(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (7)

⑦民族の移動ースキタイ人の長い移動の旅(紀元前900年頃から紀元後200年頃まで)

  続いては、小アジア(今のトルコ)にあった国々に何度も来襲した、元は黒海北岸を本拠にしていた遊牧騎馬民族の国・スキタイ(Scythia)を中心に、その移動と鉄器の伝達について書いてみたい。 

 前に、私が興味ある地域として、まずこのトルコの地を挙げたが、他には、かつて中華の人民から北狄(ほくてき)とか西戎(せいじゅう)とか呼ばれた主に遊牧民の住む広大な地域(今の東シベリア南部・中国北部からモンゴルそして中央アジアなど)も、大変興味ある土地である。 土地と言うより、そこにいた民族の悠久かつ移動の歴史に興味があるのだが。

 それから、もちろん、日本列島における民族の出現や移動も大変関心を持っているが、それを書くのは、もう少し先になりそうだ。 それと、私が、アイルランドに来た理由の一つには、ケルト民族に興味があったことでもあり、当然、このケルト、そして、それに近いゲルマン民族の移動の歴史も好きである。

  ここで、スキタイを扱うのは、前回も書いた鉄器の伝搬という関連と、このスキタイが、私の好きな中央アジアやその先に進出したり、そこの諸民族と様々な接触・融合があるようなので、非常に面白い存在と思うからである。

 まず、この遊牧の民であるスキタイ人(Scythians)だが、と言っても、時代によってスキタイが占拠した地域は異なり、多くの他の民族を含んでいる場合があり、いろいろ混同して使われている場合があるようだ。

 初期の中核をなすスキタイ人は、イラン系(つまり印欧語使用)の民族で、紀元前8世紀頃にこの黒海北岸に出現する。 彼らは、それまで先住していた民族・キンメリア人(KimmeriansまたはCimmerians)を駆逐する形で、その頃現れた。

 このキンメリア人は、前1000年頃からこの地及び北コーカサス(黒海とカスピ海の北半分)にいたようで、印欧語を話したと思われるがイラン系がどうかは不確かである。 キンメリアは、前8世紀頃からスキタイの圧力を受けていたようで、そのたびコーカサス経由で、西(今のトルコ)及び南(イラン)に移動したと言われる。 しかし、別の説では、このキンメリアは、ドナウ川渓谷あたりから、スキタイの鉄器文化をヨーロッパに広めた集団でもあるというので、これによれば、彼らは、小アジアからボスポラス海峡を経て、そちらに向かったものなのか。

 アッシリアの記録では、前714年に最初のキンメリアの記述がある。 そこでは、彼らは、黒海の北岸ではなく南岸にいたと記されている。 前696年頃、その地にあったフリギア王国を滅亡させる。 ただし、その後もアッシリアの攻撃を受け続けた。(前回までに既述) 

 また、当時のギリシャのイオニアなどのコロニーにも侵攻したので、ギリシャの歴史書にも登場する。 それによると、前654年か652年に、キンメリアは、リディアを攻撃、相手の王を殺し、一時リディアを制圧したとある。(既述) しかし、その期間は短く、その後は、疫病とリディアの反撃にあい、歴史から消えたようだ。  

 それで時代は、また遡(さかのぼ)ってしまうのだが、学者の間では、紀元前18世紀から12世紀にかけて、この地域にいたスルブナヤ文化(Srubnaya、木製墓を意味するロシア語)を起こした集団が、キンメリア及びスキタイの祖先であるという説がある。 この文化に属する集団は、外見的には非常に長頭であったらしく、農耕と牧畜を営んでいたと言う。 そして、このスルブナヤ文化は、あの前回書いたヤムナ文化の後継であるとも。 前回では、ヒッタイトも、このヤムナ文化集団の末裔であると書いた。

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スルブナヤ文化圏。 前18世紀から12世紀頃。 ウィキより

 つまり、この説を受け入れると、ヤムナ文化を形成した集団からは、のちにイラン語系を話す集団(スキタイなど)と、ヒッタイトなどの別の系統の印欧語を話す集団の両方が出たことになる。 つまり、それは、このヤムナ文化集団の中で、印欧祖語が発生し、そのグループ内で、また大きく2つにすでに分かれていたことになる、と考えられるのか。(私見)  

 DNA分析では、スルブナヤ文化の集団の遺伝子は、のちのスキタイとほぼ同様であるなどといった結果もでているが、ヤムナ文化の集団とは、直接の関係があるのかなどは、まだ未確定である。(何度も言うが、DNA分析は、サンプル数の増加や技術精度の一層の向上が期待されるので、よりきめ細かな分析が可能になっていくはずだ。)

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これは、スルブナヤ文化の家屋の復元であるが、ここでも木が多用。 ウィキより。

  さて、やっとスキタイ(英語Scythia、発音はスィスィアのような?)そのものに戻るが、既述のように前8世紀には、黒海北岸地域のキンメリアを追い払って、その地を占拠する。 その後、コーカサス経由で、イラン高原やオリエントにキンメリアとともに盛んに来襲をくりかえす。 そして、アッシリアの崩壊も導く。 

 その後も、アケメネス朝ペルシャのギリシャ戦略の前にある邪魔な国として、スキタイは、ペルシャ(ダレイオス大王)と戦わねばならなかった。 前512年には、ペルシャは、スキタイ国の奥深く侵入した。 この当時のスキタイは、主に3つの国に分割されていたらしい。 ペルシャは、なおも侵攻してきて、ついには黒海の北のアゾフ海にまで及んだが、スキタイの抵抗にあい、その後撤退した。 それゆえ周辺国からは、スキタイは、無敵と恐れられた。

 ペルシャの侵攻を止めて勢いに乗るスキタイ自身は、次は、西のトラキア地方(現在のイスタンブール以北及びブルガリア東部など)へ侵攻していった。 前496年には、トラキア内に大進撃をしたと言う。 また、黒海西岸やさらにクリミア半島にあるギリシャのポリスにまで侵攻を続けた。 このころ、スキタイは、ギリシャと小麦や家畜・チーズなどの交易で富を得、さらに北方で奴隷を捕まえ、ギリシャに売ることにより、多くの富を得たとも。 前5世紀のギリシャの歴史家ヘロドトスによれば、スキタイは、このトラキア地方からはるか東方へ今日のウクライナを超え、カスピ海北岸のドン川流域までその領土を広げていたと言う。 

 しかし、黒海東部沿岸にあるギリシャのコロニーへの攻撃は、うまくいかず、やがて、このコロニー群が、ボスポラス王国を建て、抵抗する。 また、近縁のイラン系民族であったサルマタイ人(Sarmatians)が、前350年までに東からスキタイ領に侵入するようになった。 ただ、まだ紀元前4世紀頃は、スキタイの黄金期であった。 アテアス(Ateas)王は、トラキアなどへ領土拡張に成功したが、その時は、マケドニア王国と同盟を結んでいた。 しかし、マケドニア王・フィリップ2世(アレクサンドロス大王の父)は、前339年にスキタイと交戦した。 331年、その子アレクサンドロスは、3万の軍勢でスキタイ領に攻め込んだが、将軍を失って成功しなかった。

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スキタイの範囲(国というより活動の範囲?)ウィキより

 マケドニアとの戦いののち、ケルト人が、スキタイをバルカン半島から追い出したようだ。 また、北方では、サルマタイ人が、スキタイ領を徐々に侵食しだした。

 紀元前3世紀の初めまでに、黒海北岸のスキタイ文化は、消失していった。 そして、前200年までには、スキタイ領は、クリミア半島だけになった。 それ以後、スキタイは、元からいた民族との融合やギリシャ・ポリス連合、またローマ帝国軍との戦いなどによって徐々に衰退に向かい、紀元後2世紀までには、サルマタイ人の中に、ほぼ埋没してしまった。 クリミアにあった首都・スキタイネアポリスは、後3世紀中頃、ゲルマンのゴート族によって破壊された。 そして、中世までには、スラブ系民族の中に埋もれていったようだ。

  以上が、大まかなスキタイの歴史だが、彼らが、中央アジアに拡がっていった過程などは、実のところ、ウィキペディアや他でも、ほとんど記述がない。 また、鉄器が、どのようにして拡がって行ったのかという記述も、見つけられない。

 それなので、これから、スキタイを含む近隣民族で構成されるいわゆるスキタイ文化の概要だけ、まず先にすこし触れる。 この文化の担い手は、スキタイ人を初め、既述のキンメリア人、サルマタイ人、そしてやや東方のサカ(Saka)人などを含む。 先に書いたように鉄器の移動については、その経緯は、見つけにくいが、この文化は、別名では、スキタイ・シベリア文化とか”鉄器時代の遊牧文化”などと言われることもある。 

 すでに歴史は述べたが、スキタイ人などの発祥の地については、黒海北岸ではなくて、もっと東の中央アジアだとする研究者もいたようであるが、今は、遺伝子研究などの成果もあり、現在のウクライナ地方に確定していると言える。 それで、スキタイ文化をもった人々は、中央アジアや今の西域地方にまで迫ったこ確かで、スキタイ文化を西(ウクライナを中心)と東(中央アジアあたり)に分けて考えることもあるようだ。 その場合、東の集団は、かなり遺伝的にもアジア・シベリア方面の集団の影響を受けたとする説もある。

