(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (8)

⑧ 匈奴など北方遊牧民族の興亡(紀元前5世紀頃から後9世紀頃まで)

 さて、今回は、中国北方やモンゴル高原などを出自とする遊牧民族を取り上げたい。 実質初めて、アジア系(ここで単にアジア系という場合は、東アジア系を指す)の民族群に焦点を当てるのだが、この遊牧民たちは、その移動の幅が大きく、古くは、既述のスキタイなどとの交流があり、そして、このあたりから生まれた後のトルコ系(以下、現在のトルコ人そのものと区別するためテュルク系とする)やウイグル系の民族が勃興した土地でもあり、そういう意味で非常に興味深いところだと以前から思っていた。 

 このあたりは、学校の教科書なんかでは、ほとんど素通り的な存在だと思う。(のちのモンゴル帝国あたりを除いて。 あと、西暦400年頃のゲルマン民族の移動の元となったフン族も1行ぐらい記述があるかも。) ただ、何回か紹介してきた今年初めに見たNHKスペシャル”アイアン・ロード”では、前回までのスキタイとこの地の遊牧民族・匈奴(きょうど)の関係、匈奴と漢民族との争い・確執なども取り上げ、さらに、最近発掘された匈奴の王の壮大な宮殿跡の復元像も紹介していた。 

 そういうことで、ウィキの記述を中心に、この地域で起こった民族の興亡などを調べてみたい。 ただし、私は、国が建った後に起こる個々の事件よりも、それらの民族や集団が、どのような民族であるのか、つまり遺伝的あるいは言語的にどんな由来を持つのか、さらに、彼らが、どのような移動をしたのかなどという点に、より興味があるので、そのあたりが見られたら幸いである。(その点では、同じウィキでも、英文のものは、DNA分析や考古学の成果をより詳しく書いている。 日本語のものは、翻訳が遅れているせいなのか、最近のDNA分析結果は、全く載せられていない。)

 まず、中国北方の民族の歴史は、中国本体(漢民族)に比べ、やはり記録上は、あまり古いのは残ってないようだ。 単に、国や部族あるいはその王の名前程度しかない。 実質、この匈奴ぐらいが、詳しい記述が残る一番古い北方民族なのかもしれない。 

 さて、蛇足的な事だが、この匈奴は、日本語では、おそらくかなり昔から”きょうど”と読まれていたと思うが(漢音)、現代中国語の発音では、Xiongnuとローマ字表記され、”ションヌやシャンヌ”に近い音だと思う。 この表記は、そのまま英語名にもなっている。 日本語では、奴は、”ぬ”とも発音できるので、もし”きょうぬ”と読んでいたら、中国語や英語に近いものになっていたのにな、とまず感じた。

 ともかく、まず、この匈奴から始まる中国北方地方及びモンゴル高原などに展開した国々の移り変わりを、ざっと簡単に見ておきたい。 

 古い順に言うと、紀元前5世紀頃からいたと思われる(そういう部族として固まったと言うべきか)匈奴は、前200年頃に、この地域に大国を形成する。 つづいて、鮮卑(せんぴ、Xianbei)、柔然(じゅうぜん、Rouran)と続き、そして、突厥(とっけつ、Gokturks)、回鶻(かいこつ、Uyghurs)へと繋がっていく。 なお、英語の場合、たとえば、鮮卑人は、Xianbeiと表記され、鮮卑(国)は、Xainbei Khanateと表記されているようである。  この突厥は、のちのトルコに行き着く民族などの始祖であり、回鶻は、現在も西域に居住するウイグル族の始祖である。 また、匈奴は、のちに南北に分裂するが、北匈奴は、のちにヨーロッパで暴れまわったフン族(Huns)ではないかとも、と言われている。 

 ただ、この覇権の推移は、中国北方やモンゴル高原で、どの民族が支配したか、あるいは優勢であったかということだけで、ある民族は、違う民族の支配の下で従属関係にあったり、逆に抵抗したりして、小勢力ながらも存続し続けた場合が多い。 このことは、十分留意しておく必要がある。 それで、もう少し各民族について掘り下げてみる。 

 だが、このアジア系の各民族を書く前に、今の南シベリアやモンゴルあたりでは、紀元前2500年あたりまでは、アファナシェヴォ文化(Afanasevo)を持った集団がいたということから始めたい。 この集団は、既述のヤムナ文化の集団が西から移動してきたものと推測されており、印欧語話者のヨーロッパ系である。 この後、東方からのアジア系民族(オクネフOkunev文化集団)に追いやられ、歴史上消滅したらしいが、近代のロシア人以前では、最も東にいたヨーロッパ人集団になると思われる。

