男女(女男)同権は、日本社会の究極の課題か?

 ブログをじっくり書けるのも、今日明日の2日になりました。 明日は、テーマをすでに決めてますので、今日は、このたびのブログ記事を締めくくる意味でも、ちょっと大きな問題について書いてみます。
 
 数日前に、兵庫県議会や東京都議会のことで、ヨーロッパにも人権問題は、いろいろあるみたいな記事を書きました。 そのことは、私は、間違っていないと思っています。 ただ、確かに、性差別だけに限れば、欧米よりは、日本は、改善すべき点が多々あるように思えます。 
 
 そこで、私が今思っていることを、いろいろ網羅的(簡単に言えば、ゴチャまぜ)に、このことについて、書いてみます。 これまで、私のブログでは、この問題について、あまり深く書いてこなかったのですが、多少関係する記事を拾ってみました。
 
   奥さんという言葉    http://blogs.yahoo.co.jp/ueno828/32178480.html
   主夫のこと        http://blogs.yahoo.co.jp/ueno828/32064838.html
 
こんな程度です。 ただ、今、私は、この日本において、性差別あるいは女性蔑視とか言われる問題は、単なる人権問題を超えた最も深刻な社会問題の一つである、と考えるようになってきました。 その規模といい、その文化的な深さという観点からです。
 
 さて、いろんなことから入って行こうと思いますが、まず、第一に押さえておかなければならないのは、男女の間には、生物学的な差異が、明確にあるという点です。 どこかで聞いたのですが、女の筋力は、男のそれの60%である、と。 もちろん、平均ですよ。 以下の話も、平均的な日本人ということを忘れないでください。 
 
 で、そういうことは、自ずから、労働の質も違ってくるということですね。 一方、女性は、より長寿であり、一般に持久性に富むと言われています。 また、性衝動においても、男性の視覚に訴え、比較的短時間のものと、女性のより情緒的なものとは、明らかに生理的な差があり、後で書くような問題の要因にもなっていることは否定できないでしょう。 
 
 また、太古から、男は狩猟生活で外界に、女は集落に留まり、子供や家を守るという生活様式は、多くの地域でみられ、その影響か、女性には、井戸端会議などに見られる社交性に富んだ、コミュニケーション好きの、そして、集落全体の子供も面倒をみるというような性質が形成された、一方、男性は、食料の確保という生の根幹に関わる技量(狩りの技術など)に専念し、それ以外の仕事は、ほとんどしなくなったというのは、近代まで、ほとんどの民族であったことだと思います。
 
 さて、でも、近代になって、個々の人間の尊厳が叫ばれるようになり、女性だから、男性だから、こうだああだ、と個人の女性あるいは男性を、上記のような枠にはめることができない時代になってきたというのは、ご存知のとおりです。
 
 しかし、その個々の尊厳とかは、結局、ここの人間の生活の快適さに起因するのでしょうから、今の世界、様々な文化の民族の寄り集まりなので、どの文化が一番良いということはないはずですから、どの生活様式が一番いいということもないはずで、結局、その集団に属している個々の人間が、この環境が一番いいと言うのであれば、その環境にいることが最大の尊厳ということになる、と思います。
 
 さあ、ここから、雑多にいろいろ例を挙げますが、ホントに雑多ですので、ご容赦ください。
 
 まず、日本語には、明らかな性差別的表現(ほとんどが女性蔑視)が、多々あります。 言い回しもありますし、漢字の成り立ち自体の問題もあります。 列記しますと、まず、「女らしい」とか「男らしい」、「男は外、女は内」、「内助の功」などが出てきますし、以前にも書いた、「奥さん、奥様、家内、主人、旦那」などの言葉、それに、嬉(うれ)しいとか、女々(めめ)しい、嫁、娘、老婆心、姦淫、女医といった言い回しや漢字の表記などなどーーー。 
 
 他にもっと数え切れないほどありますが、ちょっと違った観点からでは、日本の皆さんには、日常会話で、兄や姉、妹や弟という言葉が絶対に欠かせない単語になっていると思いますが、英語では、それらの単語は、まず要りません。
 
 brother や sister という単語は、厳密には日本語に置き換えることができません。 同じ親から生まれた、男(女)の子供であるということだけです。 同胞(はらから)みたいな。 彼らの普通の会話では、そのbrotherが、年上か年下か、などは聞きませんし、頭にありません。 聞くのは、私だけです。 私は、それが、兄か弟であるかを確認し、そのストーリーの中で、その人の人格にある種のバイアス(偏見)付けているのでしょう、日本人的な視点で。
 
 つまり、彼らの中では、兄であろうが姉でああろうが、長男であろうが、末っ子であろうが、それが、その人の人格や性質を形成する要因だったり、社会的な立場を示す一端であるような思考は全くありません。 これは、英語を話す上で、私には、大いに文化の差を感じるところです。 たぶん、日本人が、血液型の性格判断などをしたがるのも、同じような偏見のためでしょうか?
 
