(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (14)

⑭ ゲルマン人(Germanic peoplesまたはGermani)の誕生

 ここでは、ゲルマン人の主にその成り立ちに注目するが、ここも日本語に訳されていないものが多い(と思う)ので、英語のままで記載するのも多くなる。 

 まず初めに、Nordic Bronze age(北欧青銅器時代、前1700ー500年)の集団が、のちにゲルマン語群の言語を話す集団(つまりゲルマン人)の大元の祖先であると考えられている。 この集団は、今の南スカンジナビアと北ドイツあたりにいた。 彼らは、Battle Axe culture とPitted Ware cultureの融合により生まれたとされる。 

 では、その先の文化からまず紹介する。 Battle Axe culture(戦斧せんぷ文化とも)とは、以前(※第6回参照)にみたヤムナ文化集団由来の縄目文土器文化(Corded Ware culture)からさらに分岐した集団で、前2800ー2300年頃に南スカンジナビアに出現した。(※ポーランドあたりから西北に移動してきたと言える。) 

 彼らは、数多くこの地に流入し遺伝的な変換を起こした。 彼らは、それまでこの地にいたFunnelbeaker culture(ファネル状ビーカー文化)集団を吸収していった。

※このファネルビーカー文化集団は、既述のEEF(Early European Farmers,早期ヨーロッパ農耕民)から由来する。 ただし、直接、小アジアやギリシャ経由ではなく、それらがイベリア半島やフランスに行った後、逆戻りのように北東に移動してきた集団のようだ。 だから、このファネルビーカー集団も、やはりストーン・ヘンジやニューグレンジを作った集団(イベリア半島からイギリス諸島に方に行った集団)のように、巨石を使った墳墓を作った。(第12回参照)

 さて、Battle Axe culture集団に戻ると、この集団の埋葬方法は、平坦な単葬の墓で墳丘はなかった。 遺体は、南北軸に並べられ、顔は東向きにされた。 男たちは左側に置かれ、女たちは右に安置された。 男女ともに、通常の斧は置かれたが、戦闘用の斧(戦斧)は、男だけにその頭近くに置かれた。これは、戦斧が勇者のステイタスシンボルであったものと考えられる。 他に副葬品としては、弓矢の先などの武器や縄目文土器、動物の骨などがある。 

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前2800-2300年頃の舟型戦斧。 これは、SIingle Grave culture のもの。

 一方、Battle Axe culture文化集団の出現と同じ頃、そのやや南の地域のデンマークや北ドイツあたりでは、同じく縄目文土器文化から分岐したSingle Grave culture(単葬墓文化と訳されているものがあり、そこでは、縄目文土器文化と同義語とされている)集団がいた。 このSingle Grave culture集団の墓は、墳丘があり低い丸い墳丘であるが、初めには木材が周囲を囲っていた。 墓内部は、通常1つか2つの木棺があり、各木棺には遺体が一つ置かれた。 男の棺には、戦斧や琥珀の円盤、石火用器具など、女の棺には、小さなビースでできた琥珀のネックレスが添えられた。 また男女とも、ビーカー土器が副葬された。 この文化では、男女による差がなかったものと見られる。(※この文化集団も、当然、Nordic Bronze age文化の形成に関わったものと思われる。 ここの記事では、そのこと自体は明記されていない。)

 次に、もう一つの主な民族であるPitted Ware culture (穴あき土器?)は、これも前に紹介したSHG(Scandinavia HunterーGatherers、スカンジナビア狩猟採集集団)由来の集団である。(※これまで見てきた集団と繋がり合うのは、大変うれしいものがある。 何か、その歴史が大いに理解できたような気になる? 第12回参照) 

 彼らは、前3500年頃から上記のBattle Axe culture集団よりやや先にこの地に分布し、前2800年頃のBattle Axe culture集団の流入後は、しばらく共存が続いたが、前2300年頃に融合してNordic Bronze age 集団となる。 この時、彼らも、Funnelbeaker culture 集団を追いやったようだ。

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Pitted Ware 穴あき土器

 彼らの墓地は、主に平らな土地での土葬だが、火葬も行われたようだ。 巨石の石室はなかった。 また、彼らの墓には、赤い土が使用された。 年齢や男女の区別なく埋葬され、社会的な階層は未だなかったようだ。

※彼らが、SHGの子孫であれば、彼らは印欧語の言語を持っていなかったと思われる。 Battle Axe cultureとの融合で、Battle Axe cultureの言語を主に採用したということか?

  さて、やっとNordic Bronze age culture(北欧青銅器時代文化という訳がある)集団そのものに入る。(位置関係は、第11回の骨壷場文化の地図参照) 

※この文化の開始は、前1700年とあるが、上記のBattle Axe cultureとPitted Ware cultureの融合が、前2300年であるので、新たな集団としての明確な文化の発進・機能的な社会を形成するのに、約600年かかったということなのか? そして、それは、彼らの話す言語が、それまでの印欧語の中から、現在のゲルマン諸語の基礎となる言語体系ができていく時間だったということなのか?

 この文化は、前1700ー1100年を前期、前1100ー550年を後期と2分されている。

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北欧青銅器文化の領域。前1200年頃。

  彼らの文化では、まず岩石へ絵を彫る文化が挙げられる。 これは、当時の海岸沿いの岩に彫られたもので、日常生活の様子・武器・各種動物・太陽などが書かれているが、特に多いのは、船と人間の姿である。 海岸沿いの丘陵地に家が立地されたが、大きな村や町を形成することなく、農民の家屋がまとまった程度であった。 家屋の形は、長い家で中に2つの通路があり、のちにそれは3つになった。

 この文化集団での埋葬形態は、墳丘及び墓地埋葬があり、それにはオーク材製の棺や骨壷を使う埋葬があった。 また、彫刻岩や青銅器武器の副葬も行われた。

 農業では、小麦や大麦などを栽培、家畜は、牛・羊・豚などを飼育。 魚や貝も食料であり、鹿やエルクなどの野生動物も狩猟した。 牛は、農耕用に利用され、犬も家畜化されていた。 馬は、あまり見られす、おそらくステイタス・シンボル的な高価なものだったようだ。

 この文化集団は、ケルト系の祖先として出てきた墳墓文化(Tumulus culture、第11回参照)とギリシャのミケーネ文化との交流があった。 彼らは、これらの集団に”琥珀ロード”を通じて、北欧特産の琥珀を輸出し金属を輸入していた。 銅や錫、金は、大量に輸入され、そのうち、銅はサルジニア島やイベリア半島から得ていた。 この交易網は、前12世紀に突然途絶えてしまった。(※ギリシャの暗黒時代と関係があるのか?)

 北欧青銅器時代文化の芸術は、ギリシャ・ミケーネ文化と非常に似通っている。 これは、旅行者や戦士の交流など密接な交流を思わせ、他のどのヨーロッパの文化も北欧青銅器文化ほどミケーネ文化に類似していない。 また、この集団の文化は、カスピ海北東部に広く展開したAndronovo cultureなどにも類似していると言われる。

※このAndrobovo culture(アンドロノヴォ文化)集団は、あのスキタイなどのイラン系印欧語の祖先だと言われているスルブナヤ文化(Srubnaya culture) の東隣にあって、非常に密接な関係にあったとされる。(第7回参照) つまり、すべてヤムナ文化より発祥しているが、それがゲルマン語系であろうと、スラブ系であろうと、またイラン系であろうと、この段階では、文化面全体では、まだかなり似通っているということなのか? 

 さて、ヨーロッパの中では、スカンジナビアは、青銅器の交易は遅く始まったが、遺跡には数多くの青銅や金の遺品が保存されている。 これらは、まず中欧からの輸入ものが主であったが、やがて独自の高い水準の金属製品を製造した。 また、木工製品も作った。 そして、前15-14世紀には、ヨーロッパのどの地域よりもスカンジナビアは、青銅の生産と墓などの副葬品の多さを示している。 その金属製品の数と密度から、当時のスカンジナビアは、ヨーロッパで最も豊かな文化を持っていた、と言える。

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北欧青銅器文化の石への彫り物。 船と太陽を描写

※なお、この北欧青銅器文化集団のDNA情報も記載されているが、もうこのあたりは、ヤムナ文化集団以降のほぼ同じ遺伝情報を発信しているので、特にここでは記さない。

 それから、この北欧青銅器文化(Nordic Bronze age culture)の最後期近く(前650年頃)になって、それまでわりと温暖であったスカンジナビアの気候が、より寒冷多雨になっていたとされる。 

 それで、この集団の次に来るのは、Pre-Roman Iron age culture とJastorf cultureである。 

 まず、Pre-Roman Iron age(先ローマ(帝国)鉄器時代という訳があるが確かではない)は、この地の前5-前1世紀にかけて存在した。 この文化は、まずケルトのハルシュタット文化との接触に絡んで出現したが、ケルトのハルシュタット文化は、その後、ラテーヌ文化に発展していくが、Pre-Roman Iron age文化は、ラテーヌ文化とは違ったものを築いたようだ。 上記にあったように、青銅器時代の最後に、ミケーネなどの地中海文化との交流がなくなり、この地独の文化は大きく変化した。 青銅の材料は輸入したが、鉄器の材料は自前で調達でき、その量も増え、ケルト人から伝授された製造・加工技術も向上した。

 埋葬方法は、青銅器時代からの継続して火葬とその後の骨壷の埋葬形態は続けられた。(※ケルト・ハルシュタット文化の前段階である骨壷場文化の形式であるが、ということは、ケルト人もこの形態を続けたということか? ケルトの章では、この関連は見つけられなかったのだが。) 

 ラテーヌ文化の影響は埋葬形式にはあったようで、今のドイツ西北から入り、後にはスカンジナビア全土に拡がり、武器やハサミ・ナイフ・針・ヤカンなどが一緒に埋葬された。 青銅器もまだ使われていたが、この時期の一番特徴的な産物は、銀製のカップと青銅の部品の入った木製の4輪荷車である。

 そして、北欧青銅器時代末期に起こった気候変動は、スカンジナビアの植物相や動物相に影響し、人口も減少が続き、この文化のうち南側にあった文化を特にJastorf culture(ジャストルフ文化)というが、それが更に南に移っていく。 この集団は、ゲルマン祖語を話したと思われるが、それがいつ発生したかは、わかっていない。

 Jastorf cultureは、前6世紀ー前1世紀に存在。 Pre-Roman Iron ageの中の南部地域の名称であり、ハルシュタット文化の影響を受けた北欧青銅器文化から生じた。 当初は、今のドイツ最北部あたりに限定されていたが、のちに南方へも拡大。 副葬品などは、あまり多く出ていない。

※この箇所の英語版のウィキを見ていて、Jastorf cultureと、ハルシュタットやラテーヌのケルト文化とは、密接な関係がみられるが、その量や質についての詳しい内容は、近年のいろんな発掘や研究の結果が異なっているせいなのか、研究者間でかなり意見のバラつきがあるように見える。 

※ついでに言うと、ヤストルフ文化として日本語ウィキもあるのだが、英語版のものとかなり内容が異なる。 量も多いし珍しく内容がより多岐にわたり、住居・生活様式などが詳しく書かれている。 間違いなく、今ある英語版からの翻訳でない。 ただ、参考文献が一つで、しかも古い(1997年)ものだが、そこからの直接の翻訳なのかもしれない。 そうであれば、まとめやすく断定的な文章を書きやすいのだが。 

 

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先ローマ鉄器時代の民族分布(前2世紀ー後1世紀) 赤紫色とその周辺はJastorf culture及びその関係、濃緑色は北欧グループ、橙色はケルト系(ラテーヌ文化)、ポーランド辺りの薄緑色はPrzeworsk culture(プシェヴォルスク文化、ゲルマン系ヴァンダル人とスラブ系との関係が示唆)、その北の紫色は西バルト文化など。 

