソグド人(Sogdians)についても、少し書いておく。  

 彼らも、イラン系の民族であるが、古くは、同じ民族系統のアケメネス朝ペルシャの支配下にあった時以前から知られており、その後のアレクサンドロス3世がこの地を押さえた後は、ギリシャ・マケドニアの兵士たちとソグドの女性との結婚を推奨したなどとある。 彼らの宗教は、7世紀後半から8世紀前半頃にイスラム教に改宗するまでは、古来イラン系のゾロアスター教が中心であったが、それまでにも仏教やキリスト教・ヒンズー教などとの接触もかなりあったようだ。 彼らの言語・ソグド語は、イラン系の中でも、かなり普及した重要な言語であった。 また、彼らも、交易に積極的で、5-7世紀にはシルクロード交易商人として、中国・唐と西側との交流を推進してきた民族の1つである。 

 しかし、この交流には、やはり奴隷売買などの人的搾取という否定的な面も含まれている。 その概要は、ほとんどはソグドの女性が、中国・唐の男性に売られるものであったが、唐の女性がソグドの男性に売られるものも少数ながらあったという。 この商売は、おもに西域のトゥルファン(Turpan)地域で行われたようだ。 このソグディアナの中心部から2千キロ以上離れ、唐の首都・長安からは、その倍以上離れているトゥルファンでは、唐やソグディアンの商人のためのそういう宿があったという。 ある記録では、唐商人が、40束の絹で11歳のソグド人少女を買ったというのがある。 先程の三蔵法師の玄奘が、旅した時も、こういう光景は、当然見ていたであろう。

 こういう混血の子供たちが、その後、中国やソグディアナでどういう生活をしていったかなどは、それはまた興味あるところであり、ウィキなどのどこかにその記載もあるだろうが、今は、そのことについては深入りしないでおく。 

 奴隷の売買は、これまでも見てきたようにメソポタミアや黒海北岸の諸民族などでも盛んに行われ、ギリシャ・ローマでは、その規模(人口に対する奴隷の数など)も中国王朝のものより、ずっと大きかったようだ。 そういうある意味、過酷な搾取もあったが、下図にあるようなこの時代・この地域の文化交流は、ある意味、今でも世界人類に示すべき模範であるような気がする。

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東洋風と西洋風の仏僧像(紅毛碧眼の方が、師匠らしい。) 9世紀の西域・トゥルファンのもの。 この絵は、ソグド人そのものではないが、このような交流が、このソグディアナの地でもあったようだ

  なお、ここで単なる私の直感的なものを書くが、これまで、いくつか紹介したイラン系の言語を話す遊牧民族は、歴史書の証言や絵画に残された物、そして現在のDNA分析などによると、今現在イランに住むペルシャ系住民より、より色素が薄い人種・民族ではなかったか、と感じている。 つまり、このかつての中央アジアにいたイラン系民族の方が、紅毛碧眼の割合が、どうも高そうであるように思える。 見てきたように、元々彼らは、今のロシア南部やウクライナ地方で発現した人種・民族である。 その後、かなり東方に移動したが、今回のクシャーナ朝あるいは、7・8世紀のソグド人の段階でもまだ結構紅毛碧眼の表現型を保った人が多かった印象を受ける。 現在のイラン人は、この後イスラム化し、その関係の多くの他民族(セム系、アフリカ系、さらにインド系、そして、この東アジア系など)との新たな交わりが多くあり、全体的には、肌や目の色などが少し濃くなっていったのではないか、と推測している。

 さて、次回は、また西の方に戻って、ケルト民族について書いてみたい。

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (9)

⑨ モンゴル高原・中国北方から出た諸民族の言語とある小さな民族の話

 前回に書いた民族群の言語は、どれもモンゴル系かテュルク系(トルコ系)の言語であったと言われている。 これに、ツングース系の言語を含め、それらは、アルタイ諸語と呼ばれている。 この3つの言語群は、もちろん親戚関係にあって、それ以前に共通の言語があったと考えられているが、今のところ、それを明確に示す古アルタイ語、あるいは、アルタイ祖語と言うべき存在が発見されていないので、これらテュルク語などのグループをアルタイ語族とは言わず、アルタイ諸語と呼んでいるらしい。 専門家なら、その言葉の違いで、同族度の違いが分かるということか。 

 なお、日本語や朝鮮語もこのアルタイ諸語の中に入るとする説がある。 しかし、現在の日本語は、音韻的には、かなり簡素な組み立てであり、母音や子音の数も少ないので、このアルタイ系の言語の文法を基に(つまり、アルタイ系が先にあって)、南方(台湾高山族やフィリピン・タガログ語などのオーストラロネシア語系など)由来の言語が入り込み、単語がより単純な形になったという説がある程度支持を得ているらしい。 その逆の南方系が先で、アルタイ系が後という説もある。(私には、こちらの方が、より説得力があるように思うが。) 

 日英のウィキペディアを見ていると、さすがに、日本関係のものは、日本語で書かれているものの方が、多いし分かりやすい(私には)。 また、英文のものは、すこし断定的過ぎるようである。(この日本語の起源についても、ある説だけを取り上げ、ほぼ決着がついたような書き方になっている。) とにかく、そのあたりは、縄文人とか弥生人とかの集団の混合具合などと大いに関連があり、日本語の成り立ちは、もちろんのこと、その他の課題も多く含んでいると思われるので、そう簡単な話ではすまない。

 さて、このアルタイ諸語の内、ツングース語族は、前回までの時代でのモンゴル高原や中国北方で優勢となった遊牧騎馬民族国家の中では、ほとんど直接関係がないようであるが、ややのちに、中国東北部(旧満州)あたりから、この語族の女真(じょしん)族が、中国北朝に金を建てた(1100年頃)。 さらにその後、この女真族は、1600年代に中国全土を制覇し、近代まで続いたあの清王朝を建てたのである。

 さて、前回示した国々は、ほとんどモンゴル語系かテュルク語系を話したものと言われている。 ただ、実際のところ、どの民族国家が、どちらの系統の言語を話していたのかを判別するのは、相当難しいようだ。 ちょっと参考に、現代モンゴル語と現代トルコ語の簡単な表現をユーチューブで聞いてみたが、どちらも日本人にはかなり難しい音であるのは間違いないが、お互いもかなり違っているように聞こえる。 まあ、これは、何百年も経過した結果であるし、近代には、いろんな外来語の影響もあるので当然かもしれないが。 ではまず、下図に現在のモンゴル系言語の分布を示す。

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モンゴル語族の分布。 ウィキより(以下、ウィキペディアからの引用の場合は、特にそれを記載しない。)

