戦争、、から、日本人の思考と日本語について

 
 こちらで、昨日、またコメントが届き、私が本文で少し言及したので、その前に届いていた例の女性からかと思いましたが、違う人からのものでした。 
 
 似たような書き方、つまり、今回も挨拶などはなく、直接自分の言いたいことをコメントしているだけでしたので。
 
 このコメントに対して書く前に、昨日のEテレの「丸山眞男」の番組に関して言いますと、この番組で述べられていた彼(丸山)の思想は、「民主主義は、永久革命によって、常に向上させていかなければならない。」と、いう感じのものだったと理解しました。
 
 その番組の中に、江田五月氏(丸山のゼミの学生)も出ており、最後の方で、丸山先生は、「自分の意見がいつも正しいと思わないで、人の意見をよく聞き、そして、自分の意見を磨きあげなさい。」のようなことを学生に言っていた、とありました。
 
 これなんかは、私には耳が痛いのですが、その丸山も東大の学生運動の時の彼自身の態度は、それまでの言動からして、かなり矛盾に満ちたもの、少なくとも学生の言うことに耳を傾けないと思われる不明瞭な点があったのでは、と思いますがーーー。
 
 私は、普通の人間が、あるテレビの番組でも見て、何か理解できない事柄があるとすると、それは、その番組を製作した側の落ち度か、あるいは、その取材対象が不可解な行動・言動をした、ということであろうかと推測しています。 この番組では、丸山眞男の学生運動期の言動が、どうもこの私には分かりづらかった。 それは、NHKの作り方が悪いのか、それとも、丸山の態度が理不尽なものだったのかでしょう。(多分、後者でしょう。)
 
 人、皆、完璧ではありません。 私は、彼の本を直接読んだことはありません。 今度、日本に帰った時に、ぜひ本を買って、彼のことをもう少し知りたいと思います。
 
 それで、昨日届いたコメントですけど、私は、社会問題や政治問題を言う時に、ある程度、その人の人となりがわからないのでは、あまり議論したくないですね。 絵空事、かっこいいこと、イイカゲンなこと、嘘八百、そして、他人への誹謗中傷、何でも書けます、匿名ならば。
 
 ただ、コメントに書かれていること自体は、私は、ほぼ同意します。 私より、恐らく先輩の方でしょうが、では、nog~~さんは、誰に戦争責任があるとお考えですか、ご自身の思いを書いてませんね? 私は、昭和天皇に第一義の責任があり、その後、軍部の順だと思っていますし、このブログでも、すでにどこかで、同じことを書いたと思います。
 
 ただ、意思(あるいは意志、昔はこっちの漢字の方を多用したように思いますが)が無い、あるいは、弱いのは、日本人だけでは無く、今は、世界中の大衆も、ほぼあまり変わらないと思っています。(昨日書いた雑誌の件などからも)
 
 また、貴方様のブログを拝見させていただきましたが、1記事しかありませんでしたし、個人情報も全然ないので、どういう意図をもっているのか、よくわからないのですが、その記事には、日本語が英語より劣っているような意味合い、あるいは、日本語を使っているために、その思考に不備があるように書いているように、私には見えましたが、果たして、それは、どうでしょうか?
 
 私も、英語は、まだまだ全然わかっていません。 でも、日本人の私から見て、英語の文法やあるいは英語話者が日常話す内容で、理不尽なところはいっぱいあります。 有名なところでは、冠詞のaの付け方など、昨今は単に個体として数えられない抽象的な事象が多くあるのに、このaとかを使う使わない、あるいは単数するか複数にするかなど、非常に混乱している(私から見てですよ)ように思います。
 
 言語は文化、文化は言語と言えるほど、表裏一体です。 日本語は、日本人の生活や日本の気候・風土に適した発展をしてきたはずです。 日本語を捨てることは、その文化、ひいては、自分が育った環境、もっと言えば、人生そのものを無にすることのように、私には思えます。 そういう点で、方言も大切にしていきたいし。 言語や文化の優劣は無く、それは、その環境・歴史の結果であり、そのことは、今は、西洋人の学者を含め、多くの学者の主流たる意見だと思います。
 
 日本の太平洋戦争の敗北の理由は、やはり物量と科学の力の差だったんではないでしょうか。 それには、もちろん、nogさんも言われる無謀な軍部の作戦行動もあるでしょう。 それも、大きく言えば、情報の不足、物資の欠乏が大きく関与している、と私は想像します。 
 
 nogさんは、ひょっとして、ご自身が戦争体験されている方かもしれません。 私は、戦争を体験した人の苦難に勝てる苦難はまずない、と考えている者なので、それであれば、その体験は、非常に尊重したいと思います。
 
 でも、言語の構造の不備と絡めて、日本人論を形成するのは、少し飛躍過ぎだと思います。 昨日も書いた鶴見俊輔の「お守り言葉」の影響のようなものは、確かにあったと思います でも、それは、日本語文法ではなく、為政者の意図的な言葉使いのためです。 あの偉大なドイツ哲学を形成したドイツ語ですが、そのドイツ語でのヒットラーの演説のうまさに、当時のドイツ人は、それに陶酔して追随して、あの戦争にのめり込んだ、とよく言われますよね。 
 
 言語の構造自身ではないと思います。 私には、日本語は理路整然としていますし、美しいとも思っています。 書道の芸術性もあります。 漢字の習得は、難しいですけど、それを習えば、表現の豊かさは、どの言語にも劣っていないと思っています。 
 
 少し前に書いた、その漢字や表現の中に、女性蔑視などの言葉がありますが、それは、言語体系の問題ではなく、「お守り言葉」同様、人々の意志で、変更できるものである、と思っています。
 
 今日は、子供たちが、もうすぐ帰ってくるので、記事を書くつもりは、なかったのですが、内容あるコメントをいただき、またまた興奮して書いてしまいました。 nogさんのコメントを理由に、日頃、私が格闘している英語文法へのボヤキも書いてしまいました。 、どうもありがとうございました