  次に、文化集団を焦点にしたウィキから少し離れて、言語関係の記載からゲルマン語族の経緯をみてみたい。

 紀元前2500年頃に縄目文文化集団によって、スカンジナビアの地に印欧語がもたらされ、前2000年以降、北欧青銅器時代を通じで発展していった。 先ゲルマン祖語(Pre-Proto Germanic languages)が、Pre-Roman Iron age文化の間に、ゲルマン祖語(Proto Germanic languages)になったと考えられる。 この先ゲルマン祖語が、ゲルマン祖語に変化したのは、印欧語でない別系統の言語との交流があったからだ、とする説がある。(Funnelbeaker cultureなどがその候補に出されている。)

 ゲルマン祖語は、おそらく前500年以降に話されたと考えられる。 そして、Proto-Norse(ノルド祖語)は、後2世紀に始まったと思われる。 ゲルマン祖語の拡散は、前5-1世紀のPre-Roman Iron ageにあったと思われるゲルマン祖語の拡散によって、ケルト人のラテーヌ文化と遭遇する。 そこで、ケルト語族から、多くの語彙を借用した。

 その拡散は、後1世紀には、南方ではドナウ川やライン川上流に及び、有史の時代に入る。(ローマ帝国との出会い) ほぼ同時期に、東方へ向かったゲルマン人は、スラブ系の民族との接触が起こり、スラブ祖語(Pro-Slavic)にゲルマンの語彙が入り込む。

 後3世紀までに、後期ゲルマン祖語の話者は、ライン川からドニエプル川までの広大な範囲(1200km)に拡散し、その時期は、後期ゲルマン祖語の分裂とその後の歴史上のゲルマン民族の大移動(Germanic migrations)の発端となる。

 最古い古ゲルマン語で書かれたものの記録は、4世紀後半に書かれたゴート語の聖書(Gothic Bible)である。 また、ノルド祖語(Proto-Norse)では、4世紀に書かれたルーン文字(Runic alphabets)を使った動詞などを含む完全な文章が残されている。

※ルーン文字は、2世紀頃スカンジナビアで発明。

 

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後1世紀のゲルマン語族分布。青色はNorth Germanic (300年までにPro-Norseノルド祖語に)、赤色はNorth Sea Germanic(古英語や古フリージア語など),、橙色はWeser-Rhine Germanic(オランダ語などの祖), 黄色はElbe Germanic(高地ドイツ語の祖),緑色はEast Germanic(300年までにGothicゴート語に)。

 

 ゲルマン人の出現及びゲルマン祖語の発生、その全体的なものの経緯については、これぐらいにしておく。 

 次回は、ゲルマン人の中でも、私が特に興味を持ついくつかの集団について個別にその歴史を見てみたい。 そして、出来れば、あのフン族の侵入に始まるゲルマン民族の大移動までみてみたいものである。 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (13)

※今回は、いよいよケルト。 現在のアイルランドについての記述なども入れたので、この際、書体も少し変えます。 本当の疑問文の場合には?マークをいれたり、ハハなどを冗談や自嘲の際などに使います。

 

⑬ ケルトの世界

※ケルト人(Celts)の文章に入る前に一言。 前回紹介したように、ニューグレンジなどの巨石文化は、このケルト人がアイルランド島などのイギリス諸島に移動してくる時期より、2000年以上も前に出来たものである。 ケルトとは直接の関係は無い。  ただ、現在のアイルランド人を含む多くの世界中の人たちが、巨石文化はケルト人が作りあげたもの、あるいは、何かケルトと関係のあるもののように勘違いしている場合が多い。  

 それと、このCeltという英語の言葉は、だいたい今ではケルトと発音される場合が多いが、一部スポーツチームなどで、セルティック(Celtic)と発音される時もある。 アイルランドでは、この形容詞形の場合でも、ケルティック・タイガー(Celtic Tiger、2000年代のアイルランドの好景気の代名詞)などケルティックと発音されるのが、通常である。

 それでは、ケルトについて、少しその出現の経緯を書いてみたい。 前々回に紹介したように骨壷場文化(Urnfield culture)が、前1200-750年頃の後期鉄器時代に中欧の西方で隆盛していく。 この間、域内の人口は、その農業技術の革新などで急激に増加していった。 そして、鉄器の利用に伴う形で、骨壷場文化は、ケルトのハルシュタット文化(Hallstatt)に変遷していく(前700-500年)のだが、この間にすでにすべてのケルト系言語の祖語であるケルト祖語が形成されていたと見られる。 このケルト祖語は、イベリア半島やイギリス諸島に、前1000-500年の間に広まったとも言われる。

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ケルトの分布図。 濃い黄色は、ハルシュタット文化の中心域(前800年頃) 灰色に見える地域は、ハルシュタット文化の影響が及んだ地域(前500年)。 緑色は、ラテーヌ文化の中心域(450年)で、水色に見える区域は、その影響の及んだ地域を示す(250年)。 文化が重なりあっている地域があり、色が異なるので注意。 また、各部族の名前が書かれている。 

 ラテーヌ文化(La Tene)文化は、後期鉄器時代(前450年ー前1世紀)に中欧の広い範囲(フランスからハンガリー)で花開く。 ただし、これは、ハルシュタット文化から画期的な文化的変化があったわけではないようだが、ギリシャやエトルリアの地中海文明の影響があったと考えられる。 彼らの定住化の促進は、前4世紀頃に起こった。

 ローマ帝国は、今日のフランスに住むケルト人をガリア人(またはゴール人Gauls)と呼んでいた。 ガリア人の占領するところは、北の中欧低地からアルプスそして北イタリアを含んでいた。 のちに、ユリウス・カエサルが、その”ガリア戦記”の中で書いた戦いは、後1世紀頃のケルト人(ガリア人)たちとのものであった。 東部のガリア人は、ラテーヌ文化の西方の中心地域となった。 社会機構は、ローマ帝国のそれに類似したものとなり、紀元前3世紀には硬貨も作られた。

 イベリア半島では、ピレネーからのガリア人の流入に加え、3つの大きなケルト集団の地域があったようだ。 メセタ盆地の東部にいたCeltiberians、南西部のCeltic、そして、北西部のGallaecia とAsturiasなどの集団である。 このうちCeltiberiansは、前6世紀頃から流入が見られ、当初は丘陵上での定住であったが、前3世紀末期頃から、より集団化した生活様式に変化し、前2世紀頃には、この集団が使う文字での硬貨も製造された。 それにより、このCeltiberian 語が、ヒスパニック・ケルト語であると証明された。 彼らは、ローマ帝国の侵入の前までには、スペインの各地に拡散したようである。

 この他にも、中欧にいたケルトは、ローマ帝国内のイタリアやギリシャ、あるいはバルカン半島や小アジア(トルコ)などに急襲の形で侵入したりしたが、後のゲルマン民族のローマ帝国への流入ほどの影響はなかったようだ。 また一部は、その地に留まった。

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前3世紀のケルト民族の分布

  さて、ケルトのイギリス諸島への流入は、いつ起こったのか(英語では、イギリス諸島のケルト人をInsular Celtsと呼ぶ)。 これは、前6世紀頃とされてきたが、近年の調査などではかなり異なる意見もあり、はっきりしない。 一部には、約2000年前に到達した鐘状ビーカー文化集団が、すでにケルトの祖語のような言語を持っていた、とする説さえある。 

※ケルトのイギリス諸島への移動の時期が明確でないので、当然、その経路もはっきりしないものと思う。 しかし、2000年近く前のビーカー文化集団は、主にイベリア半島からイギリスやアイルランドに到着したと見てきた。 なので、このケルト民族の場合も、おそらく同じ経路を中心に移動してきた可能性が高い、と想像する。

 また、ケルトの言語は、アイルランド島などのゴイデル語(Coidelic)とブリテン島などのブリトン語(Brythonic)に早くに分岐するが、その経緯も、イギリス諸島内で分岐したのか、大陸からいくつも違った部族の侵入によってもたらされたものなのか、わかっていない。 

 その後、大陸のケルトは、ローマ化されてゆき、その圏内ケルト人は、俗ラテン語(Vulgar Latin)を多用するようになっていった。 この俗ラテン語が、ローマ帝国の崩壊後、各地でさらに発展・分化し、それぞれの地で各ロマンス語系言語(イタリア語やフランス語など)になっていく。 イギリス諸島の内、ローマ帝国が支配したのは、今のイングランドだけと言ってよい。 ここでは、その後のゲルマン諸族(特にアングロ・サクソン族の大量流入により、ゲルマン語が主流となり、後の英語に発展していったのは、よく知られているところである。

 

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前58年、カエサルの時代のローマ帝国(黄色)と周辺の民族。 ケルト民族は緑色で、ゲルマン民族は紫色。 イベリア半島はすでにローマ領に。

 

 文化面では、ケルトには、各部族の王がいたようであるが、数人による統制も行われていたようだ。 ケルトの社会では、3つの階級が存在した。 戦士・貴族階級、特殊教養集団(宗教者的存在のドルイドDruid、詩人、司法官など)、そして、その他(平民)である。

 アイルランドやスコットランドでは、王位の継承は、Tanistry制によって行われた。(※この言葉は、現在のアイルランド語のTanaiste(最初のaの上に/記号あり)に由来する。発音は、トーニシチャに近い。ただし、現在のアイルランド語では、この単語の第一の意味は、副首相である。また、アイルランドの首相は、Taoiseach ティーショックと呼ばれる。) 

 これは、王位継承に関わる制度で、当時のアイルランドやスコットランドでは、継嗣は、同じ祖父(曽祖父の場合も)を持つ男子の王族から選ばれる制度である。 この制度は、封建時代のヨーロッパの嫡男が継承する制度(Primogeniture)とは全く異なる。

 住居は、既述したが、早期では丘上の砦の形態が多く、後期では、村落や町の形成もみられた。

 奴隷売買は、ケルトでも、古代ローマやギリシャと同様、さかんに行われた。 奴隷制は、基本的には継代化されていったようであるが、解放も可能であったようだ。 アイルランドやウェールズの奴隷を意味するケルト語は、ラテン語のそれから由来しており、それは、ケルト民族とローマ帝国の間で奴隷の取引があったことを示す。

※日本語のウィキには、遺伝分析の結果があまり書かれていない、と以前に書いたが、この奴隷関係の記述についても、日本語ウィキでは何の言及もない(全体的に文章量も少ない)。 あるいは、日本語ウィキは、英文のものからの単なる訳ではなく、独自の見解に基づいて書かれているのかもしれないが? 逆に、この英語のウィキを書いている担当者には興味ある課題なのかもしれない。 また、私自身も英文ウィキを全訳しているわけではなく、自分が特に興味を持つ箇所を抜粋しているのだが。

 また、イギリス諸島のケルト地域では、錫、鉛、鉄、金、銀などが産出し、ケルトの鍛冶工は、それによって武器や宝飾をつくり、ローマなどとの交易を行った。

 ケルト人は、ほとんど筆記を残さなかった。 前期中世では、Ogham(オーム)という特殊な記号文字が使われたが、これは、もっぱら墓石などに限られていた。 アイルランドでは、口承伝達が主な手段で、バード(Bards)と言われる吟遊詩人たちがそれを行った。 

※つまり、ここに書かれているようなケルト人に関する情報は、のちの世まで、この口承伝達によって語り継がれたものをその後のキリスト教時代の人間が記録したものと、ローマ帝国やギリシャの政治家や歴史家の記述によって得られているのであろう。

 ケルトの宗教については、ここではあまり多く記さないが、多神教でありドルイドと呼ばれる宗教者が、儀礼や生贄などを執り行った。 

 Head hunting:優秀な人材の引き抜きではない、ハハ! ケルト人の間では、戦闘などで勝利した戦利品として、相手の生首をとり飾る儀式があった。 ケルトにとって、頭には霊あるいは魂が宿り、それは感情や命の根幹でもあり、神聖で死後の世界の力の象徴のようなものであった。 つまり、生首を飾ることによって、その相手の力を自分のものにするなどといった意味あいがあったのであろう。

 なお、遺伝的分析では、ずっと以前のビーカー文化集団と同じく、ステップ集団(黒海北岸ん)の遺伝的関与が強くうかがわれるとしている。 また、下の地図にあるように、父系の遺伝を示すY染色体の分析では、RーM269という下部グループ(ハプログループ)の分布が、現在のケルト語残存地域やイベリア半島などで高い分布を示している。 スペインでは、特に、Celtiberiansの流入は、この北部ヨーロピアンの血脈をこの地に残すことになった。 

※なお、カエサルの書いたものには、”ケルト人は、背が高く筋肉質、色白で髪は金髪である。 さらに、彼らは、その髪を石灰水などでよく洗い、より淡い色にしている。”などとある。

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ケルトに非常に特徴的なY染色体(父系)のR-M269ハプログループの分布状況。

 ※以上、ほぼ英文のウィキにより見てきたが、一つ気になるのは、その前の文化の骨壷場文化集団やさらにその先の文化集団の場合も、その埋葬形態などから、それぞれ文化を規定していたのだが、ケルトに関しては、そのあたりの記述がなく、どうなったのか、いまひとつよくわからない。 その部分では、骨壷場文化との差異があまり顕著でなかったのか、あるいは、様々な形に分散したためなのだろうか?

