(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (9)

⑨ モンゴル高原・中国北方から出た諸民族の言語とある小さな民族の話

 前回に書いた民族群の言語は、どれもモンゴル系かテュルク系(トルコ系)の言語であったと言われている。 これに、ツングース系の言語を含め、それらは、アルタイ諸語と呼ばれている。 この3つの言語群は、もちろん親戚関係にあって、それ以前に共通の言語があったと考えられているが、今のところ、それを明確に示す古アルタイ語、あるいは、アルタイ祖語と言うべき存在が発見されていないので、これらテュルク語などのグループをアルタイ語族とは言わず、アルタイ諸語と呼んでいるらしい。 専門家なら、その言葉の違いで、同族度の違いが分かるということか。 

 なお、日本語や朝鮮語もこのアルタイ諸語の中に入るとする説がある。 しかし、現在の日本語は、音韻的には、かなり簡素な組み立てであり、母音や子音の数も少ないので、このアルタイ系の言語の文法を基に(つまり、アルタイ系が先にあって)、南方(台湾高山族やフィリピン・タガログ語などのオーストラロネシア語系など)由来の言語が入り込み、単語がより単純な形になったという説がある程度支持を得ているらしい。 その逆の南方系が先で、アルタイ系が後という説もある。(私には、こちらの方が、より説得力があるように思うが。) 

 日英のウィキペディアを見ていると、さすがに、日本関係のものは、日本語で書かれているものの方が、多いし分かりやすい(私には)。 また、英文のものは、すこし断定的過ぎるようである。(この日本語の起源についても、ある説だけを取り上げ、ほぼ決着がついたような書き方になっている。) とにかく、そのあたりは、縄文人とか弥生人とかの集団の混合具合などと大いに関連があり、日本語の成り立ちは、もちろんのこと、その他の課題も多く含んでいると思われるので、そう簡単な話ではすまない。

 さて、このアルタイ諸語の内、ツングース語族は、前回までの時代でのモンゴル高原や中国北方で優勢となった遊牧騎馬民族国家の中では、ほとんど直接関係がないようであるが、ややのちに、中国東北部(旧満州)あたりから、この語族の女真(じょしん)族が、中国北朝に金を建てた(1100年頃)。 さらにその後、この女真族は、1600年代に中国全土を制覇し、近代まで続いたあの清王朝を建てたのである。

 さて、前回示した国々は、ほとんどモンゴル語系かテュルク語系を話したものと言われている。 ただ、実際のところ、どの民族国家が、どちらの系統の言語を話していたのかを判別するのは、相当難しいようだ。 ちょっと参考に、現代モンゴル語と現代トルコ語の簡単な表現をユーチューブで聞いてみたが、どちらも日本人にはかなり難しい音であるのは間違いないが、お互いもかなり違っているように聞こえる。 まあ、これは、何百年も経過した結果であるし、近代には、いろんな外来語の影響もあるので当然かもしれないが。 ではまず、下図に現在のモンゴル系言語の分布を示す。

f:id:Ayasamoneu:20200916065352p:plain

モンゴル語族の分布。 ウィキより(以下、ウィキペディアからの引用の場合は、特にそれを記載しない。)

 上の地図で、2箇所かなりモンゴル高原から離れた民族があるのに気づく。 まず、現在のアフガニスタンあたりにあるピンク色の民族は、モンゴル帝国で拡散したあとも定住した集団であるらしい。 もう一方、カスピ海の西に位置する茶色の民族は、もともとオイラト系の民族で、1630年頃から移動してきたようで、現在の彼らは、カルムイク人(Kalmyks)と呼ばれ、約30万人がこの地に住むらしい。 彼らは、チベット仏教を信仰し、このカルムイク共和国は、ヨーロッパ(地理的にはウラル山脈以西)にある唯一の仏教国と言われているらしい。 

