親(特に父親)としての子供への言葉

 こちらは、先週後半からの晴天続きです。 
 
 スカンジナビアとかロシア方面の高気圧が勢力を強め、寒気を西ヨーロッパに吹き込むようになると、イギリスやアイルランド周辺でも、東からの風が強くなり気温が下がりますが、その分、晴天が続くということになります。 特に、ヨーロッパの一番西の方に位置する私の住んでいる所では、それより東の地方で多少の雨や雪が降ったあとの空気なので、より乾燥したものになります。 ちょうど、日本の冬型の気圧配置での太平洋側のような天気になります。
 
 こういう天気図は、頻度としては、だいたい一冬に2-3回程度で、一回あたり5日から1週間程度の期間続くだけで、冬場の主な天気でないのは、このブログを見ている方には、もうお分かりのことですが、でもまあ、気温は、多少低くても、このような晴天の日は、やはり心も軽やかです。
 
 まじめな話を書いてきましたが、ついでにもう一つ、ここ数年、父親として思っていたことを少し書きます。 それは、子供への教育のあり方です。 と言っても、それほどタイソウなことではなく、父親として、どういう言葉を子供たちにかけていくのが、いいのかということです。
 
 具体的に言うと、どの程度まで、理想的なことを子供に言い聞かせるのか、ということなのです。 私も私がそんなにりっぱな人間でないことは、十分わかっているつもりですし、子供に知られたら恥ずかしいようなことも考えるし、軽犯罪法に引っかかるような小さい罪を頻繁にやっているかもしれません。 けれど、子供たちには、そんなことは、絶対無いように振舞っているし、今のところ、子供たちも多分そう信じていると思います。
 
 私が、子供の時、あの飲んだくれの父は、酔って口がよく回っている時は、「雅也、男は、根性、根性や!」とよく言ってました。 小学校低学年ころには、すでに、私は、この人は、何をいっているのだろうか、自分は、大酒飲みで、母親に暴力を振るったり、もらった賃金を酒で減らして、私たちの夕飯の内容に影響させたりしているのにーーーなどと、ずっと思っていました。
 
 しかし、そういう父親の言葉は、いまでも自分の脳裏に強く残ってますし、今となっては、そういう言葉を発していた父を懐かしく面白く思い出します。 いえ、何も、私の根性が鍛えられたとか、言っているわけではないのです。 ただ、こういう実際にあった言動こそが、父や母親を思い出し、愛着を感じる手段になっているのです、墓参りや仏前にという感覚を持たない私としては。
 
 ということで、ここ1・2年ぐらい前から決めているのです。 自分の子供に対しては、崇高な理想論も時には話していこうと。 もちろん、日常生活の中で、他愛も無い会話をしたり、スポーツや遊びを一緒にしたりすることも大事だとは思いますが、それだけでは、もう一つというのが、今の私の自分の経験から来る思いです。
 
 子供たちの日本j語が、完全でないので、子供が私に話しかけることは、多分、日本の一般の現代の父親に対してよりも、少ないかもしれません。 このことは、結婚する前から予想していたことですし、その当時は、ちょっと心配していましたが、11歳と10歳になった今の子供たちを見ていますと、純粋な言語のハンディキャップによっって、私たち親子の間の意思の疎通が妨げられているという感覚は、ないような気がしています。 もちろん、私の推測ですが。 今の私達の親子間の心理を形作るものの中心は、私が、日本人であり、日本的な文化を背景にした父親像を見せていることに対しての子供たちの反応の結果だと思っています。
 
 要は、世の中の矛盾を説明したりするためにも、私自身のイイカゲンなところも、ある程度は、見せていく必要もあると思いますし、実際、そうしていますが、それと同時に、そういう真面目くさった話も並行して、子供たちに言っていこうかなあ~~~、と思っている今日このごろです。 オソマツ。