私の思考の整合性(もちろん、主観的な)

 毎回、自分の記事を書き終えた瞬間は、ある種の充実感みたいなものを感じますが、数時間経つと、ああ書けばよかったとか、修正しようかな、などと考えてしまいます。 でも、そうなると、結局書けなくなってしまうので、「ええい!もうええわ!」という感じで、そのままにしております。
 
 人の思想・考え方なんて、所詮、矛盾だらけだ、と私は思っています。 我々は、自分自身でもある程度、そう思っていますが、他人から見ると、さらにそういうことでしょう。 矛盾したものから、さらに矛盾したものを見るのですから。 (ただし、人を理由なく傷つけるような言動は、矛盾などですまされない、と思ってますがーーー。)
 
 ただ、物理的な整理整頓が好きな私としては、年末に会う友人たちへの釈明という意味も含めて、ここで、自分の考えを列挙、整理してみます。
 
1.ちょっと前、日の丸を掲げた写真を掲載しましたが、異国にいる日本人として、日本人であるというアイデンティの拠り所として、日の丸を掲げることを否定しない。 君が代も、たぶん歌うことなどありませんが、現実にあるものとして、容認は、しています。
 
  とくに日の丸は、私の考えでは、日本文化の一部であると思っていますし、外国人に対峙し、自分というものは、誰かと聞かれたき、国旗というものの概念なしでは、私は、私の日本人としての存在を説明しにくい。
 
 仮に、完全に国旗を否定するなら、オリンピックやワールドカップサッカーで、見たり聞いたりする、日の丸や君が代の存在をどう考えるのか。 厳格に、国旗・国歌を否定するという人であれば、私は、オリンピックなども見れない、選手も応援できない、と考えますが、どうでしょうか。 私には、そこまでの覚悟はありません。
 
2.天皇制も、以前にも書いたように、仮に国民投票でもあり、その存続の是非を問うことがあれば、間違いなく廃止の方に1票をいれます。
 
 でも、なくなってほしいという考えと、現行の制度を存在しないかのように取り扱うのとは、別だと考えています。 今の私のように外国人と結婚し、外国に住んでいる者は、その外国の国籍を取得することが、簡単にできます。 でも、日本の法律では、二重国籍は違法なので、その場合、日本の国籍を離脱しなければなりません。 
 離脱でき、アイルランド人になれるのに、そうしない。 やはり、日本人でいたい。 それならば、現行の日本国憲法を尊重し、日本人として法律を守る立場で、まず、生きていかなければならないと考えます。
 
 そして、日本に今ある制度の問題などは、民主的に解決を進める方法で、取り組むなり応援なり、していけばいいのではないか。 というのが、こうやって異国に住む日本人としての今の私の考えです・
 
 そもそも、外国生活によって、日本人であることに目覚め、日本の良さを再認識させられることは、多々ある。
あの大犯罪を犯し、大見得を切って、北朝鮮に行った、よど号乗っ取りの連合赤軍の同士たちでさえ、のちに望郷の念にかられたという話を聞きます。 この、たった一人の私が、自分の存在を確認するのに、日本文化にスガルのも致し方のないことだと、我ながら思います。 
 
 そして、多くの日本にいる日本文化(広い意味の日本文化)批判の人たちは、日本にいるから、その本質さを感じていないということが、多々あると思います。 宇宙に出て、初めて地球の存在がはっきりするように、日本にだけいれば、日本の本当の良さや悪さが見えないのでは、と思います。
 
 人間、そんなに強くない。 そして、人生も経過するごとに、考え方も変わってくる。 若い時には、左翼思想の活動家であっても、後年には、自民党の重鎮になったというような人は、結構いる。 
 
 まあ、私の場合は、無知ながらも、進歩的な考え方、自由主義的な考えをずっと持ち続けられたらなあ~~とは、思ってますが、これから、さらに年が行く過程で、しかも、異国にいて、どうなりますやら。
 
3.ブラック・サバスは、存在するし、今も多くの人が苦しんでいることは、間違いのないことであり、この点だけでも、それを無いかのように宣伝する共産党の意見には、まったく憤りを感じる。
 
4.私たち人間も、全くの生物であり、死ねばそれだけ。 天国や地獄もない。 だから、冥福を祈るなどという言葉も、意味が無い。 葬式も墓も意味が無いと思っています。 家族や友人が死んだら、その死を悼めばいいだけ。 
 
 死後の世界などありゃしない、と思っている私なので、このある意味では、面白い世の中・世界の情勢(歴史)の変化を見れないのは残念に思う。 過去約500年は、西洋の時代だった。 今また、中国が台頭してきたり、アラブ世界も混沌としている。 歴史好きの私としては、これを知覚できないのが、今思う、死への一番の恐怖と言おうか、残念なことです。 
 
 そんなことを思うと、あの東北の大震災が起こったことを知らない、井上ひさしや加藤周一が生きていれば、どんなことを言ったかなあ、などと本当に残念です。
 
5.そんな感じで、なるべく科学的に生きたいので、そういうものの根拠のない、マヤカシの人を惑わすような言論や遊びも否定したい。 もちろん、「お前、死後の世界がないというけれど、見てきたんかい?」とカランデくる人もあるとは、思いますが、そこは、現在の科学で類推できる範囲で、私の思考を形成しているのです。 先に書いたように、誰の意見でも、万人から、矛盾あるいは欠陥のないように思われることはないでしょう。
 
 こちらでも、エホバの証人などは、積極的な普及活動をやっており、時々、彼等と議論します。 日頃、周りのカトリックのアイルランド人とは、こんな宗教の根本的な話はできないので(カトリック教徒には、論理というより、これまた文化的に染み付いたものなので、議論の入る余地がない)、結構いいストレス発散になります。 たとえば、エホバの証人は、輸血は、聖書で禁じられているからしない、と言います。 たとえ、自分の子が、輸血が必要で、そうでなければ、深刻な事態になるとしても。 
 
 でも、私が、骨髄移植は、どうなのか、などと聞くと、それはいい、と言う。 聖書に書かれてないから、と。 バカげてますよね。 血液は、骨髄から多くの場合、生成される。 その根本のものは良くて、生成物はダメみたいな。 また、彼等は、いわゆる進化論は、否定しますが、その他の現在の科学は、ほとんど肯定していて、その恩恵を享受している。
 
 変ですよね。 今回の山中教授のIPS細胞だって、進化論の賜物です。 進化論は、りっぱな科学です。 それを単にイエス・キリスト(この人の存在自身も、どんな人であったかも議論の余地はありますが)が死んでから、何百年も経って、時の組織の偉いさんたちが書き留めた本(聖書)の1字1句を忠実に守ろうとしているだけですから。
 
 まあ、今日は、こんな感じです。 浅はかな考えですが、自分自身にしか成りようがないし、何か、大きな科学的発見があって、私の稚拙な考えを変えてくれない限り、当分こんな思考回路をぐるぐるしているだけでしょう。 ではまた。 (今日も、このあと、この記事について、後悔しそうです。)