武道の精神とは

 今、日本で世界柔道が開催されています。 でも、こちらの日本語放送では、その映像は、他の国際スポーツ大会と同じく、放送権の都合でいっさい見ることができません。 日本人選手には、ぜひ頑張ってもらいたいものです。
 また、同時に今週からNHKの「歴史は眠らない」という番組で、「柔の道」と題しての4回シリーズが始まりました。 というか、この番組は、その世界柔道大会にあわせて作られたものでしょうけど。
 
 そこで、ちょうどいい機会なので、しかも、その「柔の道」の番組が進行する前に、私が、長年、思ってきた「武道とは何か、武道の精神とは何か」ということについて、少し書きます。
 
 数年前、小さな本でしたが、柔道家や空手家、柔術家、剣術家など偉大なる武道家たちを紹介したものを読みました。 その本の中で、著者は、昔の武道家と今現代の武道家の違いは、「死ぬ覚悟で、試合などに立ち向かっているか否かの違いだ。」というようなことを書いてました。 そして、もちろん、その覚悟のない現代の武道家を批判的に。
 
 もちろんそうでしょう。 今の時代、誰も生死を懸けてまで、試合や稽古に向かう者はいない。 命あっての自己実現の時代ですから。 
 
 江戸時代のような人権というものが、ほとんど無い社会で、その社会の中でもアラクレに近い、武術家・武道家は、当然、命を捨ててでも戦ったでしょう。 しかし、それは、あの時代、ほとんど誰だって命がけでした。 身分の低い者は、いつ高い者から切り捨てされるかもしれない。 そう、物書きだって、命がけで、書物を書いていたにちがいない。 私は、その作家に言いたい、「そんなら、あんた、命がけで本を書いているか?」と。 もし、しょうもない本を書いたら打ち首になる、そんな世界にいられるか、と。
 
 まあ、そんなところで、私は、これまで、今の時代の武道家精神とは何か、または、どうあるべきか、などのようなことを、長いことぼんやり考えていました。 その、まず一つは、やはり「礼」の精神だと、思います。 これは、今も、どの武道でも、厳しく言われますが、「礼に始まり、礼に終わる。」あの精神です。 
 
 でも、これは、日本では、武道だけではありませんね。 他のスポーツでも見られます。 たとえば陸上競技なら、長距離を走ったあとで、選手が、ゴールラインに振り返り一礼しますね。 私は、あれが好きです。 オリンピックでさえ見るときがあります。 水泳の選手も競泳後、プールに一礼しますね。 そして、どの競技者も、その試合会場や練習場に入るときは、礼をして入る。 プロ野球の選手でもします。 
 
 おそらく、このような礼の精神は、日本の選手だけではないでしょうか。 これは、日本の挨拶の習慣からきたものだけでは、当然なく、それ以上に、その場にいられる、あるいは、このスポーツができるという自分の幸運を神(あるいは神のようなもの、あるいはご先祖様など)に感謝しているからです。 私は、この精神は、とても大事だと思います。 
 
 そこで、ちょっと話はそれますが、この「柔の道」の第1回の放送で、柔道の前にあった柔術では、礼をする時でも、臨戦態勢の必要から、相手から目を離さずに、礼をしていると紹介がありました。 私は、中国拳法などでは、そういう風な礼の仕方をするのを知っていました(ブルース・リーも映画の中でも、そう指導しているシーンがある)ので、こちらのアイルランド人の柔道や空手の生徒たちには、中国風の礼は日本の武道ではだめだ、ちゃんと頭を深く下げなさいと教えてきました。 でも、嘉納治五郎が習っていた柔術で、そういう礼の仕方をしていたとは、今回、初めて知りました。
 その番組の中で、嘉納は、その礼の仕方も、意図的にきちんとした今の形に変えさせたとありました。
 
 そうして、もう一つ私が考える武道精神の柱は、謙虚である、ということです。 たとえ、今、世界一強い柔道家であっても、3年後はわからない、いや、明日はもう弱くなっているかもしれない。 20年後は、ただの人になっているかもしれない。 人間、精進していなければ、継続できないし、精進してても、うまくいかないことが多い。
 
 つまり、自分たちは、常に弱いんだ、まだまだ目指すものがあるのだ、ということを、いつも心にもつ。 このことが、重要ではないかと思っています。
 
 でも、よく考えると、これは、武道ということではなく、日常生活そして人生そのものであると思うのです。 つまり、我々個人個人は、この世の中のことをほとんど何も知らない。 まあ、お互い助け合ったりしているから、分からないことだらけでも、なんとか生活できている。 
 
 テレビがどういうふうにして写るか、ということを知らなくてもテレビを楽しんでいる。 コンピューターもそうだ。 ワクチンの作り方や機能を知らなくても、それぞれの人の身体で免疫作用を果たしている。 この料理、510Kカロリーだと言われても、ほんとうにそれだけのカロリーがあるかどうか、測定したことがないのでわからないーーーなどなど。
 
 私が、言いたいのは、「人間、偉そうなことを言うな!」ということです。 たとえ、偉い先生になろうが、いろんな賞をもらおうが、スポーツで大金持ちになろうが、我々は、所詮、ほんの一部の分野のことしか知らないわけです、できないわけです。  あぶく金は、すぐ消えるし。 
 
 頭がよくても、体が全然動かない、とてもドジな人もいる。 その逆もあり。 当たり前のことですが、スーパーマンはいない。 そう考えれば、我々は、偉そうなことは言えない。 謙虚であるべきだ、そこに、他人への理解というものも生まれる。
 
 結局、そう考えると、武道精神というものは、特にないように思う。 そこにあるのは、人間としてのあるべき精神だ、と私は思う。 過去から受け継がれてきた文化文明への感謝と今の世の中や他者への感謝を表すため、体を使った表現が「礼」であり、心の持ち方が「謙虚」であるということになる、と。