蝦夷(えみし)は、アイヌ民族と大いに関係ありですよ、NHKさん。

 私は、こちらで見られるにNHKを中心とした国際放送を毎日見ています。 JSTVという局です。 これは、実質1チャンネルだけですが、民放のヒットしたドラマも数ヶ月遅れで見れるし、NHKのものは、BSのもEテレのも皆この1チャンネルにまとめて放送されるので、結構内容の良い物だけが並んでいる、と思っています。 
 
 前にも書きましたが、ただ民放の報道番組が少ないのか難点です。 NHKのニュースは、ときどき「歯に衣きせる」内容が多く、はっきりしない感じがあるからです。 「報道ステーション」などを見たいものです。 また、このJSTVは、契約料が、高いのも難点でして、為替レイトにもよりますが、日本円では、月5000円ぐらいです。
 
 でもまあ、テレビっ子の私としては、無くてはならない存在です。 余談ですが、日本へ帰ると、いつも思うのですが、新聞のテレビ欄は、見にくい(醜い)ですね。 ゴタゴタ書き過ぎて。 20年前のものに慣れている私には、本当に見づらいです。 時間の区切りの問題もあるでしょうが、バライティー番組などを中心にして、くだらない記述が多すぎるようなーーー。 バライティー番組そのものは、いいのですがーーー。 そんなことを思う人は、少数派なのでしょうね、やっぱり。 今のやり方が続いているということは。
 
 で、最近、こっちで見た番組のことで、少しつボやきを入れさせていただきます。 一つは、蝦夷(えみし)と大和朝廷との確執を描いた、「アテルイ伝」です。 これは、大和政権が、西暦900年頃までに、北海道と琉球諸島を除く全国を制圧する前に、東北地方を中心にいた、大和政権の中枢にいる人達とは異なる民族「蝦夷」の大和との戦いの様子を描いたドラマです。 蝦夷は、高校の歴史教科書にも、少し出ていますね。
 
 この蝦夷というのは、どうみてもアイヌ民族とは、切り離して語れません。 学者にもよりますが、蝦夷イコールアイヌだという人もいれば、イコールでなくても、大和に徐々に順化したアイヌなど。 しかし、いずれにせよ、アイヌとの関係を無しには語れません。 日本では、今、第2回の放送が、始まっていると思います。 こちらでは、それは、月曜日です。
 
 でも、第1回目の放送では、蝦夷とアイヌの関係は、全然語られていませんでした。 アイヌのアもなし。 これは、いくらドラマでも、ちょっとおかしい。 それと、ドラマの設定で、もう一つ文句をつければ、蝦夷の人々の日々の生活の様子や大和民族の庶民の生活の様子を、もうちょっと対比して描くべきだと思います。
 
 朝鮮半島からの渡来人を中心として成り立った大和政権の人達と、日本列島にもともといた縄文人やそれに関係すると思われる蝦夷や隼人(はやと)などの人達との区別を、もっと示すべきだと思います。 もちろん、考証の難しさは、あると思いますが。
 
 実は、数年前から、私は、この蝦夷に興味を持っていました。 1200年ぐらい前の昔、大和政権に、捕まった蝦夷の捕虜は、俘囚(ふしゅう)などと呼ばれ、大和政権の各地に移送されてきました。 そういう、蝦夷の人達の集まりの地域が、今の被差別部落になったと考える人までいます。 そして、部落民が、アイヌ民族の人達と同じような長頭(ちょうとう)、つまり長い頭を持った集団が多いはずだとまで考える人もいます。 朝鮮系のへらべったい頭に対して。
 
 まあ、そんなことは、実証できないと、私は、思いますが。 俘囚と被差別部落との関係も、もちろん、本当かどうかもわかりませんし、雑婚がすすんだ今となっては、そういう表現形質の差は出ないと、思っています。
 
 ただ、去年の11月にでた東大などのDNAに関する調査でも、日本列島にそれまで住んでいた縄文系の人間が、半島からのいわゆる弥生系の人々に、隅に追いやられるという日本人形成の2重構造説が、より確認できたとありました。
 
 このへんの科学的な実証は、今後ともいろいろ小さな変異は、あるでしょうが、大まかに言って、この傾向で間違いないのではないでしょうか。 もちろん、DNAに関する他の調査では、アイヌ系と琉球系との変異の大きさや、琉球系と台湾の先住民族との遺伝的断然など、わからないところも多いようですがーーー。
 
 要は、私の言いたいことは、たとえば、アイヌ系日本人や朝鮮系日本人、または琉球系日本人や中国江南系日本人、あるいはアイルランド系日本人など、こんな感じで堂々と普通に記述できる文化風土が、もっと日本に出てきてもいいんではないか、ということです。 
 
 これは、単に遺伝的な分類をしたまでのことですが、こういう側面でも、また他の側面、例えば、言語や宗教でも、何々系と分類できるはずです。 そうやって、いろんな人の属性をいろんな面でみる。 そして、みんないろんなものに属しているけれども、でも、一人ひとり、また違って、それぞれがそれぞれなりの人格を持った、りっぱな日本人、世界人であるということではないでしょうか。