 スキタイの文化は、その遊牧(特に初期)での移動ということもあり、造形物としては、墓すなわちクルガンとその内部の埋葬物だけというのが普通である。 スキタイのクルガンは、大きなものでは、高さ15mで、内部に400頭分の馬の骨が出たものがある。 初期の大きなクルガンは、主に北コーカサス周辺でみられる。 埋葬品には、金銀製の工芸品、絹、動物の生贄(いけにえ)などが多く見つけられ、また武器があったという記述もあるが、それが鉄製かどうかはわからない。 前4世紀頃までには、農耕を取り入れ、定住し一部に都市を建設していたとも言われる。

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スキタイ時代のクルガン。 ウィキより

 スキタイの兵士は、騎馬にすぐれ勇敢・どう猛だとも言われるが、女性もかなり戦いに参加するぐらいの勇ましさがあったようである。 ただし、スキタイ社会は、男性社会であったようだ。 スキタイ人は、体格が大きく戦士や地位の高い人間は、183cm以上あったというが、庶民は、それより10cm以上低かったとも言われる。 いずれにしても、長い手足を持っていたようなので、イラン系の民族と想定されている。 また、古代ギリシャ人は、彼らは、薄い目の色で赤毛であるとか、明るい肌の色をしていたと言っている。 また、古代の中国人は、スキタイの東にいたサカ族の人間は、薄い目(青い目を含め)の色をしていたという記録もある。

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前300年頃のスキタイの騎士。 ウィキより

 以上、スキタイ人及びその近縁の民族について、いくらか書いてきたが、鉄器については、やはり、あまり目立った記述がなかった。 実は、前回でも書いた今年早々に見たNHKスペシャルの”アイアン・ロード”の方が、鉄器についての解説は、より詳細であった。 ただし、ウィキペディアは、結構その他の論文の成果もかなり早い時期に取り入れ書き込むので(特に英文のもの)、新しい情報があれば何か書いてあるものだが。 NHKの番組作りの方が、スキタイなどの動きを過大に評価しすぎた、と考えられないこともない。 ことに日本人学者・研究者がからむと、そうなりやすいと私は思っている。 この番組でも、二人の日本人研究者が登場し、一人は、主としてヒッタイトの鉄器、もう一人は、スキタイ及び匈奴(Xiongnu)の鉄器について述べていた。 以上、そういうこともあり、次回は、匈奴について書きたいと思う。

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スキタイの弓士、前4世紀。スキタイは、弓の名士でもあった。その技巧は、ペルシャやギリシャに伝わった。 ウィキより

 

安倍ちゃんが、辞意!

 このブログのヤフー時代に割といろいろ書いてきた、あの安倍ちゃんが、総理の職を辞しますね! さっき、テレビで生の記者会見の様子を見ました。 病気のためというから、相当な症状・状況なんでしょう、実際は。 ちょっと、顔も以前よりムクミがあるような? でも、なんか、私の62回目の誕生日の日に、これを聞くのもネーーー、、。 

 私は、因縁とか運命とかは全く信じませんが、まあこの件は、記憶しやすいと言えば、そうなりますかな。 でもまだ、これからの政局・政治がどうなるか、全く余談を許さないので、今は、多言は不要かな。 日本国が、より良くなることを願います。 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (6)

⑥文明国への移動ーヒッタイトの場合(紀元前3300年頃から前1100年頃まで)

 小アジア(今のトルコ)の地には、ヒッタイト(Hittites)の前に、ハッティ人(Hattians)などの民族が古くからいたらしいが、紀元前2000年前までに移動してきたヒッタイトによって、消滅あるいは吸収させられたか、それまでに分散してしまったのか、はっきりしない。(また、名前が似ているので、一部混同があったとも言われている。) ヒッタイトは、前回にも書いたが、前1500年頃に、メソポタミアのバビロン第1王朝を滅ぼした。 このヒッタイトは、あとで詳しく述べるが、現在分かっている範囲で、印欧語を使った最も古い民族あるいは集団の一つであると言われている。 これは、歴史的に非常に重要な点である。 

 そして、このヒッタイトは、もう一つ、歴史上非常に重要な文化を生み出している。 それは、鉄器の生産である。 紀元前1500年頃の古いオリエントやヨーロッパ世界で、唯一このヒッタイトだけが、鉄器の恒常的な生産が可能だったのである。(ただし、世界的には、インド北部にも、これよりやや古い時代から鉄器生産があった。)  

 とにかく、どちらも、人類の文化史上非常に大きな出来事であるので、今から少し詳しく書いていきたい。 ではまず、言語の方から。 しかし、これに際しては、またかなり時代をさかのぼる必要がある。 

 さて、現在の北インドからイランを経て欧州各国に広がる言語(皮肉にもトルコ語は、異なる。アジアのアルタイ語系。この話もいずれ。)、すなわちインド・ヨーロッパ語族(印欧語)の起源については、これまで諸説あったが、ここでは、比較的最近の2007年に提唱されたDavid Anthonyの説を中心に概略を述べてみたい。(アンソニー自身が書いた事以外で、一部、私見として私の考えも書いた。)

 印欧語の最初の言語・印欧祖語が、発生したと思われる場所は、今のロシアやウクライナの黒海及びカスピ海北岸の平原地域(ステップ)であるとされる。 これまで見てきたように、当然、この地方でも、ホモ・サピエンスたちは、少なくみても3万年以上前から定住していたものと思われるし、そして、オリエント地域で1万年前頃に始まったとされる農耕や牧畜も、すぐあと、この地でも徐々に取り入れられていったものと推測される。 ただし、これから述べるこの地域の集団は、主として遊牧民である。

 そして、さらに時代が下って、紀元前5000年頃あるいはそれより前から、この地を含めその周辺あたりでは、今のヨーロッパ文明の直接の祖先たちの集団(つまり印欧祖語のそのまた原初となる言葉を話す集団)や、そうでない別の言語の集団などが、時代に応じて様々な文化集団を形成していった。 それらの多くの民族を含んだこの地域では、ある一つの大きな共有文化があった。 それは、クルガン(Kurgan)と呼ばれる墳丘を持つ墓の造成である。 だから、この文化を総称してクルガン文化と言われることもある。 このクルガンは、日本の古墳、とくに前方後円墳よりも、その前の段階の円墳・方墳などによく似ている(私見)。 そして、このあたりでは、銅及び青銅器が利用され、また、牛や羊の家畜化が、次のヤムナ文化の登場以前に、すでに確立されていた。 さらに、羊毛の布と荷車(おそらく牛が引く)も、この地域の特徴となる文化産物でもあった。 

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クルガン、紀元前4世紀頃、南ウラル地方。 ウィキより

 そして、紀元前3300年頃になると、印欧祖語を話すヤムナ(Yamna)あるいはヤムナヤ(Yamnaya)と呼ばれる文化を持った集団が、この地域に出現する。 出現と書いたが、それまでの近隣の文化と入り混じった中で、この言語が形成させていき、一つの文化集団として成り立っていったものと考えられる。 遊牧民であるこの集団は、それまでの牛や羊のほか、馬も家畜化し(おそらく世界初)、乗馬の技術を得て、それまでの荷車とともに遠隔地への移動を飛躍的に向上させた。

 そうして、このヤムナ文化を担う集団が、徐々に拡散していく過程で(主に南・西へ)、旧来からヨーロッパにいた様々な民族集団は、しだいに衰退・消失していくのである。 いわゆる古いヨーロッパ(Old Europe)の消滅である。 

 前3100年頃には、この集団の中から、今の西ウクライナやポーランドあたりで、ゲルマン語族の祖語を形成する集団が出てくる。 また、ハンガリーから南ドイツにかけて、2800年頃にケルト語の祖語が、出現してくる。 これらの移動は、ドナウ川沿いに進んでいったと思われる。 同じく、ラテン語系やスラブ・バルト諸国系の言語の祖語も、同じ頃、このハンガリーあたりから、それぞれの方向へ進行・分化していったようだ。 これらの集団の特徴は、他に縄目文土器(Corded Ware)を持つ文化であり、また、この時点でも銅や青銅主体の文化であった。 なお、古代ギリシャ語の祖語集団は、これらより、ややあとに現在のギリシャ周辺にたどり着いたと思われる(私見)。

 また、東に向かったヤムナ文化の集団は、やがてインド・イラン語系の祖語を話す集団となっていった。 こういう集団の移動を誘発した原因は、まず、やはり気候変動だと言われている。 黒海及びカスピ海北岸地方の寒冷化と乾燥化であると思われる。

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ヤムナ文化の拡散。 ウィキより。 前3300年頃(黄色部分)から以後、その他の色の文化に拡散、それは同時に、各地域で各言語が発展していく。

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Corded ware ウィキより。 日本語では、誰が命名したのか、縄目文土器(なわめもんどき、だと思うが) 見てのとおり、日本の縄文土器によく似ており、縄文の方が発生は早いとは言え、同時期(前3000年頃)に、離れた場所で同じような模様の土器があったようだ。 なお、この土器を作った人たちは、のちの印欧語の分化にも関係している。