 上の地図で、2箇所かなりモンゴル高原から離れた民族があるのに気づく。 まず、現在のアフガニスタンあたりにあるピンク色の民族は、モンゴル帝国で拡散したあとも定住した集団であるらしい。 もう一方、カスピ海の西に位置する茶色の民族は、もともとオイラト系の民族で、1630年頃から移動してきたようで、現在の彼らは、カルムイク人(Kalmyks)と呼ばれ、約30万人がこの地に住むらしい。 彼らは、チベット仏教を信仰し、このカルムイク共和国は、ヨーロッパ(地理的にはウラル山脈以西)にある唯一の仏教国と言われているらしい。 

 先程言ったように、その部族が、モンゴル系の言語か、テュルク系の言語かどちらを主に使用していたかを見極めるのは、なかなか難しいらしく、たとえば、このオイラト族は、元は、テュルク系であったらしい。 では、つづいて、そのテュルク系の分布を下に示す。 

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テュルク語系の民族分布。

 ここで見られるように、現在の民族・言語分布では、テュルク系は、西域(新疆ウイグル自治区)からトルコまでの広い範囲に存在する。 ウイグル族は、今は、中国のウイグル自治区にあるが、彼らの建てた回鶻(かいこつ)国は、もっと東にあったはずであり、のちのモンゴル帝国の隆盛などの影響で、西に移動したものなのか。 そのためか、現在ウイグル語と9世紀頃に話された古ウイグル語は、かなり系統自体が違っているようだ。 結局、この広大な地域の中で、時の移り変わりと共に、軍事的に優勢となった民族が次々と代わって行く中、それに従属したり抵抗する勢力も頻繁に変化し、その過程で、各民族の言語も、様々に影響を受け合い非常に入り組んだものになっていると想像する。  

 また、現在のトルコ民族は、8世紀後半の西突厥の崩壊によって、そこにいた人々の西進から始まったものとされる。 そして、11世紀初頭までに、セルジーク・トルコという大国を築きあげ、その後も、オスマン・トルコは、広大な地域を占領するが、ここで扱っている中央アジアの地域は直接統治していない。 しかし、今のトルコ人と中央アジアのテュルク系の民族国家の人たちとは、それぞれ自国語で話しても、かなりの意思疎通ができると言う。 もちろん、オスマン時代にも、物流や文化の交流はあったにせよ、このあたりは、長年にわたるこの遊牧民族(ひいては人類)の意志とそれによる文化の繋がりのようなものを感じる。

 とにかく、これらのモンゴル語族やテュルク語族の細かな経緯を記すのは、大変複雑で、私には手に負えないというのがわかり、そこからやや離れ、上に若干紹介したカルムイク人の歴史が、私には、非常に興味あるものに思えたので、ここでもう少し紹介したい。

 いままで述べてきたモンゴルやテュルク系民族は、いずれにせよ長い移動の歴史を有しているが、上に書いたカルムイク人は、比較的最近の移動であり、その歴史は、かなり明確に記録されている。 その移動の歴史は、おそらく多くの古い民族の移動のあり方を想像するのに大いに参考になると思う。 さて、時代は、カルムイク人の移動そのものより、また少し遡ることになる。

 オイラト族(Oirats)は、1200年代、チンギス・カン(Genghis Khan)のモンゴル帝国が肥大していく中で頭角を現していく。 やがて、元朝の崩壊後の1400年代中頃には、中国北方からモンゴル・西域を占める大王国を築く。 しかし、その後、他のモンゴル族や明王朝との争いなどから、その西半分を領土とすることになる。 

 1600年代になると、その中の部族、ジュンガル(Dzungars)が、西域から中央アジアにかけての広大な地域を抑える国家を形成。 この国は、遊牧民族が建てた最後の帝国とも言われる。 しかし、この時期以降、この地域、いや広大な北アジア全体が、ロシア(ソビエトを含む)と中国(明や清を含む)という近代の2大国の覇権の争う場となっていく。 そのハザマで、遊牧民族たちは、いかに活路を見出すかという大きな課題と常に向き合うことになる。

 また、興味あるのは、ウイグル族やその他のテュルク系民族が、イスラム教(スンニー派)に帰依していくのに対し(元々、多くのテュルク系・モンゴル系民族は、伝統的なシャーマニズムを信仰)、このジュンガル国(Dzungar Khanate)は、チベットに進出した後、当時のチベット仏教のカリスマ的存在・ダライ・ラマ5世の導きによってチベット仏教に改宗したことである。  

 しかし、1630年頃のオイラト族の内乱を契機に、その一部族であったカルムイク族(20ー25万人規模?)は、西方のヴォルガ河畔(カスピ海北部)まで移動した。 この移動は、敵対するカザフ(Kazakhs)などを避け、ウラル山脈の南部にそっての移動だった。 ロシア帝国内に入ったカルムイク集団は、ロシアと同盟を結び、ロシアの敵オスマン・トルコやスウェーデン王国との戦いに参加した。 ロシアとの関係は、様々な軋轢もあったようだが、相互に物品の交易なども行い、なんとかこの地でロシア人たちと共存していたようだ。

 しかし、ロシアの移民政策により、ドイツ人などがこの地に押し寄せ、カルムイク人は、圧迫を受けていた。(※これら、ロシアに入植したドイツ人の多くは、ソビエト解体後、ドイツに戻っている。これも興味ある歴史だが。) 

 ともかく、その時、清国が、カルムイクの父祖の地でもある中央アジア東トルキスタンのイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北部)に残っていた最後のジュンガル国家の部隊を打ち破った結果、その地が空白地になったので、ロシアにいたカルムイク人は、そこに戻ろうとした(1771年)。 ところが、その年の冬は暖冬で、ヴォルガ河が凍結しなかったため、河の西側にいた多くのカルムイク人は、河が渡れず帰還の途につけなかった。

 この残されたカルムイク人が、そのまま今のカルムイク共和国(カスピ海西岸)の人たちなのである。 しかし、現在までには、やはり大変な苦労と紆余曲折があったようだ。 彼らは、その後のロシアの圧政にも苦しまされた。 帝国のエカチェリーナ2世時代以来、そして、期待した社会主義ソビエトになっても、民族の状況は好転しなかった。 さらに、第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツと共謀したとされ、ソビエト政府は、彼らをシベリアに強制移住させて、多くの死者を出した。(このあたりは、日本語ウィキでは、ナチスが強制移動させたような誤解を受けかねない表現になっている。)

 1957年以降、時の首相フルシチョフによって、今の共和国への帰還が行われたようだ。 一方、父祖の地イリに戻ったカルムイク人たちも、当初は清朝の庇護にあったものの、彼の地では少数派となり、現在では、このイリ地方の南隣の地域を中心に数万人が存続するという。 このように、近代の大国の中で、揺れ動く少数民族の悲哀を感じるが、太古の遊牧民にしても、一夜で支配者が代わるなど悲惨な状況は、いくらでもあったものと想像する。 

 ただ、今も生きるカルムイク人たちのことを、このように書くことには、かなり神経を使う。 正確に客観的に書かなければと思うが、ウィキだけの情報(ロシア語のウィキでは、英語のものとかなり違う内容になっている恐れも当然ある)では、どう書こうと不十分であり、彼ら全員の納得する記述は到底できない。 第一、客観的に書かれる事自体を嫌う人間も、今の世の中多い。 

