今回の日本滞在中にしたこと。 まずは、官兵衛ゆかりの地めぐり。
さあ、これから日本滞在でしたこと、見たことを書きたいと思いますが、その前に、前回のSAPIOの記事に関して、最後に言いたかったことが抜けてしまっていたので、ここで言います。
特に、「日本人のルーツ最終結論」のところですが、結局、これらの記事では、最終結論どころか、ほとんど従来の説や理論のオサライだけを記していたのであり、かすかに斎藤という研究者の今やっているDNA分析のことを紹介していたのが唯一目新しいようなものであって、とても最終とか結論とか言える代物ではなかったということです。
まあ、こういう見出しの大げさな表現は、今頃どこでもそうなんですが、とくにSNSの時代になってメディア間の競争が激しく、何事でも一時的にただ人を寄せ付けたりすればいいという風潮が、より強くなっているせいなんでしょうし、風潮だけでなく、それが実績であるかのように扱われていますね。
まあ、私自身のブログのタイトルなども、少し下駄を履かせたり、大げさに表現しているでしょうから、偉そうなことは言えませんがーーー。
さて、今回の2週間の自分の行動を振り返ります。 10月27日の朝、関空に着き、昼頃には、新装なった姫路駅前を外国人旅行者のようにウロウロしていました。 でも、駅周辺の新しい建物群については、思ったより感慨はなかったのは、たぶん、ネットの記事や写真で、その風景を事前にいっぱい見ていたせいでしょう。 でも、さすがに姫路城は、素晴らしかった。 その日は、時差ボケもあり、その後は、すぐ実家に行き、ゆっくりしていました。
翌日28日から、行動開始。 まずは、大河軍師官兵衛のゆかりの地の確認から。 と言っても、自転車で簡単に訪れることできる近場ばかりですが。 かつての御着城のあたりは、私の地元と言える所で、何十年も前から史跡なども何回も訪れてますが、一応、このブログを見られる全国の方には、初めての方も多いでしょうから、紹介していきます。
下写真が、現在、姫路市役所の支所となっている御着城跡です。 私などは、ここで戸籍抄本などいろいろ取り寄せました。
写真下左は、片岡鶴ちゃん演じていた小寺家のお守り(?)で、右は、黒田家の祖廟。 どちらも、上の支所のすぐ周辺にあります。
次に、姫路市妻鹿(めが)地区に移動。 と言っても、ここも実家から自転車で20分もあれば着きます。 下左は、ここでも黒田家の祖廟があり、何でも江戸時代に九州の黒田藩が設置したようです。
右は、母里太兵衛の誕生地ということを示す碑ですが、ここで、清掃をしていたオジサンに、ホントかどうか尋ねたら、「いや、これは違うで! ホンマはここでなく、加古川の方で生まれたんとちがうかあーーー!」と。 ただ、これにはいろいろ見解の違いがあるようで。
そのあと、国府山城とも呼ばれた砦の麓にある石碑のところにくると、ここにも世話をしている方がおられ、この人とは優に1時間以上この砦や黒田官兵衛、はたまたその他の歴史について、語り合いました。 もっとも、この方が、ほとんど喋っていたのですが。
この写真をブログに載せる許可は取ってませんが、本人はいろいろPRをしたそうな人だったので、まず大丈夫でしょう。 私は、この写真をあとで本人に送らなければなりません。 住所も教えてくれました。 それで、この人なんかは、ここで母里太兵衛が生まれたと思っているようです。 地元の人間でも、もちろん、見解は異なります。
見解が異なるという点では、その他の地元の方々に、黒田節の謡曲のモデルが、姫路の出身の者であったと知っていたか、と聞いたら、やっぱり知らなかった人もいました。
下の2枚は、その砦の頂上のもので、左は、そこから現在の姫路城の方角を見た様子。 右は、そこにあった磐座(いわくら)です。 黒田官兵衛たちが、本当にここに陣取ったのかどうかわかりませんが、いたとしたら、この石に戦勝を祈ったのでしょうか?
というわけで、まずは、私のテリトリーとも言えるエリアでの史跡を巡ってきました。 ホントは、もっと別の場所の写真も撮りましたが、あまりクドくないようにしました。 歴史は、想像が大切ですから! 今日はこのへんにしておきます。