 それと、最初にも書いたが、ケルトと巨石文化は、直接関係がないし、また、ケルト文化からキリスト教文化に代わったアイルランドでは、当然、ケルトの主要な文化は衰退していった。 ただし、ケルトの唐草模様のようなデザインや意匠は、ケルト十字と言われるアイルランドの特殊な墓石に書き込まれたり、様々な後の装飾品などにも取り入れられた。 他に、今日でもケルト文化の影響のあるものとしては、ハロウィーンや聖ブリジット(元はケルトの女神)の伝説などは、今でも多くのアイルランド人が知るところである。

 私が若い頃、BBC制作の”the Celts"という番組がNHKで放送され、非常に興味を持ってみたものだが、その内容は、もうほとんど覚えていない。 ただ、この番組のメインテーマとして使われたエンヤEnyaの音楽は、ケルト民族の音楽はこんなもんだ、と決定づけてしまうようなインパクトがあった。 まあこれも、もちろんケルトとは直接なんの関係もないのだが、あの頃の私も、ケルト関係の本を読みながら、このエンヤの音楽が頭に響いていたものである。

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900年頃にできた聖杯Chalice 上方の帯の中にある黄金色のデザインなどが、ケルト的であると言われる。

 唯一、主要な文化の遺産としては、言語がある。 もちろん、現在のアイルランド語も、ケルト人のいた時代のものとは、かなりの変化があるだろう。  しかし、ともかくアイルランド島では、およそ1600年あたりまで、東部のほんの一部のエリアを除きほとんど全国でアイルランド語(Irish またはGaelic、ゲール語自体ではGaeilge)が話されていた。 その後、英語が、東部より拡散浸透し、1850年頃には全国ほぼ英語化されてしまった、(イングランドの政治的侵略自体は、そのずっと前の12世紀頃から始まっている。)

 いまでは、西部地方にいくつか分散してゲール語を話す地域(ゲールタハトGaeltacht)が、残るのみである。 ただし、この地域の人々も全員(全人口からみれば1.7%, 2011年)、英語のできるバイリンガルである。 

 政府の手厚い保護政策のもとで、専門のテレビチャンネルを設けるなど話者人口の増加あるいは維持を図っているが、なかなか難しいようでもある。 道路標識は、常に英語・アイルランド語の両表記であったり、政府から各家庭に届く連絡通知などは、全てバイリンガルで書かれているなども行われているが。 

 また憲法上も、アイルランド語が国の第一言語になっているのだが、実際は、国会などでも皆英語を使うし(時々、アイルランド語で質問する議員もいる、その時は、首相もアイルランド語で返答している)、この国の人々の生活や経済・文化もすべて英語によって動いている。

※文化的にその言語が認知あるいは愛用されるには、最低、その言語で映画や歌がヒットしなければいけない、と私は常々思っている。 アイルランド語には、私の知る範囲、それはない。

 そして、私が、アイルランド語について強く疑問に思うのは、この言語が、小学校から高校生までのすべての生徒に必修となっており、大学受験の必須科目になっていることである。 かつての文化の再興を願う気持ちは、よくわかる。 しかし、たとえば英語ができるだけでアイルランドに移住して来ても、その親たちは、自分の子供たちの学校のアイルランド語の宿題などに苦労することになる。(ごく特例で、履修しなくてもいい場合もある。) 

 ご存知のとおり、アイルランドは、大いなる移民の国であった。 もちろん、移民を出す方の国としてである。 かつては、英語圏以外に、中南米などにも出かけた。 いまでも、アメリカ・オーストラリアなどに職探しに行く人は多い。 しかし、極く最近は、出ていく数より、東欧からなどから、より多くの移民が、この国に入ってくる。 

 だが、アイルランドで警察などの公務員になるには、アイルランド語が出来なければいけない。 どの程度の語学力がいるのか知らないが、これは、アイルランド語が出来ないだけの理由で、そのような移民などの人々を排斥しているように、私には思える。 自国の歴史を鑑み、もう少し移民に寛容になっても良いのでは、と思ってしまうのだがーーー。 長くなるので、現在の課題については、これぐらいにしておく。

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アイルランド語の使用率(2011)学校以外で日常的に使う人の割合。 北アイルランドは除外。

 さて、次回は、ゲルマン民族を取り扱いたい。 以前、私は、ケルトとゲルマンは、違うのか同じなのかよくわからないでいたし、ギリシャやローマ人が混同して使っていたのではないかなど、いろいろ想像したり誤った認識を持っていたりした。

 英語のウィキをちらっと先に見たが、さすがにアングロ・サクソンの末裔である英語話者が書いているだけあって、その記述は膨大である。 まあ、それらを参考に、ゲルマン民族の概要を知りたいものである。

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (12)

⑫ ニューグレンジやストーン・ヘンジを作ったのは、どんな人たちか。

 前回を展開を受けて、ケルトの前に、ストーン・ヘンジなどの巨石文化を作りあげたのはどんな集団なのか、それは、現在ではかなり解明されているようなので、そちらを先にみてみたい。 

 イギリスやアイルランド(その他のヨーロッパ大陸にもあるが)にある巨石建造物は、この地方では、新石器時代に作られたようだ。 それぞれ一番有名なのは、おそらくアイルランドでは東部地方にあるニューグレンジ(Newgrange、前3200年頃)であり、イギリスでは南部のストーン・ヘンジ(Stonehenge、土塁などは3100年頃、巨石の設置は2600年頃)であろう。 

 そして前回には、前2500年頃には、このイギリス諸島に鐘状ビーカー文化をもった印欧語を話す集団が、ヨーロッパ(主にイベリア半島やブルターニュ地方)より大挙流入し新たな文化を花咲かせた、ということを見た。 つまり、このビーカー文化集団の到来は、巨石文化の時代より約500年後ということになる。 では、その巨石文化の時代には、どのような民族・集団がいたのだろうか。 

 ではまず、イギリス諸島を含めたヨーロッパ全体のより古い時代を、ウィキぺディア等の記述を通して見ていきたい。 

 なお、これから書くところは、このシリーズの一番最初の頃に書いた、ホモ・サピエンスが7万年ほど前にアフリカを出て世界中に拡散し、それぞれの地で人種や民族を形作っていく、まさにその時期の直後にあたる。 ヨーロッパでは、まだネアンデルタール人も生存している地域があったり、その混血が行われたりもした時期でもあり、ここでまた歴史が繋がっていくのである。

 さて、そのヨーロッパの中石器及び新石器時代には、Western Hunter-Gatherers (WHG)という集団がいた。 日本語ウィキには、この固有名詞自体がなく(見つけられなかった)、当然その訳名もないので、ここではWHGと英語での略称を主に使う。 日本語訳をするとすれば、”西方狩猟採集民”とでもなるのか。 

 このWHGは、西欧や東欧にいた中石器時代の狩猟採集民(Mesolithic  Hunter-Gatherers)から由来しており、その集団・MHGの中石器時代の居住地域は、西はイギリス諸島、東は現在のウクライナまで及んでいたようだ。

 最終氷期が終わった時期(つまりメソポタミアなどの先進地で農耕が始まる頃)のヨーロッパに居住する集団は、このWHGとEastern Hunter-Gatherers(EHG、東方狩猟採集民) そして Scandinavian Hunter-Gatherers(SHG、スカンジナビア狩猟採集民)に区分される。(※ここの西方や東方は、ヨーロッパの中での西側や東側ということを示す。) 当時のこのWHGとEHGの居住境界線は、ドナウ川下流域である。 SHGは、この両集団の混血のようであり、スカンジナビアを中心に存在した。 

 WHGは、一時期、ヨーロッパのかなり広範囲に浸透したが、新石器時代の初期には、彼らも、Early European Farmers(EEF、早期ヨーロッパ農耕民)にその地位を奪われていった。 中期新石器時代の一時、WHGの主に男性の集団が、この地域に再興したが、後期新石器時代及び初期青銅器時代には、Western Steppe Headers(WSH、西方草原遊牧民) が、黒海北岸ステップから大量に移入してきた。 (※ここでの西方とは、広大に拡がる草原(ステップ)地域の西側部分を示す。) このWSHは、すなわちこれまで何回か紹介してきたヤムナ文化集団及びその近縁集団のことである。 現在の国で、WHGの遺伝子を最も強く残すのは、バルト海沿岸諸国(特に東方)である。

 WHGのあとにヨーロッパを制したのは、EEFと略される早期ヨーロッパ農耕民である、と書いた。 このEEFの祖先は、WHGから4万5千年前に分岐し、コーケイジアン狩猟採集民(CHG)からは2万5千年前に分岐したと言われる。 彼らは、約9千年前に小アジア(アナトリア)からバルカン半島に移動し、その地でWHGを圧倒したようだ。 バルカン半島のEEFは、一部は、ドナウ川沿いに今のドイツあたりに進み、別の集団は、地中海西方にも達し農耕文化を拡めた。 中期新石器時代には、WHGの男たちが、これらの地域に再度入り込み、彼らの父系の遺伝子をこの地域に残した(既述)。

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WHGから、CHGとEEF(この図ではEF)の分岐

 後期新石器時代(または銅器時代)や青銅器時代になって、 EHG(Eastern hunter-gatherer)の子孫(一部CHGも含まれる)と思われるWSH(Western Steppe Herders、西方草原遊牧民)が、EEFの居住地域を席巻し、その後のヨーロッパ人の遺伝子分布に大きく影響した。 しかし、それは主に父系であって、母系のミトコンドリアDNAでは、このEEFの遺伝子は幾分か残っている。 つまり、主にEHG/WSHの父系遺伝子とEEFの母系遺伝子の混合によって、この民族変化が起こったものと考えられる。

 今現在のヨーロッパでは、地中海地方の人々が、このEEF遺伝子を高頻度にもち、バルト海周辺で最もその割合が低かった。 WSHは、EHGが主でCHGがある程度混血した民族であったが、この場合も、主としてEHGの男性とCHGの女性との混合で成り立ったようだ。

※以上、同じような書き込みを繰り返したようになってしまったのは、ウィキペディアでは、出てくる言葉のリンクにたどって、次々と新たな文章に接することができるが、同じ民族の記述でもリンク先で多少異なるので、それらをまとめるのも若干煩わしいこともあり、そのまま記載したからである。 

 ともかく、要約すれば、青銅器時代までのヨーロッパには、まず、西方狩猟採集民(WHG)とと東方狩猟採集民(EHG)、及びその2つの混血と思われるスカンジナビア狩猟採集民(SHG)の3種の民族あるいは人種がいた。 このうち、WHGからは、コーケジアン狩猟採集民(CHG)が枝分かれして、さらに、EEF(早期ヨーロッパ農耕民)という農耕民が形成されていった。 一方、EHGからは、多少のCHGとの混血もあるが、そこからWSH(西方草原遊牧民)が形成されていった。 