 もちろん、英語にも、男性語・女性語のような言葉がありましたが、今は、だいぶ修正されています。 イギリスでは、まだ、ポストマンやポリースマンは、使われることもありますが、言葉の差別により敏感なアメリカでは、これらは、メイル・キャリアー(mail carrier)や ポリース・オフィサー(police officer)と呼ばれているはずです。 チェアマンとかスポークスマンとかいう言葉も、もうないですね。
 
 もちろん、以前書いたように、英語のワイフ(wife)という言葉も、語源的には、womanからきているという説もあり、そのwoman自体は、どうみても、男(man)という言葉からの派生物、つまり子宮(womb)を持った男みたいなという説もあります。
 
 しかし、英語での表現では、このような男女の差を極めて小さくしている努力が見られます。 よく言われますが、日本語の小説では、男が喋ってるのか、女が話しているのかは、それを具体的に書かなくてもよくわかりますね。 例えば、「私、その意見に賛成ですわ。」と書いてれば、当然、女の人の言葉です。 最近は、この文末の「〜わ」という言い方、減ってきましたが、僕とか、俺、私などの一人称の使い方も含め、まだまだ日本語は、男女の差が大きいです。
 
 まあ、上に書いてきたようなことは、もう何十年も前から、私と同じ苗字の上野千鶴子さんなどが、言ってきたことですし、何を今更ということもあるかもしれません。
 
 別の観点で、この前の東京都議会議員のような場合、そのような議員は、地元の冠婚葬祭に呼ばれた時、周りの女性に、「まだ結婚してないの?」とか、「できたらがんばって、もう一人産んでください。」みたいなことは、日常的に言っていたと思うし、言われる方も、特に、気にするような言動ではなかったでしょう、これまでは。
 
 以前、スポーツの暴力のところでも書きましたが、今までは国民全体が、そういう雰囲気の中に生きていた、大げさに言えば、そういう日本文化であったということでしょう。 でも、今回の事件を契機に、2014年の今からは、我々も変わっていかなけばならないのでしょう。
 
 しかし、上に書いたように、日本では、言葉を始めとして、この文化に深く根ざした性差別的な風土が強くあるので、これを原理原則的に、あるいは、欧米の価値観で修正していくのは、そうとうな覚悟がいるように、私には思えます。
 
 そこには、男には、男は、りっぱに外で働かなければならないという、社会のプレッシャーが強くあるし(そのため、ヒキコモリという現象が起こったり)、日本の女性には、西欧女性より遥かに家にいて家事をしたい人の割合が多い、などということもあります。 まあ、それは、社会の受け入れ態勢が悪いせいだ、ということが先にあるのかもしれませんが、少なくとも文化的な価値観の差もあるような気がします。
 
 本当に究極の男女(女男)同権の世界は、どうなんでしょか? そういう世界では、ファッションやメイクにうつつをぬかしている女性は、非難されるでしょうし、セックスの氾濫は、かりにあったとしても、男女同じような露出にすべき、という論調になるでしょう。
 
 西欧の社会全体、そしてメディアでも、日本に比べ圧倒的に、肌の露出の機会や度合いは、大きいですよね。 女性のニュースキャスターの胸の谷間の露出は、日本のは0ですが、ここアイルランドでは、より深くなるし、イタリアのは、もっと深い。 これに関して、私は、今の西洋諸国は、セクスィズム(sexism)とセクシャリティ(sexuality)の間で、かなり自己矛盾に陥っていると感じています。 
 
 一方で、女性の権利の拡張を訴えながら、一方では、男に色っぽさを売る、そういう商業主義に乗せられている、と思えるからなんですが、こういうことは、究極論になってしまいがちですね。 ただ、ごく最近の私は、現実に生きていることに重きをおきたいので、あまりこういう観念論的なことは、意味がないとも思っています。
 
 で、元に戻りますが、日本には日本の男女同権の手法があるのではないか、ということです。
 
 大相撲の土俵に、女性はあがれない、とか、ちょっと前の漫才でよくあった、自分の妻の悪口を言うというお決まりの話など、こういうことも含め、どうしていくか?などなど、これは、人口の半数以上を占める女性なら、今の時代、それを変えるか変えないかの判断を下すのも、そんなに難しいことではないと思います。
 
 アイルランドなどは、国際機関の調査で、男女同権がかなり進んだ国としてランク付けされていますが、男性より安い給料の問題や、もっと根本的なことでは、生活の何事にもカトリック教義が関わるこの国で、そのカトリックの神父に、女性はなれないという、皆が大いに注目している差別事項もあります。 また、イスラムの国々の女性の中には、自分の国の制度を容認する人も少なくありません。
 
 
 国によっていろいろです。 恐らく、西欧主体の国際機関では、西欧文化から見た男女同権の意識に基づき、行動しているのでしょう。 まあ、それは、大きくは、間違っていないとは思いますが、そこには、やはり、文化間の差異は、あっていいはず。 生物の多様性と同じく。 
 
 ほんとに、ダラダラと書きました。 それこそ動物としての生理的な面も含めての壮大ばテーマですので、私ごときの稚拙な意見では、何の示唆も見いだせませんが、繰り返しになりますが、この問題に関しては、日本の女性が、選挙などで具体的に自己主張していかなければいけないもの、と考えます。
 
 多数派なんですから、それが出来ると思います。 したければ。