 とにかく、彼らのことをもっと知りたい人は、せびいろいろ調べてみてほしい。  

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カルムイクのテント、Gherと呼ばれる。 現在のモンゴルなどにあるものと、外見はほとんど変わらないように見える。

  

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カルムイク人

 以上、2枚の古い写真を紹介。 ただし、実際の年代は、不明。 つづいて、長く辛い歴史を乗り越え、今も健やかに生きるカルムイク人の様子を下に。

 

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カルムイク共和国の首都エリスタの様子。 大半の人々は、純然たる東アジア系の容貌である。

 写真にあるように、このカルムイク人は、民族性(血縁)も宗教も、かなり独自性を保っているように見える。 一方、カスピ海の反対側にいる中央アジアの民族(キルギス人など)やさらに東方のウイグル人などが、イラン・ペルシャ系などの印欧語の子孫たちとの混血がより一層進んでいるように見えるのも(スキタイなどの古代からの民族が、そこに存続していたことを示すのだろうが)、なかなか興味あるところである。

 今回は、この地域の言語について、いろいろ書きたかったが、あまり要領を得なかった。 (※記事のタイトルは、文章がほぼ書き終わった段階で最終的に決めるので、当初のものから大いに変更した。) ただ、面白い民族のことを知った。 おそらく以前にも、彼らを扱ったテレビの外国紹介・紀行番組などがあり、私もそれらを見たかもしれない。 ても、そのような場合は、忘れやすい。 

 次回は、この中央アジアの歴史の中で、私なりに少し興味ある民族や国家を、いくつか紹介してみたい。

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (8)

⑧ 匈奴など北方遊牧民族の興亡(紀元前5世紀頃から後9世紀頃まで)

 さて、今回は、中国北方やモンゴル高原などを出自とする遊牧民族を取り上げたい。 実質初めて、アジア系(ここで単にアジア系という場合は、東アジア系を指す)の民族群に焦点を当てるのだが、この遊牧民たちは、その移動の幅が大きく、古くは、既述のスキタイなどとの交流があり、そして、このあたりから生まれた後のトルコ系(以下、現在のトルコ人そのものと区別するためテュルク系とする)やウイグル系の民族が勃興した土地でもあり、そういう意味で非常に興味深いところだと以前から思っていた。 

 このあたりは、学校の教科書なんかでは、ほとんど素通り的な存在だと思う。(のちのモンゴル帝国あたりを除いて。 あと、西暦400年頃のゲルマン民族の移動の元となったフン族も1行ぐらい記述があるかも。) ただ、何回か紹介してきた今年初めに見たNHKスペシャル”アイアン・ロード”では、前回までのスキタイとこの地の遊牧民族・匈奴(きょうど)の関係、匈奴と漢民族との争い・確執なども取り上げ、さらに、最近発掘された匈奴の王の壮大な宮殿跡の復元像も紹介していた。 

 そういうことで、ウィキの記述を中心に、この地域で起こった民族の興亡などを調べてみたい。 ただし、私は、国が建った後に起こる個々の事件よりも、それらの民族や集団が、どのような民族であるのか、つまり遺伝的あるいは言語的にどんな由来を持つのか、さらに、彼らが、どのような移動をしたのかなどという点に、より興味があるので、そのあたりが見られたら幸いである。(その点では、同じウィキでも、英文のものは、DNA分析や考古学の成果をより詳しく書いている。 日本語のものは、翻訳が遅れているせいなのか、最近のDNA分析結果は、全く載せられていない。)

 まず、中国北方の民族の歴史は、中国本体(漢民族)に比べ、やはり記録上は、あまり古いのは残ってないようだ。 単に、国や部族あるいはその王の名前程度しかない。 実質、この匈奴ぐらいが、詳しい記述が残る一番古い北方民族なのかもしれない。 

 さて、蛇足的な事だが、この匈奴は、日本語では、おそらくかなり昔から”きょうど”と読まれていたと思うが(漢音)、現代中国語の発音では、Xiongnuとローマ字表記され、”ションヌやシャンヌ”に近い音だと思う。 この表記は、そのまま英語名にもなっている。 日本語では、奴は、”ぬ”とも発音できるので、もし”きょうぬ”と読んでいたら、中国語や英語に近いものになっていたのにな、とまず感じた。

 ともかく、まず、この匈奴から始まる中国北方地方及びモンゴル高原などに展開した国々の移り変わりを、ざっと簡単に見ておきたい。 

 古い順に言うと、紀元前5世紀頃からいたと思われる(そういう部族として固まったと言うべきか)匈奴は、前200年頃に、この地域に大国を形成する。 つづいて、鮮卑(せんぴ、Xianbei)、柔然(じゅうぜん、Rouran)と続き、そして、突厥(とっけつ、Gokturks)、回鶻(かいこつ、Uyghurs)へと繋がっていく。 なお、英語の場合、たとえば、鮮卑人は、Xianbeiと表記され、鮮卑(国)は、Xainbei Khanateと表記されているようである。  この突厥は、のちのトルコに行き着く民族などの始祖であり、回鶻は、現在も西域に居住するウイグル族の始祖である。 また、匈奴は、のちに南北に分裂するが、北匈奴は、のちにヨーロッパで暴れまわったフン族(Huns)ではないかとも、と言われている。 

 ただ、この覇権の推移は、中国北方やモンゴル高原で、どの民族が支配したか、あるいは優勢であったかということだけで、ある民族は、違う民族の支配の下で従属関係にあったり、逆に抵抗したりして、小勢力ながらも存続し続けた場合が多い。 このことは、十分留意しておく必要がある。 それで、もう少し各民族について掘り下げてみる。 

 だが、このアジア系の各民族を書く前に、今の南シベリアやモンゴルあたりでは、紀元前2500年あたりまでは、アファナシェヴォ文化(Afanasevo)を持った集団がいたということから始めたい。 この集団は、既述のヤムナ文化の集団が西から移動してきたものと推測されており、印欧語話者のヨーロッパ系である。 この後、東方からのアジア系民族(オクネフOkunev文化集団)に追いやられ、歴史上消滅したらしいが、近代のロシア人以前では、最も東にいたヨーロッパ人集団になると思われる。

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アファナシェヴォ文化集団の範囲 ウィキより

 以後、約1500年間、すなわちスキタイと匈奴の交流が紀元前600年頃を中心に始まるまで、歴史上、この広大なユーラシア大陸を横断するような民族の移動や交流は、認められていないと思う。 おそらく、それは、現在まだ見つかってないだけであって、アファナシェヴォ文化集団とスキタイの間の長い年月には、その他の民族の移動・交流が幾重にもあったもの、と私は考える。 