※このWSHが、いままで何回か述べてきた印欧語の祖語を有するヤムナ(あるいはヤムナヤ)文化集団になるのであるが、結局、上の各民族の由来からまとめるとすれば、このヤムナ文化集団は、EHG(東方狩猟採集民)を主体にして、WHG(西方狩猟採集民)の血も幾分入り込んだ人種あるいは民族ということになるのか。

 ここで、上に書いた民族集団のDNA分析から得られた外見上の特徴をまとめて列挙する。

WHG:肌は暗く(dark)、眼は青かった(blue)とされている。 しかし、彼らの祖先と思われるバルト海地方の中石器時代の狩猟採集民は、肌は明るい(light)とされている。 

SHG:彼らの肌色は、EHGより肌は暗いが、WHGよりは明るいとされる。 眼は、青から薄茶色(light brown)であったようだ。

EHG: 彼らは、明るい(light)の肌色で、茶色(brown)の瞳を持っていたと言われる。

CHG: (彼らの外貌に関する記載は、見つけられなかった。)

EEF: 彼らは、狩猟採集民より背が低く、彼らが侵入したため、当時のヨーロッパ人の身長は低くなったとされる。 新石器時代の後の段階では、ヨーロッパ人の身長は、幾分高くなったと言う。 おそらく、狩猟採集民との混血のせいか。 さらに、後期新石器時代から青銅器時代にかけて、東方の草原遊牧民の流入で、身長は、さらに伸びた。 現在の南のヨーロッパ人が、身長が低いのも、このEEFの遺伝子頻度が高いことに由来し(地中海のサルジニア島で最高頻度)、北部ヨーロッパ人の高身長は、草原遊牧民の割合が高いことと関係していると言えるかもしれない。

WSH: がっしりと背が高い。 新石器時代の中欧にいた集団よりかなり背が高い。 圧倒的に暗い眼(brown)で、暗い髪の毛。 肌の色は、かなり明るく(light)、しかし、今日の平均的ヨーロッパ人より濃い(darker)。 遊牧の生活と言われるが、乳糖耐性であるという証拠はほとんどない(※牛乳が飲めなかった)。 現在の北ヨーロッパ人が、南の人たちより背が高いのは、このWSHの遺伝頻度が高いことによる、と思われる。

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前5000年頃のスペインにいたWHG(西方狩猟採集民)の想像復元図。 眼と肌の色に注目。(顔全体のイメージは、研究者によって異なるので注意。) Euronews、2014より 

※以上の外見的表現型の記述を見て、私が思ったのは、少なくともこの時期のヨーロッパ人においては、眼(虹彩)と皮膚の色をコントロールする遺伝子は、別々であるということ。 また、現在の印欧語を拡めたヤムナ文化集団、すなわちWSHは、それほど色白ではなかったように書かれていること。 その祖先のEHGは、それより白かったようだが。 それでは、ヤムナ文化集団が、たとえば北欧などより高緯度地域に行って、新たにより白くなったということなのか、この辺は、もう少しDNA分析が進まないとわからないのかも。

※これは、今から40・50年前に見た文章だが、今のヨーロッパ人種の中で一番色素の薄い亜人種(今ではこういう表現はあまりしないが)は、スカンジナビアに住む人々ではなく、東欧・ロシア系の集団である、と言われていた。 そうであれば、この地域は、ヤムナ文化の発生地との距離が非常に近くであり、その頃から現在までのこの地域に住む集団の遺伝的変化がどういう経過をたどったのかということも、大変興味がでてくる。 

※それと、WSHは、背が高く体格も良いということだが、同時に、牛乳は飲めなかったようだ。 牛や羊などの家畜も飼育していた農耕民のEEFは、当然飲めたはずだが(特に記載はない)、体格は小さかったようだ。 このあたりは、現在の常識から言えば、何とも説明に困る。 WSHは、ヤムナ文化やそれ以降の集団に移行するなかで、いつ頃、牛乳が飲めるようになったのだろうか(乳糖分解酵素を獲得したのか)。

 

 さて、ヨーロッパ全体の人種・民族集団のヤムナ文化までの変容の概要を見てきた。 次に、イギリス諸島の状況を見てみる。 

 中石器時代(前9000-4300年頃)から入ると、この時代のブリテン島では、現在のフィン人やサミ人、エストニア人などに高頻度に発現する遺伝子タイプを持つ集団がいた。  この時のブリテン島の集団は、他の西欧地域と同じ集団であったと言われる。 彼らの遺伝的特徴としては、眼は明るい色(pale coloured)、乳糖の分解酵素無し(牛乳が飲めない)。 髪の毛は暗くて(dark)、カーリーかウェイヴィー(波状毛)。 皮膚は褐色(very dark)か黒(black)だった。 (※WHGを示すものと思われる。)

 しかし、新石器時代にいた集団では、その遺伝子の75%は、小アジアからイベリア半島や中欧ヨーロッパ経由した農耕民(EEFと同じだと思われる)であるとされ、あとは、WHG(西方狩猟採集民)のものとされる。 ただし、ウェールズでは、WHGの遺伝子は全く見られず、イングランド南東とスコットランドには、WHGの頻度が高く、イングランド南西と中央部は、その中間的な値を示したとある。

※こういう風に、青銅器時代以前の集団の様子について、ウィキでは、とくにまとめた記述ではなく、各研究者の報告や文献を列挙している場合がほとんどである。

 また、このあたりの記載は、イギリスやスペインの先史時代のウィキを見ても、あまり記載がなく、EEF(Early European Farmers)のページなどで提示されていたものだ。 さらに、もう少し、そういう報告を挙げてみる。

 まず、Olaideらの2019年に出された報告によると、イベリア半島の初期の新石器時代では、EEFの集団がほとんど優勢であったが、中期新石器時代になるとWHGの流入があり、彼らの混入割合は、初期に比べ増加した、特に半島の北部と中央部で。 青銅器時代になると、WSHが大挙流入し、その遺伝子マップを大きく変えた。(父系で100%、全体でも40%)

 Braceらの報告(2019)では、新石器時代(前4000年頃)のイギリス諸島では、EEFの大量の流入があった。 80%のEEFと20%のWHG構成であり、イベリア半島の新石器時代の集団と密接な関係があると思われる。 この農耕民は、バルカン半島などから地中海沿岸を経由してきたものと思われる。 イギリス諸島では、この農耕民の侵入があまりに大きく遺伝情報をほぼ完全に置換した。  そして、この後もWHGの再流入は起こらなかった。

※以上の報告などをうけて、極く簡潔にまとめると、新石器時代(前2500年より以前)のイギリス諸島では、それまでの集団(WHG)に、EEFという農耕文化を持った集団が、それまでの遺伝子分布を大きく変えるほどの人口流入を果たした。 その農耕民たちの起源は、遠く小アジアやギリシャ近辺にあり、そこから地中海沿岸経由でイベリア半島(スペイン・ポルトガル)に到達し、さらにこのイギリス諸島にたどり着いたもの、と考えられる。

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EEF(農耕集団)の拡散図。 この図では、EEF由来の2つの土器タイプ集団の拡散を示している(数字は紀元前)。 この後、イベリア半島からイギリス諸島に移動した集団がいた。

 

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EEFの居住形態の想像図。 Stravaganza by Leopoldo Costa 2017より

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イギリスにいたEEF早期ヨーロッパ農耕民女性(復元)、前3600年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加) 

 さて、締めくくりとして、繰り返しになるが、ストーン・ヘンジやニューグレンジなどの巨石遺跡は、はるか小アジア(あるいはギリシャ・バルカン半島)に由来し地中海を経て直前にはイベリア半島にいたEEFと言われる農耕集団が、イギリス諸島に渡ってきてから作ったものである、と言える。

※そうであれば、定住農耕民族にとっては、季節や日照時間、太陽の位置などを正確に知ることは、おそらく狩猟民族より、さらに重要であったにちがいない。 そのあたりの要素は、これらの巨石遺跡の制作・造成に大きく関与しているものと考えられる。 

 次回こそ、ケルト民族自体を取り上げたいと思っている。 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (11)

⑪ ケルト民族はどこから来たか。

 この歴史の投稿もだいぶ回を重ねてきた。 今回は、20年以上前にはとても興味を持っていたケルト人について書いてみる。 ただ、最近は、その後の情報を追いかけていなかったので、ウィキなどに新たな情報があるのかどうかが気になっていた。

 この拙い今回の歴史シリーズの第6回では、主に鉄文化の担い手・ヒッタイトについて書いたが、その際、現在のヨーロッパの言語を話す人、そのほとんどすべての直接の祖先とも言えるヤムナ(YamnaあるいはヤムナヤYamnaya)文化集団についても若干記した。 それは、紀元前3000年前後のメソポタミアのシュメール文明とほぼ同時代であった。 その6回では、ヤムナ文化の主にその後の東や南への移動について述べた。 今回は、その文化や集団の西への移動を見てみたい。 

 さて、このケルト人たちが、歴史的に確実な存在として認められるのは前750年頃からであるが、この民族集団が、ヤムナ文化からどういう経緯を経て形成されて至ったのか、あるいは、その間は不明なところが多いのか、まずその辺を見てみたい。

 現在のほとんどのヨーロッパの言語の元・印相祖語の発生に大きく関係すると思われるヤムナ文化の集団(前3300-2600)が、黒海北部の広い範囲に勢力を伸ばした後、次に東欧中欧付近では、縄目文(あみめもん)土器文化(Corded Ware culture、2900-2350年)が拡散した、というのは第6回の時にも少し書いた。  

 その後のヨーロッパの主要な文化の変遷をダイジェストで書くと、まず鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell beaker or Beaker culture 、全欧州では2800-1800年の幅があるが、中欧では2500-2000年頃)というのが起こり、そして次に、ウーニェチツェ文化(Unetice culture 2300-1800年)というのがあり、さらに、墳墓文化(Tumulus culture1600-1200年)、そして、 骨壷場(こつつぼば)文化(Urnfield culture、1300-750年)が来る。 そして、これが、ケルトの文化へと繋がっていくようだ。 欧州の各地域には、もっと多くの文化・民族集団があったようだが、大まかな変遷はこのようだ。 

 それで、ケルト人自身のことを書く前に、これらの祖先の文化集団の由来を記してみたいと思うのだが、今回はいままでとは逆に、新しい時代から歴史をさかのぼってみて、ケルト人とどこまで関連性があるのか見てみたい。(以前、NHKで”さかのぼり日本史”というような番組があったので参考。 なお、これらの名称は、初めて聞く言葉が多いと思われ、しかも、難しいものが多いので、混乱を避けるため何度もその名称を繰り返すことを、ご容赦願う。) 

 さて、ケルト民族は、その初期の遺跡があったオーストリアの遺跡の名をとったハルシュタット(Hallstatt)文化から、いわゆる歴史に出てくるが(紀元前750年頃)、では それより直前の骨壷場文化とは、どのような文化であったのか。

 骨壷場文化(骨壷墓地文化とも言われるが、英語からの訳(Urnfield culture)としては、”場”の方がより適切なように思う)は、前1300年頃より始まり、その集団は、イタロ・ケルト語系言語(ケルト語の祖語と古代イタリアにあった言語の祖語、現在のイタリア語とは直接関係ない)あるいは、ケルト祖語そのものを話していたと考えられている。 なお、この集団からは、スラブ語系の祖語も発生したとも言われる(日本語ウィキより)。

 骨壷場文化の名前の由来は、その前の文化(墳墓文化)までは、死後は、墳丘(クルガン)の中の墓室に埋葬されていたものが、この時代になって、火葬しその灰を壺に入れ地中に埋めるという、現代風で画期的な、それまでと全く違う習慣に変わって行ったからである。 この時期の金属器は青銅器で、鉄器はこの時期には、まだほとんど見られない。 鉄は、次のケルトのハルシュタット文化になってから利用されはじめる。 

 この骨壺場文化は、墳墓文化(Tumulus culture)から徐々に発展してきたが、地域的には、現在の西ハンガリーからフランス、北はオランダ、南はイタリア全土を含む。 

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骨壷場文化の範囲(黄色箇所Urnfield systems)後期青銅器時代(前1100年頃)