 それから、アンソニーの説から離れて、もっと最近(2015年以降)のDNA分析の結果では、このヤムナ文化の集団は、外貌は、現在の白人に似ているが、髪の毛や瞳は、ダーク(茶色)が主であったようだ。 また皮膚の色も、明るい(light)色であったようだが、現在の平均的ヨーロッパ人よりはやや色黒のようである。 また、頭は、ヤムナ集団の内、東北部に住む集団は長頭で、南部や南東部の人間は、短頭傾向にあったという。  また、この中のある種の遺伝子をもった集団は、前3000年頃には、ヨーロッパの西端のアイルランドやポルトガルに到達していたらしい。 (まあ、このあたりの遺伝分析情報は、今後、いろいろ詳細が出て、変化する可能性があるが。私見)

 ここで、話はややそれるが、英語で白人を表すコーケイジアン(Caucasian)ややや科学的な言葉のコーカソイド(Caucasoid)とかは、昔の学者が、いわゆる白人特に印欧語を扱う人種・民族の発祥の地は、コーカサス(Caucasus、または、カフカスKavkaz)地方だとすることからきている。 黒海とカスピ海に挟まれた地域で、コーカサス山脈がほぼ中央に走り、今の国で言えば、ジョージアやアルメニアなどがあるあたり。 しかし、上記のように印欧祖語は、このコーカサス地方よりも、やや北方で発生した可能性が高そうである。 しかし、詳細には書かなかったが、上記のヤムナ集団の形成には、この南部のコーカサスや、より東部のシベリア方面からの集団との合流(混血)があった、とも言われている。 

 ここで、ヒッタイトの歴史をもう一度簡略に述べておくと、上記のヤムナ文化地域から、おそらくコーカサス地方経由で前2000年以上前に、小アジアに移動してきたこの印欧祖語に近い言語を話すヒッタイト人集団は、先住の非印欧語族のハッティ人やフルリ人(Hurrians)を駆逐して、彼らの王国を立てた(古王国)。 既述のように、それまでの印欧語集団は、主に遊牧の民であったが、ここ小アジアに来たヒッタイトが、王国を建てたということは、それ以前に、彼らは、この地の定住民になったことを示すのであろう(私見)。 そのこと自体、人類史上、非常に画期的な出来事だったと私は思っている。 記録上では、紀元前1830年頃から、その活動が残されているが、最初の王国(古王国)は、前1590年頃に建国された。 なお、フルリ人は、のちにミタンニ王国の樹立に貢献したと言われる。(ミタンニ王国自体は、印欧語を使用したらしいが、フルリ人自身は、元は非印欧語話者である。) 

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ヒッタイトとエジプト。ウィキより Huttusaが首都。 国境線近くのQadesh は、Kadeshのこと。

 さて、ヒッタイトは、その後、やや停滞気味であったが(中王国とも)、1350年頃に、また勢力を盛り返し、新王国を樹立する(ヒッタイト帝国とも)。 この間、ヒッタイトのハッツシリ(Hattusili)3世とエジプトのラムセス(Ramesses)2世との間に、有名な”カデシュの戦い”(Battle of Kadesh)が起こり(1274年)での勝利、その後、”カデシュの平和条約”(Treaty of Kadesh)の締結(1258年)などが続いて起こった。 

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前1258年、カデシュの条約の粘土板。 ウィキより

 このハッツシリ王の娘が、ファラオーに嫁いだなど、これらの事件の詳細は、粘土板上に楔形文字のアッカド語(当時の世界語)で書かれ、同時にそれは、世界史上初の記録に残る平和条約となっている。(エジプト側の記録も、短いながらある。) しかし、その後、あまり時間が経たないうちに、ヒッタイトは、アッシリアによって滅ぼされる(1180年)。 それ以後は、シリア・ヒッタイトという小国家群に分散していき、ヒッタイト語もやがて消失した。 

 実際のところ、このヒッタイト語自体は、印欧語でも、かなり早くから他の語群と分枝し、その後のヨーロッパの主要な言語への直接的影響は、少ないかもしれない。 ただし、現在の印欧語のうち、ギリシャ語を含む西欧に残る言語と東欧スラブ系やインド・イラン系などの印欧語には、初期の段階で言語学上の大きな差があるらしく、このヒッタイト語は、西欧語の方に属しているので、この帝国が滅亡後、その影響が西方にだけ移ったのかもしれない(私見)。 ともかく、印欧語を使う民族としては、ヒッタイトは、ギリシャやローマに先立ち、当時の文明の中心地で強大な勢力を伸ばした最初の主要な民族なのである。

  さて、長くなったが、もう一つの重要な文化・鉄器についてであるが、ヒッタイト以前には、エジプトなどで隕石からの鉄を取り出したものがあったらしい。 しかし、地表の鉄鉱石から炉を通して鉄を大量に生産できたのは、オリエントでは、このヒッタイトだけであった。 世界では、他にインドのガンジス川流域で、これより早く(前1800年頃から)あったと言われている。 ヒッタイトでは、本格的な鉄生産は、前1500年頃に始まったとされる。

 鉄を鉄鉱石(砂鉄)から溶かして鉄の塊を取り出すには、土器などでできた炉の内部温度を鉄の融点である1538度以上にする必要がある。 銅よりもさらに500度高い。 そのためには、青銅作りよりもさらに高温に耐える良質の炉(土器)と大量の酸素が必要になる。 古代の場合、砂鉄を炉に入れて溶解し、鉄を取り出すのであろうが、その場合には、高温にするためフイゴなどで常に強い風を何時間も送り続けなければならず、非常に重労働であった。 ただし、小アジアでは、天然の炉のような自然の風が常に強く吹く、鉄器生産に非常に適した、言わば天然の炉のような場所があったと言う(このあたりは、今年初めに放送されたNHKスペシャル”アイアン・ロード”でも紹介されていた)。 ただ当然、その製法は、ヒッタイト以外には、門外不出であったろうが、それでも非常に高価であったはずで、一部は、当然武器に使用されたのであるが、一方、庶民には手の届くものではなかったようだ。 そのため、ヒッタイト人の日常においては、まだ青銅器の方が、鉄器よりも多く利用されていたと思われる。 ただ、鉄器作りの必要性は、青銅作りに必要な錫が、あまり産出出来なかったため、その代替用金属として登場してきた、とも言われている。 

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鉄の武器。 ハルシュタット・ケルト時代、ウィキより

 しかし、言語と違い、この青銅より強く軽くて、そして後には、安価になった鉄器の生産技術及び鉄製品は、ヒッタイト崩壊後、速やかにギリシャやエジプト、そして、その後、ヨーロッパ各地に拡散していった。 そして、ヒッタイトの鉄の関係で最も特筆すべきことは、かつてヒッタイトの祖先が、ヤムナ文化を用いて黒海北岸から小アジアに来たのと真反対方向に、この鉄生産の技術は、数世紀後に、その黒海北岸あたりに住むスキタイ(Scythians)人などに伝わったことである。 そして、それらの鉄器は、このスキタイからさらに東へ東へと広大な中央アジアへと拡がっていくのであった。 一方、インドの鉄技術は、東南アジアなどへと波及したようだ。 

 以上、本当は、スキタイのことも今回書きたかったのだが、かなりの字数になったので、次回以降に。

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (5)

※この記事は、日本時間で8月20日に投稿しましたが、なぜか8月4日と前回と同じ日付になっています。

⑤文明国への移動ーメソポタミアと小アジア近隣の動向(紀元前BCE約3500年~前150年頃まで)

  さて、これからは、いわゆる4大文明の時代に入っていくのだが、そこは、非常に事象としては多岐多様なものがあり複雑すぎるので、いろいろウィキペディアなどを参考に本当に大雑把な流れと、自分の興味のある地域に限定して書いていこうと思う。  

 その興味ある地とは、まず最初に、現在のトルコ周辺。 ここは、小アジアとかアナトリア(中央部)などと言われるが、現在でもそうであるように、この紀元前3千年あたり、いや出アフリカ以来ずうっと様々な人種・民族の通り道であり、たまり場(ルツボ)であったと言える。

 前回、雑談の中で、トルコのことを少し書いたが、私には、この地の人種・民族の変動が、非常に面白く感じられる。 また、太古からの文明の地・メソポタミアや、今のヨーロッパ文明を生み出した集団の発祥の地とも言われるコーカサス地方などに隣接しているのも、興味あるところだ。

 さて、トルコの地での有史が、まだほとんどない古い時代に、隣接するメソポタミアでは、世界最初とも言える高度な文明が開花する。 なので、まず、その経過・出来事を簡単に列挙していくことから始める(ごく有名な王名とそのアルファベットも、必ずしも英語ではない)。 既述のように、それまでも種々の文明が、この地で起こっていたが、ここでは、昔からよく知られているシュメール時代から始めることになる。 

 紀元前3200年頃に、シュメール人(Sumerian)(系統不明)が、メソポタミアでシュメール文明(Sumer, アッカド語でSumeru)を樹立、古代都市ウルク(Uruk)などを建設、第1ウルク王朝から第5まで。 3000年頃には、青銅の合金法を確立したらしい。 