 なお、ついでだが、スキタイの後に、黒海北岸を制したのは、同じイラン系のサルマタイであると前回書いたが、このサルマタイは、スキタイほど東方への進出に興味がなかったのかもしれない。 また、どちらかと言うと、これ以後の歴史では、アジア系民族の西進の方が、よく目立つようになる。 そのサルマタイの次に黒海北岸を占拠したのは、アラン(Alans)という民族だが、これも、元はサルマタイの一部であったらしい。 それで、このアラン人は、あのフン族が、西進してくる時に最初に被害を受けた民族で、彼らは、西へ追いやられ、そのまた西にいたゲルマンのゴート族などを圧迫し、ついには、西ローマ帝国の崩壊を導いたあの”ゲルマン民族の大移動”を起こすのである。 なお、このアラン人は、現在のオセチア人だと言われている。

 さて、黒海北岸に視点が行ってしまったが、アジアに戻るとして、上に書いた印欧系のアファナシェヴォ文化の集団もそうだが、どの国でも、それが滅びれば、領土を失い幾人かは殺されたであろうが、これまでの他の地域の歴史を見てもわかるように、彼らの大多数は、男は戦士、女は奴隷などとして新たな国の組織に組み込まれ、やがて、その全体集団の中に混じり合っていくというのが大半である、と私は思う。 なので、このヨーロッパ系の遺伝子は、この地域のアジア系の大きな集団の中に、わすかでも入り込んだのは間違いないであろう。 実際、遺伝子的には、小さな孤島などの場合を除き、どんな民族であろうと100%均質な集団というのはない。 特に、こういう移動が簡単な陸続きの国や民族の場合は、さらにそうである。 また逆に、ヨーロッパでも、先程のフン族やマジャール人、そして、あのモンゴル帝国などのアジア系が侵入し、結局は戦いに破れたとしても、彼らの遺伝子の一部は、ヨーロッパ人の中に確実に入り込んだのは間違いない、と言える。

 さて、匈奴については、何回も言ってきた紀元前500年より以前から、あの黒海北岸を中心としていたスキタイとの文化的交流の時代があったというのは、遺物や文化的共通性などから考古学的には証明されているが、中国の史書など文献に記述されたものでは、中国の戦国時代の前318年に、他の中国の国と協調して、匈奴が、まだ統一前の秦と戦った時のものが最初である。 その後、215年、有名な秦の始皇帝が、あの万里の長城の初期のものを造成し、匈奴などの異民族を追い払う。 続いて白登山の戦いが、前200年に起こり、建国したばかりの漢(前漢)の皇帝は、匈奴に敗れる。 それ以後、漢は、匈奴に対しては、弱腰あるいは懐柔政策を強いられた。(これは、NHK”アイアンロード”では、匈奴が、スキタイ経由の強靭な鉄を改良した鋭い矢じり(弓矢の先端に付ける武器)などの先端技術があったから、と言っていた。)

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前200年頃、匈奴(Xiongu Khanate)の広大な領土、 西には、サルマタイ、そして、さらに弱小となったスキタイ(Scythians)もみられる。 ウィキより

 前120年頃、武帝の時代になって、やっと漢は、匈奴に攻勢にでて立場が逆転するようになった。(この時期では、漢も、鉄器の改良を成し遂げたから、とアイアンロードにはあった。) その後、中国では、新が前漢に取って代わったが、ここでも、匈奴への扱いは厳しくなった。 さらに、後漢に入ってから、匈奴への圧力はより強まり、そして匈奴国内部でも紛争が起こる。 この内紛によって、匈奴は、南北に分裂し、南匈奴は、後漢の支配の元、それと結託して、北匈奴を滅ぼした(後91年)。

 一方、南匈奴も、次第に力を失ってゆき、活動範囲を狭めていた。 匈奴が移動して覇者がいなくなったモンゴル高原では、鮮卑が台頭し、南匈奴は、170年頃に後漢の軍隊とともに戦ったが、鮮卑の勝利に終わる。 やがて、後漢の崩壊後、中国は、魏・呉・蜀の三国時代に入り、南匈奴にも内紛が起こるなどし弱体化したが、以後、中国王朝の庇護の元、存続が続き、やがて、中国の五胡十六国時代(304~439年)には、匈奴系の民族は、前趙(ぜんちょう)そして夏(か)国などを建てたが、夏は、後述する鮮卑族の建てた北魏によって431年に滅んだ。

 北匈奴に戻って、既述のように、彼らは、370年頃にゲルマン民族を西方に押しやったアジア系のフン族ではないかという説がある。 彼らが、91年に滅亡したあと、150年くらいまでに、より西方(今のカザフスタンの中央部、アラル海の東あたり)にまで確実に移動していた、という説がある。 しかし、その後の経緯は、不明であり、この北匈奴が、フン族の直接の始祖であるという確定は、現在までなされていない。 フン族については、またのちに詳しく書くことになると思う。

 次に、北方・高原の覇者は、鮮卑に移る。 元々、鮮卑は、前漢の時代、匈奴が東胡という民族を打ち負かした後、その生き残った部族の一部らしい。 後150年頃の後漢の時代になると、鮮卑は、かつての匈奴の勢力圏と同じくらい広大な領地をおさめるようになる。

 その後、勢力は、やや衰え、五胡十六国時代には、匈奴などとともにその構成民族となったが、一部(鮮卑拓跋部たくばつぶ)が、代(だい)という国を華北に建てた。 代国が滅んだ後、同じ拓跋部系が、北魏という国を386年に建てた。 この北魏は、やがて華北を統一する強大な国になった(北朝)。

 その北魏が、華北に移動したため、北方の地では、柔然が勢力を伸ばして、北魏などと対立するようになる。 柔然は、元は、鮮卑の配下にあったが、その後、このモンゴルの地で隆盛するようになり、5世紀には、高車(こうしゃ)族を配下にタリム盆地(西域)も支配した。 また、北魏と対抗するため、周辺国(南宋や夏、高句麗など)と共同戦線を張った。 この柔然の時代に、のちのモンゴル系の王の称号である汗(ハンまたはハーン)の基となる可汗(カガン)という称号ができる。 なお、それまでの匈奴などでは、単于(ぜんう)という称号が用いられていた。

 しかし、485年頃、支配下にあった高車が、自立し、さらに別の配下で鍛鉄奴隷であった突厥が反旗を翻し、555年、柔然は滅んだ。 550年頃の突厥は、東は中国北方、西はアラル海東岸までを占める大帝国となった。 なお、のちに、黒海北岸からバルカン半島北部を支配地にしたアヴァール人(Avars)は、柔然が西に逃れた一派であるとも言われている。 

 その突厥も、580年頃には東西に分裂。 730年頃、東突厥は、回鶻(かいこつ、ウイグル)などの3部族によって滅ぼされる。 一方、西突厥も、780年頃、カルルク族などの構成部族の不満をかい、やがて、そのカルルクと回鶻の臣下となり消滅する。 その後、突厥すなわちチュルク系諸民族の大移動が、起こる。