 この文化の時代が起こった時期にほぼ同じく(前1200-1170年頃)、ヨーロッパでは、ギリシャの暗黒の時代などに見られるようないくつもの集団の大移動があったと見られ、それは、多くの戦火や混乱があったせいだと推測されている。 

 この文化集団は、丘の上などに強固な壁に囲まれた集落を形成していた。 青銅製の4輪荷車もあった。 牛、馬、羊、ヤギ、豚、犬、そして、ガチョウなどの家畜がいた。 牛や馬は、肩の高さが、1.2m程度の小さなものであったらしい。(現在でも、ポニーなど小さい馬はよく見るが、このサイズの牛はあまり見ない。) 様々な麦類などの植物も栽培されていた。

  

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 文化名ともなった骨壷。

 下は、その埋葬方法の模式図。

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 では、1300年に始まる骨壷場文化の前にあった墳墓文化(Tumulus culture)とは、どんな文化だったのか。

 墳墓文化(Tumulus culture)は、ウーニェチツェ(Unetice)文化より引き継いだ、前1600年頃からババリア地方などで始り、1200年頃まで存在し、骨壷場文化に繋がったと言われる。 Tumulusというのは、以前紹介し、今回もすでに記しているクルガン(Kurgans)と同じ意味で、墓の墳丘のことである。 この時代は、中期青銅器時代であった。 

 この文化の時、すでにイタロ・ケルト語の祖語が、発生していたという説があるが、それらの言語は別のルートで来たという反論もある。 つまり、この時期あたりで、ケルトとの直接の関連を見るのは、ちょっと難しくなってきたのか。

 

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墳墓文化の埋葬様式の復元

 そういうことで、ケルト民族とは少し離れるかもしれないが、その先の文化についても見てみる。 墳墓文化の前段階は、ウーニェチツェ文化(地名、Unetice culture)と呼ばれるもので、この文化は、今のチョコ共和国あたりを中心に、前2300-1800年辺りまで存在したようだ。

 この文化の特徴は、大量の金属器やその材料(主に青銅)の遺物・遺跡である。

 埋葬方法には、2種類あったようだ。 一つは、ただ平地に埋葬する方法と、もう一つは、これまでのクルガン文化で見られたような墳丘の造成である。 

 平地埋葬の墓穴は、長方形または卵形で、その大きさは、長さ1.0ー1.9m、幅0.6ー1.2m, 深さ0.3ー1.5mの範囲であった。 この埋葬で特徴的なのは、死体は頭を南、足を北にして安置され、顔は東向きにされていたことだ。 墳丘型の墓では、その墳丘の典型的なサイズは、直径25m,高さ5mぐらいであった。

 彼らの住居は、主に木造で屋根は藁葺きのようだった。 住居で一番特徴的なものは、家屋の下に深くて広い穀物貯蔵用の空間があったこと。 この集団は、イギリスのウェセックス文化集団との交易が認められ、そこから青銅製品に必要な錫などの輸入がなされたという。

 この文化集団のDNA調査では、この前期にあった鐘状ビーカー文化、縄目文文化およびその前のヤムナ文化などの各集団との強い近縁関係を示したとある。 

 次に、その鐘状(かねじょう)ビーカー文化(Bell Beaker culture)は、前2800年から1800年頃まで存在したと言われる。 この文化が発展した最も初期のエリアは、現在のポルトガルあたりであり(極初期は、前2900年)、そこから海伝いにフランスのブルターニュ地方に到達。 その後、イギリスやアイルランド(前2500-1700年まで)などに伝搬したと思われる。 別のルートでは、内陸の中欧あたりに始まり(前2500年)、そこから拡散していったものと思われる。(しかし、イギリス諸島ほど、長くは続かなかった。) 

 この文化の名称にもなった西洋の鐘に似た土器製の広口瓶(ビーカー)であるが、主にビールなどの飲用に用いられたようだ。 

 埋葬形態は、一人用の平地埋葬が主であったようだ。 遺体は、仰向けに伸ばした状態で埋められたようであるが、時には、曲げられて埋葬されている遺体もある。 また、火葬もいくらかみられたようだ。

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ビーカー文化集団の移動

 

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ビーカー土器、西洋鐘を逆さにしたような形状。 南西ドイツ

 ここで、アイルランドのビーカー文化の特徴に少し触れる。 アイルランドでは、多くのビーカーが見られるが、同時に、お椀状などの形状の違う土器も多数見つかっている。 ここでは、大陸から来た陶工たちが移住し、生産拠点を作り上げ、多くの種類の先進的な土器を製造したようだ。 また他の地域と異なり、ここでは、この土器ビーカーが、埋葬の副葬品としてはあまり見られず、より屋内集会場のような場所で見つかっている。 また、黄金の首飾り様装飾品や石製の手首防具(直訳)なども、その他の地域に比べ高頻度で見られるが、それらも副葬品として用いられていないので、どのように利用したのかあまり判然としていない。 

 アイルランドのビーカー文化の最も重要な場所の一つは、ロス島(Ross Island)であり、ここには銅山があって、その銅はイギリスや大陸に輸出されていたようだ。 また、アイルランドでは、この時期(前2400-2000年)には、多くの主に青銅製のナイフなども製造されたが、特に、柄の部分が1m程あり幅広の刃先をもった剣は、当時の戦闘方法を変えるほど優れたものであったようだ。 アイルランドのビーカー文化の始まりは、ニューグレンジなどの大型の石室や羨道を有する墳墓の終わりと呼応している。

 イギリスのビーカーは、初期のものは、ドイツなどで作られたものに似ているが、のちにはアイルランド製のもの似る。 イギリスでは、副葬品に関連したものが多く、この点でアイルランドのと異なる。 また、イギリスで最も有名なビーカー文化の場所の一つは、ストーン・ヘンジ周辺である。 ストーン・ヘンジそのものは、その前の新石器時代に作られたが、その周囲の墳丘や近隣にビーカー文化の遺物がみられる。 イギリスでは、この時期から錫が取れ輸出していた。

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2400-2000年、アイルランド、黄金の首飾り

 この集団のDNA分析では、やや矛盾したデータもあるようだが、基本的には、これより先の印欧文化である縄目文文化やヤムナ文化集団とほぼ近いものであるようだ。 ただし、イベリア半島のビーカー文化集団と中欧の集団では、DNA分析結果が異なったという報告もあるので、今後の研究が待たれる。

 とにかく、それらと関連するのだが、この集団の言語は、印欧語であったことは確かである。 一時、その言語は、イタロ・ケルト語族かとも言われたが、この文化集団は、それより先に存在しているので、その説は現在では否定的である。 それで、今はバスク語しか残っていない、かつてヨーロッパの西端地域(イギリス諸島やイベリア半島など)にあった古い印欧語族の集団ではないか、という興味ある説があるが、このビーカー文化には文字に関する遺跡は全くみつかってないので、今のところ確定的とまでは言えない。

 さて、欧米の研究者の間では、新たな文化・文明が起こる際に、その文化の変化・変遷が急激に一挙に起こったものなのか、あるいは緩やかなものだったのか、という議論がある。 つまり、新しい文化集団が、前の集団の文化を大きく圧倒した結果なのか(大量の人口の流入などによる)、あるいは、その文化物の移動が主で、人口自体の移動はそれほど多いものではなかった、という差異である。

 さて、このビーカー文化の場合も、その2説が対立する場となった。 当初は、急激に変化したという説が、有力であったが、その後、数十年前からは、緩やかな変遷の方の説が優位になっていったが、しかしまた最近、DNA分析の結果から、このビーカー文化は、その先の文化集団から急激な変化して生じたものである、とする説が再度有力になってきている。

 さて、そうであれば、面白くなってくるのは、このビーカー文化集団は、イギリスやアイルランドの新石器時代の有名な巨大石遺跡であるストーン・ヘンジ(前3000年頃から)やニューグレンジ(前3200年)を作った人たちとは、完全に異なる人たちあるということだ。 このビーカー文化集団は、その少しあとに移動してきて、ストーン・ヘンジなどを作った人たちを駆逐した形になるのだろう。 

 それと、中欧などのヨーロッパ中心部では、ヤムナ文化や縄目文文化を経過して、このビーカー文化が登場したが(縄目文文化とビーカー文化が共存したところもある)、イギリス諸島などでは、新石器時代から直接ビーカー文化(青銅器文化)に移行したように見えることだ。

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ビーカー文化集団の男性(復元)、前2400年。 ナショナルジオグラフィック日本版より(2020年10月24日追加)

 さて、今回は、もともとケルト民族の由来を追いかけていたのだが、アイルランドでは、紀元前2000年あたりに作られた黄金の装飾品などが、同じ印欧語を持った集団ではあるが、ケルト人たちより千年以上も前に大陸から来た集団が作ったもの、とわかってきた。 そして、彼らの言語が、もしかしたら現在まで帰属不明のバスク語と繋がっているかもしれないという興味ある説もみた。 実は、現在のアイルランド人は、かなりバスク人とDNA上の強い繋がりがあることもわかっている。 

 ということで、長くなってしまったので、アイルランドにおける2大文化遺産であるニューグレンジとケルト文化、これらの文化遺産に関連すると思われる民族や集団を、次回もう少しみてみたい。 

 それと、最後に締めくくりとして私が思ったのは、ヨーロッパでの文化・文明の区分は、主に埋葬方法や墳墓の形状によって成されている、ということである。 はっきりそういう定義をどこかで見たわけではないが、これまでの記述を見ているとそう思える。 あと、土器の形状・文様の差異も関連しているのだろう。 まあ結局、このあたりは、日本の歴史区分の方法とそんなに差がないということでもあり、現在の我々が、過去を知る手がかりとしては、そういうものに頼るということになるのであろう、以上。

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (10)

⑩ 中央アジアに花咲いた魅力的な国・民族

  今回は、月氏、バクトリア、ソグドなど、あのシルクロードなどとも直接関連する、東西の人的及び文化交流や物品交易で隆盛した中央アジアの民族・国々を扱ってみたい。 

 地域的な動きがあるので、うまく時系列で並べられない場合もあるが、まず、月氏(げっしYuezhi)を取り上げたい。 以前、私は、月氏のこの「氏」は、日本の源氏や平氏の氏と同じ意味かと勘違いしていた。 

 前回までに書いたモンゴル高原などに匈奴が繁栄をきわめる少し前、匈奴の東西には、東胡(東側:中国東北部)と、この月氏(西側:モンゴル高原)が勢力を誇示していた。  やがて、匈奴が、勢力を増し東胡を滅ぼした。(この東胡の生き残った集団が、のちに鮮卑を建国したことは、前に書いた。)

 西方では、紀元前2世紀あたりから、月氏は、匈奴によって西に追いやられる(西域の敦煌あたり)。 その後、民族は分裂し、さらに西へ移動する。 それで、前回も出てきたイリ渓谷地方(Ili valley)に移動した集団は、大月氏(だいげっしGreater Yuezhi)と呼ばれ、現在の中国・西海省(チベットの東側)に移動した集団は、小月氏(しょうげっしLesser Yuezhi)と呼ばれている。 しかし、イリ地方に、烏孫(うそんWusun)族が、攻め立て、大月氏はさらに西のソグディアナ地方(現在のウズベキスタン東部など)に移動した。 

 ここで、これらの民族をもう少し紹介してみたい。 月氏は、かなり東方に位置していたが、印欧語を話すイラン系の民族であったようだ。 また、烏孫も同じような民族集団であったと言われる。 つまり、これらの民族は、比較的東方に住んでいた遊牧民であるが、太古のアファナシュヴォ文化集団や、その後のスキタイ人などが、西からその文化の伝搬と共に、ある程度の人口を抱えて東進してきた、その末裔たちであると言えるだろう。

 ちょっと入り組んでいるが、もう少し細かく言うと、紀元前165年頃に、大月氏はイリ地方にいたサカ(Saka)族を破る。 前に少しだけ触れたと思うが、このサカ族も、民族的には印欧語族でスキタイに近い民族(あるいは分岐した集団)で、後で述べるガンダーラ地域にも一時期勢力を伸ばしていた。 しかし、前132年、このイリ地方の大月氏は、匈奴と共謀した烏孫族の勢力に破れ、より西方の地域・ソグディアナ(Sogdiana)や、さらに南のバクトリア(Bactria)と呼ばれた地域に追いやられる(現在のアフガニスタン北部など)。 

