東京弁は、キツイ。

  今は、その漫才ブームなどの影響で、だいぶ少なくなりましたが、以前は、東京・関東の人は、関西弁が、コワイ・キタナイものであるかのような言い方をよくしていました。  これは、私などは、前にも書きましたが、現状の政治経済などの力関係と、経験・体験の無さからくるものだと、確信しています。
 
 私が、初めて一人で東京へ行ったのは、18歳の時で、大学受験のためでした。 今から、34年も前になります。 この時は、簡易な旅館に泊まりましたが、まず、その部屋の狭いことに、気がつきました。 「ああー、これが、関東の畳のサイズか。」と思ったものです。
 
 気分転換に、たしか、新宿か池袋の駅の近くを歩いていたと思いますが、通りにある八百屋の前を歩いていたら、30代ぐらいの店の人に、「ようっー、おにいちゃん、野菜買っていかねえかい!」と、威勢のいい東京下町言葉で、言われました。 威勢がいいと言うより、そのときの私には、この言葉は、ちょっと、脅迫めいたキツサがありました。 語尾も非常に断定的で、トーンがあがり、それこそコワサを感じるものです。
 
 関西の八百屋なら、「そこのおにいさん、野菜こーてくれへんか。」ぐらいが、一般的でしょう。 間延びした、トーンの下がる言い方です。 もちろん、人によって、おおいに異なるのは当然です。 関西の八百屋でも、怖い喋り方をする人は、いくらでもいるでしょう。 私が、言いたいのは、違う土地の言葉は、それを知らない人間にとって、怖くも汚くも感じるものです。 そのことに対する理解と慣れがなければ。 これは、何事についても、そうですが。
 
 これに似たことで、ついでに言うと、私は、東京落語が、あまり好きではありません。 というのは、多くの東京落語の演者の言葉づかいは、ちょっとキツイ感じがするからです。 この前亡くなった三遊亭円楽の師匠の円生は、名人と言われてたそうですが、この人の言い方は、私には、説教のように聞こえました。 今の立川談志なんか、もっとケンカ調ですね。 彼らのファンには、申し訳ないのですが、これが、私の印象です。
 
 上方落語の落語家は、聴衆を笑わすために、自分が率先してアホになります。 気取っては、いません。 たとえ、紫綬褒章をもらおうが。 まあ、このあたりは、一般社会での人の会話でも、関東と関西の違いが出てきます。 関西人からすれば、なんで、東京の人間は、本音を言わなかったり、特段かっこよくもないのに、かっこつけるのか、とか。 また、おそらく、東京の人は、関西人は、なんとまあ、下品であさましいのか、などと、お互い思うのでしょうかね。
 
 まあ、こういうことは、言葉の行き来が、チョー激しい現在日本では、50歳を越えた私のような中高年のタワゴトでしかないのかもしれませんがーーー。
 
 最後に、私が、中学生ぐらいのときは、作家の藤本義一のような喋り方を将来できたらなあーと思っていました。 親が、寝た後、勉強のふりして、よく11PMを見ていたものですが、あの時の司会者であった藤本義一の喋り方は、かっこええなあと思ったものです。 
 
 彼の喋り方などは、関西(四国なども含みますが)以外に住む人から見れば、完全な関西弁に聞こえたでしょうが、我々から見れば、ちょっと温和で、洗練された関西弁でした。 当然、作家ですから、語彙なども豊富であったことも関係しているでしょうが。