残念な加藤周一のカトリック入信

 野田総理も遅ればせながら、自身の言葉を守った感じですので、私も、もう少し書いて、しばらく休憩に入ろうと思います。 どうせ、年末は日本に久しぶりに帰り、長年会っていない友人たちと楽しい時間を持てると考えれば、ブログをする必要もないですし。
 
 それで、私の思想・信条の関係で、少し前から、もう一つしっくりいかないものがありました。 皆さんは、数年前に亡くなられた加藤周一という人をご存知かと思います。 「知の巨人」などと形容されるくらい博学で、医師であり、英語、フランス語など3・4の西洋語に長け、中国の漢詩にも精通している人。 そして、その評論は、文学や美術、その他文化全般に及んでいました。
 
 私などは、彼の本を読んで、その爪の垢でも得て、ちょっと賢くなりたいという思いで何冊か読みましたが、美術史や文学史でも、私が何とか日本人の絵師や画家、作家の名前を知っていても、その人達の説明に、こんどは全然知らない西洋の画家、作家などの名前を挙げ、比較検討していくので、こっちは、まあ、チンプンカンプンになってしまいます。 
 
 彼のそういう評論などの文学作品は、いったい誰を対象にして書かれたものだろうか、などと思ってしまいます。 専門書にしては、そこまで堅い形式ぶったものでもなく、専門用語もそれほど多くない。 一般向けにしては、庶民には、かなりわかりにくい文体であるように、私など思いますが、正直言って(僭越ながら)。 逆に言うと、だから、彼の文章は、よく大学入試の問題になっていましたね、そう言えば。
 
 スイマセン、偉大な評論家にケチをつけるようでーーー。 ただ、私なんかは、これも、もうなくなった有名な作家か評論家の人(名前、忘れました)だったと思いますが、その人の言葉で、「文章というものは、誰にでも解りやすく書かなければいけない。 変な技巧や難しい言葉を使った、難解な文章は、決して、りっぱな文章ではない。 良い文章とは、誰もが、理解できる文章である。」などと言ってたことが、いつも頭をよぎるものですから。
 
 でも、加藤周一は、その博学と見識の高さから、私としては尊敬もし、何か、美術や文学の話題があると、彼はどう言っていたかなどを、参考にすることがよくありました。 
 
 しかし、今日、加藤周一のことを書きはじめたのは、そっちの方でなく、彼が、90歳近くで亡くなる半年程前に、彼が、カトリック教徒になったということに関してです。 それまで、非常に科学的で、論理的な学説・評論を書いていた加藤周一が、かなりの高齢になり、体も非常に弱っていただろうけれども、その人が、カトリックの信者になったということを聞いた時、私には、納得のいかないものがありました。
 
 ご存知のことですが、キリスト教など一神教の聖典(聖書)の多くは、神が、この地上のものを創造したことから、その他の事象、そして、いろんな儀式のやり方まで、細かく書いています。 それらは、その当時の気候やその当時の人々の恐怖心などから照らしてみて合理性があったかもしれません。 しかし、今の科学から見れば、ほとんどが、荒唐無稽なものになると、私は思います。 また、他の宗派の信者から見れば、納得のいくものにはならない。 それなら、日本の古事記や日本書紀の記述を信じるのと同じ事だと思います。
 
 いや、そういうことを、世の中の一般人が、信じるのは、もちろん、大いに結構なのです。 ただ、アンナけのことを言ってきた書いてきた加藤周一が、そんな宗教を信じるべきではなかったと、私は、言いたいのです。
 
 人間、死が近づくと、こういうことになるのかな~と、残念ながら思ってしまいます。 ただ、このような私の考えに似た意見の人はいないかと、ネットでちょっと見ていたら、雁屋哲という人が、似たようなことを書いてました。 
もっとも、向こうが、先に記事にはしていましたが、私も、加藤の死以来、この件については、ずっと腑に落ちないものを感じていました。
 
 この雁屋哲という人は、私は、全然しりませんでしたが、人気のある「美味しんぼ」という漫画の作者だそうですね。 私は、漫画は、ほとんど読まないし、グルメも興味ないので、この人のことは、知りませんでした。
 
 ただ、この人の経歴を知り、本人のブログなどを見てみますと、少し私と似た意見があるようで、興味を持ちました。 天皇制反対など。 まあ、有名人としては、珍しくはっきりものを言う人みたいですね。 こんど、日本へ帰った時に、また、見る本が増えました。