「カリフォルニアの青い空」から「ノーランズ」まで、青春のポップ!

 あしたから、いよいよ3月ですね。 こちらにいると、春は、より待ち遠しくなります。 この頃は、日長時間もながくなり、朝日もより力強く感じます。 今日は、朝から快晴だったので、久しぶりのDIYでもと思いましたが、すぐに雲行きが怪しくなり、こうやってブログに向かうことになりました。
 
 この2-3週は、全く本格的なDIYをしていません。 そのかわり、スポーツをより重点的にやっています。 それには、去年も少し書きましたが、子供たちの学校対抗の卓球大会が、また今年もあり、うちの二人とも学校のチームのメンバーとして選ばれたので、今また道場で家族全員で練習しています。 それと、こちらの村で恒例になった8キロのミニマラソンは、今年は4月6日にあり、それに向けても、家族みんな、それぞれ走り込みを増やしているところです。
 
 この4月6日は、息子の誕生日でもあり、彼は、13歳になります。 この秋から中学生です。 中学生になると言えば、私にとっては、外国のポップミュージックの出現は、切っても切り離せない青春の思い出であり、自我形成にも大きく関与したと思っています。
 
 
 私と同世代(その前後も含めて)の関西人には、同じ思いを持つ人も多いと思いますが、1970年代の関西の深夜ラジオでは、朝日放送のヤングリクエスト(通称ヤンリク)と毎日放送のヤングタウン(ヤンタン)が、若者の人気を2分していました。 私の家からは、朝日放送の方が、ハイリ(受信状況)が良かったこともありますが、ヤンタンは、雑談が多く聞き込んでしまうので、勉強に差し障りもあるのかと思い、私は、ヤンリク派でした。
 
 でも、なぜ、この時期に深夜ラジオなのかというと、当時は、誰もが、中学生ぐらいになると、そういうことをしだしたのですが、私の場合は、特に、いままで小学校の時、ゴン太(悪ガキ)だった同級生が、中学生になって、突然、今で言うエアギターの格好をして、外国のヒット曲の歌まねをしている姿を見たときに大きなショックを感じた、ということもあったからです。 えらく、彼らが大人っぽく感じたのです。
 
 それ以来、私も、ヤンリクのトリコになりました。 いままでは、日本の歌謡曲しか知らなかったのが、深夜放送のお兄さんやお姉さんは、こんなに外国の歌を聴いているのか、という驚きの世界でした。 ヤンリクは、その中で、ハガキによるリクエスト曲のベストテンの発表や笑福亭仁鶴のリスナーからのハガキを、もとにした小話コーナー、キダタローのアマチュアバンド紹介コーナーそして深夜の落語のコーナーなど、いっぱいいっぱい楽しいものがあり、結局、勉強なんか全然しませんでした。 この間、私は、半年ほどヤンリク・ベストテンも自分のノートに書き込んでいました。
 
 このころ、ヒットしていたのは、Tーレックスやオズモンズ、ミッシェル・ポルナレフやダニエル・ビダル、ギルバート・オサリバンなどでした。 もっといろんな人がいたでしょうが、今出てくるのは、こんなところです。 いつもベストテンの半分ぐらいは、外国曲でした。 でも、1971年頃、日本で一番人気のでたポピュラーソングは、アルバート・ハモンドの「カリフォルニアの青い空」でした。 余談ですが、この頃、ポピュラーソングとかポップというには、外国曲に対してだけ使われていました、今のようにJ-ポップなどという言い方はなかったし、ニューミュージックというのもまだなかったと思います。
 
 このアルバート・ハモンドの曲は、他にも2・3曲、日本でも大ヒットしました。 この当時、テレビでは、歌番組がいろいろありましたが、ほとんどが日本の歌謡曲がベストテンを占めているのに、深夜放送の世界では、全然違ったベストテンだったのではと思います。 これは、日本全国のどのラジオ深夜放送でも同じようなものだったと思います。 
 
 私は、この頃、こういう深夜放送の外国曲に興味を持った若者と、持たなかった若者、あるいは、深夜放送そのものを聞かなかった若者たちの間には、その後の社会や政治に関する考え方にある種の差ができたのではないか、と勝手に推察しています。
 
 「カリフォルニアの青い空」は、その曲自体の明るい感じと日本名のタイトルの付け方が良かったのだと思います。 当時、私は、雑誌明星を買って、付録にあった音楽の譜面を見るのですが、その英語の歌詞は、何がなんだかよくわかりませんでした。 簡単な単語がほとんどなのですが、それだから余計にどんな深い意味があるのかわからなかったものです。 その後、何十年も経って、ちょっと私の英語がましになってから考えてみても、その書かれた歌詞からだけでは、私には、言外の深い意味は、読み取れませんでした。 ひょっとしたら、そんなものは、ないのかもしれませんがーーー。
 