 先程言ったように、その部族が、モンゴル系の言語か、テュルク系の言語かどちらを主に使用していたかを見極めるのは、なかなか難しいらしく、たとえば、このオイラト族は、元は、テュルク系であったらしい。 では、つづいて、そのテュルク系の分布を下に示す。 

f:id:Ayasamoneu:20200916180847p:plain

テュルク語系の民族分布。

 ここで見られるように、現在の民族・言語分布では、テュルク系は、西域(新疆ウイグル自治区)からトルコまでの広い範囲に存在する。 ウイグル族は、今は、中国のウイグル自治区にあるが、彼らの建てた回鶻(かいこつ)国は、もっと東にあったはずであり、のちのモンゴル帝国の隆盛などの影響で、西に移動したものなのか。 そのためか、現在ウイグル語と9世紀頃に話された古ウイグル語は、かなり系統自体が違っているようだ。 結局、この広大な地域の中で、時の移り変わりと共に、軍事的に優勢となった民族が次々と代わって行く中、それに従属したり抵抗する勢力も頻繁に変化し、その過程で、各民族の言語も、様々に影響を受け合い非常に入り組んだものになっていると想像する。  

 また、現在のトルコ民族は、8世紀後半の西突厥の崩壊によって、そこにいた人々の西進から始まったものとされる。 そして、11世紀初頭までに、セルジーク・トルコという大国を築きあげ、その後も、オスマン・トルコは、広大な地域を占領するが、ここで扱っている中央アジアの地域は直接統治していない。 しかし、今のトルコ人と中央アジアのテュルク系の民族国家の人たちとは、それぞれ自国語で話しても、かなりの意思疎通ができると言う。 もちろん、オスマン時代にも、物流や文化の交流はあったにせよ、このあたりは、長年にわたるこの遊牧民族(ひいては人類)の意志とそれによる文化の繋がりのようなものを感じる。

 とにかく、これらのモンゴル語族やテュルク語族の細かな経緯を記すのは、大変複雑で、私には手に負えないというのがわかり、そこからやや離れ、上に若干紹介したカルムイク人の歴史が、私には、非常に興味あるものに思えたので、ここでもう少し紹介したい。

 いままで述べてきたモンゴルやテュルク系民族は、いずれにせよ長い移動の歴史を有しているが、上に書いたカルムイク人は、比較的最近の移動であり、その歴史は、かなり明確に記録されている。 その移動の歴史は、おそらく多くの古い民族の移動のあり方を想像するのに大いに参考になると思う。 さて、時代は、カルムイク人の移動そのものより、また少し遡ることになる。

 オイラト族(Oirats)は、1200年代、チンギス・カン(Genghis Khan)のモンゴル帝国が肥大していく中で頭角を現していく。 やがて、元朝の崩壊後の1400年代中頃には、中国北方からモンゴル・西域を占める大王国を築く。 しかし、その後、他のモンゴル族や明王朝との争いなどから、その西半分を領土とすることになる。 

 1600年代になると、その中の部族、ジュンガル(Dzungars)が、西域から中央アジアにかけての広大な地域を抑える国家を形成。 この国は、遊牧民族が建てた最後の帝国とも言われる。 しかし、この時期以降、この地域、いや広大な北アジア全体が、ロシア(ソビエトを含む)と中国(明や清を含む)という近代の2大国の覇権の争う場となっていく。 そのハザマで、遊牧民族たちは、いかに活路を見出すかという大きな課題と常に向き合うことになる。

 また、興味あるのは、ウイグル族やその他のテュルク系民族が、イスラム教(スンニー派)に帰依していくのに対し(元々、多くのテュルク系・モンゴル系民族は、伝統的なシャーマニズムを信仰)、このジュンガル国(Dzungar Khanate)は、チベットに進出した後、当時のチベット仏教のカリスマ的存在・ダライ・ラマ5世の導きによってチベット仏教に改宗したことである。  

 しかし、1630年頃のオイラト族の内乱を契機に、その一部族であったカルムイク族(20ー25万人規模?)は、西方のヴォルガ河畔(カスピ海北部)まで移動した。 この移動は、敵対するカザフ(Kazakhs)などを避け、ウラル山脈の南部にそっての移動だった。 ロシア帝国内に入ったカルムイク集団は、ロシアと同盟を結び、ロシアの敵オスマン・トルコやスウェーデン王国との戦いに参加した。 ロシアとの関係は、様々な軋轢もあったようだが、相互に物品の交易なども行い、なんとかこの地でロシア人たちと共存していたようだ。

