禅の心

  前回、広瀬武夫に関して私が書いたことと、最近の新しい研究成果とでは、若干異なるところがあるようですが、どうか御了承を。 なにせ、私の彼に関する知識は、高校生の時に買った分厚い柔道の歴史本によるものだけだったので。
 
 さて、私が、このブログをスタートさせてから、約1年経ちます。 この間、自分の言いたいことは、ほぼすべて書いてきたつもりです。 また、ここ最近の数ヶ月は、50代前半の自分が、今何を考え、どんなことをしているかを記録し、還暦の頃にでも、もう一度振りかって見ようという意味で、書き続けてきました。
 
 まあ、それで、ほとんどネタもつきましたので、このへんにしようかなと、思っていますが、もうひとつだけ、私が、特に、異国の地に住むようになってから、ずっーと心の鍛錬の手段として活用してきた禅ということについて書きたいと思います。
 
 でも、このことに関して、私は、深い知識など全く持っていません。 数冊の本を読んだだけですが、それも、日本禅宗の聖書のような「正法眼蔵」は、その本文を読んでいません。 ですから、先ほどの広瀬武夫のことなど以上に、私の誤解や無理解がたくさんあることでしょう。 ただ単に、私の禅に関する思いを書くといったところです。 どうか、読まれる方には、寛大なお心を、というしかありません。 
 
 さて、禅宗は、日本の他の仏教宗派と同じく、中国や朝鮮半島から伝わった大乗仏教の一つであります。 大乗仏教というのは、タイなど東南アジアに広く伝わる上座仏教に対する言葉です。 この上座仏教は、かつて日本などの大乗仏教側からは、小乗仏教と呼ばれていました。 それは、この仏教が、主に、僧侶の修行のために使われており、大乗仏教のように民衆のための布教というのを、あまり重視していないためであるなどと言われています。 つまり、大乗は、大きな船、小乗は、小さな船などというような意味だったと記憶しています。
 
 しかし、私は、禅宗というのは、何か上座仏教のように、僧の修行のためにだけあるような感じがしてなりませんでした。 なぜ、そう思うかというと、禅の悟りが、この世の中にどれだけ貢献しているのだろうと、やや懐疑的になっているからです。
 
 以前、司馬遼太郎のある対談集の中で、司馬が、日本に何人くらい「悟り」を開いた人がいるだろうか?というようなことを話しており、司馬は、結局、100万人に一人ぐらいではないか、と言っていましたが、ご存知のように、自分で、「自分が悟りを開いている。」などと言う人はいないし、そういうことを言う人は、悟りを開いていないと言えるので、実際のところ、我々は、悟りを開いている人を見ることはできない。
 
 まあ、自分で言わなくとも、周りから見て、それに近い境地にある人は、恐らく、いるでしょうが、司馬遼太郎の日本に100人くらい悟った人がいるという見積もりは、私には、多すぎる数字ではないかと思います。 それだけ悟った人がいるのであれば、もう少し社会的なインパクトがあってしかるべきだと思うからです。
 
 まあ、このことは、私が、禅の悟りというものに過大な評価を置き過ぎているせいかもしれません。 でも、それにしても悟っているかもしれない人の言動は、世の中に飛び回っているはずなのに、この世の中は、いっこうに落ち着くどころか、逆に、年々益々、様々な迷いがあふれて出ているという感じです。
 
 まあ、しかし、仏教の他派も、もちろん、キリスト教やイスラム教、はたまた、哲学など、古今東西のあらゆる思想や宗教は、この世の中の全ての人間に平等に心の平安を与えているか、と聞かれれば、NOであります。 
 
 まあ、それで、禅宗が、大乗仏教的でないと言った先ほどの疑問に対しては、たぶん、以前は、禅宗のお坊さんも、浄土真宗のお坊さんも、檀家の民衆の前で、「有難い」お言葉を投げかければ、その民衆は、幸福感を味わい、日々のつらい生活にも耐えていけた、ということがあったのでしょう。 だから、大乗仏教的な民衆への布教という面では、禅宗も他の宗派と同じであると、理解したほうがいいのかもしれません。
 
 しかし、私には、「禅僧の説教が、素晴らしい。」というよりは、禅の根本の教えを参考に、自身の心のありようを見つめていく、あるいは、自分の日常生活を見直していく、そういったことにこそ、禅の素晴らしさが、あるような気がしてなりません。 ですから、限りなく自己修行的つまり上座仏教的であるように感じられるのです。