 多くの文明では、青銅器時代は、新石器時代の後、そして、鉄器時代の前に位置付けられるように、青銅器の利用は、人類にとって画期的な転機となった。 青銅は、御存知のように銅と錫(すず)の合金であるが、錫以外の金属の合金も若干あったようだ。 古い所では、すでに紀元前6000年頃の新石器時代の土器窯で、銅を溶かす温度(1085度)まで加熱できたので、青銅器作りが可能になっていったようだ。 (錫の融点は、230度あたりとかなり低い。)

 シュメールに戻ると、前2500年頃には、楔形文字を発明する。 文字の発明も、文明の進化という点では、非常に重要な文化的遺産である。 楔形文字は、当初は、表意文字であったが、のちに、表音文字も開発されたようだ。

 紀元前2300年に、セム系言語(のちのアラビア語・ヘブライ語などの祖語)を使うアッカド人(Akkado)のサルゴン(Sargon)1世が、アッカド帝国が樹立、世界最初の帝国とも言われる。 このアッカドというのは、シュメールやアッシリア・バビロンなどに比べ、知名度は低いかもしれないが(私だけか?)、メソポタミアの歴史においてかなり重要な位置をしめているようである。 また、このアッカド語というのは、この地域でのちも使われた重要な言語であったらしい。 

 2113年、第5ウルク王朝最後の王の将軍であったウル・ハムルが、ウル(Ur) 第3王朝を建国、有名なジッグラト(バベルの塔のモデル?)を建設。(教科書的には、こう書いているが、ウル第1・第2王朝がどんなものなのか、私には、よくわからない?)

 前1830年、ハンムラビ王(アッカド語Hammrabi)に率いられたバビロン(Babylonia)第1王朝(古代バビロニア王国)が誕生。 しかし、それは、紀元前1595年、ヒッタイト(Hittite)によって滅ぼされる。 ほぼ同じ頃、カッシート人(Kassites系統不明)が、今のイラン及びメソポタミア南部を制圧する。 これが、バビロン第3王朝(または、カッシート王国)と呼ばれるのだが、この王朝は、実は、バビロニアでは、最も長く続いた王朝であったらしい。

 メソポタミアは、大きく分けて、北部は、アッシュール(アッシリア)地方、南部はバビロニア地方と呼ばれていた。 この地では、前2000年以上前の古代からアッシリア国が存在したが、当時はあまり強力ではなく、その後、前1000年頃から、北部を中心に強力な新アッシリア王国(Assyria)が登場し、勢力を徐々に広げていき、カッシート王国などを滅ぼし、やがて帝国となる(史上初の真の帝国とも)。 彼らは、アッカド語とアラム語を使っていた。 (このアラム語は、もともとシリアあたりのセム系民族の言葉であったが、この後も、中東で幅広く利用され、今現在でも、レバノンなどに話者が存在する。) 前670年頃、アシュールバニパル(Assurbanipa)王が出て、領土は最大となる。

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アッシリア帝国の拡大。 ウィキより。

 しかし、その直後、ウルク出身で、親アッシリア派の家系の出であるナボポラッサル(Nabopolassar)が、言わば身内のアッシリアを滅ぼし、新バビロニア王国を樹立するのだが、その統治機構などの多くは、アッシリアのものを受け継いだ。 その長男のネブカドネザル(Nebuchadnezzar)2世(なぜ2世なのか、別の王朝からの借用?)によって、ユダ国への侵略が始まり、バビロンの捕囚が起きる。  

 このユダヤ人の悲劇のバビロン捕囚は、印欧語の民族・ペルシャ人(Persian)のアケメネス朝ペルシャによって解放され、捉えられたユダヤ人たちは、約4ヶ月の旅を終え故郷に戻ったとある。 

 こういう征服された民族などは、どれも奴隷などとして征服者の国に連れて来られたのだが(アッシリアなどが典型)、旧約聖書でこの事実が明確に記されていることは、重要である。 なお、現在は、いがみ合っているイランとイスラエルだが、この時代は、イラン(ペルシャ人)が、ユダヤ人を救っていたとも言える。

 ウィキペディアなどを見ていると、こんな古い時代でも、こんなに詳しくいろいろ分かっているのかと、大変驚かされる。 粘土板などの記述と文字解読の技術の進歩のゆえだと思うが、特に、政略結婚などもこの頃頻繁にあったらしく、人類の歴史は、太古からの繰り返しというのが、改めて分かる。 しかし、ここでは、通り一遍のことしか書けないが、それにしても、日本では、まともな記録は、古事記や日本書紀以降(紀元後700年頃)になるのをみると、大変な違いである。 

  さて、古代のトルコにあった国・ヒッタイトが、前1600年頃、古代バビロニアを滅亡させたことを書いた。 また、同じ頃に、フルリ人(Hurrian)が、今でいうトルコとメソポタミアの中間地にミタンニ(Mitaanni)という国を建国。(フルリ人は、もっと以前から勢力を拡大していたとも。) 

 このヒッタイトもミタンニ(こちらは、不確かだが)も共に、のちのヨーロッパ文明を築くインド・ヨーロッパ語族(以下、印欧語族と略)の集団であると言われる。 ヒッタイトについては、あとで詳しく述べるつもりだが、その前に、トルコ地域の歴史を外観しておくと、

 ヒッタイトの滅亡のあとシリア・ヒッタイトという小国家群が、前1250年~850年まで続く。 その中でも、これも印欧語のフリギア語を話し、フェニキア系のアルファベットを用いたフリギア(Phrygia)人が、トルコ中部を中心に一時国を立てたが、黒海の北方から遊牧騎馬民族であるキンメリア(Kimmerians)人によって崩壊、その後、既述のアッシリア帝国が、この地域も占領した(750年頃まで)。 

 続いて、750年から550年ぐらいまで、リディア(リュディアと表記するのもある)とメディア(南部地域)が、このあたりを統治した。 リディア(Lydia、印欧語系)は、地名自体は、トルコ西端の地を指すが、国は、勢力を東に伸ばし、また世界初の硬貨コイン(金銀製)を発行していたと言われる。 また、ここでも北方からキンメリア人の侵入をたびたび受けたともある。 ただ、キンメリア人自身も、その前に、スキタイ(Scythians)から圧迫を受けての移動のようであった。 このスキタイ人についても、またあとで述べる。

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前600年頃のオリエント。ウィキより。 Lydiaをリュディアと記述しているものもあるが、英語読みなら、リディアの方が近いか?

 メディア(Media)王国は、もともとイラン西部のメディアの地から勃興したもので、印欧語を話すメディア人による建国である。 イラン高原には、印欧語を話す民族が、少なくとも前2000年には定住していたと言われる。 これは、コーカサス地方で、その語族を話す集団が、すぐ移動したことを示すと思うが、このこともあとで、もう少し述べたい。 

 やがて、メディアは、新バビロニアと共に、アッシリアと戦いこれを滅ばし、今のイランやアフガニスタン、メソポタミアそして東部トルコにまたがる大帝国となる。

 つづいて来るのが、同じ印欧語のペルシャ語を話すペルシャ人が起こした有名なペルシャ(Persia)帝国で、彼らも同じくこの地を占領したのである。 ペルシャは、上記のメディアやリディア・新バビロニアの全てを滅ぼした。 最初の王朝は、アケメネス朝(ハカーマニシュ朝とも)と言われた。 トルコ地方を制圧したペルシャは、ダイレオス(Dareios、ラテン語ではダリウス)1世の時に、対岸ギリシャとペルシャ戦争を起こした。 当時のトルコの西海岸には、ギリシャと都市同盟を結ぶポリスもあり、陣容は複雑であった。 そして、ダレイオス3世の時、有名なアレキサンドロス3世(大王Alexandros)が、ペルシャを破り、瞬時にインド西部までの一大帝国を築く(330年頃)。

 しかし、御存知のように、それは短命に終わり、300年頃、アレクサンドロス3世の後継者(ギリシャ・マケドニア系)が、いろいろ争う中、セレウコス(Seleucus)が台頭し、セレウコス朝(いわゆるヘレニズム王国の一つ)を起こし、この小アジアの地も治めた。 同様に、リュシマコス(Lysimachus)が、トルコの西半分を短期だが治めた(リュシマコス朝)。 さらに、250年には、これもヘレニズム王国の一つで、フィレタイロス(Philetairos))率いるペルガモン国(Pergamon、または、アッタロス(Attalos)朝、元は、最西部の地名)という国が統治した。(羊皮紙の生産で有名、英語のparchmentは、このペルガモンから来ている。) そして、紀元前150年頃から、あのローマ帝国の領土となり、のちに、今のイスタンブールが首都となるなど、非常に重要な土地となっていくのである。

 ここで、少しメソポタミアに戻っておくが、この地も、小アジアと同じようにアレクサンドロス3世の占領を受けたあと、既述のセレウコス朝が治め、その後、さらにパルティア(Parthia、または、アルサケス(Arsaces)朝ペルシャ)によって支配を受ける。 そして、その後は、この強大なローマ帝国とパルティアの2国の中間地的な位置で互いの勢力が入り乱れたりなどもあって、この地の重要性は、相対的に下降していったようだ。