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アファナシェヴォ文化集団の範囲 ウィキより

 以後、約1500年間、すなわちスキタイと匈奴の交流が紀元前600年頃を中心に始まるまで、歴史上、この広大なユーラシア大陸を横断するような民族の移動や交流は、認められていないと思う。 おそらく、それは、現在まだ見つかってないだけであって、アファナシェヴォ文化集団とスキタイの間の長い年月には、その他の民族の移動・交流が幾重にもあったもの、と私は考える。 

 なお、ついでだが、スキタイの後に、黒海北岸を制したのは、同じイラン系のサルマタイであると前回書いたが、このサルマタイは、スキタイほど東方への進出に興味がなかったのかもしれない。 また、どちらかと言うと、これ以後の歴史では、アジア系民族の西進の方が、よく目立つようになる。 そのサルマタイの次に黒海北岸を占拠したのは、アラン(Alans)という民族だが、これも、元はサルマタイの一部であったらしい。 それで、このアラン人は、あのフン族が、西進してくる時に最初に被害を受けた民族で、彼らは、西へ追いやられ、そのまた西にいたゲルマンのゴート族などを圧迫し、ついには、西ローマ帝国の崩壊を導いたあの”ゲルマン民族の大移動”を起こすのである。 なお、このアラン人は、現在のオセチア人だと言われている。

 さて、黒海北岸に視点が行ってしまったが、アジアに戻るとして、上に書いた印欧系のアファナシェヴォ文化の集団もそうだが、どの国でも、それが滅びれば、領土を失い幾人かは殺されたであろうが、これまでの他の地域の歴史を見てもわかるように、彼らの大多数は、男は戦士、女は奴隷などとして新たな国の組織に組み込まれ、やがて、その全体集団の中に混じり合っていくというのが大半である、と私は思う。 なので、このヨーロッパ系の遺伝子は、この地域のアジア系の大きな集団の中に、わすかでも入り込んだのは間違いないであろう。 実際、遺伝子的には、小さな孤島などの場合を除き、どんな民族であろうと100%均質な集団というのはない。 特に、こういう移動が簡単な陸続きの国や民族の場合は、さらにそうである。 また逆に、ヨーロッパでも、先程のフン族やマジャール人、そして、あのモンゴル帝国などのアジア系が侵入し、結局は戦いに破れたとしても、彼らの遺伝子の一部は、ヨーロッパ人の中に確実に入り込んだのは間違いない、と言える。

 さて、匈奴については、何回も言ってきた紀元前500年より以前から、あの黒海北岸を中心としていたスキタイとの文化的交流の時代があったというのは、遺物や文化的共通性などから考古学的には証明されているが、中国の史書など文献に記述されたものでは、中国の戦国時代の前318年に、他の中国の国と協調して、匈奴が、まだ統一前の秦と戦った時のものが最初である。 その後、215年、有名な秦の始皇帝が、あの万里の長城の初期のものを造成し、匈奴などの異民族を追い払う。 続いて白登山の戦いが、前200年に起こり、建国したばかりの漢(前漢)の皇帝は、匈奴に敗れる。 それ以後、漢は、匈奴に対しては、弱腰あるいは懐柔政策を強いられた。(これは、NHK”アイアンロード”では、匈奴が、スキタイ経由の強靭な鉄を改良した鋭い矢じり(弓矢の先端に付ける武器)などの先端技術があったから、と言っていた。)

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前200年頃、匈奴(Xiongu Khanate)の広大な領土、 西には、サルマタイ、そして、さらに弱小となったスキタイ(Scythians)もみられる。 ウィキより

 前120年頃、武帝の時代になって、やっと漢は、匈奴に攻勢にでて立場が逆転するようになった。(この時期では、漢も、鉄器の改良を成し遂げたから、とアイアンロードにはあった。) その後、中国では、新が前漢に取って代わったが、ここでも、匈奴への扱いは厳しくなった。 さらに、後漢に入ってから、匈奴への圧力はより強まり、そして匈奴国内部でも紛争が起こる。 この内紛によって、匈奴は、南北に分裂し、南匈奴は、後漢の支配の元、それと結託して、北匈奴を滅ぼした(後91年)。

 一方、南匈奴も、次第に力を失ってゆき、活動範囲を狭めていた。 匈奴が移動して覇者がいなくなったモンゴル高原では、鮮卑が台頭し、南匈奴は、170年頃に後漢の軍隊とともに戦ったが、鮮卑の勝利に終わる。 やがて、後漢の崩壊後、中国は、魏・呉・蜀の三国時代に入り、南匈奴にも内紛が起こるなどし弱体化したが、以後、中国王朝の庇護の元、存続が続き、やがて、中国の五胡十六国時代(304~439年)には、匈奴系の民族は、前趙(ぜんちょう)そして夏(か)国などを建てたが、夏は、後述する鮮卑族の建てた北魏によって431年に滅んだ。

