伊都国→ヤマト(邪馬台)国→ヤマト王権か?(歴史秘話ヒストリアより)

 昨夜、こちらでもこのNHKの番組がありました。 つまり、日本より約8時間遅れで。 卑弥呼関係のタイトルを見てから、録画し何回か見直しました。
 
 ただ、NHKスペシャルとはちがい、この歴史秘話ヒストリアは、事実関係や証拠となるものの例示は少なく、そのかわり想像をよりたくましくしたり、ドラマ化したりして、間延びした印象をいつも持っていたので、今回のもあまり期待はしていませんでした。
 
 案の定、2011年頃までの纒向遺跡の発掘調査で分かってきた科学的資料のそれ以降のものとして、今回の番組で紹介された考古学的な新しい発見は、番組の最後の最後で、同じ纒向遺跡の王の居館ともいえる建物群に、新たに同じ東西軸線上に建てられたと思われる建物の跡が見つかった(JR桜井線の線路を越えて、今年1月)、というものだけでした。 (今度、日本に帰ったら、また、現場に行きたい!)
 
 にもかかわらず、昨日の番組の趣旨は、魏志倭人伝に出てくる今の福岡市の西のあった伊都国(いとこく)に女王がいて、この女王は、ヤマト(邪馬台)国の卑弥呼の母か姉(姉妹と言っていましたが、この場合、まず姉とした方が妥当でしょう)ではないか、というものでした。
 
 そして、この伊都国が、東進してヤマト国で卑弥呼を共立し、その初期ヤマト王権は、伊勢神宮などを崇拝する後の天皇のヤマト政権へと繋がっている、という内容で、これが、かなり有力な説でもあるかのような言い方でした。
 
 
 特に目新しい発見がないのに、なぜ今、伊都国なのか?という点が、私には、少し解せないところです。 確かに、伊都国は、大きな国として魏志倭人伝にも出てきますし、以前から伊都国の東遷(とうせん)説を唱える学者(この人が昨日の番組でも中心的に監修していたのでしょう)がいましたが、それなら吉備地方(岡山県)やヤマト地方の豪族から、この卑弥呼が共立(女王として迎えられた)説もそれ以上に主張する学者も多い中で、なぜという気持ちは大いにあります。
 
 ひとつには、昨今の邪馬台国近畿説(ほとんど纒向遺跡に収斂されてきましたが)の実証を伴った説の補強ぶりに、NHkとしても九州説の人たちに溜飲を少しでも下げてもらうために、昨日のような番組を作る必要があったのではないか、と推測します。
 
 でも、発掘などの新しい発見はなかったとしても、これまでの成果の再検証や測定技術の進歩などで、旧来の解釈を変更することはできるので、近年のそうした研究から、昨日のような番組ができた、と好意的に考えることも可能です。 (今は、安倍ちゃんも、いろいろ独自の解釈で、書かれている文字内容を変更しようとしていますね!?)
 
 とにかく、東遷説の柳田さんのは、まだ理解しやすいのですが、もう一人出ていた高島さんの考えは、いつも突拍子すぎてついていけません。 昨日のメインは、この伊都国にあった平原(ひらばる)遺跡でした。 長辺が、10〜15メートルほど長方形の墓です。 この墳墓が、卑弥呼自身のものであったと、この高島さんは、言いたいようでした。 彼によれば、卑弥呼の墓が、邪馬台国にあっとは魏志倭人伝には書いてないという論拠からです。 でも、魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は、昼は人民が夜は神々が労働して作ったと書かれ、直径100メートル以上の壮大な墓であると書かれています。 そのことへの言及は、番組には一言もありません。
 
 もちろん、魏志倭人伝の記述のすべてに合致し、納得させることができる邪馬台国の候補地は、ありません。 だから、いままで、このような大きな論争になってきた理由ですが、大和説にとっては、北部九州から投馬国や邪馬台国への進路が、南ではなく東なら、その他の記述は、この場所への比定に大きな支障はないものと言えます。 九州説では、そうはいきません。 一番の問題は、当時(西暦200〜250年あたり)、それに値する、それだけの規模の王都が見いだせないというものです。
 
 でも、しかし、前述の柳田さんの説(昨日の)によれば、卑弥呼の母である伊都国の女王は、この北部九州で葬られたが、その娘の卑弥呼は、母から鬼道の呪術のパワーを受け継ぎ、その後、何らかの理由で、ヤマト地方で、多くの豪族の推挙の中、西日本全体をエリアとするヤマト(邪馬台)国の女王に君臨したというものです。 
 