 つまり、突厥のあとは、東方は、高車から回鶻と名を代えたウイグル系(元はテュルク系の一部)が押さえ、西方は、カルルク(これもテュルク系)が治めることになった。 以上が、西暦800年頃までの南シベリア、中国北方、モンゴル高原及び中央アジア地域の覇権の概要である。

 これからすこし、これらのアジア系遊牧民族の人類学的な側面を見ていきたい。 まず外見的には、これらの民族は、今の私達東アジア人(日本人や中国人など)とほぼ同じようであったと考えられる。 上に挙げた遊牧民族のうち、匈奴・鮮卑・柔然については、遺伝子分析の結果では、アジア・シベリア系(モンゴロイド)のそれが出たと判明している。 なお、議論となっていたフン族であるが、その遺伝子分析では、匈奴との関連が報告されているので、この説の正しさが、ほぼ確定したと言えるかもしれない。  また、アバール人は、柔然人との遺伝的関係が示され、こちらの説も補強される形となった。

 ただ、突厥については、分析サンプルの数や年代の幅などがあり、アジア系にプラスしてヨーロッパ系の遺伝子も見られた。 これは、テュルク系の移動の歴史と関連しており、さらなる分析が待たれる。 また、回鶻つまりウイグル族については、現在のウイグル族(これも西域の方に移動)は、半分以上ヨーロッパ・イラン系の遺伝子情報を有すると言われるいるが、回鶻時代の遺伝子分析は、未だのようである。 

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鮮卑族の壁絵 ウィキより。 間違いなく、東アジア人である。

 なお、このアジア系でも、モンゴル系とかテュルク系・ウイグル系などというものは、主に言語の差によって決定づけられているが、その言語の関係については、今回長くなったので次回にしたい。 また、今回以外のより規模の小さな国々についても、すこし触れてみたい。  

 

 

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (7)

⑦民族の移動ースキタイ人の長い移動の旅(紀元前900年頃から紀元後200年頃まで)

  続いては、小アジア(今のトルコ)にあった国々に何度も来襲した、元は黒海北岸を本拠にしていた遊牧騎馬民族の国・スキタイ(Scythia)を中心に、その移動と鉄器の伝達について書いてみたい。 

 前に、私が興味ある地域として、まずこのトルコの地を挙げたが、他には、かつて中華の人民から北狄(ほくてき)とか西戎(せいじゅう)とか呼ばれた主に遊牧民の住む広大な地域(今の東シベリア南部・中国北部からモンゴルそして中央アジアなど)も、大変興味ある土地である。 土地と言うより、そこにいた民族の悠久かつ移動の歴史に興味があるのだが。

 それから、もちろん、日本列島における民族の出現や移動も大変関心を持っているが、それを書くのは、もう少し先になりそうだ。 それと、私が、アイルランドに来た理由の一つには、ケルト民族に興味があったことでもあり、当然、このケルト、そして、それに近いゲルマン民族の移動の歴史も好きである。

  ここで、スキタイを扱うのは、前回も書いた鉄器の伝搬という関連と、このスキタイが、私の好きな中央アジアやその先に進出したり、そこの諸民族と様々な接触・融合があるようなので、非常に面白い存在と思うからである。

 まず、この遊牧の民であるスキタイ人(Scythians)だが、と言っても、時代によってスキタイが占拠した地域は異なり、多くの他の民族を含んでいる場合があり、いろいろ混同して使われている場合があるようだ。

 初期の中核をなすスキタイ人は、イラン系(つまり印欧語使用)の民族で、紀元前8世紀頃にこの黒海北岸に出現する。 彼らは、それまで先住していた民族・キンメリア人(KimmeriansまたはCimmerians)を駆逐する形で、その頃現れた。

 このキンメリア人は、前1000年頃からこの地及び北コーカサス(黒海とカスピ海の北半分)にいたようで、印欧語を話したと思われるがイラン系がどうかは不確かである。 キンメリアは、前8世紀頃からスキタイの圧力を受けていたようで、そのたびコーカサス経由で、西(今のトルコ)及び南(イラン)に移動したと言われる。 しかし、別の説では、このキンメリアは、ドナウ川渓谷あたりから、スキタイの鉄器文化をヨーロッパに広めた集団でもあるというので、これによれば、彼らは、小アジアからボスポラス海峡を経て、そちらに向かったものなのか。

 アッシリアの記録では、前714年に最初のキンメリアの記述がある。 そこでは、彼らは、黒海の北岸ではなく南岸にいたと記されている。 前696年頃、その地にあったフリギア王国を滅亡させる。 ただし、その後もアッシリアの攻撃を受け続けた。(前回までに既述) 

 また、当時のギリシャのイオニアなどのコロニーにも侵攻したので、ギリシャの歴史書にも登場する。 それによると、前654年か652年に、キンメリアは、リディアを攻撃、相手の王を殺し、一時リディアを制圧したとある。(既述) しかし、その期間は短く、その後は、疫病とリディアの反撃にあい、歴史から消えたようだ。  

 それで時代は、また遡(さかのぼ)ってしまうのだが、学者の間では、紀元前18世紀から12世紀にかけて、この地域にいたスルブナヤ文化(Srubnaya、木製墓を意味するロシア語)を起こした集団が、キンメリア及びスキタイの祖先であるという説がある。 この文化に属する集団は、外見的には非常に長頭であったらしく、農耕と牧畜を営んでいたと言う。 そして、このスルブナヤ文化は、あの前回書いたヤムナ文化の後継であるとも。 前回では、ヒッタイトも、このヤムナ文化集団の末裔であると書いた。

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スルブナヤ文化圏。 前18世紀から12世紀頃。 ウィキより

 つまり、この説を受け入れると、ヤムナ文化を形成した集団からは、のちにイラン語系を話す集団(スキタイなど)と、ヒッタイトなどの別の系統の印欧語を話す集団の両方が出たことになる。 つまり、それは、このヤムナ文化集団の中で、印欧祖語が発生し、そのグループ内で、また大きく2つにすでに分かれていたことになる、と考えられるのか。(私見)  

 DNA分析では、スルブナヤ文化の集団の遺伝子は、のちのスキタイとほぼ同様であるなどといった結果もでているが、ヤムナ文化の集団とは、直接の関係があるのかなどは、まだ未確定である。(何度も言うが、DNA分析は、サンプル数の増加や技術精度の一層の向上が期待されるので、よりきめ細かな分析が可能になっていくはずだ。)

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これは、スルブナヤ文化の家屋の復元であるが、ここでも木が多用。 ウィキより。

  さて、やっとスキタイ(英語Scythia、発音はスィスィアのような?)そのものに戻るが、既述のように前8世紀には、黒海北岸地域のキンメリアを追い払って、その地を占拠する。 その後、コーカサス経由で、イラン高原やオリエントにキンメリアとともに盛んに来襲をくりかえす。 そして、アッシリアの崩壊も導く。 