 ついでに、エジプトも、この時期、同じくヘレニズム王国の一つであるプトレマイオス(Ptolemaios)朝が治め、有名なレオパトラ(Cleopatra)7世とローマのカエサルの出会いなどがあり、紀元前30年近くまで存続する。 しかし、この王朝は、それまでの古代エジプトの王朝とは、民族的に全く異なると言える。

 さて、ヒッタイトやスキタイなどの話も書きたかったのだが、長くなってきたので、この次にして、ここでは、この古い時代でも、いろんな面白い逸話が多く残っており(ヘロドトスなどギリシャの偉大な歴史家の貢献が大きいが)、その一つ、私が特に面白いと思った逸話(伝説?)を紹介したい。 ウィキには、詳しく書いてあるが、面倒くさい人もいると思うので、ここで概略を。

 リディアが勃興する初期のことである。 前の王朝の最後の王は、自分の妻が、世界一の美女だと思って、周りに自慢したくてしょうがなかった。 ある時、のちのリディアの王となる青年は、それを信じなかったので、前王は、彼に妻を見るようにしつこくせまった。 青年は、見たくもなかったが、あまりにしつこいので、ついに密かにその妻の寝室で裸体姿を覗き見た。 しかし、妻にそれを見つけられてしまう。 そして、その妻は、こう青年に言った。 「きっと、私の夫の指図なんでしょう! とても腹立たしい。 こうなれば、あなたは、私の夫を殺して、私と共に行動しなさい。 さもなければ、あなたを、覗き見した罪で罰しますよ!」と。 返答に困った青年ではあったが、決心して、前王を殺すことに決め、その後、その妻を自分の妃にして、リディア王となった、メデタシメデタシというものだ。 

 おそらく、オリジナルの逸話は、もっと長く面白い展開があることだろう。 今から、2500年以上前に、こんな話を創作あるいは過大に想像するギリシャ人(完全な実話とはとうてい思えない)も凄いものである。  

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後世の絵画、ウィキペディアより。 見えにくいかもしれないが、左端に覗く男の顔がある。

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (4)

  ”読む人知らず”の私のブログなんですが、念の為、ここでもう一度断っておきます。 すでに3回ほどつまらないものを書いていますが、これは、あくまで私の歴史観の備忘録的なものですので、どうぞ御理解を。 

 こっそり日記にでも書いておけば良いような内容なんですが、公開にしないともっと支離滅裂な文章、稚拙な内容になってしまうので、ここに書いています。 まあ、ダラダラと書いているだけですが、自分では、それで経緯がわかるので、これも御了承を! 

 

第二章 富・権力のための組織化・社会化そして移動

④ 温暖化による食料革命と初期文明(約1万2千年前から5千5百年前頃) 

 前回までに、ホモ・サピエンスの世界拡散と、その各地で変異・人種化していく様子を記した。 しかし、既述のとおり、多くの地域で人類グループは、常に移動や混合を繰り返しており、その結果、最終的には、民族あるいは国などという集団を形成してまとまることになるが、遺伝的には、より混沌とした状態になっていると言える。

 ともかく、こうやって人類の遺伝的分化は、徐々に進んでいくのだが、今から約1万2千年前(紀元前BCE1万年前)頃に、また画期的なことが起こった。 最終氷期が、終りを迎えたのである。 その温暖化によって、結果的に、農耕や牧畜がおこり、人類の食料供給体制が、飛躍的に改善したのである。 

 それまでは、世界中のほとんどの地域で、人類は、狩猟採集生活を続けていた。 しかし、この温暖化に伴い、まず野生植物や動物が増加することによって、人類の食料獲得方法がより容易になっていった。 その後、植物の野生種の中には、種子や実を豊富に抱えるものが増え、それが自然落下などをして、人類に栽培のヒントを与えた。 これが、農耕の始まりだと考える。 中東・ヨーロッパでは、麦やヤシなど、アジアでは、稲などが栽培され始める(おそらく、揚子江以南)。 それとともに、牛や羊さらに犬や猫の家畜化も始まる。 これで、人類の食料供給方法は、飛躍的に変わり増大していった。 この時期が、今から約1万2000年前から9000年前あたりの間で確立されていった言われている。 

 極く最近の中学高校の教科書は、よく知らないが、少し前までのものでは、人類は、この農耕の始まったあたりの時期以降から、いわゆる4大文明の出現時期まで(早くとも5500年前頃(紀元前3500年頃))、特に大きな足跡を残すことなく沈黙の時期があったように記述されている。(記述がない、と言った方が良いのかも。) 私も含め、この間の人類の活動は、どうなっていたのだ、と思った人は多いはずだ。 

 しかし、ここにきて、近年の世界各地での科学調査の進展は、めざましく、この4大文明の起こったあたりのすべてで、その農耕文化が始まってすぐとも思われる(約9000年前)さらに精巧な石器や生活用具などが見つけられ、また、その地に社会集団が成立していたことが、示されてきているのである。 そして、そのような社会集団の痕跡は、同じ遺伝的集団あるいは民族によってなされたかどうかはわからないが、ともかく、いろいろな形で、有史と言われる時代がはじまるその紀元前3500年ぐらい前まで延々とつながって存在していたことが、あきらかになってきた。 これで、人類の7万年前からの進化・変化の旅は、有史の開始時期まで、ほぼ途切れることなく、その営みが分かってきたのである。

  その後、青銅器時代や鉄器時代などと並行して有史の世界が始まるわけだが、ここで、ちょっと一休みして、雑談めいたものだが、私が、昔読んだ人種に関する一般書のことを少し書きたい。 

 まず1冊目は、今では、荒唐無稽に思える内容だが、日本人である著者が、その本の中で、”トルコ人は、極端な短頭をしている。”と書いていたのであった。 この文を読めば、普通は、トルコ人は、我々日本人よりもっと短頭である、と思ってしまうだろう。

 短頭というのは、特にアジア人などで顕著であるが、人類が脳容積を増していく過程で、より円形になったほうが、容積が増えやすいため、そういう傾向になったと言われるもの。 また、シベリアなどの酷寒に対処するために、熱保温の関係で、北アジア人は、よりそういう傾向になったかもしれない。 

 しかし、とにかく、トルコ人たちは、1000年以上も前に何百年もかけて、今の中央アジアあたりからトルコの地にたどり着いた民族であるが、今のトルコ人は、骨格的な外見では、周辺の国の人々とは、ほとんど区別がつかない。 (肌色の差は、若干あるかもしれないが。) この本は、約40年前のものであるが、40年前のトルコ人たちと現在のトルコ人たちの外見が異なっている、とはまず考えられない。 私自身、20年前にトルコに観光旅行に行ったが、やはり、彼らは、アジア人には似ていなかったし、東アジア人(世界でおそらく最も短頭)よりも短頭であるようには全く見えなかった。

 おそらく、この著者は、欧米人の古い例えをそのまま借用して自分の本に書いたのではないか、という疑問が湧いてくるのであるが? 

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有名なトルコのアタチュルク初代大統領、今から140年くらい前出生。 ウィキより。 東アジア人には、似ていない。

 さて、もう一つの本は、これも一般用だか、もっと読み応えがあり、しかも、結構詳細な内容の本であった。 その要旨は、いわゆる黄人は、黒人グループと白人グループの融合によって生まれた人種集団であるということであった。 この著者は、皮膚科医でもあって、当時としては、肌の色などの科学に非常に詳しかった人だと思われる。

 もう少し詳しく言うと、この本によれば、人類は、黒人が先に出現し、各地に広まった。 その中で、アルビノ(白子)が生まれ、多分寒冷な土地あたりで、アルビノであっても、だんだん生き延びる人間が増え、やがて、継代していく間に、アルビノではなく白人として集団を築いていった、というのである。 その白人集団が、のちにある黒人集団と出会い、多くの子をもうけることによって、だんだんとその中間色の人間集団が出来上がっていった。 これが、黄色人種である。 というのが、彼の理論だった。 もうひとつ思い出したが、彼がこの本で言いたかったことは、人類は、類人猿に比べても成長の速度が遅い、大人になる時間がかかる。 なので、人類の進化としては、人類は、できるだけ赤ちゃんのような幼い体型を長く残している方が進化的に進んでおり、そして、それは、黄色人種である、という考えであった。

 要約であるので、おわかりにくい点もあるかと思うが、さて、分子生物学が発達した現在の科学からは、どうみえるのか? 体型については、生活様式の影響も多大であるので、絶対的にも相対的にも足の長さなどは、日本人の場合でも、現在の若者と100年前の若者では、相当な差があるように思うが?