 しかし、ロシアの移民政策により、ドイツ人などがこの地に押し寄せ、カルムイク人は、圧迫を受けていた。(※これら、ロシアに入植したドイツ人の多くは、ソビエト解体後、ドイツに戻っている。これも興味ある歴史だが。) 

 ともかく、その時、清国が、カルムイクの父祖の地でもある中央アジア東トルキスタンのイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北部)に残っていた最後のジュンガル国家の部隊を打ち破った結果、その地が空白地になったので、ロシアにいたカルムイク人は、そこに戻ろうとした(1771年)。 ところが、その年の冬は暖冬で、ヴォルガ河が凍結しなかったため、河の西側にいた多くのカルムイク人は、河が渡れず帰還の途につけなかった。

 この残されたカルムイク人が、そのまま今のカルムイク共和国(カスピ海西岸)の人たちなのである。 しかし、現在までには、やはり大変な苦労と紆余曲折があったようだ。 彼らは、その後のロシアの圧政にも苦しまされた。 帝国のエカチェリーナ2世時代以来、そして、期待した社会主義ソビエトになっても、民族の状況は好転しなかった。 さらに、第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツと共謀したとされ、ソビエト政府は、彼らをシベリアに強制移住させて、多くの死者を出した。(このあたりは、日本語ウィキでは、ナチスが強制移動させたような誤解を受けかねない表現になっている。)

 1957年以降、時の首相フルシチョフによって、今の共和国への帰還が行われたようだ。 一方、父祖の地イリに戻ったカルムイク人たちも、当初は清朝の庇護にあったものの、彼の地では少数派となり、現在では、このイリ地方の南隣の地域を中心に数万人が存続するという。 このように、近代の大国の中で、揺れ動く少数民族の悲哀を感じるが、太古の遊牧民にしても、一夜で支配者が代わるなど悲惨な状況は、いくらでもあったものと想像する。 

 ただ、今も生きるカルムイク人たちのことを、このように書くことには、かなり神経を使う。 正確に客観的に書かなければと思うが、ウィキだけの情報(ロシア語のウィキでは、英語のものとかなり違う内容になっている恐れも当然ある)では、どう書こうと不十分であり、彼ら全員の納得する記述は到底できない。 第一、客観的に書かれる事自体を嫌う人間も、今の世の中多い。 

 とにかく、彼らのことをもっと知りたい人は、せびいろいろ調べてみてほしい。  

f:id:Ayasamoneu:20200917230759j:plain

カルムイクのテント、Gherと呼ばれる。 現在のモンゴルなどにあるものと、外見はほとんど変わらないように見える。

  

f:id:Ayasamoneu:20200920053957j:plain

カルムイク人

 以上、2枚の古い写真を紹介。 ただし、実際の年代は、不明。 つづいて、長く辛い歴史を乗り越え、今も健やかに生きるカルムイク人の様子を下に。

 

f:id:Ayasamoneu:20200917231119j:plain

カルムイク共和国の首都エリスタの様子。 大半の人々は、純然たる東アジア系の容貌である。

 写真にあるように、このカルムイク人は、民族性(血縁)も宗教も、かなり独自性を保っているように見える。 一方、カスピ海の反対側にいる中央アジアの民族(キルギス人など)やさらに東方のウイグル人などが、イラン・ペルシャ系などの印欧語の子孫たちとの混血がより一層進んでいるように見えるのも(スキタイなどの古代からの民族が、そこに存続していたことを示すのだろうが)、なかなか興味あるところである。

 今回は、この地域の言語について、いろいろ書きたかったが、あまり要領を得なかった。 (※記事のタイトルは、文章がほぼ書き終わった段階で最終的に決めるので、当初のものから大いに変更した。) ただ、面白い民族のことを知った。 おそらく以前にも、彼らを扱ったテレビの外国紹介・紀行番組などがあり、私もそれらを見たかもしれない。 ても、そのような場合は、忘れやすい。 

 次回は、この中央アジアの歴史の中で、私なりに少し興味ある民族や国家を、いくつか紹介してみたい。