禅の心 2

  禅の精神を一言で語るとすると、それは、「赤子になることである。」と、ある高僧がどこかで言っていました。 そう、ただ単に、思いを自然にまかせ、泣きたいときに泣く、笑いたいときに笑うといった赤子です。 しかし、その赤子は、本当の赤子ではなく、森羅万象の事物に関しての深い知識と理解力を持っている赤子でなければならない、という注釈付きですがーーー。
 
 つまり、我々は、赤ちゃんのようにピュアな心を持ちながらも、あらゆる事柄を学ぼうとする態度を持っていなければならない、と言っているのだと思います。
 
 よくあるのに、無知から来る恐怖というものがあります。 知識として多くのことを知っていれば、一般的には、無教養な人より、怖いものの数は少ない。 あの有名な映画「七人の侍」で、三船敏郎演じる農民あがりの竹千代が、「こいつら、百姓は、なんでも怖がる!」というようなセリフがありました。 このセリフは、私には、この偉大な映画の中でも、忘れられないセリフの一つです。
 
 映画をみている人間の方も、ほとんどすべて、この百姓たちのように臆病で、何にでも怖がっているという事実を、我々は忘れて、左朴全らのトボケた演技に笑っています。 もちろん、この映画は、最後で、結局、地に足着いた農民が一番強い!というようなメッセージを送っているのだと、私は思いますがーー。 
 
 話を、知識の獲得ということに戻して、世の中の多くのものを知れば、例えば、占いなんかも、現代的には何の根拠もない、ということがわかるはず。 今、はやり言葉のパワースポットなども同じです。 もちろん、そういうものの歴史的意義と言おうか、経緯のようなものはあります。 それは、ある意味では、人の歴史であるとさえ思います。 しかし、霊感商法などが、全く無くならないのは、残念です。 キツイ言い方ですが、はっきり言って、人間の無知と弱さからくるもの以外にありえません。 そういうものから、他を差別する心も生じると、以前にも書きました。
 
 もちろん、そういうことで、心の平安が得られるという人は、それで良いでしょう。 まあ、私が今書こうとしている禅への思いなども、他人からすれば、同じようなマヤカシものであると言えるかもしれないし。 でも、もしそうなら、自分が騙された時などは、泣き言を言わないほうがよい。 
 
 しかし、こうして学問に精通して、いろいろなことを知っても、人間の理解の及ばないものは、いくつもある。 それを、いつもアンテナを張りめぐらせて、探していくことになる。 そのことのシンドさは、永遠にあるし、今のところ解決しようもない。 
 
 それと同時に、今ある知識だけでも、人間は、考え過ぎにすでになっており、心の病を多く発生させている。 人間が、二足歩行を数百万年前に獲得して以来、下半身に多くの負担を強いるなどの体型構造になる一環の流れの中で、我々は、巨大な脳を獲得してきた。 この巨大な脳こそ、全ての悩みの始まりなのでしょうか。
 
 さらに人間は、知識だけでなく、感情という別の脳の動きでも、複雑です。 ここ最近、いろんな分野の専門家が、自分のことになると、あるいは、自身の家族のことになると、その専門能力を発揮できなくなるといったようなことを、テレビで見てきました。 例えば、崔洋一監督が、NHKの在日に関連した番組で、我を忘れたような言動になったり、ある高名な医者が、自分の妻に病気が発生すると、いままで他人にはできたその同じことが出来なくなるなどです。 
 
 結局、そうとうの人でも、いざ自分自身に火の粉がふりかかるとなると、それに理性的にうまく対処するという、そういう行動にでることは、かなり難しいようです。 私も、部落差別の問題が、テレビ番組などで取り扱われた時などは、平静ではいられませんでした。
 
 このことの一つの要因は、もちろん、自身への愛着や家族への愛という感情があるからでしょうが、その感情は、言い換えれば、過剰な意識、つまり自意識過剰あるいは被害者意識などと呼ばれる感情と大いに関連あるように、私には思えます。
 
 また、別の例で、何宗であるか忘れましたが、あるお坊さんが、「私も、努力はしているが、怒るという感情を抑えるのは、とても難しい。」と、言っていました。 これも、本当にそうで、この私も、いっこうに改善しません。 これなども、広く言えば、自意識過剰から来るものなのでしょうか、よくわかりませんがーーー。
 
 話を、初めに戻して、赤子の精神になるということは、何ものにも囚われない自由で、シナヤカな心を持つことだと、思っていますが、一方で、仮に、そういう心境に達すると、あるいは、そういうことに努力していくと、この現実社会の構造と、うまくそり合っていくのかどうか、という疑問が出てきます。
 
 まあ、最も卑近な例として、まず、結婚相手を選ぶのはどうするのか、外見や嗜好などは全く考慮無しか、などや、まあ、もうちょっと真面目な話としても、仕事への執着をどの程度までにしていくのか、などなどです。 まあ、悟りを開くなどという崇高なレベルは、別としても、少しでもいい人間になろうと、禅の精神を学ぼうとする者にとっては、このあたりが、何か、しっくり行かないところです。