 雑学的なもののついでに、これまでの人種あるいは民族の特色について、主要な違いと思われるものを列挙してみる。 まず、アフリカ系の人は、足などの筋肉の発達によって、その跳躍力や走力などが優れていることは、よく知られているが、他に、

・人種あるいは遺伝的差異によって、同じ食物を摂取しても、蛋白質などを生成する代謝合成機能などが異なる。(ある集団では、より筋肉がつきやすい。)

・アフリカ人は、骨密度が高く比重が重たい。(だから、あまり水泳は、特異でないかもしれない。 ただし、骨粗鬆症にはなりにくい。)  

・たとえば、中緯度地方にいる場合、肌の黒いアフリカ系の人は、白いヨーロッパ系の人の約8倍の日射時間を浴びなければ、皮膚からの十分なビタミンDは合成されない。(逆に言うと、白人は、少しの日射で十分で、それ以上浴びると皮膚癌になる可能性あり。)

・東アジア人は、熱い食品をあまり苦もなく食べられる。 辛味も同様か?(センサーが同じ?) しかし、アルコール分解酵素の活性が弱い。(関連性があるかも?)

・稲・コメのカロリーは、高く、その収穫によって、多くの人口を養えるようになる。 アジアの人口の増大? 

・あと、日本人や東アジア人は、肝臓や腎臓の機能(サイズも)が弱く、より少ない糖分や脂肪分で糖尿病・循環器系疾病を罹患しやすい。 逆に言えば、極端な肥満も起きにくい。 などなど、他にもマラリアなどの病気に対する抵抗性など小さいことなら五万とあると思うが、今、すぐ出てくるのは、こんなところである。 

 さて、このあと今から約5500年前に、メソポタミアやエジプトそしてインダスや中国そしてその他の地域にも文明が開花していく。 それは、精巧な石器などとともに青銅器の時代がきたことも示す。 

 ところで、メソポタミアを起こしたのは、大きな人種的な枠では、今のヨーロッパ人に近い人種のグループだが、のちのギリシャやローマのような現在まで続くヨーロッパ文明を築いたグループではない。 それらのヨーロッパ文明は、4000年前頃に黒海とカスピ海の間あたりに起こった新たな言語(いわゆるインド・ヨーロッパ語族)を話す集団が、移動してから起こったものだ。 

 また、エジプト文明もインダス文明も、このインド・ヨーロッパ語族のグループとは、直接関係ない。 のちに、この語族の一群が、インド北部や東部に侵入して、新たな文明を北インドに起こし、バラモン教などを起こすが、それは、もっと後のことである。 つまり、4大文明のどれも、のちにヨーロッパ文明を起こした集団とは、直接関係ないのである。 (もちろん、ギリシャ近辺などでは、非常に早い時期(5000年前頃)から、有史文明を起こしていることも事実であるが、そこでは、暗黒時代などというのもあり、たとえば、その前と後では、民族が大きく異なることも考えられる。)

 さて、この青銅器時代以降の各文明の内容は、私には、膨大すぎて手に負えないというのもあり、また、私は、人種や民族の移動(それは、現代なら侵略やジェノサイドとかと同義語となる場合も多いと思うが)というのに非常に興味があるので、その時代以降の主にそういう集団の移動からみた歴史の経過を見てみたいと思う。     

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (3)

③ 人種形成(世界各地に分散したホモ・サピエンスの変異)(約6万年前から1万年前頃まで)

  さて、世界中に分散したホモ・サピエンスであるが、すでに述べたように元の人数が極めて少なかったので、人口は著しく増加したが、皆、遺伝的には非常に似通った遺伝子・DNA(遺伝子とDNAは、正確には異なる言葉だが、ここでは同義語として扱う)を持っていると言われる。 

 前回に書いたとおり、人類は、ヨーロッパやアジア・オセアニアなどには、約5万年前頃には到着し、その土地土地ですぐに気候や環境に順じた身体つくりをしていったと考えられる。 すなわち、表現型と言われる外見上の形質の差異が、生まれてくるのである。 つまり、人種が。 もちろん、人体の内部も多少人種によって異なってくるが。 ただしかし、再度言うが、全体として人類は、遺伝的には非常に似通った存在同士なのである。  

※ 私は、ここでは基本的に(違う言い方をする場合もあるが)、いわゆる白人系は、ヨーロッパ人、黃人系は、アジア人、アボリジニと言われるオーストラリア原住民は、オーストラリア人、ネイティブ・アメリカンやインディアの祖先は、アメリカ人などと、彼らが変異した地点の現在の名称を使う。 もちろん、黒人は、アフリカ人であるが、それは、出アフリカしないで残ったホモ・サピエンスを含め、その子孫でサハラ砂漠以南に定住し続けたアフリカ人たちのことを言う。 

 それで、アメリカ人は、到着したのが、2万年前以降であるので、当然、変化はその後に起こったが、5万年ぐらい前に住み始めたヨーロッパ人やアジア人、オーストラリア人などの祖先は、これもやはりDNAの分析から、比較的すぐにその変化が始まったと考えられている。

 さて、そもそも、出アフリカする前のホモ・サピエンスの外見、言わば基本形は、どのようなものであったのか、これは、非常に大事な事であると考えられるので、詳しく書く必要があると思う。 

 皆さんは、ブッシュマンという言葉あるいは人物を御存知だろうか? 今から40年近く前だろうか、ずばり”ブッシュマン”というタイトルの彼らの生活を紹介した映画が作られ、日本でもかなり評判になり、その主人公の男性は有名になった。 また、ホッテントットという人たちあるいはその言葉を、若い人は聞いたことがあるだろうか? 今、ホッテントットという名は、差別的だとして使われす、コイ(Khoi)人と呼ばれている。 ブッシュマンも、今はサン(San)人と言われ、この似通った2つの民族グループをコイサン人と総称する。 また、カポイドという表現もある。 実は、近年のDNA分析の結果、このコイサン人たちが、7万年前にアフリカを出たサピエンスに非常に近い存在であることが判明してきた。  

 まず先に、彼らの外見的特徴を書いていくと、身長は、現代人に比べれば、かなり低く、平均155cm程度(男性)。 体格は、細身でやや華奢と言える。 頭は、かなりの長頭(後頭部が後ろに突き出ている)。 顔つきでは、目の周辺には結構脂肪組織があり、鼻は小さくてあまり高くない。 頬骨の出っ張りは、結構めだつ。 つまり、いわゆるそんなに彫りが深い顔ではない。 唇は、そんなに厚くない。 頭髪は、非常に縮れて、頭にへばりついている。 あと、特に女性のお尻は脂肪が多く蓄積し、後ろにかなり付きだしている。 なお、皮膚の色は、そんなに黒くなく、薄い褐色の人が多い。 最近まで、この人たちの生活は、アフリカ南部で、狩猟や牧畜などの生活をしていたので、結構肌は露出していたのだが、アフリカの人類としては、それほど黒くはない。 それと、身体的特徴ではないが、現在のコイサン人の言語は、非常に多くの音素(特に子音)を持っているという。 もしかしたら、人類は、最初多くの音をもって会話を成り立たせていたが、のちに絵図や筆記手段などの方法を取り入れ、音での識別方法の依存を徐々に減らしていったのか?

 以上のような外貌も含め、DNAの結果から、彼らコイサン人(あるいはカポイド)は、現在では、いわゆる黒人のカテゴリーには含まれておらず、独立した人種グループとなっている。 今でも、よくテレビなどで出アフリカ前のホモ・サピエンスを紹介する際には、現在アフリカで主要な人種となっているバンツー系のような結構大柄でかなり色の黒いアフリカ人を例にする場合が多いが、7万年前に人口が激減してアフリカを出た我らの直接の人類祖先は、そうではなく、このコイサン人のような人類だった、と考えられるのである。 

 さらに、DNAの調査によって重大な結果が、判明している。 それは、現在、アフリカ南部のカラハリ砂漠周辺にだけ居住し、人口10万人程度のこのコイサン人集団内のDNAの変異の方が、それ以外の世界中の人類全体のDNA変異より大きいというのである。 

 つまり、7万年ほど前、このコイサン人たちは、今より北のアフリカの中南部に居住していたが、その内の極一部(数百人程度?)の集団が、アフリカを出て(おそらくソマリア半島経由で)、世界中に拡がり各地でいろいろ外見を変え(人種化)、そして今や全体で70億以上の大きな人口の集団に膨れ上がったというのであるが、この巨大な全世界の人類集団内の変異の方が、今アフリカの一部にだけいるこのコイサン人集団内の遺伝的変異より、小さいというのである。

  これは、同時に、アフリカで誕生したホモ・サピエンスが、7万年前までには、すでにかなり多様に変異をしていたことを示唆する。 そして、その期間は、7万年より長いことも言える。

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現在のサン人、ウィキより。 出アフリカをした我々の祖先は、おそらくこんな人達であったかもしれない。 しかし、アフリカを出て、すぐに外形的な変化を生じたと思われる。

 さて、ここで、出アフリカ(ホモ・サピエンスの世界ジャーニー)の具体的話に入る前に、環境によって起こる外見の変化について書いておく。 まず、一般に広い土地にいる動物の方が、狭い空間や島嶼にいるものより、体格は大きくなる(おそらく、数が増えやすい結果、大きな個体が生まれる確率も増え、その大きな個体の方が生存競争に勝ち残っていきやすいせいか?) 寒冷の地にいる動物の方が、体は大きくなるが、全体的に四肢は小さくなり、耳などので出っ張りも小さくなる(熱放散の効率化)。 日照時間のすくない土地の動物ほど、より白っぽい色になるなどがある(ビタミンDの生成能力など)、以上などが主な大きな変化であろう。