 その後も、アケメネス朝ペルシャのギリシャ戦略の前にある邪魔な国として、スキタイは、ペルシャ(ダレイオス大王)と戦わねばならなかった。 前512年には、ペルシャは、スキタイ国の奥深く侵入した。 この当時のスキタイは、主に3つの国に分割されていたらしい。 ペルシャは、なおも侵攻してきて、ついには黒海の北のアゾフ海にまで及んだが、スキタイの抵抗にあい、その後撤退した。 それゆえ周辺国からは、スキタイは、無敵と恐れられた。

 ペルシャの侵攻を止めて勢いに乗るスキタイ自身は、次は、西のトラキア地方(現在のイスタンブール以北及びブルガリア東部など)へ侵攻していった。 前496年には、トラキア内に大進撃をしたと言う。 また、黒海西岸やさらにクリミア半島にあるギリシャのポリスにまで侵攻を続けた。 このころ、スキタイは、ギリシャと小麦や家畜・チーズなどの交易で富を得、さらに北方で奴隷を捕まえ、ギリシャに売ることにより、多くの富を得たとも。 前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、スキタイは、このトラキア地方からはるか東方へ今日のウクライナを超え、カスピ海北岸のドン川流域までその領土を広げていたと言う。 

 しかし、黒海東部沿岸にあるギリシャのコロニーへの攻撃は、うまくいかず、やがて、このコロニー群が、ボスポラス王国を建て、抵抗する。 また、近縁のイラン系民族であったサルマタイ人(Sarmatians)が、前350年までに東からスキタイ領に侵入するようになった。 ただ、まだ紀元前4世紀頃は、スキタイの黄金期であった。 アテアス(Ateas)王は、トラキアなどへ領土拡張に成功したが、その時は、マケドニア王国と同盟を結んでいた。 しかし、マケドニア王・フィリップ2世(アレクサンドロス大王の父)は、前339年にスキタイと交戦した。 331年、その子アレクサンドロスは、3万の軍勢でスキタイ領に攻め込んだが、将軍を失って成功しなかった。

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スキタイの範囲(国というより活動の範囲?)ウィキより

 マケドニアとの戦いののち、ケルト人が、スキタイをバルカン半島から追い出したようだ。 また、北方では、サルマタイ人が、スキタイ領を徐々に侵食しだした。

 紀元前3世紀の初めまでに、黒海北岸のスキタイ文化は、消失していった。 そして、前200年までには、スキタイ領は、クリミア半島だけになった。 それ以後、スキタイは、元からいた民族との融合やギリシャ・ポリス連合、またローマ帝国軍との戦いなどによって徐々に衰退に向かい、紀元後2世紀までには、サルマタイ人の中に、ほぼ埋没してしまった。 クリミアにあった首都・スキタイネアポリスは、後3世紀中頃、ゲルマンのゴート族によって破壊された。 そして、中世までには、スラブ系民族の中に埋もれていったようだ。

  以上が、大まかなスキタイの歴史だが、彼らが、中央アジアに拡がっていった過程などは、実のところ、ウィキペディアや他でも、ほとんど記述がない。 また、鉄器が、どのようにして拡がって行ったのかという記述も、見つけられない。

 それなので、これから、スキタイを含む近隣民族で構成されるいわゆるスキタイ文化の概要だけ、まず先にすこし触れる。 この文化の担い手は、スキタイ人を初め、既述のキンメリア人、サルマタイ人、そしてやや東方のサカ(Saka)人などを含む。 先に書いたように鉄器の移動については、その経緯は、見つけにくいが、この文化は、別名では、スキタイ・シベリア文化とか”鉄器時代の遊牧文化”などと言われることもある。 

 すでに歴史は述べたが、スキタイ人などの発祥の地については、黒海北岸ではなくて、もっと東の中央アジアだとする研究者もいたようであるが、今は、遺伝子研究などの成果もあり、現在のウクライナ地方に確定していると言える。 それで、スキタイ文化をもった人々は、中央アジアや今の西域地方にまで迫ったこ確かで、スキタイ文化を西(ウクライナを中心)と東(中央アジアあたり)に分けて考えることもあるようだ。 その場合、東の集団は、かなり遺伝的にもアジア・シベリア方面の集団の影響を受けたとする説もある。

 スキタイの文化は、その遊牧(特に初期)での移動ということもあり、造形物としては、墓すなわちクルガンとその内部の埋葬物だけというのが普通である。 スキタイのクルガンは、大きなものでは、高さ15mで、内部に400頭分の馬の骨が出たものがある。 初期の大きなクルガンは、主に北コーカサス周辺でみられる。 埋葬品には、金銀製の工芸品、絹、動物の生贄(いけにえ)などが多く見つけられ、また武器があったという記述もあるが、それが鉄製かどうかはわからない。 前4世紀頃までには、農耕を取り入れ、定住し一部に都市を建設していたとも言われる。

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スキタイ時代のクルガン。 ウィキより

 スキタイの兵士は、騎馬にすぐれ勇敢・どう猛だとも言われるが、女性もかなり戦いに参加するぐらいの勇ましさがあったようである。 ただし、スキタイ社会は、男性社会であったようだ。 スキタイ人は、体格が大きく戦士や地位の高い人間は、183cm以上あったというが、庶民は、それより10cm以上低かったとも言われる。 いずれにしても、長い手足を持っていたようなので、イラン系の民族と想定されている。 また、古代ギリシャ人は、彼らは、薄い目の色で赤毛であるとか、明るい肌の色をしていたと言っている。 また、古代の中国人は、スキタイの東にいたサカ族の人間は、薄い目(青い目を含め)の色をしていたという記録もある。

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前300年頃のスキタイの騎士。 ウィキより

 以上、スキタイ人及びその近縁の民族について、いくらか書いてきたが、鉄器については、やはり、あまり目立った記述がなかった。 実は、前回でも書いた今年早々に見たNHKスペシャルの”アイアン・ロード”の方が、鉄器についての解説は、より詳細であった。 ただし、ウィキペディアは、結構その他の論文の成果もかなり早い時期に取り入れ書き込むので(特に英文のもの)、新しい情報があれば何か書いてあるものだが。 NHKの番組作りの方が、スキタイなどの動きを過大に評価しすぎた、と考えられないこともない。 ことに日本人学者・研究者がからむと、そうなりやすいと私は思っている。 この番組でも、二人の日本人研究者が登場し、一人は、主としてヒッタイトの鉄器、もう一人は、スキタイ及び匈奴(Xiongnu)の鉄器について述べていた。 以上、そういうこともあり、次回は、匈奴について書きたいと思う。

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スキタイの弓士、前4世紀。スキタイは、弓の名士でもあった。その技巧は、ペルシャやギリシャに伝わった。 ウィキより

 

安倍ちゃんが、辞意!