 (以下は、柳田さんの説かどうかわかりませんが)番組は、その後、この平原遺跡の墳墓から出た大型の銅鏡が、今の伊勢神宮の御神体である鏡(八たの鏡)と同じ太陽信仰を示す文様を持つものであり、つまり、この伊都国の王が、のちのヤマト王権の大王そして天皇に繋がっていった、ということを暗示していました。
 
 このことは、私にとっては、なかなか面白い説でした。 ずっと以前にも何回も書いてきましたが、私には、日本の歴史の初め、つまり天皇家の成り立ちが、日本史の中で最も興味のあるところですから。 
 
 卑弥呼は、西暦180-190年頃、女王になり、250年頃死んだと言われています。 12、13歳の娘が、巫女としての女王になるというのは、この時代考えられないこともないと考えます。 それでも、70年間君臨すれば、卑弥呼は、80歳以上生きたことになります。 これも、特に異常ではないでしょう。 今も昔も長生きする人はいる。 ただ、今は、長生きする人の割合が多いだけ。 この魏志倭人伝から推測される年齢は、日本書紀などに書かれている初期の頃の天皇が150歳以上生きた、という記述とは、全く信ぴょう性のレベルが違います。
 
 卑弥呼の在位期間が長すぎるので、当時の1年は、今の半年にあたり、この70年は、今の時間で言えば、35年ぐらいだと言っていた学者もいます。(いまでも、そう言っているのかどうか知りませんが) 卑弥呼が、何歳で女王になったかはわかりません。 ですから、上に書いたような学者は、ある程度年長の女性が、女王になったと考え、そのような暦を紹介したのだと思いますが、私は、卑弥呼が、非常に若かったとしても、特に不思議ではないと思っています。
 
 それで、卑弥呼が、10代天皇の崇神天皇(多くの学者が、ここが実際の天皇・大王の最初だろうとしています)の精神的、呪術的バックボーンとなり、後のヤマト王権へと進展していったと考えるとしても、
その後の天皇家は、西暦400年頃の応神天皇や仁徳天皇などの系列、あるいは、西暦500年頃の継体天皇の系列は、別の系列であっという説があります。 (特に、継体王朝は、その名のとおり、間違いなく別の豪族からの出であるという説が強いです。)
 
 とにかく、万世一系とか言うことは、全くないのですが、後の政権が、卑弥呼からの権威を利用したのは、ずっとあとの豪族・貴族や武士が、時の権威にすがったり、または、自身の出自を変える姿と全く同じですね。
 
 まあ、それは置いといて、私としては、今回の伊都国の話が、もっと具体性を帯びるように、今後の発掘などの科学的な証拠の発見に期待したいです。 そして、この伊都国には、代々、王がいたようなのですが、九州北部と言えば、やはり朝鮮半島との関係を考慮しなければならないはずです。 今後、いろんな遺跡からの発掘物などの考証で、そのあたりのより具体的な説明がなされるようになれば、私としては、非常に興味のあるところです。 
 
 それと同時に、その他の地域の発掘成果にも期待していますが、またまた書きますが、宮内庁が課している天皇陵やその他の重要な陵墓の発掘の制限、どうにかなりませんかね! 宮内庁のお兄さん方(私より年下かな)、すぐに箸墓などを大々的に発掘調査できるように、したってくれなはれ! 遠方より、そして、誠に誠に微力ながら、重ねて、お願いしておきます、ポテチン!?
 
 (追記、約3時間後)
 あれから、昼飯のあと、ふと勘違いに気付きました。 記事の中程で、卑弥呼の墓のことを、昼は人民が夜は神々が労働して作ったと、書きましたが、これに似た表現は、日本書紀の中で、ヤマトトトヒモモソヒメ(舌を噛まないように)の墓の造営に関して書かれたものであって、魏志倭人伝に書かれたものではありません。 ただ、そのあとの直径100メートル以上の大きな墓というのは、間違いなく魏志倭人伝の卑弥呼の墓に関する記述です。
 
 この間違いは、崇神天皇の大叔母と言われるこのヤマトトトヒモモソヒメの墓が、纒向遺跡内の箸墓であると言われており、私は、同時に、この箸墓がいまのところ卑弥呼の墓の最有力である、と常々考えているところからくる混同によるものでした。 申し訳ない、 思いつきの文章を書いていると、よくこういうことになります。