 北匈奴に戻って、既述のように、彼らは、370年頃にゲルマン民族を西方に押しやったアジア系のフン族ではないかという説がある。 彼らが、91年に滅亡したあと、150年くらいまでに、より西方(今のカザフスタンの中央部、アラル海の東あたり)にまで確実に移動していた、という説がある。 しかし、その後の経緯は、不明であり、この北匈奴が、フン族の直接の始祖であるという確定は、現在までなされていない。 フン族については、またのちに詳しく書くことになると思う。

 次に、北方・高原の覇者は、鮮卑に移る。 元々、鮮卑は、前漢の時代、匈奴が東胡という民族を打ち負かした後、その生き残った部族の一部らしい。 後150年頃の後漢の時代になると、鮮卑は、かつての匈奴の勢力圏と同じくらい広大な領地をおさめるようになる。

 その後、勢力は、やや衰え、五胡十六国時代には、匈奴などとともにその構成民族となったが、一部(鮮卑拓跋部たくばつぶ)が、代(だい)という国を華北に建てた。 代国が滅んだ後、同じ拓跋部系が、北魏という国を386年に建てた。 この北魏は、やがて華北を統一する強大な国になった(北朝)。

 その北魏が、華北に移動したため、北方の地では、柔然が勢力を伸ばして、北魏などと対立するようになる。 柔然は、元は、鮮卑の配下にあったが、その後、このモンゴルの地で隆盛するようになり、5世紀には、高車(こうしゃ)族を配下にタリム盆地(西域)も支配した。 また、北魏と対抗するため、周辺国(南宋や夏、高句麗など)と共同戦線を張った。 この柔然の時代に、のちのモンゴル系の王の称号である汗(ハンまたはハーン)の基となる可汗(カガン)という称号ができる。 なお、それまでの匈奴などでは、単于(ぜんう)という称号が用いられていた。

 しかし、485年頃、支配下にあった高車が、自立し、さらに別の配下で鍛鉄奴隷であった突厥が反旗を翻し、555年、柔然は滅んだ。 550年頃の突厥は、東は中国北方、西はアラル海東岸までを占める大帝国となった。 なお、のちに、黒海北岸からバルカン半島北部を支配地にしたアヴァール人(Avars)は、柔然が西に逃れた一派であるとも言われている。 

 その突厥も、580年頃には東西に分裂。 730年頃、東突厥は、回鶻(かいこつ、ウイグル)などの3部族によって滅ぼされる。 一方、西突厥も、780年頃、カルルク族などの構成部族の不満をかい、やがて、そのカルルクと回鶻の臣下となり消滅する。 その後、突厥すなわちチュルク系諸民族の大移動が、起こる。

 つまり、突厥のあとは、東方は、高車から回鶻と名を代えたウイグル系(元はテュルク系の一部)が押さえ、西方は、カルルク(これもテュルク系)が治めることになった。 以上が、西暦800年頃までの南シベリア、中国北方、モンゴル高原及び中央アジア地域の覇権の概要である。

 これからすこし、これらのアジア系遊牧民族の人類学的な側面を見ていきたい。 まず外見的には、これらの民族は、今の私達東アジア人(日本人や中国人など)とほぼ同じようであったと考えられる。 上に挙げた遊牧民族のうち、匈奴・鮮卑・柔然については、遺伝子分析の結果では、アジア・シベリア系(モンゴロイド)のそれが出たと判明している。 なお、議論となっていたフン族であるが、その遺伝子分析では、匈奴との関連が報告されているので、この説の正しさが、ほぼ確定したと言えるかもしれない。  また、アバール人は、柔然人との遺伝的関係が示され、こちらの説も補強される形となった。

 ただ、突厥については、分析サンプルの数や年代の幅などがあり、アジア系にプラスしてヨーロッパ系の遺伝子も見られた。 これは、テュルク系の移動の歴史と関連しており、さらなる分析が待たれる。 また、回鶻つまりウイグル族については、現在のウイグル族(これも西域の方に移動)は、半分以上ヨーロッパ・イラン系の遺伝子情報を有すると言われるいるが、回鶻時代の遺伝子分析は、未だのようである。 

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鮮卑族の壁絵 ウィキより。 間違いなく、東アジア人である。

 なお、このアジア系でも、モンゴル系とかテュルク系・ウイグル系などというものは、主に言語の差によって決定づけられているが、その言語の関係については、今回長くなったので次回にしたい。 また、今回以外のより規模の小さな国々についても、すこし触れてみたい。