佐村河内氏の事件と日本社会の寛容性

 佐村河内氏の事件が、非常な衝撃を与えています。 私もNHKの番組で、すごい人がいるな、と思った一人でした。 全聾であるかどうかは、今現在は不確定ですし、これから、いろいろ事実が判明してくるでしょう。 また、ある人が、NHKは、何故このことを見破れなかったのか、そのことを検証する番組を作る必要がある、と言ってましたが、私も全く同感です。 
 
 ですが、私自身が、今の時点で、今回の事件について、考えたことを書いてみます。
 
 私のは、多くの人のものと少し違った観点からのものですが、評論家などが、今回の事件は、この作曲家が被爆2世だとか、全聾などという悲劇性があったために、クラッシック音楽としては異例のヒットCDとなり得た、などと論調しているものがありました。
 
 そのことを目にした時、私は、かつての映画「砂の器」を思い出しました。 この記事を書く前に、誰か私と同じ意見があるか、ちょっと調べましたら、砂の器と同じような事件だという記事がありましたが、それだけで、そのあとは、とくに踏み込んだ内容ではなかったので、私の意見を続けて書きます。
 
 私が言いたいのは、この事件が、砂の器の主人公と同じような秘密を隠して、虚構を演じていたということだけではありません。 私が、高校生の時に見た砂の器は、加藤剛の主演のものでした。 私が、いまでも先鋭に覚えているのは、この映画を見たある批評家の意見でした。 それは、「動機が弱い。」というものでした。 
 
 誰の批評か忘れましたが、この加藤剛演じるピアニストには、ハンセン病(当時では、らい病)を患っていた父親がおり、この親子が、周囲から虐げられたため、日本国中を転々と移動しなければならない境遇に余儀なくなれた、という内容でした。 で、この息子の方が、のちに音楽で大成したときに、この親子の過去を知る人間が現れ、音楽家の息子は、その過去がバレるのを恐れて、この人物を殺害したというようなストーリーでした。
 
 このときの批評家は、そんなハンセン病持ちの父がいたという過去だけで、果たして殺人を起こす動機になり得たであろうか、という疑問を持ったのでした。 この映画は、今から40年ぐらい前のもので、私は、15,6歳でした。 世の中の差別の現実をいろいろ知り出して、自分のこともあったので、いや、このこと自体は、やはり息子にとっては、相当な重荷になったはずであろうという、私なりのこの評論家への反論の気持ちが湧き上がりました。 実際、日本では、ハンセン病の人たちの完全なる社会復帰は、ホンの数年前だったと記憶しています。
 
 これは、もちろん、松本清張原作のフィクションであり、架空の話なのですが、この設定なら、この動機もあり得るなあー、と当時高校生だった私は思ったものです。
 
 で、で、で、でもです。 今回のこの事件というのは、そういうハンディキャップを逆に前面に出して売り出した。 いや、前面に出さないと売れないという、まるで世の中が180度ひっくり返ったような現象なのではないでしょうか? もちろん、被爆2世だとか、全聾ということと、ハンセン病だとか、惨めな乞食のような放浪生活だとかと、同じ次元、レベルで比べることができないものがあるかもしれません。 特に、全聾の場合は、べートーベンという偉大な存在との比較・類推がすぐ起こるので、肯定的なものになり易いのかもしれません。
 
 しかし、私は思うのです。 今の日本社会は、ある種、かつては、ネガティブだと思われていた事々が、かなりのスピードでその否定性を失い、逆に、それに打ち克って頑張ってきた人達を評価できる社会になってきたのではないか、とも。 
 
 今回のこの事件は、その現代日本社会の善人性を悪用したのかもしれません。 それは、それでまた処方を考えなければなりませんが、この社会の傾向は、今後もさらに向上して、多くのハンディキャップを背負った人間が、表舞台に出やすい環境になってもらいたい、と私は、切に思います。 
 
 福島の原発の風評被害などを考えると、まだそこまで、ということも言えるかもしれません。 しかし、この情報化時代、偏見を是正するのも、そんなに難しいことではないような気もしますが、どうでしょうか。 
 
 今日は、いま、皆が、騒然としている話題から、日本社会の希望のようなものを垣間見た感じがして、書きました。 ちょっと、希望的観測すぎるでしょうか?