 では、いよいよ、このコイサン人に似た我々の直接の祖先の、世界ジャーニーの開始となるが、開始後すぐに、今のヨーロッパ人の祖先のような遺伝子をもった集団が出てきて、その後、アジア人やオーストラリア人が形成される、というDNA結果が出ている。 南北アメリカ人は、アジア人からさらに、北アジア・シベリア経由で変化していくことになる。

 もう少し、詳しく言うと、おそらく、今のイランあたりで、コイサン人に似た祖先は、ヨーロッパ人の元となった形に変化し、その一部はヨーロッパに行った。 しかし、この時のヨーロッパ人の原形は、今のヨーロッパ人のような外見ではなく、今の南部インドやニューギニア・オーストラリアにいるような人に似た顔や身体をしており、肌色については、彼らより若干淡い色であった、と私は考える。(オーストラリア人などは、最終地に定住後、さらに黒くなった?) 当然、ヨーロッパ人は、その後は、寒冷で日照時間の少ない気候に直面したり、ネアンデルタール人が比較的多くいる地域で彼らと接触するなどして、より現在の姿に近い変化をしていく。 一方、イランからインドや東南アジアに進んだサピエンスは(これも、すでに多少なりともネアンデルタール人とは接触があった)、多少の遺伝的変異を成しつつも、外見的にはあまり変わらずに、オーストラリアまで行き着いた、と私は考える。(※アフリカの残った集団以外、すべての人種は、ネアンデルタール人の遺伝子を多少なりとも持っている。)

 誤解をしてはいけないのは、今は、約5-4万年前頃のある一時期の人種分布を考えているのである。 つまり、ホモ・サピエンスの世界ジャーニーの初期の段階では、現代のコイサン人に似たホモ・サピエンスは、今のパプアニューギニアやオーストラリア人のような風貌をもった人間に変化し、今で言う中東からオセアニア(主に海岸沿いの地域を中心に)まで存在していた、と考える。

 

 同時に、偶然(気候環境による必然でもあったかもしれないが)かつ、遺伝的な変異の経過は別だが、アフリカに留まったサハラ砂漠以南の人類にも、同じような外形の変化を生じたもの、と私は考える(バンツー系の始まり?) すなわち、この1時期には、アフリカから中東・インドそしてオーストラリアまで、外見的には、ほぼ同じような人類だけがいた、と考えられる。(若干のアフリカにいるコイサン人系を除いて)

 その後、中東あたりから西及び北へ移動してヨーロッパに到達した集団は、寒冷で日照時間の少ない気候により狭鼻(寒冷な空気を肺に送り込まないよう、鼻が長く細くなった)になり、皮膚も白くなる。 また、ネアンデルタール人と出会った結果、そのDNAも幾分か混じり影響もでる(体毛が多くなる?)。  

 ニューギニアやオーストラリアに到達した集団は、その後の海面上昇などで移動の機会を失い、その地で、体の皮膚色がより濃くなる程度以外、あまり外貌の変化なしに進化していく。 一方、北及び東アジア人については、以前は、南方からの集団が先に定住し、その後北上して今の東アジア人たちに変わっていった、と私は考えていたが、最近のデータによれば、どうも北方系からの移動もかなりあり、それらが混ざりあった結果であるのかもしれない。 ただし、いまのところ、南から北上の方が、私なりには、説明がつきやすい。

 つまり、東南アジアにいた人々は、それまでにオーストラリアなどに拡がった集団の一部が、その地に残り、密林生活などの比較狭い空間にいたなどの理由から、体をやや小さくし、顔の骨格もやや凹凸の少ないものなっていく。 この集団が、さらに北上し、最終的にはシベリアあたりで、北半球で最も寒い気候に適応した外見に変化する。 つまり、まず、手足は相対的に短くなり、体全体は、東南アジア人より大きくなるが、より寸胴の体形になっていく。 頭は、より短頭になり、厳しい寒冷から体を守るため顔・体全体に脂肪層が多く沈着し、顔面の凹凸は、さらに小さくなる。 特に目の周りの脂肪沈着と小さい鼻は、この集団の容貌を他からかなり異なるものにした。

 なお、現在のヨーロッパでも、最北に住む集団は、目鼻が、南部ヨーロッパに住む集団より、やや小さめになる傾向があるが、この北アジア人のように顕著ではない。 そこまで、極寒ではなかったせいか? ただ、繰り返しておくが、現在の人種分布は、それ以降の人類の何度にも渡る移動で、かなり入り混じっものになっているので、注意を用する。 

 北アジア人の特徴にもどって、耳垢は、凍結を防ぐため乾燥化した。 ただ、皮膚の色は、ヨーロッパの北部にいた集団ほど、白くはならなかった。 これは、おそらく、日照時間が、北部ヨーロッパよりシベリアの方が長いかったもの(つまり晴天の日が多い)、と考えられる。 南北アメリカ人は、主にこの北アジア人の中で、特定の集団だけが、移動したと考えられる。 なぜなら、この南北アメリカ人は、広い範囲に移動定住したが、彼らも非常に小さな遺伝的差異しかない、ということが分かっているからである。 

 これ以降、各地に定住したそれぞれの人類集団は、その土地独特の食料を摂取などして、また、それぞれの生活様式を確立などしていく間に、少しずづさらなる変化を遂げていくことになる。 そして、再度言うが、人類は、これ以降も、特にアジアやヨーロッパでは、移動の繰り返しを行ってきたので、人種分布は、各時代でかなり変化していくことになる。

 これまで、私自身の考えも多少含めて、世界の人種の形成を考えてきた。 これは、もちろん、現在までのDNA分析の結果を基に、そこから考えられる範囲での推測である。 もし、これらの遺伝情報が、間違いがあれば、根本から話は変わってくる。 しかし、このDNA解析技術は、今後も発展し、より精密な人類史がさらに紹介されることになると思う。 今は、人間の持つ全遺伝子の内、主にY染色体とミトコンドアでの遺伝子情報から、このような結果を導きだしている。 Y染色体は、男しかない性染色体なので、父親・祖父・曽祖父といった父系の遺伝的経過を調べるものであり、ミトコンドリアは、もともとどの細胞にもあるのだか、精子が卵子と出会い卵子内に侵入する直前に、精子のミトコンドアは脱落してしまうので、受精卵には存在しない。 つまり、父親のミトコンドリアは、子供には引き継がれないようになっているので、女系だけの遺伝情報が得られる、というそれぞれの遺伝特性を調査しているのである。 

 しかし、これらは、まだ一部の遺伝情報であると言ってもいいのかもしれない。 今後も進む各個人単位の全遺伝子のゲノム解析などが、集団で比較できるようになると、画期的な結果が出てくることが大いに期待できる。 

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遺伝的系統樹、2008年雑誌サイエンス。 ウィキより。


 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (2)

② ホモ・サピエンスの出現と出(しゅつ)アフリカ(約30万年前から7万年前頃まで)

             

 前回は、一応、ネアンデルタール人まで書いた。 まず、追加で言及しておかなければいけないのは、年代表記のことである。 近年、多くの科学的測定の結果、各事象がより以前(早期)に出現や発生をしていた、と報告される傾向が多く見られる。 日本における弥生時代や古墳時代の開始時期などもそうである。 

 前回示したホモ・サピエンスやネアンデルタール人の出現時期も、いまでは、もっと早い時期であると言う学者も多い。 いずれも50万年前ちかくから始まったという説もあり、近い将来、その数値に近い物証が出てくるかもしれない。  ただ同時に、あまり細かい数字を並べても、私は、あまり意味のないことだとも思っている。 相対的な流れ、論理的な説明の付く流れの中での位置関係が大事だと思っている。

 ここで、疑問が出てくるのが、前回も少し書いたネアンデルタール人の出現についてである。 比較的最近までは、彼らは、我々の直接の祖先・ホモ・サピエンスと同じようにホモ・エレクトスから進化したと言われていた。 つまり、昔よく言われていた、原人(エレクトスなど)→旧人(ネアンデルタールなど)→新人(サピエンス)といった流れではないものとして。

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ネアンデルタール人の頭骨、約5万年前。ウィキより。 現代人(サピエンス)に比べ、眉のあたりの隆起が目立つのと額が狭く頭は後ろに長く突出(長頭)。 ただし、脳容積は、現代人とほぼ同じ。

 しかし、問題は、彼らの化石は、アフリカでは、ほとんど見つかっていないということがある。 だから、アフリカのどの辺りで進化したのかも、はっきりしない。 一番近い発見現場は、今のイスラエル近辺で、ほとんどは、ヨーロッパやアジアでの発見である。(彼らの近縁種といわれる人類種が、中央アジアに拡がったようだ。) 

 しかし、ここにきて近年、ハイデルベルク人(ホモ・ハイデルベルゲンシス)という新たな種が、注目されてきた。 彼らは、アフリカで70万年前頃、ホモ・エレクトスから進化し、のちにアフリカを出てヨーロッパ方面に進出し、そこでネアンデルタール人に変わっていったという説なのである。 同時に、アフリカに残ったハイデルベルク人は、今度は、サピエンスに進化していったという、正に画期的なミッシング・リンクの登場と言える説がでてきた。 つまり、このハイデルベルク人が、サピエンスとネアンデルタール人の共通の祖先であると。 果たして、そんなにうまくこの人類史のストーリーが展開していくのだろうか?

