部落差別と天皇制(再び)

 橋下徹を部落差別を解消する期待の星としての可能性を前回書きましたが、しかし、私が、今のところ知っている範囲で、彼の考え方の中には、私のそれと大きく異るものがあります。
 
 それは、天皇制に関することです。 普通、まあ全員とは言いませんが、部落問題の解消を願う学者・研究者の多くは、それに付随して、天皇制にも言及し、多くの場合、否定的な意見を持っています。 私もそうです。 今現代の被差別部落差別の最も大きな障壁は、物理的というよりも精神的なものであると思います。 そして、その精神的なものは、どこから来るのか、と言えば、いままで私が、何回と書いてきた科学性のない誤解や偏見に基づくものです。
 
 大昔は、牛・馬などの屠畜やその肉を食することなどの具体的な物証が、仏教やそれ以前のケガレ・キヨメ思想などの影響で、、一般の人々をして、そういう物を扱う人達を隔離、隔絶させて来た。 今では、と畜場(食肉センターという場合が多いと思いますが)は、必ずしも部落内にあるわけではないし、一般の人も多く働いている。 私の以前の仕事であった獣医師という職種も、何人かが常にと畜場で働いている。 
 
 肉食については、言わずもがな、今や日本人の食卓の中心的存在である。 少し前、レバ刺とかの生肉をたべることの問題がありましたが、私が、日本にいた20年程までには、多くの一般人が、外食で生の肉を食べることは、あまりなく、今回のニュースを見聞きした時、私は驚きました。 獣医師として、そういうことの危険さを知っていたので、そのようなメニューが、人気があることを知りませんでした。 もちろん、どこそこの小さな焼肉屋で、特別そういうのを出しているというのは、20年前でもありましたがーーー。
 
 ちょっとそれましたが、それほど、肉食というのは、今や日本人の食生活に浸透しています。 いま、部落の人間を差別してきた、この肉食という行為そしてその概念を、いまだに差別があるんだったら、部落の人間だけのものに、また戻したらどうか、というSF小説みたいな空想ごとを、私なんか冗談で考えてしまいます。
 
 例えば、『美味しい牛肉は、部落の人だけが食べ、一般の人間は、それを汚らわしいとして食べない。 でも、本当は、おいしいと知っているから、一部の金持ちなどは、裏から仕入れて、こっそり食べる。 で、部落にいる人間は、十分な蛋白質のため、体格もよろしく力も強い。 革製品も部落の人間だけが、身に付けている。 周りからの偏見もあって、家族や同族のキヅナが強く、子沢山、ムラの中だけは、活況を呈している。
 
 それに対し、一般の地域では、ますます草食系男子(文字通り)が増え、人口の減少と、地域の活力の低下が甚だしくなる。 オリンピックなどの選手は、みな部落系。 日本国民は、表面では選手を応援するけれど、メダルをとっても、選手の慰労会などの行事は盛況でない。ーーーーーー。』 
 
 こんな感じのSFを。 もちろん、バカな想像ですが、でも、今もこのような大昔のイメージを引きずり、部落というものと、そこに住む人々を特別視してきたことは事実です。 だから、このような考え、思い込み、概念を、日本人から取り去ってもらいたいのです。 
 
 それを達成するためには、そういう概念の対極にある天皇制について、考えなければならいと私は思います。 しかし、橋下徹の現下の表に出ている考え方を見ると、彼にとって、天皇制は、非常に大事なもののようで、それによって、国家を形成していかなければならないような言動をしています。 今、模索中の日本維新の会の政策には、現行より、より明確に天皇あるいは天皇制を強化していこうという考えがあるようです。
 
 これには、私は、賛同できない。 部落差別の解消は、その精神性抜きでは、考えられない。 精神性を言う時、天皇制を頂点にしたこの日本の階層意識、世襲意識、特権階級意識は、どうしてもネックになる。
 
 もちろん、以前にも書きましたが、文化文明の多くのものは、権力者によって形作られたもの、日本では、天皇や貴族が、多くの文化的創造物を生み出してきた。 しかし、21世紀(西洋の暦に盲従しているわけではなく、単に分かりやすいので使いますが)も12年を経過し、これだけのIT文化とか、あるいはNHKの言うソーシャルメディアという文化も発達しているので、もうそういう、かつての文化の担い手としての天皇制は、必要ないでしょう。
 
 橋下徹が出てきたことで、部落差別が、白日のもとにさらされるのは、良いことだと思いますが、これから、彼のしようとしていることが、本当にいままで苦しんで来た人達の救いになるのか、私は、注視していきたい。