 しかし、バクトリア地方では、大月氏の中の部族・クシャーナ(Kushana)族が、そこを治めていたグレコ・バクトリアを滅ぼす。 このグレコ・バクトリアとは、前3世紀にヘレニズム王国(アレクサンドロス3世の後継者が建てた国々)の1つとして、ギリシャ・マケドニア人によって建国された国家である(単に、バクトリアとも言われるが、地名との混同を避けるため、国名は、グレコ・バクトリアと呼ばれる)。 このグレコ・バクトリア国では、当初は、当時のギリシャ語が使用され, ギリシャ文字で王を図柄にした良質な硬貨なども製造されていた。

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グレコ・バクトリアの硬貨(エウクラティデス王、前171-145)

 クシャーナ族は、その後(後1世紀)さらに南下し、グレコ・バクトリア系のインド・グレコ王国が、紀元前180年頃から治めていたヒンズークシ(Hindu-kush)地方に侵入し、それを破って、インド北部にまたがる大国を形成した(クシャーナ帝国Kushan Empireとも)。 クシャーナ帝国では、イラン系言語のバクトリア語(Bactrian Language)が使われた。 この言語は、数世紀後、この地に起こったエフタル(Hefthalite)国でも使われた。 

 元々の月氏も、イラン系民族であったのだが、このバクトリア語は、同じイラン語系だったので、採用しやすかったのだろうか。 また、クシャーナ国は、グレコ・バクトリアと同じようなギリシャ風の硬貨も作った。

 だが、最も特筆すべきことは、このクシャーナ朝では、大乗仏教が、ヘレニズムと融合して、ギリシャ風の仏教文化を花咲かせたことだ。 いわゆるガンダーラ文化あるいはグレコ仏教文化である。 さらに重要なのは、仏教のシルクロードと通して、遠く中国や朝鮮半島、そして日本にも、その文化が伝わっていったことである。 

 時代はやや遡(さかのぼ)るが、仏教は、インド北東部で起こったのち、徐々にインド各地に伝わっていった。 紀元前320年頃に起こりインド全域を支配したマウリア王朝(Maurya)は、このガンダーラ地方も治め、ブッダの死後約100年後には、有名なアショカ王(Ashoka)が出て、仏教の普及に一層努め、周辺の民族などとの交流も進めたのである。 そして、上記のように180年頃には、インド・グレコ国が、この地を治めるのであるが、基層の仏教の上に、ギリシャ文化が覆っていく過程ができていた。

 つまり、既述のクシャーナ帝国によるグレコ仏教文化の発展の下地は、その前に、かなり出来上がっていたのである。 当然、バクトリア地方も、ギリシャ本国同様、芸術作品としてバクトリア化したギリシャ風塑像がすでに作成されていた。 そして、このガンダーラ(Gandhara)の地(現在は、パキスタン北部)で、ギリシャの神々の塑像を模したブッダの立体像が制作されるようになり、やがてそれは、後の中国や日本などの仏像になっていく画期的な文化現象が起こったのである。 

 このグレコ仏教文化は、このクシャーナ帝国のカニシカ大王(Kanishka the great 128-151)などによって厚く保護され(この時代には、大乗仏教(Mahayana Buddhism)が中心となる)、近隣各地に伝播するなど、大いなる隆盛を見た。 グレコ仏教文化は、クシャーナ朝が、この地から撤退後も(230年頃)、その文化的影響は残り、5世紀頃までこのガンダーラの地で存続し続けたという。

 

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紀元前2-1世紀のグレコ・バクトリアの塑像

 

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紀元後1-2世紀のガンダーラの菩薩像、 

  振り返って、もとはモンゴル高原辺りにいた月氏が、他民族の圧迫等により西に移動し、ソグディアナに至り(大月氏として)、さらに、その南部のバクトリアを占拠し、クシャーナ朝となり、その後さらに、カイバー(カイバル)峠(Khyber pass、中央アジアとインド圏北部を結ぶほとんど唯一の入り口)を通過し、ガンダーラなどの地域を占拠、そしてクシャーナ帝国を築く。 なんとも、凄い歴史だ。 

 そこには、人種や言語的には、月氏の東イラン系、そしてその移動の過程には、テュルク系、モンゴル系、烏孫やサカなど中央アジアの諸民族(イラン系が多い)、漢民族、ギリシャ系そして北部インド系などの人たちがいたはずだ。 生活様式では、遊牧と定住農耕そしてその中間的な生活環境もあったろう。 そして、宗教では、イラン系のゾロアスター教、モンゴル・中央アジアのシャーマニズム、古代のギリシャ宗教、キリスト教、そして、仏教やヒンズー教など。 これらの多様な人間と文化の複雑な融合が、真にこの時この地で起こったのである。 さぞかし、エキゾチックな雰囲気を漂わせていた地域であったろうと想像する。 

 もちろん、私は、この地がいわゆるユートピアのような所だったなどとは全く考えないが、少なくとも、当時の世界の中で、これだけの異なる民族が、融合あるいは共存、もしくは、混沌とした一体化などなど(実際を見ていないので、どのような形容詞を使って良いのかわからないが)、何かそういうロマンのある地域・文化を形成していたように思えてならない。

 ただ、人種の関係では、アレクサンドロス3世以降にバクトリアやガンダーラに来たギリシャやマケドニア人は、圧倒的に男性であったとも思う。 もし、この時代の人々のDNA分析ができれば、男系を示すY染色体と女系を示すミトコンドリア染色体の遺伝情報には、かなりの差異があるのではとも想像する。

 

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月氏(Yuezhi)→大月氏→クシャーナ族の移動の軌跡。 年代は、本文中のものと多少異なる。 敗戦や移動などの定義の違いによるものか。 

 

 

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カイバー峠、現在は、アフガニスタンとパキスタンの国境。 これを、パキスタン側に入るとガンダーラがある。

 

 なお、余談だが、西遊記で有名な中国・唐の層、玄奘(げんじょう)が、この地を訪れたのは、650年頃のことである。 ガンダーラ地方は、その後も、各民族が入れ替わる場となったが、まだこの頃も、かつての面影を残していたようである。

 また、クシャーナ帝国は、西のローマ帝国とも貿易などで良好な関係を持ちつづけており、ここに、シルクロードの重要な中継地の1つでもあった。

  ここで、小月氏のその後について少し。 彼らは、現在の西域あたりに移動し、その後、中国北方の民族の一つ・羌(きょう)族と交わっていったという。 そして、漢王朝がその崩壊へとつながる180年頃の羌族の反乱などに参加したとも言われている。 

 さて、先にソグディアナ地方が出たので、この地域の名を冠したソグド人(Sogdians)についても、少し書いておく。  

 彼らも、イラン系の民族であるが、古くは、同じ民族系統のアケメネス朝ペルシャの支配下にあった時以前から知られており、その後のアレクサンドロス3世がこの地を押さえた後は、ギリシャ・マケドニアの兵士たちとソグドの女性との結婚を推奨したなどとある。 彼らの宗教は、7世紀後半から8世紀前半頃にイスラム教に改宗するまでは、古来イラン系のゾロアスター教が中心であったが、それまでにも仏教やキリスト教・ヒンズー教などとの接触もかなりあったようだ。 彼らの言語・ソグド語は、イラン系の中でも、かなり普及した重要な言語であった。 また、彼らも、交易に積極的で、5-7世紀にはシルクロード交易商人として、中国・唐と西側との交流を推進してきた民族の1つである。 

 しかし、この交流には、やはり奴隷売買などの人的搾取という否定的な面も含まれている。 その概要は、ほとんどはソグドの女性が、中国・唐の男性に売られるものであったが、唐の女性がソグドの男性に売られるものも少数ながらあったという。 この商売は、おもに西域のトゥルファン(Turpan)地域で行われたようだ。 このソグディアナの中心部から2千キロ以上離れ、唐の首都・長安からは、その倍以上離れているトゥルファンでは、唐やソグディアンの商人のためのそういう宿があったという。 ある記録では、唐商人が、40束の絹で11歳のソグド人少女を買ったというのがある。 先程の三蔵法師の玄奘が、旅した時も、こういう光景は、当然見ていたであろう。

 こういう混血の子供たちが、その後、中国やソグディアナでどういう生活をしていったかなどは、それはまた興味あるところであり、ウィキなどのどこかにその記載もあるだろうが、今は、そのことについては深入りしないでおく。 

 奴隷の売買は、これまでも見てきたようにメソポタミアや黒海北岸の諸民族などでも盛んに行われ、ギリシャ・ローマでは、その規模(人口に対する奴隷の数など)も中国王朝のものより、ずっと大きかったようだ。 そういうある意味、過酷な搾取もあったが、下図にあるようなこの時代・この地域の文化交流は、ある意味、今でも世界人類に示すべき模範であるような気がする。

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東洋風と西洋風の仏僧像(紅毛碧眼の方が、師匠らしい。) 9世紀の西域・トゥルファンのもの。 この絵は、ソグド人そのものではないが、このような交流が、このソグディアナの地でもあったようだ

  なお、ここで単なる私の直感的なものを書くが、これまで、いくつか紹介したイラン系の言語を話す遊牧民族は、歴史書の証言や絵画に残された物、そして現在のDNA分析などによると、今現在イランに住むペルシャ系住民より、より色素が薄い人種・民族ではなかったか、と感じている。 つまり、このかつての中央アジアにいたイラン系民族の方が、紅毛碧眼の割合が、どうも高そうであるように思える。 見てきたように、元々彼らは、今のロシア南部やウクライナ地方で発現した人種・民族である。 その後、かなり東方に移動したが、今回のクシャーナ朝あるいは、7・8世紀のソグド人の段階でもまだ結構紅毛碧眼の表現型を保った人が多かった印象を受ける。 現在のイラン人は、この後イスラム化し、その関係の多くの他民族(セム系、アフリカ系、さらにインド系、そして、この東アジア系など)との新たな交わりが多くあり、全体的には、肌や目の色などが少し濃くなっていったのではないか、と推測している。

 さて、次回は、また西の方に戻って、ケルト民族について書いてみたい。

 

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (9)

⑨ モンゴル高原・中国北方から出た諸民族の言語とある小さな民族の話

 前回に書いた民族群の言語は、どれもモンゴル系かテュルク系(トルコ系)の言語であったと言われている。 これに、ツングース系の言語を含め、それらは、アルタイ諸語と呼ばれている。 この3つの言語群は、もちろん親戚関係にあって、それ以前に共通の言語があったと考えられているが、今のところ、それを明確に示す古アルタイ語、あるいは、アルタイ祖語と言うべき存在が発見されていないので、これらテュルク語などのグループをアルタイ語族とは言わず、アルタイ諸語と呼んでいるらしい。 専門家なら、その言葉の違いで、同族度の違いが分かるということか。 

 なお、日本語や朝鮮語もこのアルタイ諸語の中に入るとする説がある。 しかし、現在の日本語は、音韻的には、かなり簡素な組み立てであり、母音や子音の数も少ないので、このアルタイ系の言語の文法を基に(つまり、アルタイ系が先にあって)、南方(台湾高山族やフィリピン・タガログ語などのオーストラロネシア語系など)由来の言語が入り込み、単語がより単純な形になったという説がある程度支持を得ているらしい。 その逆の南方系が先で、アルタイ系が後という説もある。(私には、こちらの方が、より説得力があるように思うが。) 

 日英のウィキペディアを見ていると、さすがに、日本関係のものは、日本語で書かれているものの方が、多いし分かりやすい(私には)。 また、英文のものは、すこし断定的過ぎるようである。(この日本語の起源についても、ある説だけを取り上げ、ほぼ決着がついたような書き方になっている。) とにかく、そのあたりは、縄文人とか弥生人とかの集団の混合具合などと大いに関連があり、日本語の成り立ちは、もちろんのこと、その他の課題も多く含んでいると思われるので、そう簡単な話ではすまない。