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欧州にいた4万年前のネアンデルタール人女性(復元)。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加)

 もうひとつ、この関連で私が疑問に思うのは、ホモ・エレクトスが、過去100万年程の間に何度も世界へ拡散したと思われるが、なぜそれぞれの地で、大きく進化しなかったのかという点だ。 その点では、私は、アジアなどでも、エレクトスの進化がいろいろあったものと推測している。 実際、エレクトスにも、いろんなサブ・タイプと言われる化石の種類が見つかっており、よりミッシング・リンク的な形質をもった人類が、そのあたりに出現したが、いままでのところ発掘に成功していないだけ、であるのかもと。 あるいは、形質的にあまりサピエンスとの差がないものまでいて、見過ごされてきたなどという可能性も、ゼロとは言えないと思う。 そうでないと、なぜアフリカにだけホモ・エレクトスの進化が起こったのか、説明が難しい。 

 考えられるとすれば、アフリカのエレクトスの人口が、圧倒的に他の地域より多かったせいなのか? 絶対人口が多ければ、遺伝的変異も起きやすい。 では、なぜ、人口が多かったのかは、そこに十分な食料があったせいであろう。 このつながりは、容易に想像できても、ではなぜ、アフリカ(ホモ・サピエンスの場合、恐らく東南部)だけ、食料が十分あったのだろう? それは、今のところよくわからない。 今後、それを裏付ける気候条件などの詳しい情報が、出てくるかもしれない。

 ここで、現生人類の場合、他から隔離された小さな集団では、得意なタイプの新しい遺伝的変異が起きやすいと思う人がいるかもしれない。 例えば、イヌイットやオーストラリアのアボリジニのような存在、さらには、我々シベリアや東アジアの人間もその風貌からそういう存在であるのかも?(人口は多いが) 確かに、特異な環境や狭い空間では、表現形質は、変化しやすい。 ただし、現生人類の場合、そういう変化は、遺伝子変異レベルで見ると、非常にまだ小さいということのようである。 エレクトスからサピエンス(あるいは、ハイデルベルク人)に変化したような大きな変異ではないということのようだ。

  さて、私達の祖先・ホモ・サピエンスに至る進化の直接の引き金、この大きなテーマは、もちろん、今のところまだよくわかっていなし。 それとまだ、サピエンスが、ハイデルベルク人から来たという確証もなく、エレクトスから変化したという研究者もいる。(ハイデルベルク人は、エレクトスの1種という考えもある。) 恐らく、このハイデルベルク人については、まだその発掘数が少ないせいなどで、我々一般人が納得できるほどの仮説が提示し難いところがあるのかも、と想像する。  

 いずれにせよ、アフリカで、約30万年前頃に、ハイデルベルク人か、あるいはエレクトスから直接か、あるいは別の近種からかはわからないが、ホモ・サピエンスが、出現するのである。 その何がしかの遺伝的変化が、アフリカのどこで、そして、なぜ起こったのであろうか? 

 ひとつ言えるのは、これまで述べた脳のサイズが、大きなカギを握りそうである。 チンパンジーや最初にそれと分かれた人類の脳の大きさは、400ccぐらいであったが、それからざっと500万年くらいかけて、その倍の1000cc近くになる。 その後、エレクトスの後半の時代からホモ・サピエンスが誕生するまでの約100万年以内の短い間に、さらにまた500cc増えて1500cc前後の大きな脳に進化するのである。 この脳容積の急速な増大により、彼らの使う石器は、より高度なものになり、集団での狩りは、より複雑になり(ただし、脚力はエレクトスより劣るかもしれないが)、彼らの食料確保は、順調に進んでいったものと考えられる。

 ということで、アフリカで生じたサピエンスは、だんだんと人口を増やしていったことだろう。 彼らには、より高度な知能があり、言語を操って集団で行動するといったことで、近隣にいた他の人類集団を駆逐していったと考えられる。 そして、後で詳しく述べる7万年前頃の私達の本当の祖先にあたる極少人数のサピエンスが成しえた出アフリカを、すでにそれまでに幾度も達成していた(移動範囲は、それほどでもなかったかもしれないが)、と私は思う。 しかし、彼らが誕生してから恐らく10万年以上経過したのち、このアフリカやその他の地域にいるのサピエンスたち、そして他の人類種にとっても、壊滅的な大事件が、突如起こる。 

 今から8ー7万年前頃、インドネシア・スマトラ島にあったトバ火山が、大噴火を起こしたのである。 これにより、全世界の人類は、ほとんど死滅したと言われる。 これまで、何億年年も前の地球の全凍結が、多くの生物を絶滅近くに追い込んだり、あの恐竜たちを死滅させた6600万年前のユカタン半島への巨大な隕石衝突などと同じようなことが起こったのである。 極少数のアフリカにいたサピエンス(一番温暖な地にいた?)とヨーロッパにいたネアンデルタール人(寒冷化に対応できた?)以外は、この爆発から出た火山灰の堆積による食料の消失と、それによって引き起こされた寒冷化によりほぼ全滅した。

 この説が、非常に説得力を持つのは、その後すぐに地球の寒冷化が始まったということと、極少数のサピエンスの遺伝子しか現在の世界中の人間は受け継いでいないという事実があるからである。

 この直前には、アフリカでどれくらいエレクトスなどが存在していたのか、ほとんど既にサピエンスにとって代わられていた可能性も大きい。 しかし、アジアにいたエレクトスたちは、それまで確実に存在したようだが、どうやらこの噴火で壊滅したと思われる。 だから、上に書いたようなある程度の進化的変化が起こっていたとしても、その人類たちは、生き残れなかった。 アジアの方が、もちろん、この火山爆発の影響をより強く受けたことは、想像にかたくない。(この噴火による火山灰が、100cmも積もった地域があるとも言われる。) 

 ただし、もしDNA解析がなかったら、現在でも、そういう仮説(つまりアジア人は、アジアのエレクトスから進化した)ということを主張することは、できたかもしれない。

 それで、おそらく、アフリカで生き残ったサピエンスは、噴火後すぐにいままでの土地を離れ、より食物の豊富な場所を探して移動を始めたのであろう。 幸いと言うのか、寒冷化し氷期になったことで、海面が沈み陸続きが増えるなどして、大陸や島々への移動が、それ以前のサピエンスの拡散(仮にあったとしても)よりはるかに容易であったことだろう。

 その拡散(真の出アフリカ)だが、6-7万年前にアフリカのアラビア半島近くからアジアに行った集団と、今のシナイ半島やパレスチナ経由の移動で各地に分散したという説があるが、このDNA分析で、この時、出アフリカしたホモ・サピエンス集団は、非常に数が少なく数千人以下ではないかと言われているので、これは一つのルートから全世界に拡がったと考える方が、理にかなうと思う。 そして、それは、今で言うソマリア(エチオピアのすぐ隣)などの沿岸を経由してアラビア半島南部にたどり着き、その南岸を通ってさらに今のイランやインドを経て、はるか東アジアやオーストラリアにたどり着いたものであると。 また、イランあたりで逆方向に向いヨーロッパに至ったグループもいた。 そういうグループの中には、また南下して、いまのイスラエルやシナイ半島経由でアフリカに戻った集団もいたはずである。 ただし、彼らは、サハラ砂漠以南には、行かなかった。 そして、ご存知のようにシベリアとアラスカは、陸と氷で繋がっていたので、北アジア・シベリアから北アメリカを経由し南アメリカの最南端までの移動できた。 その移動時間だが、インドあたりまでは、1万年とかかっていない、アジアやオーストラリア、ヨーロッパでも2万年以内、つまり今から5万年前には到着していたと言われる。 最果ての南アメリカ南端でも、今から1万年前までには達成した。 ただし、太平洋の島々へは、かなり遅くなった。(3-2000年前頃)

 この、いつごろ各地にたどり着いたかは、その後の変異つまり人種差を見る上で、非常に重要になってくる。 それと、ヨーロッパで、まだ生き延びていたネアンデルタール人は、3-2万年ぐらい前まで生存していたというので、ここで両者が衝突あるいは融合した期間がうまれた。 

 このように、各地に広まった人類は、その土地土地で、その進化した脳を用いて、いろいろな技術を開発していくことになり、また、同時にまだ環境の影響が強いので、それぞれの土地の気候に応じて、その身体を順化させていくのである。 これが、人種の始まりだ。 そして、それから約1万年前頃になると、やっと寒冷化がおさまり、温暖化が進むことになる。 これが契機となって、人類は、自然にある食料を採るだけでなく、自分たちで植物を生産するつまり栽培する技術を獲得していくのである。 

 次回は、その人種形成の状況をもう少し詳しく書きたいと思う。