244段目、何を書こ?

 また、新しい一週間の始まり、月曜日の朝です。 世界中で、ワールド・カップ前の興奮と期待と心配さが入り混じった、やや静かな数日が続くのだと思います。 
 
 熱狂的なファンにとっては、日本の勝ちに向けて、居ても立ってもというところだと思いますが、そこそこのファンである私は、まず、いい試合をしてくれることを願っています。
 
 ところで、この私のとりとめないブログ記事も、今日ので、244回目となりました。 これは、あの偉大で有名な徒然草の随筆集と同じ数です。 徒然草は、あの有名すぎる「つれづれなるままに、〜〜〜。」の部分は、序段ということで、そのあと243段の随筆が続きます。 だから、全体では、244段ということになるそうです。
 
 この偉大な随筆集を、私は、いつも枕元に置いており、週に何回か寝る直前の数分間、この本を眺めています。 いいですね、好きです。 また、日本人のブログの世界では、もっともよく引用される古典ではないかとも思っています。 とくに、中高年のブログで(私も、これまで、このつれづれという言葉を何回か用いました)。 
 
 それは、やはり人生の無常だとか、生き方だとかに非常に示唆的な言葉が、この随筆には散らばっているからだ、と思います。 その他に、武道や達人の所業だとか、身分や地位にこだわらない本当の偉大な人間とは、などということも、ところどころで述べていて、人生を半分以上終えた我々には、身にしみることが多いのだと思います。 
 
 第一段で、天皇や地位の高い貴族を褒めたたえていますが、それは、どちらかと言えば、形式的に書いたまでのことのように、私には思えます。 上に書いたように、その後の段で、人間の本当の偉大さとは何かということを、何回にも分けて書いているからです。
 
 それで、最後の243段の内容は、作者・吉田兼好自身が幼い時に、父に尋ねた仏性(ぶっしょう)のことでした。 仏(ホトケ)の存在は、如何に?とかいう感じの。 さずがに、兼好法師も、一番最後の段は、最高に哲学的なものを出してきたという感じです。 ちょっと、自慢話でもありますが。
 
 彼は、この最後を書き終えた時、50歳手前だったと言われています。 あの時代なら、かなり枯れており、思慮分別も最高の時だったんでしょうね。
 
 さて、この徒然草、古典の文章の勉強にも、最適のようです。 私は、高校時代の古典の文法の解説書みたいなものを今でもそばに置いているのですが、動詞や助動詞の活用の例文として、恐らく、この徒然草にある文章が、いちばんよく使われていると思います。
 
 今、私は、前述のとおり、寝る前に、適当に出てきた段のところ(原文)をウロっと読んでいるだけで、半分わかったようなわからないようなものなのですが、それがまたトロンとして気持ちよくて、いつも速やかな睡眠に移行できています。(いい睡眠薬です) 
 
 あと、古典文の文法で、いちばんよく出そうな問題は、係り結びの法則についてのものだと思いますが、高校生の頃は、なんかピンとこなかったし、ただ、そのことを暗記させられていましたね。 今も、もちろん、その感覚は、100%わかっていないのですが、それは、「こそ」という助詞などを使えば、文が非常に強調されて、文の最後の言葉づかいが変わるというものですね。
 
 例えば、
「本番で力をだしてコソ、本当のエースというものです。」 という代わりに、
「本番で力をだしてコソ、本当のエースというもんヤデー!」 というような感じのモノ
なのかなーと思っています。 共通語では、表現しにくい(と言おうか、ないから、この法則を勉強するのでしょうが)ので、関西弁を例に出してみました。 この「ヤデー!」のビックリマークも含めた感じの表現なのでしょうね、多分。
 
 係り結びが、現代語の中で使われている例で、よく言われるのは、あの卒業式に歌われる「仰げば尊し」の中の、「♫ いまコソ、別れメ!♪゜・*:.。. .。.:*・♪」ですね。  コソが付けば、最後の助動詞は、メとかレとかのようなエの音を持った活用形(已然形)で終わるというものです。 良くご存知の方も、いっぱいいらっしゃると思いますが。
 
 こういう係り結びのことなどを完全に咀嚼していなくても、この700年前の偉大な古典に時々付き合い、「ああ、日本人であってコソ、良かったネー!」(本当は、関西弁のナーなんですけど、係り結び的にエの音で終わろうと無理しました。)と、思うことがある、今日この頃の私です。