 このブログのヤフー時代に割といろいろ書いてきた、あの安倍ちゃんが、総理の職を辞しますね! さっき、テレビで生の記者会見の様子を見ました。 病気のためというから、相当な症状・状況なんでしょう、実際は。 ちょっと、顔も以前よりムクミがあるような? でも、なんか、私の62回目の誕生日の日に、これを聞くのもネーーー、、。 

 私は、因縁とか運命とかは全く信じませんが、まあこの件は、記憶しやすいと言えば、そうなりますかな。 でもまだ、これからの政局・政治がどうなるか、全く余談を許さないので、今は、多言は不要かな。 日本国が、より良くなることを願います。 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (6)

⑥文明国への移動ーヒッタイトの場合(紀元前3300年頃から前1100年頃まで)

 小アジア(今のトルコ)の地には、ヒッタイト(Hittites)の前に、ハッティ人(Hattians)などの民族が古くからいたらしいが、紀元前2000年前までに移動してきたヒッタイトによって、消滅あるいは吸収させられたか、それまでに分散してしまったのか、はっきりしない。(また、名前が似ているので、一部混同があったとも言われている。) ヒッタイトは、前回にも書いたが、前1500年頃に、メソポタミアのバビロン第1王朝を滅ぼした。 このヒッタイトは、あとで詳しく述べるが、現在分かっている範囲で、印欧語を使った最も古い民族あるいは集団の一つであると言われている。 これは、歴史的に非常に重要な点である。 

 そして、このヒッタイトは、もう一つ、歴史上非常に重要な文化を生み出している。 それは、鉄器の生産である。 紀元前1500年頃の古いオリエントやヨーロッパ世界で、唯一このヒッタイトだけが、鉄器の恒常的な生産が可能だったのである。(ただし、世界的には、インド北部にも、これよりやや古い時代から鉄器生産があった。)  

 とにかく、どちらも、人類の文化史上非常に大きな出来事であるので、今から少し詳しく書いていきたい。 ではまず、言語の方から。 しかし、これに際しては、またかなり時代をさかのぼる必要がある。 

 さて、現在の北インドからイランを経て欧州各国に広がる言語(皮肉にもトルコ語は、異なる。アジアのアルタイ語系。この話もいずれ。)、すなわちインド・ヨーロッパ語族(印欧語)の起源については、これまで諸説あったが、ここでは、比較的最近の2007年に提唱されたDavid Anthonyの説を中心に概略を述べてみたい。(アンソニー自身が書いた事以外で、一部、私見として私の考えも書いた。)

 印欧語の最初の言語・印欧祖語が、発生したと思われる場所は、今のロシアやウクライナの黒海及びカスピ海北岸の平原地域(ステップ)であるとされる。 これまで見てきたように、当然、この地方でも、ホモ・サピエンスたちは、少なくみても3万年以上前から定住していたものと思われるし、そして、オリエント地域で1万年前頃に始まったとされる農耕や牧畜も、すぐあと、この地でも徐々に取り入れられていったものと推測される。 ただし、これから述べるこの地域の集団は、主として遊牧民である。

 そして、さらに時代が下って、紀元前5000年頃あるいはそれより前から、この地を含めその周辺あたりでは、今のヨーロッパ文明の直接の祖先たちの集団(つまり印欧祖語のそのまた原初となる言葉を話す集団)や、そうでない別の言語の集団などが、時代に応じて様々な文化集団を形成していった。 それらの多くの民族を含んだこの地域では、ある一つの大きな共有文化があった。 それは、クルガン(Kurgan)と呼ばれる墳丘を持つ墓の造成である。 だから、この文化を総称してクルガン文化と言われることもある。 このクルガンは、日本の古墳、とくに前方後円墳よりも、その前の段階の円墳・方墳などによく似ている(私見)。 そして、このあたりでは、銅及び青銅器が利用され、また、牛や羊の家畜化が、次のヤムナ文化の登場以前に、すでに確立されていた。 さらに、羊毛の布と荷車(おそらく牛が引く)も、この地域の特徴となる文化産物でもあった。 

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クルガン、紀元前4世紀頃、南ウラル地方。 ウィキより

 そして、紀元前3300年頃になると、印欧祖語を話すヤムナ(Yamna)あるいはヤムナヤ(Yamnaya)と呼ばれる文化を持った集団が、この地域に出現する。 出現と書いたが、それまでの近隣の文化と入り混じった中で、この言語が形成させていき、一つの文化集団として成り立っていったものと考えられる。 遊牧民であるこの集団は、それまでの牛や羊のほか、馬も家畜化し(おそらく世界初)、乗馬の技術を得て、それまでの荷車とともに遠隔地への移動を飛躍的に向上させた。

 そうして、このヤムナ文化を担う集団が、徐々に拡散していく過程で(主に南・西へ)、旧来からヨーロッパにいた様々な民族集団は、しだいに衰退・消失していくのである。 いわゆる古いヨーロッパ(Old Europe)の消滅である。 

 前3100年頃には、この集団の中から、今の西ウクライナやポーランドあたりで、ゲルマン語族の祖語を形成する集団が出てくる。 また、ハンガリーから南ドイツにかけて、2800年頃にケルト語の祖語が、出現してくる。 これらの移動は、ドナウ川沿いに進んでいったと思われる。 同じく、ラテン語系やスラブ・バルト諸国系の言語の祖語も、同じ頃、このハンガリーあたりから、それぞれの方向へ進行・分化していったようだ。 これらの集団の特徴は、他に縄目文土器(Corded Ware)を持つ文化であり、また、この時点でも銅や青銅主体の文化であった。 なお、古代ギリシャ語の祖語集団は、これらより、ややあとに現在のギリシャ周辺にたどり着いたと思われる(私見)。

 また、東に向かったヤムナ文化の集団は、やがてインド・イラン語系の祖語を話す集団となっていった。 こういう集団の移動を誘発した原因は、まず、やはり気候変動だと言われている。 黒海及びカスピ海北岸地方の寒冷化と乾燥化であると思われる。

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ヤムナ文化の拡散。 ウィキより。 前3300年頃(黄色部分)から以後、その他の色の文化に拡散、それは同時に、各地域で各言語が発展していく。

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Corded ware ウィキより。 日本語では、誰が命名したのか、縄目文土器(なわめもんどき、だと思うが) 見てのとおり、日本の縄文土器によく似ており、縄文の方が発生は早いとは言え、同時期(前3000年頃)に、離れた場所で同じような模様の土器があったようだ。 なお、この土器を作った人たちは、のちの印欧語の分化にも関係している。