 さて、このアルタイ諸語の内、ツングース語族は、前回までの時代でのモンゴル高原や中国北方で優勢となった遊牧騎馬民族国家の中では、ほとんど直接関係がないようであるが、ややのちに、中国東北部(旧満州)あたりから、この語族の女真(じょしん)族が、中国北朝に金を建てた(1100年頃)。 さらにその後、この女真族は、1600年代に中国全土を制覇し、近代まで続いたあの清王朝を建てたのである。

 さて、前回示した国々は、ほとんどモンゴル語系かテュルク語系を話したものと言われている。 ただ、実際のところ、どの民族国家が、どちらの系統の言語を話していたのかを判別するのは、相当難しいようだ。 ちょっと参考に、現代モンゴル語と現代トルコ語の簡単な表現をユーチューブで聞いてみたが、どちらも日本人にはかなり難しい音であるのは間違いないが、お互いもかなり違っているように聞こえる。 まあ、これは、何百年も経過した結果であるし、近代には、いろんな外来語の影響もあるので当然かもしれないが。 ではまず、下図に現在のモンゴル系言語の分布を示す。

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モンゴル語族の分布。 ウィキより(以下、ウィキペディアからの引用の場合は、特にそれを記載しない。)

 上の地図で、2箇所かなりモンゴル高原から離れた民族があるのに気づく。 まず、現在のアフガニスタンあたりにあるピンク色の民族は、モンゴル帝国で拡散したあとも定住した集団であるらしい。 もう一方、カスピ海の西に位置する茶色の民族は、もともとオイラト系の民族で、1630年頃から移動してきたようで、現在の彼らは、カルムイク人(Kalmyks)と呼ばれ、約30万人がこの地に住むらしい。 彼らは、チベット仏教を信仰し、このカルムイク共和国は、ヨーロッパ(地理的にはウラル山脈以西)にある唯一の仏教国と言われているらしい。 

 先程言ったように、その部族が、モンゴル系の言語か、テュルク系の言語かどちらを主に使用していたかを見極めるのは、なかなか難しいらしく、たとえば、このオイラト族は、元は、テュルク系であったらしい。 では、つづいて、そのテュルク系の分布を下に示す。 

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テュルク語系の民族分布。

 ここで見られるように、現在の民族・言語分布では、テュルク系は、西域(新疆ウイグル自治区)からトルコまでの広い範囲に存在する。 ウイグル族は、今は、中国のウイグル自治区にあるが、彼らの建てた回鶻(かいこつ)国は、もっと東にあったはずであり、のちのモンゴル帝国の隆盛などの影響で、西に移動したものなのか。 そのためか、現在ウイグル語と9世紀頃に話された古ウイグル語は、かなり系統自体が違っているようだ。 結局、この広大な地域の中で、時の移り変わりと共に、軍事的に優勢となった民族が次々と代わって行く中、それに従属したり抵抗する勢力も頻繁に変化し、その過程で、各民族の言語も、様々に影響を受け合い非常に入り組んだものになっていると想像する。  

 また、現在のトルコ民族は、8世紀後半の西突厥の崩壊によって、そこにいた人々の西進から始まったものとされる。 そして、11世紀初頭までに、セルジーク・トルコという大国を築きあげ、その後も、オスマン・トルコは、広大な地域を占領するが、ここで扱っている中央アジアの地域は直接統治していない。 しかし、今のトルコ人と中央アジアのテュルク系の民族国家の人たちとは、それぞれ自国語で話しても、かなりの意思疎通ができると言う。 もちろん、オスマン時代にも、物流や文化の交流はあったにせよ、このあたりは、長年にわたるこの遊牧民族(ひいては人類)の意志とそれによる文化の繋がりのようなものを感じる。

 とにかく、これらのモンゴル語族やテュルク語族の細かな経緯を記すのは、大変複雑で、私には手に負えないというのがわかり、そこからやや離れ、上に若干紹介したカルムイク人の歴史が、私には、非常に興味あるものに思えたので、ここでもう少し紹介したい。

 いままで述べてきたモンゴルやテュルク系民族は、いずれにせよ長い移動の歴史を有しているが、上に書いたカルムイク人は、比較的最近の移動であり、その歴史は、かなり明確に記録されている。 その移動の歴史は、おそらく多くの古い民族の移動のあり方を想像するのに大いに参考になると思う。 さて、時代は、カルムイク人の移動そのものより、また少し遡ることになる。

 オイラト族(Oirats)は、1200年代、チンギス・カン(Genghis Khan)のモンゴル帝国が肥大していく中で頭角を現していく。 やがて、元朝の崩壊後の1400年代中頃には、中国北方からモンゴル・西域を占める大王国を築く。 しかし、その後、他のモンゴル族や明王朝との争いなどから、その西半分を領土とすることになる。 

 1600年代になると、その中の部族、ジュンガル(Dzungars)が、西域から中央アジアにかけての広大な地域を抑える国家を形成。 この国は、遊牧民族が建てた最後の帝国とも言われる。 しかし、この時期以降、この地域、いや広大な北アジア全体が、ロシア(ソビエトを含む)と中国(明や清を含む)という近代の2大国の覇権の争う場となっていく。 そのハザマで、遊牧民族たちは、いかに活路を見出すかという大きな課題と常に向き合うことになる。

 また、興味あるのは、ウイグル族やその他のテュルク系民族が、イスラム教(スンニー派)に帰依していくのに対し(元々、多くのテュルク系・モンゴル系民族は、伝統的なシャーマニズムを信仰)、このジュンガル国(Dzungar Khanate)は、チベットに進出した後、当時のチベット仏教のカリスマ的存在・ダライ・ラマ5世の導きによってチベット仏教に改宗したことである。  

 しかし、1630年頃のオイラト族の内乱を契機に、その一部族であったカルムイク族(20ー25万人規模?)は、西方のヴォルガ河畔(カスピ海北部)まで移動した。 この移動は、敵対するカザフ(Kazakhs)などを避け、ウラル山脈の南部にそっての移動だった。 ロシア帝国内に入ったカルムイク集団は、ロシアと同盟を結び、ロシアの敵オスマン・トルコやスウェーデン王国との戦いに参加した。 ロシアとの関係は、様々な軋轢もあったようだが、相互に物品の交易なども行い、なんとかこの地でロシア人たちと共存していたようだ。

 しかし、ロシアの移民政策により、ドイツ人などがこの地に押し寄せ、カルムイク人は、圧迫を受けていた。(※これら、ロシアに入植したドイツ人の多くは、ソビエト解体後、ドイツに戻っている。これも興味ある歴史だが。) 

 ともかく、その時、清国が、カルムイクの父祖の地でもある中央アジア東トルキスタンのイリ地方(現在の新疆ウイグル自治区北部)に残っていた最後のジュンガル国家の部隊を打ち破った結果、その地が空白地になったので、ロシアにいたカルムイク人は、そこに戻ろうとした(1771年)。 ところが、その年の冬は暖冬で、ヴォルガ河が凍結しなかったため、河の西側にいた多くのカルムイク人は、河が渡れず帰還の途につけなかった。

 この残されたカルムイク人が、そのまま今のカルムイク共和国(カスピ海西岸)の人たちなのである。 しかし、現在までには、やはり大変な苦労と紆余曲折があったようだ。 彼らは、その後のロシアの圧政にも苦しまされた。 帝国のエカチェリーナ2世時代以来、そして、期待した社会主義ソビエトになっても、民族の状況は好転しなかった。 さらに、第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツと共謀したとされ、ソビエト政府は、彼らをシベリアに強制移住させて、多くの死者を出した。(このあたりは、日本語ウィキでは、ナチスが強制移動させたような誤解を受けかねない表現になっている。)

 1957年以降、時の首相フルシチョフによって、今の共和国への帰還が行われたようだ。 一方、父祖の地イリに戻ったカルムイク人たちも、当初は清朝の庇護にあったものの、彼の地では少数派となり、現在では、このイリ地方の南隣の地域を中心に数万人が存続するという。 このように、近代の大国の中で、揺れ動く少数民族の悲哀を感じるが、太古の遊牧民にしても、一夜で支配者が代わるなど悲惨な状況は、いくらでもあったものと想像する。 

 ただ、今も生きるカルムイク人たちのことを、このように書くことには、かなり神経を使う。 正確に客観的に書かなければと思うが、ウィキだけの情報(ロシア語のウィキでは、英語のものとかなり違う内容になっている恐れも当然ある)では、どう書こうと不十分であり、彼ら全員の納得する記述は到底できない。 第一、客観的に書かれる事自体を嫌う人間も、今の世の中多い。 

 とにかく、彼らのことをもっと知りたい人は、せびいろいろ調べてみてほしい。  

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カルムイクのテント、Gherと呼ばれる。 現在のモンゴルなどにあるものと、外見はほとんど変わらないように見える。

  

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カルムイク人

 以上、2枚の古い写真を紹介。 ただし、実際の年代は、不明。 つづいて、長く辛い歴史を乗り越え、今も健やかに生きるカルムイク人の様子を下に。

 

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カルムイク共和国の首都エリスタの様子。 大半の人々は、純然たる東アジア系の容貌である。

 写真にあるように、このカルムイク人は、民族性(血縁)も宗教も、かなり独自性を保っているように見える。 一方、カスピ海の反対側にいる中央アジアの民族(キルギス人など)やさらに東方のウイグル人などが、イラン・ペルシャ系などの印欧語の子孫たちとの混血がより一層進んでいるように見えるのも(スキタイなどの古代からの民族が、そこに存続していたことを示すのだろうが)、なかなか興味あるところである。

 今回は、この地域の言語について、いろいろ書きたかったが、あまり要領を得なかった。 (※記事のタイトルは、文章がほぼ書き終わった段階で最終的に決めるので、当初のものから大いに変更した。) ただ、面白い民族のことを知った。 おそらく以前にも、彼らを扱ったテレビの外国紹介・紀行番組などがあり、私もそれらを見たかもしれない。 ても、そのような場合は、忘れやすい。 

 次回は、この中央アジアの歴史の中で、私なりに少し興味ある民族や国家を、いくつか紹介してみたい。

 

 

(概観)人類誕生から邪馬台(やまと)国の成立あたりまで (8)

⑧ 匈奴など北方遊牧民族の興亡(紀元前5世紀頃から後9世紀頃まで)

 さて、今回は、中国北方やモンゴル高原などを出自とする遊牧民族を取り上げたい。 実質初めて、アジア系(ここで単にアジア系という場合は、東アジア系を指す)の民族群に焦点を当てるのだが、この遊牧民たちは、その移動の幅が大きく、古くは、既述のスキタイなどとの交流があり、そして、このあたりから生まれた後のトルコ系(以下、現在のトルコ人そのものと区別するためテュルク系とする)やウイグル系の民族が勃興した土地でもあり、そういう意味で非常に興味深いところだと以前から思っていた。 

 このあたりは、学校の教科書なんかでは、ほとんど素通り的な存在だと思う。(のちのモンゴル帝国あたりを除いて。 あと、西暦400年頃のゲルマン民族の移動の元となったフン族も1行ぐらい記述があるかも。) ただ、何回か紹介してきた今年初めに見たNHKスペシャル”アイアン・ロード”では、前回までのスキタイとこの地の遊牧民族・匈奴(きょうど)の関係、匈奴と漢民族との争い・確執なども取り上げ、さらに、最近発掘された匈奴の王の壮大な宮殿跡の復元像も紹介していた。 

 そういうことで、ウィキの記述を中心に、この地域で起こった民族の興亡などを調べてみたい。 ただし、私は、国が建った後に起こる個々の事件よりも、それらの民族や集団が、どのような民族であるのか、つまり遺伝的あるいは言語的にどんな由来を持つのか、さらに、彼らが、どのような移動をしたのかなどという点に、より興味があるので、そのあたりが見られたら幸いである。(その点では、同じウィキでも、英文のものは、DNA分析や考古学の成果をより詳しく書いている。 日本語のものは、翻訳が遅れているせいなのか、最近のDNA分析結果は、全く載せられていない。)

