韻は、もうイインでないか!

 おととい、百人一首のことを少し書きました。 中学の時、学校でこのカルタ大会があり、よく覚えたものです。
いまでも、その中だけで、好きな歌は20ぐらいはあるでしょうか。 私は、どちらかと言えば、俳句より短歌(和歌)の方が好きです。
 
 中国の昔の漢詩も好きです。 「国破れて山河在り、城春にして~~~、」などの。 ただ、この場合は、あくまでも日本語式の読みに変換したものですね、例のレ点や1・2点を付けて。 太古の日本のエリートは、当時の中国語読みをできたのかもしませんが、平安後期とか、もうその後は、日本式の読み方をしていたのだと想像しますが、どうなのでしょうか。
 
 それで、ずっと前ですが、高校や大学時代、漢詩や西洋の詩を習ったとき、よく先生から、「この詩の韻(いん)は、こうだ。」とか、「この韻は、素晴らしい。」とか、「ここは、頭韻になっている。」とかなど、よく言われたものです。 そのルールと言おうか、音の関連自体は、言われればわかりましたが、それが耳に心地よいとか、素晴らしいとかは、どうしても私には思えませんでした。
 
 で、最近、どこで見たか忘れましたが(ウィキペディアだったかな?)、国語学者だったと思いますが、日本語の詩などには、もともと韻をふむということがない、だから、我々が、韻を理解できないのは当たり前だ。 そのかわり、和歌などに5・7調などの形式ができたのだ、というような感じの説明がありました。 (御免なさい。はっきりとした記述を覚えてません。) それとあわせて、日本語のアクセントは、例の高低の音楽のようなので、そのため朗読作法も発達したのではないか、と私などは想像しますがーーー。
 
 それで、要するに、我々日本人には、韻は理解できない、出来なくて当たり前だということのようでした。
 
 学生時代から、もやもやしていたものの一つが解決したようでした。 高校時代の漢文の教師は、偉そうに韻、インと言ってましたが、アンタは、本当にそれを素晴らしいと感じていたのか、と今更ながら尋ねたくなります。
 
 大学時代も、ドイツ語で、ハイネやゲーテの詩集を覚えようとしたこともあり、実際、いくつかそうしましたが、特に美しい響きであるようには、どうも感じませんでした。 これも、その文化に心酔しているかどうかで決まる、私の言う『思い込み』の一例かもしれませんね。  
 
 まあ、日本語でも、例の邪馬台国の卑弥呼の時代や奈良時代以前は、母音が8つあったなどと言われていますし、韻をふむなどということもあったかもしれませんね。 ただし、書き残されたものが全然ないので、永遠のなぞ、かもしれませんがーーー。