私自身の差別体験(1)

 一般の差別の問題や部落出身の人々の苦労話は、今はいい本がいっぱいあると思いますので、そちらをぜひ参考にしてもらいたいと思います。 
 
 私自身のことは、前に失恋のことは書きましたが、きょうは、もうすこし自分の差別に対する精神状態の変遷を、子供の頃からちょっと振り返り、書いてみたいと思います。 ただし、これはあまりドラマチックではありませんし、大半の方には、有益でもないかもしれませんがーーー。

 私の育った部落は、かなり大きな地区で、また皮革産業もあったので、人々は、ほとんど地区内での生活で事足りてました。 まあ、1970年代前半頃まででしょうか。 それ以降は、高校や大学に行く者が増えたりして、就職や結婚などで、一般社会へも多く入っていったように思います。 

 私たちは、自分たちの地区のことを"村”と言っていました。 だから、たとえば「あの人は、村の者やない。」といった使い方をしていました。

 それで、私の行っていた小学校では、部落出身の生徒のほうが多かったので、もちろんそれに対するイジメや差別は、生徒間でも先生からもなかった。 少なくとも表面的には。 そして、この時期、私には、素晴らしい先生がいました。 その人の名は、土井照美先生、この先生から、本当の意味での差別やイジメの醜さを知りました。 

 ただ、私は、この時期、自分自身が差別されている対象であるとは、思いもしていませんでした。 先生は、そんなことは関係なしに、部落とかの狭い範囲を超え、人間社会の矛盾や偏見について、常に厳しく私たち生徒に、その不条理さを教えてくれました。 ただ、これまでの私が、その教えの精神を実際の行動で表したかどうかといえば、残念ながらそうではなかった、と思います。 しかし、この先生の言葉は、いつまでも私の心にあります。

 もっとも、この先生は、同時に「恋愛」の素晴らしいことも常々語っていたので、私は、その影響もあってか、こと恋愛に関しては、ちょっとルーズな性格になってたかもしれません。 まあ、それをこの先生のセイにすることはできないでしょうが。
 
 中学校になって、自分自身がそういう差別の対象者であることを知った私は、非常に内向きな性格になったと、我ながらそう思います。 でも、そこでも岸本吉生先生という先生がいて、自分自身と真剣に向き合うことの大切さ、などを教えてもらいました。 この中学校の時の、土居校長先生も素晴らしい方でした。 この校長先生も、かつて柔道をやられていたので、私などは、結構、親しくさせていただきました。

 さて、高校に入ると、自分たちは、もちろん少数派です。 この頃の私は、ほんとに周りの目が気になる内向的で神経質な性格になっていたと思います。 それは、自分で言うのも何ですが、このころから私の容姿・見た目が、わりとよくなって、女の子に少しチヤホヤされだしたので、よけいにその傾向が強くなったのも事実です。 ある先生から、「あなたはいい花婿候補になるね~~きっと。」などの言葉を言われても、ただ、ニヤッとして誤魔化すだけでした。

 高校時代にも、小林強先生という、非常に意識の高い先生がおられました。 でも、ある時、ある別の教師が、同和教育をホームルームの時間にしました。(当時、関西では普通にあった) その授業そのものは、まあまあだったのですが、授業のあと、その先生は、突然、私や数人の部落出身の生徒をつかまえて、「どうだった私の授業の出来は?」などと、まだ、ほとんどの生徒が教室に残るなか、しゃーしゃーと聞いてきたのです。 本質的なものを聞いたのではなく、ただ自分の授業が表面的に問題がなかったかどうかを知りたいために。

  私は、信じられませんでした。 「この教師、なんてことを聞くのだろうか。」と、それ自体、差別的な行動だと思わないのかということと、私自身の出自が他の生徒に知られるではないかとの2重の意味で、大きなショックを受けました。

 もし、私が、解放同盟などの組織に深くかかわっていた人間で、このことを組織に告げるなどのことを当時していたとしたら、この教師のその後の教師生活は、どうなっていたであろうか、と時々思うことがあります。 まあ、今、この教師は、かなり出世していると聞きますが。