 まず、中国北方の民族の歴史は、中国本体(漢民族)に比べ、やはり記録上は、あまり古いのは残ってないようだ。 単に、国や部族あるいはその王の名前程度しかない。 実質、この匈奴ぐらいが、詳しい記述が残る一番古い北方民族なのかもしれない。 

 さて、蛇足的な事だが、この匈奴は、日本語では、おそらくかなり昔から”きょうど”と読まれていたと思うが(漢音)、現代中国語の発音では、Xiongnuとローマ字表記され、”ションヌやシャンヌ”に近い音だと思う。 この表記は、そのまま英語名にもなっている。 日本語では、奴は、”ぬ”とも発音できるので、もし”きょうぬ”と読んでいたら、中国語や英語に近いものになっていたのにな、とまず感じた。

 ともかく、まず、この匈奴から始まる中国北方地方及びモンゴル高原などに展開した国々の移り変わりを、ざっと簡単に見ておきたい。 

 古い順に言うと、紀元前5世紀頃からいたと思われる(そういう部族として固まったと言うべきか)匈奴は、前200年頃に、この地域に大国を形成する。 つづいて、鮮卑(せんぴ、Xianbei)、柔然(じゅうぜん、Rouran)と続き、そして、突厥(とっけつ、Gokturks)、回鶻(かいこつ、Uyghurs)へと繋がっていく。 なお、英語の場合、たとえば、鮮卑人は、Xianbeiと表記され、鮮卑(国)は、Xainbei Khanateと表記されているようである。  この突厥は、のちのトルコに行き着く民族などの始祖であり、回鶻は、現在も西域に居住するウイグル族の始祖である。 また、匈奴は、のちに南北に分裂するが、北匈奴は、のちにヨーロッパで暴れまわったフン族(Huns)ではないかとも、と言われている。 

 ただ、この覇権の推移は、中国北方やモンゴル高原で、どの民族が支配したか、あるいは優勢であったかということだけで、ある民族は、違う民族の支配の下で従属関係にあったり、逆に抵抗したりして、小勢力ながらも存続し続けた場合が多い。 このことは、十分留意しておく必要がある。 それで、もう少し各民族について掘り下げてみる。 

 だが、このアジア系の各民族を書く前に、今の南シベリアやモンゴルあたりでは、紀元前2500年あたりまでは、アファナシェヴォ文化(Afanasevo)を持った集団がいたということから始めたい。 この集団は、既述のヤムナ文化の集団が西から移動してきたものと推測されており、印欧語話者のヨーロッパ系である。 この後、東方からのアジア系民族(オクネフOkunev文化集団)に追いやられ、歴史上消滅したらしいが、近代のロシア人以前では、最も東にいたヨーロッパ人集団になると思われる。

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アファナシェヴォ文化集団の範囲 ウィキより

 以後、約1500年間、すなわちスキタイと匈奴の交流が紀元前600年頃を中心に始まるまで、歴史上、この広大なユーラシア大陸を横断するような民族の移動や交流は、認められていないと思う。 おそらく、それは、現在まだ見つかってないだけであって、アファナシェヴォ文化集団とスキタイの間の長い年月には、その他の民族の移動・交流が幾重にもあったもの、と私は考える。 

 なお、ついでだが、スキタイの後に、黒海北岸を制したのは、同じイラン系のサルマタイであると前回書いたが、このサルマタイは、スキタイほど東方への進出に興味がなかったのかもしれない。 また、どちらかと言うと、これ以後の歴史では、アジア系民族の西進の方が、よく目立つようになる。 そのサルマタイの次に黒海北岸を占拠したのは、アラン(Alans)という民族だが、これも、元はサルマタイの一部であったらしい。 それで、このアラン人は、あのフン族が、西進してくる時に最初に被害を受けた民族で、彼らは、西へ追いやられ、そのまた西にいたゲルマンのゴート族などを圧迫し、ついには、西ローマ帝国の崩壊を導いたあの”ゲルマン民族の大移動”を起こすのである。 なお、このアラン人は、現在のオセチア人だと言われている。

 さて、黒海北岸に視点が行ってしまったが、アジアに戻るとして、上に書いた印欧系のアファナシェヴォ文化の集団もそうだが、どの国でも、それが滅びれば、領土を失い幾人かは殺されたであろうが、これまでの他の地域の歴史を見てもわかるように、彼らの大多数は、男は戦士、女は奴隷などとして新たな国の組織に組み込まれ、やがて、その全体集団の中に混じり合っていくというのが大半である、と私は思う。 なので、このヨーロッパ系の遺伝子は、この地域のアジア系の大きな集団の中に、わすかでも入り込んだのは間違いないであろう。 実際、遺伝子的には、小さな孤島などの場合を除き、どんな民族であろうと100%均質な集団というのはない。 特に、こういう移動が簡単な陸続きの国や民族の場合は、さらにそうである。 また逆に、ヨーロッパでも、先程のフン族やマジャール人、そして、あのモンゴル帝国などのアジア系が侵入し、結局は戦いに破れたとしても、彼らの遺伝子の一部は、ヨーロッパ人の中に確実に入り込んだのは間違いない、と言える。

 さて、匈奴については、何回も言ってきた紀元前500年より以前から、あの黒海北岸を中心としていたスキタイとの文化的交流の時代があったというのは、遺物や文化的共通性などから考古学的には証明されているが、中国の史書など文献に記述されたものでは、中国の戦国時代の前318年に、他の中国の国と協調して、匈奴が、まだ統一前の秦と戦った時のものが最初である。 その後、215年、有名な秦の始皇帝が、あの万里の長城の初期のものを造成し、匈奴などの異民族を追い払う。 続いて白登山の戦いが、前200年に起こり、建国したばかりの漢(前漢)の皇帝は、匈奴に敗れる。 それ以後、漢は、匈奴に対しては、弱腰あるいは懐柔政策を強いられた。(これは、NHK”アイアンロード”では、匈奴が、スキタイ経由の強靭な鉄を改良した鋭い矢じり(弓矢の先端に付ける武器)などの先端技術があったから、と言っていた。)

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前200年頃、匈奴(Xiongu Khanate)の広大な領土、 西には、サルマタイ、そして、さらに弱小となったスキタイ(Scythians)もみられる。 ウィキより

 前120年頃、武帝の時代になって、やっと漢は、匈奴に攻勢にでて立場が逆転するようになった。(この時期では、漢も、鉄器の改良を成し遂げたから、とアイアンロードにはあった。) その後、中国では、新が前漢に取って代わったが、ここでも、匈奴への扱いは厳しくなった。 さらに、後漢に入ってから、匈奴への圧力はより強まり、そして匈奴国内部でも紛争が起こる。 この内紛によって、匈奴は、南北に分裂し、南匈奴は、後漢の支配の元、それと結託して、北匈奴を滅ぼした(後91年)。

 一方、南匈奴も、次第に力を失ってゆき、活動範囲を狭めていた。 匈奴が移動して覇者がいなくなったモンゴル高原では、鮮卑が台頭し、南匈奴は、170年頃に後漢の軍隊とともに戦ったが、鮮卑の勝利に終わる。 やがて、後漢の崩壊後、中国は、魏・呉・蜀の三国時代に入り、南匈奴にも内紛が起こるなどし弱体化したが、以後、中国王朝の庇護の元、存続が続き、やがて、中国の五胡十六国時代(304~439年)には、匈奴系の民族は、前趙(ぜんちょう)そして夏(か)国などを建てたが、夏は、後述する鮮卑族の建てた北魏によって431年に滅んだ。

 北匈奴に戻って、既述のように、彼らは、370年頃にゲルマン民族を西方に押しやったアジア系のフン族ではないかという説がある。 彼らが、91年に滅亡したあと、150年くらいまでに、より西方(今のカザフスタンの中央部、アラル海の東あたり)にまで確実に移動していた、という説がある。 しかし、その後の経緯は、不明であり、この北匈奴が、フン族の直接の始祖であるという確定は、現在までなされていない。 フン族については、またのちに詳しく書くことになると思う。

 次に、北方・高原の覇者は、鮮卑に移る。 元々、鮮卑は、前漢の時代、匈奴が東胡という民族を打ち負かした後、その生き残った部族の一部らしい。 後150年頃の後漢の時代になると、鮮卑は、かつての匈奴の勢力圏と同じくらい広大な領地をおさめるようになる。

 その後、勢力は、やや衰え、五胡十六国時代には、匈奴などとともにその構成民族となったが、一部(鮮卑拓跋部たくばつぶ)が、代(だい)という国を華北に建てた。 代国が滅んだ後、同じ拓跋部系が、北魏という国を386年に建てた。 この北魏は、やがて華北を統一する強大な国になった(北朝)。

 その北魏が、華北に移動したため、北方の地では、柔然が勢力を伸ばして、北魏などと対立するようになる。 柔然は、元は、鮮卑の配下にあったが、その後、このモンゴルの地で隆盛するようになり、5世紀には、高車(こうしゃ)族を配下にタリム盆地(西域)も支配した。 また、北魏と対抗するため、周辺国(南宋や夏、高句麗など)と共同戦線を張った。 この柔然の時代に、のちのモンゴル系の王の称号である汗(ハンまたはハーン)の基となる可汗(カガン)という称号ができる。 なお、それまでの匈奴などでは、単于(ぜんう)という称号が用いられていた。

 しかし、485年頃、支配下にあった高車が、自立し、さらに別の配下で鍛鉄奴隷であった突厥が反旗を翻し、555年、柔然は滅んだ。 550年頃の突厥は、東は中国北方、西はアラル海東岸までを占める大帝国となった。 なお、のちに、黒海北岸からバルカン半島北部を支配地にしたアヴァール人(Avars)は、柔然が西に逃れた一派であるとも言われている。 

 その突厥も、580年頃には東西に分裂。 730年頃、東突厥は、回鶻(かいこつ、ウイグル)などの3部族によって滅ぼされる。 一方、西突厥も、780年頃、カルルク族などの構成部族の不満をかい、やがて、そのカルルクと回鶻の臣下となり消滅する。 その後、突厥すなわちチュルク系諸民族の大移動が、起こる。

 つまり、突厥のあとは、東方は、高車から回鶻と名を代えたウイグル系(元はテュルク系の一部)が押さえ、西方は、カルルク(これもテュルク系)が治めることになった。 以上が、西暦800年頃までの南シベリア、中国北方、モンゴル高原及び中央アジア地域の覇権の概要である。

 これからすこし、これらのアジア系遊牧民族の人類学的な側面を見ていきたい。 まず外見的には、これらの民族は、今の私達東アジア人(日本人や中国人など)とほぼ同じようであったと考えられる。 上に挙げた遊牧民族のうち、匈奴・鮮卑・柔然については、遺伝子分析の結果では、アジア・シベリア系(モンゴロイド)のそれが出たと判明している。 なお、議論となっていたフン族であるが、その遺伝子分析では、匈奴との関連が報告されているので、この説の正しさが、ほぼ確定したと言えるかもしれない。  また、アバール人は、柔然人との遺伝的関係が示され、こちらの説も補強される形となった。

 ただ、突厥については、分析サンプルの数や年代の幅などがあり、アジア系にプラスしてヨーロッパ系の遺伝子も見られた。 これは、テュルク系の移動の歴史と関連しており、さらなる分析が待たれる。 また、回鶻つまりウイグル族については、現在のウイグル族(これも西域の方に移動)は、半分以上ヨーロッパ・イラン系の遺伝子情報を有すると言われるいるが、回鶻時代の遺伝子分析は、未だのようである。 

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鮮卑族の壁絵 ウィキより。 間違いなく、東アジア人である。

 なお、このアジア系でも、モンゴル系とかテュルク系・ウイグル系などというものは、主に言語の差によって決定づけられているが、その言語の関係については、今回長くなったので次回にしたい。 また、今回以外のより規模の小さな国々についても、すこし触れてみたい。