 この私が深夜放送を聞き出した時分には、外国映画も今の時代より、もっと華やかに日本人からはあこがれを持たれて人気を博していたと思います。 私が、英語を話せるようになりたいと思った第一の理由は、当時絶大な人気のあったアラン・ドロンやロバート・レッドフォードなどの映画を字幕無しで理解したいとか、このポップソングを口ずさみたいという願望があったせいでしょう。 もっともアラン・ドロンの映画は、ほとんどフランス語でしたが、フランス語を勉強したいとは思いませんでしたね。
 
 ということで、外国かぶれのようになった中学生時代を過ごし、そして高校へ入り、オリビア・ニュートンジョンなどが人気を博した時代がきました。 その後、私が、大学生になってすぐ、ノーランズがでてきました。
 
 このノーランズは、若い女性4-5人のグループでした。 アイルランド出身の姉妹ですが、彼女らも御多分に漏れず、イギリスのグループとして、日本では(そして多分世界的にも)紹介されていたと思います。 こういうことは、よくあります。 アイルランド出身の歌手が、イギリスの歌手であるみたいに宣伝されるのは。 まあ、マネジメントが、イギリスにあるからでもでしょうが、かつては、やはりイギリスからというネイムバリューがあったのではないでしょうか? 
 
 上に挙げた、ギルバート・オサリバンもアイルランド出身です、念のため。 でも、アイルランド本国では、これらの世界的に有名になった芸能人は、あまり国内での人気が、かんばしくないことが多いです。 今のエンヤなどもそうです。 妬みでもあるのか、それとも、外国で人気の出たこれらの曲は、一般のアイルランド人の耳には、あまり共感の得にくいものなのか、どうか?
 
 さて、「踊りたいわーーー(I:m in the mood for dancing--ー-)」などと、セクスィーに歌っていたノーランズは、私が興味を持ったポップの中で、ほぼ最後の存在となりました。 実は、2・3週間前、こちらアイルランドのテレビ番組でノーランズの特集をやってました。 近頃、私は、ニュースと天気予報以外は、ほとんどアイルランドのテレビを見ませんが、この番組だけは、昔を懐かしみ楽しく見ました。 そして、彼女たちが、日本では、極端に人気の高かったことも改めて知りました。 彼女たちのレコード売り上げは、世界中で2500万枚だそうですが、そのうち800万枚が日本での販売だったそうです。 彼女たちが、タモリのテレビ番組(恐らく今度なくなる、いいとも、だったと思いますが)に出ているシーンも紹介されていました。
 
 この番組で、彼女たちには、父親の暴力や金銭面での不幸(彼女たちの取り分は、極端に少なかった)があったなども紹介された後、ボーカルだったバーニーの死(2013年、乳癌で)のことに触れていました。 それで、このボーカルの女の子、私より2-3歳若かったんや、と気づきました。 実は、このテレビ番組を見てから、今日の記事をそのうち書こうと思いつきました。
 
 ホントにホントに、人の人生には、いろいろあるものです。 表層だけでは、その人が何をしても、どんなことを書いても、その人の育ってきた経緯などがわからないと、その思想や言いたい事の真相が見えてこないもんだ、と私は、信じています。 まあ、だからこそ、私は、このブログでは、自分のことをできるだけオープンにしてやっているのですが。
 
 まあ、これからの人生のことは、ともあれ、昔懐かしい青春時代を思い起こさせてくれた、このノーランズにも感謝しておきます。 
 
 でも、そのテレビ番組に出ていたノーランズの他の姉妹は、皆、けっこういいオバさんになっていたことを添えておきます。 いらんお世話か、な!、
 
 
 (上記を書いてから約4時間後、若干追加します)
 
 「カリフォルニアの青い空」を全然知らない人のために、この歌の英語原題を和訳しますと、「カリフォルニア南部には、全然、雨は降りまへん。」というような感じのものです。(何も関西弁にする必要はないが)  この原題により忠実なタイトルにしていたら、あの時の日本での大ヒットはなかった、と想像します。 
 
 このシンガーソングライターのアルバート・ハモンドが、イギリス・ロンドン出身で、雨が嫌だったせいで、こんな歌ができたのでしょうか?
 
 イギリスよりも、さらに雨の日の多いこのアイルランド西部に住む私のような日本人のために、鬱陶しい日でも元気の出そうな「アイルランドの青い空」のような歌を、誰か作ってくれないものでしょうかねーーー、ほんとにお願いしたいです!!!