 それから、アンソニーの説から離れて、もっと最近(2015年以降)のDNA分析の結果では、このヤムナ文化の集団は、外貌は、現在の白人に似ているが、髪の毛や瞳は、ダーク(茶色)が主であったようだ。 また皮膚の色も、明るい(light)色であったようだが、現在の平均的ヨーロッパ人よりはやや色黒のようである。 また、頭は、ヤムナ集団の内、東北部に住む集団は長頭で、南部や南東部の人間は、短頭傾向にあったという。  また、この中のある種の遺伝子をもった集団は、前3000年頃には、ヨーロッパの西端のアイルランドやポルトガルに到達していたらしい。 (まあ、このあたりの遺伝分析情報は、今後、いろいろ詳細が出て、変化する可能性があるが。私見)

 ここで、話はややそれるが、英語で白人を表すコーケイジアン(Caucasian)ややや科学的な言葉のコーカソイド(Caucasoid)とかは、昔の学者が、いわゆる白人特に印欧語を扱う人種・民族の発祥の地は、コーカサス(Caucasus、または、カフカスKavkaz)地方だとすることからきている。 黒海とカスピ海に挟まれた地域で、コーカサス山脈がほぼ中央に走り、今の国で言えば、ジョージアやアルメニアなどがあるあたり。 しかし、上記のように印欧祖語は、このコーカサス地方よりも、やや北方で発生した可能性が高そうである。 しかし、詳細には書かなかったが、上記のヤムナ集団の形成には、この南部のコーカサスや、より東部のシベリア方面からの集団との合流(混血)があった、とも言われている。 

 ここで、ヒッタイトの歴史をもう一度簡略に述べておくと、上記のヤムナ文化地域から、おそらくコーカサス地方経由で前2000年以上前に、小アジアに移動してきたこの印欧祖語に近い言語を話すヒッタイト人集団は、先住の非印欧語族のハッティ人やフルリ人(Hurrians)を駆逐して、彼らの王国を立てた(古王国)。 既述のように、それまでの印欧語集団は、主に遊牧の民であったが、ここ小アジアに来たヒッタイトが、王国を建てたということは、それ以前に、彼らは、この地の定住民になったことを示すのであろう(私見)。 そのこと自体、人類史上、非常に画期的な出来事だったと私は思っている。 記録上では、紀元前1830年頃から、その活動が残されているが、最初の王国(古王国)は、前1590年頃に建国された。 なお、フルリ人は、のちにミタンニ王国の樹立に貢献したと言われる。(ミタンニ王国自体は、印欧語を使用したらしいが、フルリ人自身は、元は非印欧語話者である。) 

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ヒッタイトとエジプト。ウィキより Huttusaが首都。 国境線近くのQadesh は、Kadeshのこと。

 さて、ヒッタイトは、その後、やや停滞気味であったが(中王国とも)、1350年頃に、また勢力を盛り返し、新王国を樹立する(ヒッタイト帝国とも)。 この間、ヒッタイトのハッツシリ(Hattusili)3世とエジプトのラムセス(Ramesses)2世との間に、有名な”カデシュの戦い”(Battle of Kadesh)が起こり(1274年)での勝利、その後、”カデシュの平和条約”(Treaty of Kadesh)の締結(1258年)などが続いて起こった。 

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前1258年、カデシュの条約の粘土板。 ウィキより

 このハッツシリ王の娘が、ファラオーに嫁いだなど、これらの事件の詳細は、粘土板上に楔形文字のアッカド語(当時の世界語)で書かれ、同時にそれは、世界史上初の記録に残る平和条約となっている。(エジプト側の記録も、短いながらある。) しかし、その後、あまり時間が経たないうちに、ヒッタイトは、アッシリアによって滅ぼされる(1180年)。 それ以後は、シリア・ヒッタイトという小国家群に分散していき、ヒッタイト語もやがて消失した。 

 実際のところ、このヒッタイト語自体は、印欧語でも、かなり早くから他の語群と分枝し、その後のヨーロッパの主要な言語への直接的影響は、少ないかもしれない。 ただし、現在の印欧語のうち、ギリシャ語を含む西欧に残る言語と東欧スラブ系やインド・イラン系などの印欧語には、初期の段階で言語学上の大きな差があるらしく、このヒッタイト語は、西欧語の方に属しているので、この帝国が滅亡後、その影響が西方にだけ移ったのかもしれない(私見)。 ともかく、印欧語を使う民族としては、ヒッタイトは、ギリシャやローマに先立ち、当時の文明の中心地で強大な勢力を伸ばした最初の主要な民族なのである。

  さて、長くなったが、もう一つの重要な文化・鉄器についてであるが、ヒッタイト以前には、エジプトなどで隕石からの鉄を取り出したものがあったらしい。 しかし、地表の鉄鉱石から炉を通して鉄を大量に生産できたのは、オリエントでは、このヒッタイトだけであった。 世界では、他にインドのガンジス川流域で、これより早く(前1800年頃から)あったと言われている。 ヒッタイトでは、本格的な鉄生産は、前1500年頃に始まったとされる。

 鉄を鉄鉱石(砂鉄)から溶かして鉄の塊を取り出すには、土器などでできた炉の内部温度を鉄の融点である1538度以上にする必要がある。 銅よりもさらに500度高い。 そのためには、青銅作りよりもさらに高温に耐える良質の炉(土器)と大量の酸素が必要になる。 古代の場合、砂鉄を炉に入れて溶解し、鉄を取り出すのであろうが、その場合には、高温にするためフイゴなどで常に強い風を何時間も送り続けなければならず、非常に重労働であった。 ただし、小アジアでは、天然の炉のような自然の風が常に強く吹く、鉄器生産に非常に適した、言わば天然の炉のような場所があったと言う(このあたりは、今年初めに放送されたNHKスペシャル”アイアン・ロード”でも紹介されていた)。 ただ当然、その製法は、ヒッタイト以外には、門外不出であったろうが、それでも非常に高価であったはずで、一部は、当然武器に使用されたのであるが、一方、庶民には手の届くものではなかったようだ。 そのため、ヒッタイト人の日常においては、まだ青銅器の方が、鉄器よりも多く利用されていたと思われる。 ただ、鉄器作りの必要性は、青銅作りに必要な錫が、あまり産出出来なかったため、その代替用金属として登場してきた、とも言われている。 

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鉄の武器。 ハルシュタット・ケルト時代、ウィキより

 しかし、言語と違い、この青銅より強く軽くて、そして後には、安価になった鉄器の生産技術及び鉄製品は、ヒッタイト崩壊後、速やかにギリシャやエジプト、そして、その後、ヨーロッパ各地に拡散していった。 そして、ヒッタイトの鉄の関係で最も特筆すべきことは、かつてヒッタイトの祖先が、ヤムナ文化を用いて黒海北岸から小アジアに来たのと真反対方向に、この鉄生産の技術は、数世紀後に、その黒海北岸あたりに住むスキタイ(Scythians)人などに伝わったことである。 そして、それらの鉄器は、このスキタイからさらに東へ東へと広大な中央アジアへと拡がっていくのであった。 一方、インドの鉄技術は、東南アジアなどへと波及したようだ。 

 以上、本当は、スキタイのことも今回書きたかったのだが、かなりの字数になったので、次回以降に。