偉大な被差別の先人

 芸能界の話をしたついでに言いますと、このブログを見ている人は、ご存知の方も多いと思いますが、日本の芸能(舞いや謡いなど)の担い手は、平安の昔から、ほとんど全て、いわゆる賤民階級つまり被差別階級出身の者たちだったのです。 今、梨園などと言って、何か特権階級のような存在に思われている演劇集団がありますが、そこもやはり少なくとも創成期は、そういう人たちによってつくられたものです。 
 
 私は、その先人たちの業績を偉大だとは思いますが、同時に、現代の彼ら自身や彼らの芸術表現からは、その歴史上の辛酸をひとつでも社会に訴えるものがないのが、残念です。 エスタブリッシュメントになれば、過去を忘れる、ですかね。 まあ、秀吉の例でもおわかりのように。
 
 何百年という年月を経てば(つまり伝統ができれば)、そこは、差別の対象から一転して好奇そして尊敬の対象になるのです。 私は、何も彼らを貶めているのではないのです。 私が言いたいのは、結局、その個人の芸能が素晴らしければ、それだけで、賞賛されていいではないか、ということです。 何も、百年や数世代を経過しなくとも。 

 それとは逆に、私は、たとえば本当の意味で競争の激しい世界では、世襲性は、まず太刀打ちできないと、考える人間です。 学者や作家、音楽家、歌手、ビジネスなどの世界には、あまり2代目・3代目といった人はいませんね。 それに比べ、演劇(古典・現代を問わず)と政治家・医者などには、世襲性が頻繁に見られます。 それは、親の七光り的な要素とその家庭環境、そして、その世界そのものが本当の意味で、真の実力社会になっていない、ということに起因するのだと思います。
 
 いくら、3歳からその芸事を習い始めたとしても、やっぱりその芸の才能のない者はいるのです。 実際は、そういう世界でも、直系だけではなく、養子や弟子を後継にするということで、その芸が保たれています。 もし、ある師匠が、自分の直系だけをと望むなら、その流派は、いずれ廃るでしょう。 

 伝統的な習い事の世界も、世襲性ばっかりですね。 私のよく知る武道の世界でも、形(型)を重んじる武道あるいは流派では、世襲がよく見られます。 アイルランドにいるこの私は、日本の伝統文化をもっともっと大事にしたいと思っていますし、実践もしています。 しかし、その素晴らしい文化を継承発展していくためには、世襲性にこだわっていてはいけないと思います。 
 国際化したビジネス同様、伝統文化の世界でも多様な人材・才能を多様な方法で獲得してかなければならない時代だと思います。

 何か、差別の問題からちょっと世襲性のことばかりで、話がずれた感じがありますが、要は、組織やその歴史におんぶに抱っこではなく、一人一人が、それぞれに十分に力を発揮できるよう、そして、それを見る周りの人間が、それを正しく評価できるようになる社会が必要ではないでしょうか。

 最後に、私の趣味のひとつに日本庭園づくりがありますが、この庭づくりの世界にも、善阿弥(ぜんあみ)など偉大な被差別の存在が多くいたことを書き、今日のところを締めくくります。